だいたいの事情はわかった。恵の、結婚を迷う心情もなんとなくわかる。
けれど、長栄寺でしてやれることは一つしかない。
「――恵さんは、」
一呼吸置いて恵に問いかける。
「杜撰な扱いをしてしまった稲荷のことを、気に病んでいるんですね?」
あえて義理の家族との確執には触れずに問うと、恵は涙を引っ込め、何度も首を縦に振った。
「……はい! はい、そうです!」
「嫁ぎ先で起きている様々なトラブルが、お稲荷さんの祟りではないかと」
「そうです!」
そんなものはありません――という言葉を飲み込み、崇文はもっともらしく咳払いをした。
「恵さんのその、稲荷を大切に思い、供養をしなかったことを悔やむ気持ちだけで充分です。屋敷神さまに伝わります」
「はい、でも……」
「悔やんでいる恵さんに祟りを返すほど、屋敷神さまは心が狭くありませんよ。大丈夫」
安心させるよう大きく頷いたが、恵はまだなにかを言いたそうに口を開閉していた。
「……、でも、御霊抜きをしないと、藤田家に」
「大丈夫ですよ」
安心できるよう、恵に向かって大きく頷く。
恵は、やがてのろのろと立ち上がって頭を下げた。
「……すみませんでした、長話をしてしまって」
「お辛くなったらまたいらしてください。いつでもお話を聞きます」
引きずるような足取りで恵が部屋を出て行く。見送ろうと、司が慌てて恵の後をついて行った。間もなく、居間の窓から二人が山門をくぐって出て行く姿が見えた。
よくある話だ。
嫁ぎ先の家族と価値観が合わず、結婚自体を迷い出す。新婚生活へと胸を膨らませていたぶん、落胆は大きいだろう。
田舎育ちの信心深い娘と、信仰を持たない東京の家庭。
これから結婚しようしている恵と、離婚で傷つき、実家へと戻ってきた義妹。
ここまで正反対の要素が揃えば、対立が生まれないほうがおかしい。
「ちょっと。冷たいんじゃないですか、ご住職」
揶揄うような、それでいて本気で怒っているような声が降ってきて、崇文は顔を上げた。いつの間にか司が戻っていて、そばに仁王立ちしている。司のデニムから、かすかに夜の空気の匂いがした。
「冷たい? どこがだよ」
司は勢いよく隣に腰を下ろすと、恵が手をつけなかったお茶請けのせんべいに手を伸ばした。豪快に袋を開け、ばりばりと食べ始める。
「恵さんはね、ただ話を聞いて欲しいだけなんだよ。結婚前の複雑な気持ちを、誰かに相談したいの。解決方法を教えて欲しいんじゃなくて」
「充分聞いただろ。それに、祟りなんてないって安心させてもやった」
「そんなヤクザ顔で『大丈夫』なんて言われても、安心できるわけないでしょ?」
もっと優しい顔はできないの? と強く眉間を押され、崇文は頭を仰け反らせた。
司はあっという間にせんべい三袋を空にすると、冷めたコーヒーでごくりと流し込んだ。タートルネックからかすかに覗く喉ぼとけが、大きく上下する。いつ見ても気持ちのよい食べっぷりだ。三食以外にしょっちゅう間食をするが、これまで一度も司が余計に体重を増やした姿を見たことがない。
「俺はただの住職だ。カウンセラーじゃない」
「そうだけど」
司に食い尽くされる前に、崇文も素早く一袋を手に取った。袋を開けながら、さっき聞いた恵の話を頭の中で反芻する。
職場で出会った男と婚約、男の実家で暮らすための準備を進めている。
義理の両親との関係はおおむね良好だったが、男の妹からは冷遇されている(妹はブラコンか?)。
男の実家への引っ越しを進めている間、それまであった屋敷神の稲荷がなくなっているのに気づく。稲荷は杜撰に処分してしまったようで、その後、義理の実家では不幸な出来事が続く……。
「ようは、立て続けに起こる不幸は稲荷の祟りだ。私のせいにするなって話だよね」
絶妙なタイミングで、司が独り言を呟いた。
「……そうなんだよなぁ。それをうちに言われても、な」
寺でできることと言ったら、稲荷の祟りなど存在しないと言って聞かせるくらいだ。人間関係の部分に関しては、部外者である崇文たちが立ち入ることはできない。
