「あの、すみません」
境内の躑躅を剪定していると、背後から遠慮がちな声に呼び止められた。
「すみません、ここのお坊さんですか?」
振り返ると、詰襟の制服を着た中学生が立っていた。
「……こんにちは。そうですよ」
今日は平日、時刻は午後一時過ぎ。授業が終わる時間にしては早すぎる。「学校は?」
「明日から試験が始まるので、今日は午前中だけなんです」
詰襟の少年は生真面目に応えて視線を伏せた。
学校帰りに寺によるとは、いったい何事だろう。用件を尋ねると、少年はおずおずと手に持っているものを差し出してきた。
「あの、これ」
タオルでぐるぐる巻きにした、全長五十cmほどの物体だ。ボーリングのピンのような形をしている。
「あの、これ。……この人形、ここのお寺で処分してもらえませんか?」
「――人形?」
崇文が訊き返すと、少年は火が着いたように喋り出した。
「妹の! 妹のお人形なんですけど! たぶん呪われた人形だと思うんです! 見てください、これ……!」
少年は巻かれていたタオルを乱暴に引きはがした。
「ほら! 髪が伸びてる! 見て、ここ。ここです」
タオルから出てきたのは、赤いちりめんの着物を着た日本人形だった。少年は切りそろえられた前髪の一部を指さしている。
「……」
よく見ろと何度も指さされるが、崇文の目には、どこがどう伸びているのか皆目見当もつかなかった。
「……ごめん。よくわからない」
「ここんとこ! 周りの毛よりも、ほんの少し飛び出しているじゃないですか! わかりません? ……じゃあ、じゃあ! 夜になると、この人形が水を飲むんです!」
「水を飲む? 人形が?」
「妹がお水を入れたコップを人形の前に置いて寝たら、朝、少し減ってたって言うんです!」
夜の間に蒸発したんだろうね、という言葉をすんでのところで飲み込んだ。
「お願いです、ここで処分してください。呪われた人形だと思うんです」
少年は、必死な様子で崇文の手に人形を押し付けてくる。
「ちょっ、うちでは人形供養は、」
「お願いです! 妹の身になにかあったら俺……!」
少年は鎮痛な面持ちで顔を俯けた。仲の良い兄妹なのだろう。自身がまだ年端もいかないと言うのに、妹の身を案じてなんとかしようとここまで来たのだ。その行動力を思うと無下に断れなかった。
「お水をあげていたってことは、妹さんは、この人形を大切にしていたんじゃないの? 勝手に処分しちゃって大丈夫なのかな?」
「いいです。家に置いておいたら、妹になにか悪さをするかもしれません」
「――じゃあ、お寺で預かっておきます」
崇文が人形を受け取ると、少年が弾かれたように顔を上げた。
「もしも妹さんが人形を取り戻したいって言ったら取りに来て」
「……わかりました。よろしくお願いします」
少年はほっとした様子で小さく頷いた。本気で人形が妹に危害を加えるかもしれないと心配していたのだろう。帰ってゆく後ろ姿は、肩から重荷を下ろしたように足取りが軽やかだった。
(妹か)
少年の後ろ姿を見て、二か月前の仙台旅行を思い出した。
今まで触れずに避け続けてきた司にかかる「呪い」の核心に迫り、松永家の秘密に触れた旅。いくつか謎は残したままだが、一族の恥部と隠されていた松永静の存在を知ったことは大きかった。
誰からも忘れ去られ、生きていた事実さえ消えかかっていた静――。
彼女の人生に思いを馳せ、司と一緒に静の冥福を祈ったことは、きっと無駄ではなかったはずだ。驕った考えになってしまうが、彼女の魂を解放することができたのではないかと思っている。
あれが司と出かけた最後の旅行になってしまった。
あれから司は戻ってきていない。
早く帰ってきてほしいと願ってはいるが、安易に司に連絡を取ることができなかった。
松永家に縛られていた静の生涯を思うと、これまで自由を奪われていた司の姿が重なり、連絡しようとする指先を止めるのだ。
やっと司は「お前は呪われた子」という呪いから解放された。きっと今頃、失われた時間を取り戻すように自由に過ごしている。
(まだ仙台にいるのか? それともどこか他の土地に移動した?)
