幾星霜の呪いの子 ―下町駆け込み寺の怪異譚―

 何もかもが夢のように楽しかった女学校の卒業から七年が経ち、久子は二十二歳を越えていた。
 卒業から一年ほどした頃、久子の元にも縁談が舞い込んできた。隣町の呉服屋だった。もちろん、裕福な家だ。両親も久子自身もほっと胸を撫で下ろした。
 すぐに結婚。一年半ほどして長男が生まれた。その二年後には、待望の長女も生まれた。
 順風満帆な生活だった。――新婚二年目くらいまでは。
 呉服屋なだけに、毎日綺麗な着物を選び放題だと思っていた。けれど子育ては想像していた以上に過酷で、いくら綺麗な着物がたくさんあっても、吐瀉物や食べ物で汚される。次第に着るものに興味をなくした。動きやすいワンピースを着る日が増え、髪は少々乱れていても目立たないパーマを当てたショートカットにした。
(はつ)! どこなの、初!」
 一歳になったばかりの娘が縁側で一人遊びをしているのを見つけ、久子は肝を冷やした。素早く抱き上げ、子守りを頼んでいた女中を大声で呼ぶ。
「初!」
「はぁい、奥様」
 遠くから、女中の間延びした返事がする。何度も呼んでいるのに、すぐに駆けつけてくる気配はない。
 春から屋敷にやってきた初は、気立ては良いが、いささかのんびりし過ぎている。何事も腰を上げるのが遅く、咄嗟の出来事に対応できない。先日も這い回る雪江(ゆきえ)から目を離し、土間に落としたばかりだ。
 のっそりと現れた初に、久子は溜息を飲み込んだ。
「――雪江をちゃんと見ていてちょうだい。目を離してはだめよ。この前のように、どこかに落ちて怪我をしたらどうするの」
「すみません」
「それから……」
 目下、久子の悩みは、姑が子供たちに菓子を与え過ぎてしまうことだった。何度やめてほしいとお願いしても、子供たちが喜んで食べるのだと聞く耳を持たない。穏やかな人と評される義母だが、なぜか久子の話にだけは耳を貸さなかった。二人きりになると、話しかけても返事をしなくなることさえあった。
「お義母様が雪江たちに菓子を与えようとしても、絶対に止めてね。子供たちの歯に悪いんだから」
「でもぉ……。あたしがダメだって言っても、大奥様は聞く耳を持ちません」
「なんとかなさい! お義母様が菓子を持ってきたら貴女が食べてしまえばいいでしょう、全部」
「あ、そうですね」
 それは妙案だと言わんばかりに、初が顔を輝かせる。初は、何よりも食べることが好きなふくよかな女の子だ。
「二人をお願い。秀一(しゅういち)は庭で遊んでいますから」
「はぁい。奥様はどちらへ?」
「御用達に行ってまいります。帰りは夕方になります」
 雪江を渡すと、初は慣れた手つきで抱き取った。雪江を抱きながら、風に乗って漂う出汁の匂いに鼻をひくつかせている。昼食の献立に思いを馳せているのだろう。
 しかし雪江は、肉付きの良い初の腕に抱かれ、気持ちよさそうに目を細めている。献身的な愛情を持って接しても、小太りな女中の腕のほうが好きなのだから、子育ては本当に遣り甲斐がない。
「――お願いね」
 帽子を直し、久子は玄関を出た。風は冷たいが陽射しが温かく、久しぶりの一人の外出に胸が躍った。

 
 夫に頼まれたお使いを済ますと、お茶でも飲もうかと、藤沢(ふじさわ)百貨店へと向かった。
 三階のフロアの奥にある、ブティックの狭間にある小さな喫茶室が久子のお気に入りだった。最上階の食堂や路面に面した一階の喫茶室と違って、表立って看板を出していないため、いつも客が少なく静かで居心地が良い。客層はブティックに来るお洒落な婦人が多く、ここにいると、自分もモダンな婦人の仲間入りをした気になれた。
 百貨店に来るのも久しぶりだ。
 やはり、たまの息抜きは必要だと久子は一人頷く。家の仕事も、子育ても、母なる自分の健康があってこそだ。
 藤沢百貨店に足を踏み入れると、微かに醤油の匂いが鼻をついた。
 地下で売られている総菜のせいだ。藤沢百貨店はフロアの中央が地下から八階まで吹き抜けになっており、地階で売られる食品の匂いが上階にも昇ってくるのだ。
(どうにかならないのかしら。せっかく素敵な雰囲気なのに)
 もちろん、醤油の香ばしい匂いや出汁や漬物の香りは久子も好きなのだが、シャンデリアの輝く百貨店の雰囲気にはそぐわない。
 鼻をつく麹の香りで、ふと、静を思い出した。
 味噌づくりの大豪商に嫁いだ親友。結婚式の時以来、会っていない。
(元気にしているかしら)
 静とは年に一度、年賀状を交わすだけの仲になっていた。お互いに忙しく、また住んでいるところも離れてしまったため、顔を合わせる機会がなかった。
 しかし子育てがひと段落した今、久しぶりに静に会いたくなった。
 久子は地下で羊羹を一竿を買うと、喫茶室には行かず、仙台駅に向かった。仙石線に乗り、松島駅で降りる。松島駅前に停まっているハイヤーを捕まえ、行き先を告げた。
「菖蒲地区の松永味噌醸造まで、お願いします」
 ハイヤーは滑らかに走り出した。
 急な予定変更と、夫を伴わない遠出に、胸が早鐘を打っていた。街に買い物に出るか夫に頼まれた用事をする以外は、一人で他所を出歩く機会など滅多になかった。
(学友に会いに行くことぐらい、許されるわ)
 久子は窓ガラスに映る自分の顔を確かめ、帽子の角度を直した。結局お茶をしなかったので、口紅も剥げていない。お持たせにした羊羹は老舗の高級品だ。
 着物を着てくれば良かった。せっかく大きな呉服屋に嫁いだのに、動きやすいからとワンピースを着てきてしまった。呉服屋の妻として立派にやっているとわかりやすく示すには、上等な着物を身に着けているのが一番だったのに。
(急に決めたから、仕方がない)
 久子は気を取り直し、ハンドバッグに忍ばせていたブローチを胸につけた。