静と正太郎は、一回り以上も年の離れた夫婦だった。
「松永家のことならなんでも知っている」と豪語する老人も、静については、正太郎と年が離れていること、たいそう美人であったことぐらいしか知らなかった。会話を交わしたこともないと言う。
静の器量の良さは近所でも評判で、近隣の子どもや年頃の青年たちが、昼夜問わず松永家の竹垣添いに覗きにきた。正太郎は彼らを追い払いながら、静がどこぞの若者に奪い去られるのではと気が気でなかったようだ。先の、職人が静を唆す事件もあった。
作業場所への出入りは禁止、従業員が休憩や食事を摂る本宅への出入りも時間を制限、ほとんど静を離れから出さなかった。当然、皆が集まる季節の催し事にも、顔を出さないようきつく言いつけていた。
「朝早く新聞を取りに門さ行った時、静さんが庭先を散歩しているのを見かけたことがあったな。朝靄の中に立つ姿は天女様みたいで、それはそれは綺麗だったよ。ぼうっと見惚れていたら正太郎さんが飛んできて、俺はまだ十歳かそこらだってのに頬を思いっきり張られた」
思いっきりだよ? と老人は笑う。
「色が抜けるように白くて、目がガラス玉みたいに濡れて光って……。ここらじゃお目にかかれない、女優さんみたいな顔だったなぁ。そうそう、お嬢ちゃんさ少し似てる」
老人は、今気づいたとでも言うように、司の顔をまじまじと覗き込んだ。
「あれ、ほんとに似てるな」
「――そうですか?」と、司が苦笑する。
似ているのも無理はない。司は静の曾孫なのだから。
司の、澄んだ瞳や色の白さは曾祖母からきているのかと思うと、血の繋がりを感じずにはいられなかった。
やはり司は、松永家の血を引く人間なのだ。
「静さんはどうなったんですか? 芳子さんと一緒に、市街地に移り住んだんですか?」
崇文が勢い込んで訊くと、老人は腕組みをして「それが、よくわかんねんだよな」と首を傾げた。
「わからない?」
「正男さんとその息子が亡くなったときに、喪服を着ているのを見かけたんだけど……げっそりとしてたよ。清二さんが亡くなったときには、もう姿を見せなくなってた。二人も息子を失って、おかしくなっちまったんじゃねえか、なんて親父は言ってたよ」
何せ普段から表に出てこないひとだから、と老人は嘆息した。奥で臥せっているのか、離縁してどこかへ出ていってしまったのか、家が隣近所というだけではわからなかったと語る。
老人は一枚の写真に目を留めた。
「あ、ほら。この写真、ほんの少しだけ静さんが写っている」
「どこ⁉」
司と揃ってアルバムに齧りつく。
芳子が玄関先でシャボン玉を飛ばしている写真だ。開け放たれた玄関扉の奥、廊下の先の暗がりに人影が見える。目を凝らして見ると、暗い色目の和服を着た女性が棒立ちしている。
「これ……?」
顔の上半分は切れてしまっているが、司によく似たシャープな顎のラインと品の良い口元が写っている。着崩れた襟元からのぞく首の白さが、暗がりにぼんやりと浮かび上がっていた。たしかに綺麗だ。綺麗だが、じっと見ていると、ぞくりと寒気がするような不気味さがあった。
「暗くて……なんか、ちょっと怖い」
司が小さな声で呟いた。
「旦那さんも息子さんも亡くして、精神的に病んじゃったってことですか……? それとも、身体の具合がよくなかったんですか? どっちにしろ、医者に診てもらったりは?」
「しないさ」
とんでもない、とでも言う風に、老人は顔の前で大きく手を振った。
「家族に気の触れた者が出たなんて、言えないさ。そんな、みっともない」
「……」
二人が黙り込んだのを見て、老人が慌てて付け足した。
「ちゃんと食事はさせてたと思うよ。廃れても金持ちだからね、美味しいものを食べさせてもらってたんじゃない?」
「……おじいちゃん」
司が言葉を詰まらせる。泣き出しそうな表情をしていて、困惑しているのが伝わってくる。崇文も、どう反応してよいのかわからなかった。急な非人道的な発言にあてられ、これまで親切に接してくれていた老人が、言葉の通じない宇宙人のように見えてくる。
「離れの座敷牢さ繋がれてたって噂もあったね」
「座敷牢⁉」
「あくまでも噂だよ。おれも母屋までは入れてもらえたけど、離れまでは入れてもらったことがなかったから」
「……」
「失踪したとか、夜中に屋敷を抜け出して、裏の川で溺れ死んだとか噂をいくつか聞いたね。おしゃべりな女中たちが、口さがなく噂してた」
「そんな、川で死んだなんて……」
「とにかく、静さんさえもっとしっかりしてたら、お隣もこんなことさならなかったのになぁ」
老人の言葉に、司が眉を顰める。
「……どういう意味ですか?」
「女は旦那のことを優しく面倒見てあげなくちゃ。男は、家族のために必死で働いてんだから」
平然と言う老人を前に、言葉が出てこない。ここまで悲惨な人生だったというのに、なおも静は責められなければならないのか。
「閉じ込められていた上に責任を押し付けられるなんて……静さんが可哀そうじゃないですか……」
司の悲痛な言葉に、老人は何も答えなかった。
「……」
それきり、老人は窓辺の座椅子に移動すると、黙り込んでしまった。
松永家に関する知識を出し尽くしたのか、話し疲れたのか、窓の向こうの隣の敷地をぼんやりと見つめている。やがて目が糸のように細くなり、頭が船を漕ぎ始めた。