それに恵の望む通りに御霊抜きをしたとして、それで義理の家族との軋轢が解消するとも思えない。
「でも、稲荷の祟りは強烈だって言うもんね」
司がせんべいを食みながら、ぼんやりと呟いた。
稲荷の由来は、五穀豊穣の神とされている。
江戸時代に爆発的に信仰が広まり、多くの農家の敷地に祀られた。やがて地主や商家もそれを真似るようになり、いつしか商売繁盛の御利益もあると信じられるようになった。今でも、庭に稲荷を祀っている家は多い。
だがその一方で、手厚く敬わないと恐ろしい祟りを返すとも言われるようになった。稲荷信仰が口伝えで広まる中、インドの鬼神・ダーキニーの伝説が混同されたせいだ。ダーキニーは人肉を食らう恐神。白狐に跨り従えていたことから、稲荷の狐と結び付けられ、妙な形で混同されてしまったようだ。
「稲荷の祟りなんかない」
崇文はきっぱりと言い放った。
「車の事故なんて偶然だろうし、ここらじゃ空き巣も珍しくない」
車の事故に空き巣、どれも現実世界にありふれた話で、祟りだ呪いだと言うほどではない。車の事故が祟りによるものだと言うならば、世には祟りを受けた人間が何人いるというのだ。
「そうだけどさぁ」
司が新たなせんべいの袋に手を伸ばしながら、首を傾げた。さらりとした栗色の髪の毛が、頬にかかる。
「適当に処分されちゃったお稲荷さんが、怒ってんのかもよ。ゴミの日に出すなんて、さすがに」
「祟りなんかない!」
思いのほか大きな声が出て、司の肩がびくりと跳ねる。せんべいを取ろうと伸ばされた手が、テーブルの上で止まっている。――和やかだった居間の空気が一変した。
「……ごめん」
すぐに謝ったが、冷えた空気はそうすぐには戻らない。
司は無言のまま、気にしてないとでも言うように、口元だけで微笑んだ。
「こっちこそ、変なこと言ってごめん」
祟りなんてないよね、と、まるで宥めるような口調で言ってくる。
「ないよ。祟りなんか」
司に言って聞かせるように、自らに言い聞かせるように、崇文はその一言で話題を打ち切った。
けれど、長栄寺でしてやれることは一つしかない。
「――恵さんは、」
一呼吸置いて恵に問いかける。
「杜撰な扱いをしてしまった稲荷のことを、気に病んでいるんですね?」
あえて義理の家族との確執には触れずに問うと、恵は涙を引っ込め、何度も首を縦に振った。
「……はい! はい、そうです!」
「嫁ぎ先で起きている様々なトラブルが、お稲荷さんの祟りではないかと」
「そうです!」
そんなものはありません――という言葉を飲み込み、崇文はもっともらしく咳払いをした。
「恵さんのその、稲荷を大切に思い、供養をしなかったことを悔やむ気持ちだけで充分です。屋敷神さまに伝わります」
「はい、でも……」
「悔やんでいる恵さんに祟りを返すほど、屋敷神さまは心が狭くありませんよ。大丈夫」
安心させるよう大きく頷いたが、恵はまだなにかを言いたそうに口を開閉していた。
「……、でも、御霊抜きをしないと、藤田家に」
「大丈夫ですよ」
安心できるよう、恵に向かって大きく頷く。
恵は、やがてのろのろと立ち上がって頭を下げた。
「……すみませんでした、長話をしてしまって」
「お辛くなったらまたいらしてください。いつでもお話を聞きます」
引きずるような足取りで恵が部屋を出て行く。見送ろうと、司が慌てて恵の後をついて行った。間もなく、居間の窓から二人が山門をくぐって出て行く姿が見えた。
よくある話だ。
嫁ぎ先の家族と価値観が合わず、結婚自体を迷い出す。新婚生活へと胸を膨らませていたぶん、落胆は大きいだろう。
田舎育ちの信心深い娘と、信仰を持たない東京の家庭。
これから結婚しようしている恵と、離婚で傷つき、実家へと戻ってきた義妹。
ここまで正反対の要素が揃えば、対立が生まれないほうがおかしい。
「ちょっと。冷たいんじゃないですか、ご住職」
揶揄うような、それでいて本気で怒っているような声が降ってきて、崇文は顔を上げた。いつの間にか司が戻っていて、そばに仁王立ちしている。司のデニムから、かすかに夜の空気の匂いがした。
