運転手に到着を告げられ、久子は顔を上げた。
目の前に巨大な石造りの門が立っていた。右の石柱には「松永」と書かれた陶磁器の表札が埋め込まれている。
車を降りると、ぷん、と味噌の匂いが鼻をついた。
広大な敷地の手前に、白漆喰の蔵が二軒建っている。おそらく味噌づくりの建物だろう。法被を着た従業員が、ひっきりなしに蔵を出入りしていた。
敷地の松の木々の向こうに平家建ての邸宅が見えてきた。おそらく、あちらが居住部分だろう。久子は平屋建てに向かってゆっくりと歩き出した。
邸宅へ向かう途中、大人三人で手を繋いでも囲いきれないような、太い幹の桜の木があった。花をつけたらさぞかし見事だろうと、桜の大木の横を過ぎる。
「ごめんください」
磨き上げられたガラス戸の玄関の前で声をかけたが、反応がない。呼び鈴が見当たらず、久子は恐る恐る引き戸を開けた。
「すみません、どなたかいらっしゃいませんか」
目の前には広い土間が広がっていた。土間といっても黒い御影石が敷き詰められており、すみからすみまで磨き上げられている。端の方には樽詰めの味噌が置かれていて、その保存のためか、土間は暗くひんやりとしている。
「へい!」と小気味よい返事が聞こえて来て、奥から角刈りの男が走り出てきた。
男は藍色の法被を身に着けており、首には、汗の滲んだ布巾を捩じって巻いていた。男の身体中から味噌の匂いが漂っている。やはり想像した通りだ。いくら立派な大豪邸でも、どこもかしかも味噌の匂いに溢れている。
「味噌でしょうか、醤油でしょうか」
買い物にきた客だと勘違いされ、要望を訊かれる。
「こんにちは。こちらに、静さんはいらっしゃいますか? 私、静さんの学友の菅野久子と申します」
久子はあえて旧姓で名乗った。静のことだ、嫁ぎ先の姓で名乗ったら、友が訪ねてきたと気付かないかもしれない。
静の名前を出すと、角刈りの男が途端に姿勢を低くした。目線を合わせないよう顔を俯け「失礼しました」と早口で詫びた。
「少々お待ちください。呼んでまいります」
と、男は急いで奥へと引っ込んでいった。
この豪邸の中に、たしかに静がいる。鼓動が早くなってきた。
まさかとは思うが、忘れられてはいないだろうか。門前払い、なんてことには――
「久子ちゃん……?」
蚊の鳴くような声が聞こえてきて、久子は顔を上げた。
「!」
――危うく、悲鳴を上げかけた。
目の前に、柳の枝のような女が立っていた。
きっちりと着込んだ着物の襟から覗く首が折れそうに細い。胸元を抑える手の甲は、皮膚がはりついて血管が浮き出ている。――ふっくらとしていた頬はすっかり肉が削げ落ち、元々小さい顔がもう一回り小さくなっていた。
「……静ちゃん」
歩いてくる足音もせず、立っている姿はまるで幽霊だ。暗い色味の着物を着ており、首から上だけが闇に浮かんでいるように見えた。長い黒髪を片側にゆったりと結い、顔の半分が覆い隠されている。
病気にでも罹っているのだろうか。そんな噂は聞いていないが……。あまり外に出ていないのか、肌は抜けるように白い。――いや、青白い。
「久子ちゃん、久しぶりね」
声も何だか張りがない。けれど、喜びを滲ませているのは伝わってきた。
「この辺りに、用事でもあったの? 会いにきてくれるなんて、嬉しい」
「ええ、そう……。松島に用事があって、静ちゃんのお宅が近いと思い出して寄ってみたの。急に来てごめんなさい」
これお土産、と羊羹を手渡す。受け取る手首が小枝のようで、羊羹の重さで折れてしまうのではないかと思った。瘦せ細ってはいるが、指先は学生の頃のように荒れてはいなかった。
「嬉しい」
静が、息を吐くようにしみじみと呟いた。
こんな豪邸に住んでいるのに、満足に甘味も食べさせてもらえないのだろうか。静がどんな暮らしをしているのか、まったく想像がつかなかった。
「静ちゃん……」