「松永家のことならなんでも知っている」と豪語する老人も、静については、正太郎と年が離れていること、たいそう美人であったことぐらいしか知らなかった。会話を交わしたこともないと言う。
静の器量の良さは近所でも評判で、近隣の子どもや年頃の青年たちが、昼夜問わず松永家の竹垣添いに覗きにきた。正太郎は彼らを追い払いながら、静がどこぞの若者に奪い去られるのではと気が気でなかったようだ。先の、職人が静を唆す事件もあった。
作業場所への出入りは禁止、従業員が休憩や食事を摂る本宅への出入りも時間を制限、ほとんど静を離れから出さなかった。当然、皆が集まる季節の催し事にも、顔を出さないようきつく言いつけていた。
「朝早く新聞を取りに門さ行った時、静さんが庭先を散歩しているのを見かけたことがあったな。朝靄の中に立つ姿は天女様みたいで、それはそれは綺麗だったよ。ぼうっと見惚れていたら正太郎さんが飛んできて、俺はまだ十歳かそこらだってのに頬を思いっきり張られた」
思いっきりだよ? と老人は笑う。
「色が抜けるように白くて、目がガラス玉みたいに濡れて光って……。ここらじゃお目にかかれない、女優さんみたいな顔だったなぁ。そうそう、お嬢ちゃんさ少し似てる」
老人は、今気づいたとでも言うように、司の顔をまじまじと覗き込んだ。
「あれ、ほんとに似てるな」
「――そうですか?」と、司が苦笑する。
似ているのも無理はない。司は静の曾孫なのだから。
司の、澄んだ瞳や色の白さは曾祖母からきているのかと思うと、血の繋がりを感じずにはいられなかった。
やはり司は、松永家の血を引く人間なのだ。
「静さんはどうなったんですか? 芳子さんと一緒に、市街地に移り住んだんですか?」
崇文が勢い込んで訊くと、老人は腕組みをして「それが、よくわかんねんだよな」と首を傾げた。
「わからない?」
「正男さんとその息子が亡くなったときに、喪服を着ているのを見かけたんだけど……げっそりとしてたよ。清二さんが亡くなったときには、もう姿を見せなくなってた。二人も息子を失って、おかしくなっちまったんじゃねえか、なんて親父は言ってたよ」
何せ普段から表に出てこないひとだから、と老人は嘆息した。奥で臥せっているのか、離縁してどこかへ出ていってしまったのか、家が隣近所というだけではわからなかったと語る。
老人は一枚の写真に目を留めた。
「あ、ほら。この写真、ほんの少しだけ静さんが写っている」
「どこ⁉」
司と揃ってアルバムに齧りつく。
芳子が玄関先でシャボン玉を飛ばしている写真だ。開け放たれた玄関扉の奥、廊下の先の暗がりに人影が見える。目を凝らして見ると、暗い色目の和服を着た女性が棒立ちしている。
「これ……?」
顔の上半分は切れてしまっているが、司によく似たシャープな顎のラインと品の良い口元が写っている。着崩れた襟元からのぞく首の白さが、暗がりにぼんやりと浮かび上がっていた。たしかに綺麗だ。綺麗だが、じっと見ていると、ぞくりと寒気がするような不気味さがあった。
「暗くて……なんか、ちょっと怖い」
司が小さな声で呟いた。
「旦那さんも息子さんも亡くして、精神的に病んじゃったってことですか……? それとも、身体の具合がよくなかったんですか? どっちにしろ、医者に診てもらったりは?」
「しないさ」
とんでもない、とでも言う風に、老人は顔の前で大きく手を振った。
「家族に気の触れた者が出たなんて、言えないさ。そんな、みっともない」
「……」
二人が黙り込んだのを見て、老人が慌てて付け足した。
「ちゃんと食事はさせてたと思うよ。廃れても金持ちだからね、美味しいものを食べさせてもらってたんじゃない?」
「……おじいちゃん」
司が言葉を詰まらせる。泣き出しそうな表情をしていて、困惑しているのが伝わってくる。崇文も、どう反応してよいのかわからなかった。急な非人道的な発言にあてられ、これまで親切に接してくれていた老人が、言葉の通じない宇宙人のように見えてくる。
「離れの座敷牢さ繋がれてたって噂もあったね」
「座敷牢⁉」
「あくまでも噂だよ。おれも母屋までは入れてもらえたけど、離れまでは入れてもらったことがなかったから」
「……」
「失踪したとか、夜中に屋敷を抜け出して、裏の川で溺れ死んだとか噂をいくつか聞いたね。おしゃべりな女中たちが、口さがなく噂してた」
「そんな、川で死んだなんて……」
「とにかく、静さんさえもっとしっかりしてたら、お隣もこんなことさならなかったのになぁ」
老人の言葉に、司が眉を顰める。
「……どういう意味ですか?」
「女は旦那のことを優しく面倒見てあげなくちゃ。男は、家族のために必死で働いてんだから」
平然と言う老人を前に、言葉が出てこない。ここまで悲惨な人生だったというのに、なおも静は責められなければならないのか。
「閉じ込められていた上に責任を押し付けられるなんて……静さんが可哀そうじゃないですか……」
司の悲痛な言葉に、老人は何も答えなかった。
「……」
それきり、老人は窓辺の座椅子に移動すると、黙り込んでしまった。
松永家に関する知識を出し尽くしたのか、話し疲れたのか、窓の向こうの隣の敷地をぼんやりと見つめている。やがて目が糸のように細くなり、頭が船を漕ぎ始めた。

