幾星霜の呪いの子 ―下町駆け込み寺の怪異譚―

「どこに行くんだ」
 玄関先で呼び止められ、久子は億劫な気持ちで振り返った。
 上り框に、腕組みをした夫が立っていた。威圧するようにこちらを見下ろしている。
「昨日話しましたでしょう? 松島です。旧友が体調を崩しているのでお見舞いです」
 昨日話したかどうか、久子自身も覚えていなかった。だが堂々と主張すれば問題ない。常から夫は久子の話を半分も聞いておらず、内容の四分の一も覚えていない。「前に話した」と言い張れば、大抵押し通せた。
「ここのところ、三日にいっぺんは松島に行っているそうじゃないか。そう何度も見舞いに行ってどうする」
 また始まったと、久子はこっそりと溜息を吐いた。この人は、家族の行動を思い通りにしないと気が済まないのだ。妻とは、お使いをして欲しい時にはすぐさま対応し、それ以外は家にいて然るべきと考えている。妻をいったい何だと思っているのだろう。
「雪江の子守りだって初に任せっきりだそうじゃないか。雪江もまだ小さいんだ。もっとそばにいてやりなさい」
 では、貴方がそばにいてやればいいではないですか。私は毎日、子供たちの世話をしています。――できることなら、言ってやりたい。顔を上げて夫の顔を見据える。
「優しげな顔」と言えば聞こえは良いが、よく見れば締まりのない瓜実顔。唇は薄く薄情そうだ。夫の顔に、久子の好きな要素が一つもなかった。どうしてこんな男と結婚したのだろう。束の間、どうしようもない虚脱感に襲われる。
「――今日で最後にしますから。お願い。旧友が、嫁ぎ先で心細くなって私に会いたがっているんです。可哀想でしょう?」
 再度、可哀想と目を伏せると、夫が気まずそうに咳払いをした。
「……夕刻までには戻りなさい」
「わかりました。行って参ります」
 夫の気が変わらないうちに素早く玄関を出る。裾を捌いて、絹の音をさせながら颯爽と歩いた。
 初が、夫に告げ口をしたのだろうか? それとも義母か。たまに出かけるくらい、何がいけないのだろう。なぜみんな、私の邪魔をするのだろう。
 松永味噌醸造に通うのは、今日で四度目だ。松島駅からの道のりもすっかり慣れた。
 今日も松永家の竹垣には、静を一目見ようと子供や老爺がへばりついていた。馬鹿な子ら、とひっそりと思う。親友の自分が訪ねても玄関先にも出てきやしないのだから、門の外で待っていたって無駄なのに。
 門をくぐると、迷わず味噌蔵へと足を向けた。材料を運んでいる従業員を捕まえ、良吾を呼んできて欲しいと(ことづ)ける。
 しばらくして良吾が出てきた。心なしか、元気がないようだった。
「どうしたの? お仕事、忙しいの?」
「――いや」
「どうしたのよ」
 今日は久子が良吾の袖を引き、蔵の裏手の他人気のない場所まで連れて行った。
「何かあったの?」
 辛抱強く良吾の返事を待っていると、良吾が重い口を開いた。
「――見合いの話を、いただいたんだ」
「まあ!」
 かすかに胸が痛んだが、すぐにその痛みは消えた。感じる間もないくらいの、一瞬の痛みだった。
「良かったじゃない! ……それなのに、どうして浮かない顔をしているの? 嬉しくないの?」
 良吾は返事をせず、ただ辛そうに俯いた。
「――ありがたいと思う。丁稚奉公上がりの俺に縁談まで世話してくれるなんて、本当に……。けど、俺、俺」
「好きな人が」と、蚊の鳴くような声で呟く。
 久子には、誰のことか嫌というほどわかっていた。哀れだなと思う。自分の雇い主の妻に恋焦がれるなんて、哀れ以外の何でもない。
 肩を落とす良吾を見ていると、どうしてこんな男に胸を躍らせていたのだろうと、急に気持ちが冷えた。
 そんな情けない姿を晒さないで欲しい。格好良い、幼馴染のお兄さんに戻って欲しい。けれど良吾は、いつまでもうじうじと顔を上げようとしなかった。……情けない。
 ふと、面白いことを思いついた。
「そういえば静ちゃん、今日、良吾くんのことをとても褒めていたわ」
 良吾が、弾かれたように顔を上げる。
「――え?」
「『頼り甲斐のある男性だ』って。『優しい』って」
「奥様が……? 俺のことを?」
 良吾の瞳に光が宿る。目に見えて、良吾の顔に血色が戻った。
「ええ。良吾くんとお話するのが嬉しいみたいよ。ほら、ご主人って怖そうな人だものね。――私たちって、一度は想像するのよ。心から好いた相手と結婚していたらどうだったろうって。本当に好きな人とだったらって。私たちは親や周囲に結婚相手を決められてしまうから……。静ちゃんもそうよ。私たちが女学校に通っているうちから、正太郎さんに見初められて。きっと静ちゃんもそんなに早く嫁ぐなんて嫌だったと思うわ」
「……」
「しかも、ずうっと年上の、父親のような風貌の方でしょう、正太郎さんって。静ちゃんだって、自分と年の近い、素敵な男性と結婚したかったと思うわ」
 ちら、と良吾の顔を確かめる。
「――良吾くんみたいな、素敵な男性と」
 言い終わらないうちに、良吾に両肩を掴まれた。額を突き合わせるようにして問われる。
「それ、本当⁉ 本当に奥様がそう言っていたの?」
「――ふふ」
 久子は、はいともいいえとも答えず、ただ悠然と微笑んだ。
 手を取り合って逃避行する良吾と静を想像する。
 当然、すぐに見つかり連れ戻されるだろう。ひどく叱られ、しばらく二人は顔を合わせないよう隔離されるに違いない。大人になっても叱りつけられる二人の姿を想像すると、笑いがこみ上げてきた。まったく、何歳(いくつ)になったら大人になるのだろう。良吾も静も、いつまでもわがままで。
 万が一、逃避行がうまくいったら――? 逃げながら満足な生活が送れるわけがない。貧乏で惨めな暮らしになるだろう。
 どちらにしても、面白い展開になりそうだった。
「――この前から言おうと思っていたの。静ちゃんこそ、良吾くんとお話すると顔色がいいのよ。良吾くんの話をする時は、目が輝いているもの」
 良吾の頬に赤みが差す。じわじわと広がり、耳まで血色が広がっていった。
「久子ちゃん」
 両肩に載せられていた手が、腕を伝って降りてきた。両手を強く握られる。再会した日、手を握ってもらいたいと思っていた。――けれど、もう胸が高鳴ることはない。
「教えてくれて、ありがとう。俺、ずっとずっと奥様のことが――」
「――ええ」
 良吾の告白が耳を素通りしてゆく。どうでも良かった。良吾には、もう飽きた。
 ただ、二人が逃避行する姿を想像すると、わずかに楽しい気分になった。
 成功しようが、失敗しようが、胸のすく思いがした。