呼びかけてはみたものの、何から訊ねてよいのかわからない。学生の頃と、あまりにも様変わりしていたし、痩せたせいもあって、まるで別人のように感じられた。
その時、どこかからか赤ん坊の泣き声がした。
「まあ。もしかして、お子さんが生まれたの?」
結婚したのだから子供がいて不思議はないのだが、目の前の柳のような静から赤子が生まれ出たとは信じられず、思わず声が上ずった。
「ええ、そう。次男」
「おめでとう」
あの泣き方はまだ一歳にも満たないだろう。それでは子守りに忙しい時期だと思い、久子は早々に暇を告げた。
「急に来てごめんなさいね。そろそろお暇するわ」
「待って、久子ちゃん……」
静に袖を引かれ、振り返った瞬間、奥からドスドスと重い足音が聞こえてきた。静がびくりと身を竦ませる。
顎の逞しい大柄な男が顔を出した。初めの角刈りの男と同じように法被を身に着けているが、色が違う。静の隣に並ぶと、やや乱暴に静の肩を抱いた。
「どなたかな?」
静の夫の松永正太郎だ。以前見かけた時は腹の出た中年男という印象だったが、華奢な静に並んだせいか、大木のような巨体に見えた。
「――静さんの学友の菅野と申します。もう、お暇するところでした」
「そうでしたか。では表まで送りましょう」
正太郎は土間におりて雪駄をつっかけると、まるで急かすように久子を外へと促した。
「……はあ」
久子は呆気に取られながら外へ出た。見送りならば静が送ってくれればよいのに、と肩越しに振り返る。静は上がり框にぼんやりと立ち尽くし土間には決しておりようとしない。
いつまでも見ていると、正太郎が背後に回り込んで来て、視界を塞いだ。
「何のおもてなしもせず、すみません。次に来る時は、どうぞ事前にご連絡ください」
「――はあ」
大袈裟なもてなしなど必要ないのに。ただ友人を訪ねてきただけだ。
赤子の無き声がまだ聞こえているが、静はその場から動こうともしない。
目の前に巨大な石造りの門が立っていた。右の石柱には「松永」と書かれた陶磁器の表札が埋め込まれている。
車を降りると、ぷん、と味噌の匂いが鼻をついた。
広大な敷地の手前に、白漆喰の蔵が二軒建っている。おそらく味噌づくりの建物だろう。法被を着た従業員が、ひっきりなしに蔵を出入りしていた。
敷地の松の木々の向こうに平家建ての邸宅が見えてきた。おそらく、あちらが居住部分だろう。久子は平屋建てに向かってゆっくりと歩き出した。
邸宅へ向かう途中、大人三人で手を繋いでも囲いきれないような、太い幹の桜の木があった。花をつけたらさぞかし見事だろうと、桜の大木の横を過ぎる。
「ごめんください」
磨き上げられたガラス戸の玄関の前で声をかけたが、反応がない。呼び鈴が見当たらず、久子は恐る恐る引き戸を開けた。
「すみません、どなたかいらっしゃいませんか」
目の前には広い土間が広がっていた。土間といっても黒い御影石が敷き詰められており、すみからすみまで磨き上げられている。端の方には樽詰めの味噌が置かれていて、その保存のためか、土間は暗くひんやりとしている。
「へい!」と小気味よい返事が聞こえて来て、奥から角刈りの男が走り出てきた。
男は藍色の法被を身に着けており、首には、汗の滲んだ布巾を捩じって巻いていた。男の身体中から味噌の匂いが漂っている。やはり想像した通りだ。いくら立派な大豪邸でも、どこもかしかも味噌の匂いに溢れている。
「味噌でしょうか、醤油でしょうか」
買い物にきた客だと勘違いされ、要望を訊かれる。
「こんにちは。こちらに、静さんはいらっしゃいますか? 私、静さんの学友の菅野久子と申します」
久子はあえて旧姓で名乗った。静のことだ、嫁ぎ先の姓で名乗ったら、友が訪ねてきたと気付かないかもしれない。
静の名前を出すと、角刈りの男が途端に姿勢を低くした。目線を合わせないよう顔を俯け「失礼しました」と早口で詫びた。