元気でさえいてくれれば、それでいい。
――とは、なかなか思えなかった。司の自由を願いつつ、約束を違えられたと、恨めしい気持ちになる。仙台駅で別れた時、観光したら帰ると約束したじゃないか。
「崇文、手伝おうか」
父が剪定鋏を手に家から出てきた。長栄寺の敷地は小ぢんまりとしているが植栽が多く、植物の手入れにはかなり時間がかかった。
「いや、大丈夫。三時までには終わらせるよ」
崇文は腕のスマートウォッチを確かめた。
時間を見るついでに、目が勝手にメッセージの受信を確かめしまう。ここ二か月ですっかり身についてしまった癖だ。
「――そんなに心配しなくても、所持金の範囲で、今までできなかった旅行を楽しんでいるんだろう。お金が尽きたら戻ってくるさ」
こちらを見ないまま、父が独り言のように呟いた。
「気になるなら連絡してみればいいじゃないか」
「……できないよ」
崇文は躑躅に視線を戻しながら小さく息を吐いた。
「司の邪魔はできない。もう女のふりをしなくてよくなったんだ。本来の男の姿になって、きっと今頃どこかで楽しくやってるよ。……ここにはもう、戻って来る気はないのかもしれない」
「そんなことないさ。大学だってあるし、アパートもそのままにしてあるんだから」
大学を辞めた様子はないので、いつかは戻ってくるのだと思うが。
「どこかで誰かと出会って、同棲を始めているのかもしれない。……司は美形だから、年上の女性に気に入られたりして」
「なんだ。羨ましいのか? お前もけっこう、顔立ちは悪くないと思うよ」
俺の子だからな、と満足気に頷いている父は無視した。
「ちゃんとした人ならいいけど……頭のおかしい人間に狙われたりしてないだろうか。ストーカーに付きまとわれたりしないよな……?」
本庄恵のような女性に狙われでもしたら……。刃物を持った女に襲われる司の姿が頭を過り、胃がぎゅうっと締め付けられる。どうして、どうして自分はそばにいてやれないのだ。
「ちょっと崇文。落ち着きなさいよ。ほんとにお前は、司のこととなると考えが先走るんだから……」
父の嘆きは、半分ほどしか耳に入ってこなかった。
「あの見た目だからな……芸能界やなんかにスカウトされるかもしれない。いつかテレビで司の姿を見る羽目になるかも」
「崇文、ちょっと落ち着きなさいって。俺の声、聞こえてる?」
「すぐに人気が出るだろうな……。おかしなファンに狙われたりしないよな……? うまく丸め込まれて、既成事実を作られて、結婚なんてことになったら、もう二度とここには、」
父の声が完全に聞こえなくなり妄想で頭がいっぱいになった時、山門から声が聞こえてきた。
「結婚? なんの話?」
男性にしては軽やかな、よく通る声。
崇文は素早く声のした方を振り返った。
「結婚すんの、崇文」
山門を背に、細身の青年が立っていた。Tシャツの襟から、白い喉元が覗いている。手には、季節外れのベージュのダウンジャケットを持っていた。
「ただいま」
襟足をすっきりと短くした司が立っていた。
「司……」
帰ってきた。自由を奪われていたこの家に。「ただいま」と言って戻ってきてくれた。
声が出ない。山門に向かって駆け出す。
「やあ司。お帰り」
背後で、司を迎える父親の穏やかな声がしている。
境内の躑躅を剪定していると、背後から遠慮がちな声に呼び止められた。
「すみません、ここのお坊さんですか?」
振り返ると、詰襟の制服を着た中学生が立っていた。
「……こんにちは。そうですよ」
今日は平日、時刻は午後一時過ぎ。授業が終わる時間にしては早すぎる。「学校は?」
「明日から試験が始まるので、今日は午前中だけなんです」
詰襟の少年は生真面目に応えて視線を伏せた。
学校帰りに寺によるとは、いったい何事だろう。用件を尋ねると、少年はおずおずと手に持っているものを差し出してきた。
「あの、これ」
タオルでぐるぐる巻きにした、全長五十cmほどの物体だ。ボーリングのピンのような形をしている。
「あの、これ。……この人形、ここのお寺で処分してもらえませんか?」
「――人形?」
崇文が訊き返すと、少年は火が着いたように喋り出した。
「妹の! 妹のお人形なんですけど! たぶん呪われた人形だと思うんです! 見てください、これ……!」
少年は巻かれていたタオルを乱暴に引きはがした。
「ほら! 髪が伸びてる! 見て、ここ。ここです」
タオルから出てきたのは、赤いちりめんの着物を着た日本人形だった。少年は切りそろえられた前髪の一部を指さしている。
「……」
よく見ろと何度も指さされるが、崇文の目には、どこがどう伸びているのか皆目見当もつかなかった。
「……ごめん。よくわからない」
「ここんとこ! 周りの毛よりも、ほんの少し飛び出しているじゃないですか! わかりません? ……じゃあ、じゃあ! 夜になると、この人形が水を飲むんです!」
「水を飲む? 人形が?」
「妹がお水を入れたコップを人形の前に置いて寝たら、朝、少し減ってたって言うんです!」
夜の間に蒸発したんだろうね、という言葉をすんでのところで飲み込んだ。
「お願いです、ここで処分してください。呪われた人形だと思うんです」
少年は、必死な様子で崇文の手に人形を押し付けてくる。
「ちょっ、うちでは人形供養は、」
「お願いです! 妹の身になにかあったら俺……!」
