幾星霜の呪いの子 ―下町駆け込み寺の怪異譚―

 小さな声で礼を言い、老人の家を辞去する。
 外に出るなり司に袖を引かれた。
「ねえ、座敷牢なんて嘘だよね?」
「……嘘だと思いたいけど、今となってはわからない」
「嘘だよ、きっと。だって家族に閉じ込められるなんて。……そんなのありえない」
 そんなの地獄……、と司は辛そうに顔を歪めた。
 松永家に関する話を聞けて、収穫は大きかったはずなのに、二人の口は重かった。会話がそれきり続かない。
 松永家の敷地に戻り、かつて蔵や屋敷があった場所にたつアパートをそろって見上げた。
 松永家に嫁いでからの静の人生を想像してみる。
 早くに松永家に嫁ぎ、淡く思い描いていた将来の夢は泡沫のように消えただろう。十代の少女が親元から離れ、他所の家の生活に馴染むまでどれくらいの時間を要しただろうか。
 年の離れた夫、多くの従業員を抱えた商家。気苦労が絶えなかったのは想像に難くない。本人は納得した上での結婚だったのだろうか……。
 十代――。崇文は大学で将来に向けて勉強していた頃だ。僧侶になるための勉強や修行が大変で、常に眠かったのを覚えている。辛いこともあったが、楽しかった思い出が大半を占めている。整った環境の中、友人にも恵まれ、自分の選んだ道を邁進していた。
 若い職人との一件からは奥に閉じ込められ、表に立って味噌屋の経営を手伝うことも、普通に生活することもままならなかった静。どんなに窮屈だったか。
 唯一の頼みの綱である正太郎は外で愛人を作り、あまつさえ、そのうちの一人が蔵で首を吊った。
 ……最後に老人が言ったように、お前がしっかり夫の手綱を握っていれば、こんなことにはならなかったと責める者もいたかもしれない。
 自由を奪われ、仕事を奪われ、尊厳も奪われた。窮屈では済まされない。……司の言う通り、地獄だ。
 どんなにか自分の人生を呪い、正太郎を、……松永家を呪ったことだろう。
 ――呪いは五条千代のものではなく、静ではないか?
 松永家がなくなればいいと一番強く願い、呪ったのは静ではないだろうか。
 そして、司を危険に晒さぬよう長栄寺に押し込めようとしていた自分の行為が、静に対する正太郎の所業と重なり、愕然とした。恐怖と悪心が、喉元までせり上がってくる。――同じだ。自分は司に対して、正太郎と同じことをしている。
 空には厚い雲がかかり、昼だと言うのにあたりは薄暗い。冷たい空気が足元に淀み、立ち止まっていると冷気が下から這い上がってくる。
「……川って、あっちかな?」
 司がアパートの背中側を指さした。建物の向こう側に、小高く盛り上がった芝生の堤防が見える。
「たぶん、そうだ。見てみようか」
 敷地内を突っ切って奥まで行くと、モルタルで舗装された堤防へと繋がる階段を見つけた。階段を昇ってゆくと、幅五mほどの川が現れた。菖蒲地区を東西に渡る糸寄川(いとよりがわ)だ。
 風がないので川面が暗く澱んでいる。
「ここで溺れて死んだの? 本当に……?」
「わからない。誰も、静さんの最期を見ていない」
「……」
 天女のように美しいと誉めそやされていたのに、屋敷に軟禁され、最期はどうやって死んだのか、誰にも知られない静。気が狂ったと噂され、誰にも顧みられずに――。
「静さん、かわいそう」
 常から他者の気持ちに共感しやすい司が、苦し気に喉元を押さえた。
「ここで楽しいと思ったことはあったのかな……? 辛いことばかりだったんじゃないかな? 考えるだけで辛い」
「……子どもが、三人いたんだ」
 言ってから、だからなんだ、と自問した。
 子どもがいればそれだけで幸せなのか。子どもがいたのに、自由に会わせてもらえなかったのでは、辛さは何倍にも増したのではないか。――それに、子どものうち二人は、病気と事故で死んでいる。
「ひいおばあちゃんを縛るものは、もう何もないよ」
 暗い川面を見つめながら、司が呟いた。
「――松永家は、もうなくなっちゃった。だから、ひいおばあちゃんも、もう自由だよ」
 曾祖母に向かって語り掛けながら、司がどんどん堤防の傾斜を下って行く。堤防の半分を過ぎても川に入りそうな勢いで進むものだから、慌てて追いかけた。川に飛び込みやしないだろうな? 崇文は小学生の頃のように司の手を取り自分の手と繋ぎ合わせた。ようやく司の足が止まる。
 司がその場で頭を垂れた。顎まで伸ばした髪が、司の白い横顔を隠す。崇文も目を閉じ、片方の手で数珠を手繰った。
 まだ松永家を恨んでいるのだろうか。まだ、この世に未練を残しているのだろうか。
 もし、まだこの世に彷徨い誰かを呪っているのなら、どうか成仏してほしい。
 そしてこれまで静の存在に気づけなかったことを、心から詫びた。
 びゅう、と一陣の風が吹き、司の髪を舞い上げた。
「すごい風だな」
 目の上に庇を作り空を見上げる。
 すぐに服がはためくほどの強風が吹き始めた。足元の芝が、右へ左へ、葉先を激しく震わせている。さっきまで暗く澱んでいた川面が、大蛇の腹のように大きくうねり、不規則に波立った。
(なんだ?)
 竜巻でも発生するのかと辺りを見回した。気付けば、長い堤防には崇文と司以外、誰もいなくなっていた。鳥の一羽さえも飛んでいない。
 立っているのも辛いほどの強風が襲ってくる。
「司っ」
 砂を含んだ突風が顔に吹き付け、目を開けていられなくなった。視界が狭まる中、司の手だけは離すまいと、両手で司の左手を掴んだ。
「司、しゃがめっ、川に落ちるっ!」
 びゅうびゅうと風が吹きすさび、司の返事が聞こえない。
 さっきから司は一言も発さず、ぼうっと川面を見つめている。強風が司の髪を乱し、表情を隠していた。いくら手を引いても、何度呼び掛けても、こちらを振り返りもしない。
 ――この手は、本当に司? 握った手が別人のように感じてぞっとする。
「司!」
 司の腰に両手を回し、体当たりして芝に押し倒す。崇文の体重を受け止め、ようやく司がこちらを向いた。瞳には、いつもの光がない。
「司っ、司っ! 俺の声、聞こえてるか⁉」
 司がゆっくりと視線を合わせてくる。透明な瞳には、何の感情も映していない。まるで初めて会う人間を見るような表情でこちらを凝視している。
「……司?」
 見慣れた司の顔なのに、なにか違和感がある。長いまつ毛に縁取られた美しい瞳……その奥に見知らぬ誰かの気配を感じる。
 ぬるりと司の両手が首に回った。引き寄せられ、耳元で何か囁かれた。
「――――」
 突風の音と自分の鼓動の大きさで、何と言われたのか聞き取れなかった。
「何? なんて言った?」
 訊き返しても、返事はない。視線を合わせると、いつもの司に戻っていた。堤防の土に転がっているのに驚いたように、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。
 風がやみ、空気が温み始めても、司の身体を離すことができなかった。