「少々お待ちください。呼んでまいります」
と、男は急いで奥へと引っ込んでいった。
この豪邸の中に、たしかに静がいる。鼓動が早くなってきた。
まさかとは思うが、忘れられてはいないだろうか。門前払い、なんてことには――
「久子ちゃん……?」
蚊の鳴くような声が聞こえてきて、久子は顔を上げた。
「!」
――危うく、悲鳴を上げかけた。
目の前に、柳の枝のような女が立っていた。
きっちりと着込んだ着物の襟から覗く首が折れそうに細い。胸元を抑える手の甲は、皮膚がはりついて血管が浮き出ている。――ふっくらとしていた頬はすっかり肉が削げ落ち、元々小さい顔がもう一回り小さくなっていた。
「……静ちゃん」
歩いてくる足音もせず、立っている姿はまるで幽霊だ。暗い色味の着物を着ており、首から上だけが闇に浮かんでいるように見えた。長い黒髪を片側にゆったりと結い、顔の半分が覆い隠されている。
病気にでも罹っているのだろうか。そんな噂は聞いていないが……。あまり外に出ていないのか、肌は抜けるように白い。――いや、青白い。
「久子ちゃん、久しぶりね」
声も何だか張りがない。けれど、喜びを滲ませているのは伝わってきた。
「この辺りに、用事でもあったの? 会いにきてくれるなんて、嬉しい」
「ええ、そう……。松島に用事があって、静ちゃんのお宅が近いと思い出して寄ってみたの。急に来てごめんなさい」
これお土産、と羊羹を手渡す。受け取る手首が小枝のようで、羊羹の重さで折れてしまうのではないかと思った。瘦せ細ってはいるが、指先は学生の頃のように荒れてはいなかった。
「嬉しい」
静が、息を吐くようにしみじみと呟いた。
こんな豪邸に住んでいるのに、満足に甘味も食べさせてもらえないのだろうか。静がどんな暮らしをしているのか、まったく想像がつかなかった。
「静ちゃん……」
呼びかけてはみたものの、何から訊ねてよいのかわからない。学生の頃と、あまりにも様変わりしていたし、痩せたせいもあって、まるで別人のように感じられた。
その時、どこかからか赤ん坊の泣き声がした。
「まあ。もしかして、お子さんが生まれたの?」
結婚したのだから子供がいて不思議はないのだが、目の前の柳のような静から赤子が生まれ出たとは信じられず、思わず声が上ずった。
「ええ、そう。次男」
「おめでとう」
あの泣き方はまだ一歳にも満たないだろう。それでは子守りに忙しい時期だと思い、久子は早々に暇を告げた。
「急に来てごめんなさいね。そろそろお暇するわ」
「待って、久子ちゃん……」
静に袖を引かれ、振り返った瞬間、奥からドスドスと重い足音が聞こえてきた。静がびくりと身を竦ませる。
顎の逞しい大柄な男が顔を出した。初めの角刈りの男と同じように法被を身に着けているが、色が違う。静の隣に並ぶと、やや乱暴に静の肩を抱いた。
「どなたかな?」
静の夫の松永正太郎だ。以前見かけた時は腹の出た中年男という印象だったが、華奢な静に並んだせいか、大木のような巨体に見えた。
「――静さんの学友の菅野と申します。もう、お暇するところでした」
「そうでしたか。では表まで送りましょう」
正太郎は土間におりて雪駄をつっかけると、まるで急かすように久子を外へと促した。
「……はあ」
久子は呆気に取られながら外へ出た。見送りならば静が送ってくれればよいのに、と肩越しに振り返る。静は上がり框にぼんやりと立ち尽くし土間には決しておりようとしない。
いつまでも見ていると、正太郎が背後に回り込んで来て、視界を塞いだ。
「何のおもてなしもせず、すみません。次に来る時は、どうぞ事前にご連絡ください」
「――はあ」
大袈裟なもてなしなど必要ないのに。ただ友人を訪ねてきただけだ。
赤子の無き声がまだ聞こえているが、静はその場から動こうともしない。