「冷たい? どこがだよ」
司は勢いよく隣に腰を下ろすと、恵が手をつけなかったお茶請けのせんべいに手を伸ばした。豪快に袋を開け、ばりばりと食べ始める。
「恵さんはね、ただ話を聞いて欲しいだけなんだよ。結婚前の複雑な気持ちを、誰かに相談したいの。解決方法を教えて欲しいんじゃなくて」
「充分聞いただろ。それに、祟りなんてないって安心させてもやった」
「そんなヤクザ顔で『大丈夫』なんて言われても、安心できるわけないでしょ?」
もっと優しい顔はできないの? と強く眉間を押され、崇文は頭を仰け反らせた。
司はあっという間にせんべい三袋を空にすると、冷めたコーヒーでごくりと流し込んだ。タートルネックからかすかに覗く喉ぼとけが、大きく上下する。いつ見ても気持ちのよい食べっぷりだ。三食以外にしょっちゅう間食をするが、これまで一度も司が余計に体重を増やした姿を見たことがない。
「俺はただの住職だ。カウンセラーじゃない」
「そうだけど」
司に食い尽くされる前に、崇文も素早く一袋を手に取った。袋を開けながら、さっき聞いた恵の話を頭の中で反芻する。
職場で出会った男と婚約、男の実家で暮らすための準備を進めている。
義理の両親との関係はおおむね良好だったが、男の妹からは冷遇されている(妹はブラコンか?)。
男の実家への引っ越しを進めている間、それまであった屋敷神の稲荷がなくなっているのに気づく。稲荷は杜撰に処分してしまったようで、その後、義理の実家では不幸な出来事が続く……。
「ようは、立て続けに起こる不幸は稲荷の祟りだ。私のせいにするなって話だよね」
絶妙なタイミングで、司が独り言を呟いた。
「……そうなんだよなぁ。それをうちに言われても、な」
寺でできることと言ったら、稲荷の祟りなど存在しないと言って聞かせるくらいだ。人間関係の部分に関しては、部外者である崇文たちが立ち入ることはできない。
それに恵の望む通りに御霊抜きをしたとして、それで義理の家族との軋轢が解消するとも思えない。
「でも、稲荷の祟りは強烈だって言うもんね」
司がせんべいを食みながら、ぼんやりと呟いた。
稲荷の由来は、五穀豊穣の神とされている。
江戸時代に爆発的に信仰が広まり、多くの農家の敷地に祀られた。やがて地主や商家もそれを真似るようになり、いつしか商売繁盛の御利益もあると信じられるようになった。今でも、庭に稲荷を祀っている家は多い。
だがその一方で、手厚く敬わないと恐ろしい祟りを返すとも言われるようになった。稲荷信仰が口伝えで広まる中、インドの鬼神・ダーキニーの伝説が混同されたせいだ。ダーキニーは人肉を食らう恐神。白狐に跨り従えていたことから、稲荷の狐と結び付けられ、妙な形で混同されてしまったようだ。
「稲荷の祟りなんかない」
崇文はきっぱりと言い放った。
「車の事故なんて偶然だろうし、ここらじゃ空き巣も珍しくない」
車の事故に空き巣、どれも現実世界にありふれた話で、祟りだ呪いだと言うほどではない。車の事故が祟りによるものだと言うならば、世には祟りを受けた人間が何人いるというのだ。
「そうだけどさぁ」
司が新たなせんべいの袋に手を伸ばしながら、首を傾げた。さらりとした栗色の髪の毛が、頬にかかる。
「適当に処分されちゃったお稲荷さんが、怒ってんのかもよ。ゴミの日に出すなんて、さすがに」
「祟りなんかない!」
思いのほか大きな声が出て、司の肩がびくりと跳ねる。せんべいを取ろうと伸ばされた手が、テーブルの上で止まっている。――和やかだった居間の空気が一変した。
「……ごめん」
すぐに謝ったが、冷えた空気はそうすぐには戻らない。
司は無言のまま、気にしてないとでも言うように、口元だけで微笑んだ。
「こっちこそ、変なこと言ってごめん」
祟りなんてないよね、と、まるで宥めるような口調で言ってくる。
「ないよ。祟りなんか」
司に言って聞かせるように、自らに言い聞かせるように、崇文はその一言で話題を打ち切った。