少年は鎮痛な面持ちで顔を俯けた。仲の良い兄妹なのだろう。自身がまだ年端もいかないと言うのに、妹の身を案じてなんとかしようとここまで来たのだ。その行動力を思うと無下に断れなかった。
「お水をあげていたってことは、妹さんは、この人形を大切にしていたんじゃないの? 勝手に処分しちゃって大丈夫なのかな?」
「いいです。家に置いておいたら、妹になにか悪さをするかもしれません」
「――じゃあ、お寺で預かっておきます」
崇文が人形を受け取ると、少年が弾かれたように顔を上げた。
「もしも妹さんが人形を取り戻したいって言ったら取りに来て」
「……わかりました。よろしくお願いします」
少年はほっとした様子で小さく頷いた。本気で人形が妹に危害を加えるかもしれないと心配していたのだろう。帰ってゆく後ろ姿は、肩から重荷を下ろしたように足取りが軽やかだった。
(妹か)
少年の後ろ姿を見て、二か月前の仙台旅行を思い出した。
今まで触れずに避け続けてきた司にかかる「呪い」の核心に迫り、松永家の秘密に触れた旅。いくつか謎は残したままだが、一族の恥部と隠されていた松永静の存在を知ったことは大きかった。
誰からも忘れ去られ、生きていた事実さえ消えかかっていた静――。
彼女の人生に思いを馳せ、司と一緒に静の冥福を祈ったことは、きっと無駄ではなかったはずだ。驕った考えになってしまうが、彼女の魂を解放することができたのではないかと思っている。
あれが司と出かけた最後の旅行になってしまった。
あれから司は戻ってきていない。
早く帰ってきてほしいと願ってはいるが、安易に司に連絡を取ることができなかった。
松永家に縛られていた静の生涯を思うと、これまで自由を奪われていた司の姿が重なり、連絡しようとする指先を止めるのだ。
やっと司は「お前は呪われた子」という呪いから解放された。きっと今頃、失われた時間を取り戻すように自由に過ごしている。
(まだ仙台にいるのか? それともどこか他の土地に移動した?)
元気でさえいてくれれば、それでいい。
――とは、なかなか思えなかった。司の自由を願いつつ、約束を違えられたと、恨めしい気持ちになる。仙台駅で別れた時、観光したら帰ると約束したじゃないか。
「崇文、手伝おうか」
父が剪定鋏を手に家から出てきた。長栄寺の敷地は小ぢんまりとしているが植栽が多く、植物の手入れにはかなり時間がかかった。
「いや、大丈夫。三時までには終わらせるよ」
崇文は腕のスマートウォッチを確かめた。
時間を見るついでに、目が勝手にメッセージの受信を確かめしまう。ここ二か月ですっかり身についてしまった癖だ。
「――そんなに心配しなくても、所持金の範囲で、今までできなかった旅行を楽しんでいるんだろう。お金が尽きたら戻ってくるさ」
こちらを見ないまま、父が独り言のように呟いた。
「気になるなら連絡してみればいいじゃないか」
「……できないよ」
崇文は躑躅に視線を戻しながら小さく息を吐いた。
「司の邪魔はできない。もう女のふりをしなくてよくなったんだ。本来の男の姿になって、きっと今頃どこかで楽しくやってるよ。……ここにはもう、戻って来る気はないのかもしれない」
「そんなことないさ。大学だってあるし、アパートもそのままにしてあるんだから」
大学を辞めた様子はないので、いつかは戻ってくるのだと思うが。
「どこかで誰かと出会って、同棲を始めているのかもしれない。……司は美形だから、年上の女性に気に入られたりして」
「なんだ。羨ましいのか? お前もけっこう、顔立ちは悪くないと思うよ」
俺の子だからな、と満足気に頷いている父は無視した。
「ちゃんとした人ならいいけど……頭のおかしい人間に狙われたりしてないだろうか。ストーカーに付きまとわれたりしないよな……?」
本庄恵のような女性に狙われでもしたら……。刃物を持った女に襲われる司の姿が頭を過り、胃がぎゅうっと締め付けられる。どうして、どうして自分はそばにいてやれないのだ。
「ちょっと崇文。落ち着きなさいよ。ほんとにお前は、司のこととなると考えが先走るんだから……」
父の嘆きは、半分ほどしか耳に入ってこなかった。
「あの見た目だからな……芸能界やなんかにスカウトされるかもしれない。いつかテレビで司の姿を見る羽目になるかも」
「崇文、ちょっと落ち着きなさいって。俺の声、聞こえてる?」
「すぐに人気が出るだろうな……。おかしなファンに狙われたりしないよな……? うまく丸め込まれて、既成事実を作られて、結婚なんてことになったら、もう二度とここには、」
父の声が完全に聞こえなくなり妄想で頭がいっぱいになった時、山門から声が聞こえてきた。
「結婚? なんの話?」
男性にしては軽やかな、よく通る声。
崇文は素早く声のした方を振り返った。
「結婚すんの、崇文」
山門を背に、細身の青年が立っていた。Tシャツの襟から、白い喉元が覗いている。手には、季節外れのベージュのダウンジャケットを持っていた。
「ただいま」
襟足をすっきりと短くした司が立っていた。
「司……」
帰ってきた。自由を奪われていたこの家に。「ただいま」と言って戻ってきてくれた。
声が出ない。山門に向かって駆け出す。
「やあ司。お帰り」
背後で、司を迎える父親の穏やかな声がしている。

