幾星霜の呪いの子 ―下町駆け込み寺の怪異譚―

「で、いくらくらい盗まれたの、お賽銭」
「平日だったから数千円。戻ってこないだろうって、佐々木に言われたよ」
 食器を拭いていた司が、手を止めてこちらを見た。
「佐々木くんが来てくれたんだ」
「……」
 声に弾んだものを感じて、思わず司の表情を探ってしまう。
 三峰家での夕食後である。母は入浴に、父はその介助で一緒に風呂場へ行っている。崇文は司と並んで流しに立ち、四人分の食器を片付けていた。
「――来たよ。佐々木に何か用でもあった?」
 内心の苛立ちを隠して訊くと、司はううん、と(かぶり)を振った。
「あの女子高生の事件、どうなってるのか聞きたかっただけ。興味本位でこういうこと訊くの、よくないってわかってはいるんだけど……」
 どうしても気になっちゃって、と恥ずかしそうに俯く。佐々木自身を心待ちにしていたのではないとわかり、崇文こそ自分の器の小ささに恥ずかしくなった。
 司が誰を好こうと、誰と付き合おうと、口出しする権利はない。それなのに時々こうして、司を取り巻く人間関係が気になってならない。
「母校の生徒だと思うと、どうしても気になるよね」
「……そうだな。佐々木に聞いたけど、あまり捜査に進展ないみたいだ。って言っても、俺たちに捜査状況を全部話しているとは思えないけど」
「早く見つかるといいね」
「ああ」
 もちろん元気な姿で見つかってほしいが、家族からしたらどんな姿であっても帰ってきてほしいだろう。ずっと行方知れずのままでは、子がどこかで助けを求めているのではないかと、親はきっと永遠に苦しむ。
「――本当に、早く見つかるといいな」
 できれば元気な姿で――。
 司の手から雫が落ちているのに気づき、崇文は肘で司をつついた。
「……司、司、ちゃんと拭いてくれ。水分が残ってるとグラスに拭きスジが残る」
 ふ、と我に返り、司が目を吊り上げた。
「細か。いいじゃん、ただの水なんだから。崇文こそもっとちゃんとスポンジで擦ってよ。これ、まだぬるついてる」
 洗ったばかりの皿を二枚ほどシンクに戻される。汚れそのものを気にする司と、仕上がりを重視する崇文とで、食後の片づけではしょっちゅうバトルになった。では皿洗いと食器拭きの役割を交代すれば解決かというと、今度は互いに「時間がかかり過ぎだ」と攻め合いになる。
 言い合っているうちに、司の表情に明るさが戻ってきた。
「行方不明の子も可哀そうだけどさ、同じ高校に通ってる子たちも不安だと思うんだ。友達が急にいなくなったこと自体もショックだし、自分も攫われるんじゃないかって怖いと思う。同じ学校の子たちだけじゃない。他校の子だって」
 司はそんなふうに考えていたのかと、純粋に驚く。自分は、行方不明の本人や家族のことばかりを心配していた。
 同じ学校に通う生徒たち。事件を聞いた、地域の高校生たち。司の言うように、不安を抱えて登校している者も多いだろう。
 早く事件が解決してほしい。心底そう思った。


「気をつけて帰れよ」
「うん」
 玄関で靴を履く司の後ろ姿を見ていると、すっかり大きくなった、などと父親じみた気分になった。
 ダウンジャケットを着た司の背中はしっかりと広く、後ろ姿だけを見ると、一見して女なのか男なのかわからない。中学まではクラスでも小柄なほうだった司だが、高校一年の夏休みで、一気に百七十cmまで背が伸びた。男子にしては平均的、女子にしてはかなり大きいほうだった。
「じゃあ、おやすみ」
 振り返る顔はまばゆい美貌なものだから、いつも脳が混乱してしまう。
(男だってこと、いまだに忘れかけるよ)
 祖母に連れられた司を初めて見たとき、すっかり女の子だと思い込んでいた。
 大きな瞳や、それを縁取る長い睫毛。兄や自分とはまったく違う、肌理の細かい白い頬。顔の造りが繊細で少女にしか見えなかった。
 母は毎日司に手製のワンピースを着せ、時間をかけて髪を梳いてやっていた。母はきっと、女の子が欲しかったのだ。我が家には男しかいないから、司がきてくれたことがよっぽど嬉しいのだと幼心に感じていた。
 司が我が家に来てひと月ほど経った頃、思いがけない形で司が男だと思い知らされた。
 母に頼まれ、司と一緒におつかいに出たときだ。商店街の、何度か父と一緒に訪れたことのある仏具屋で蝋燭を買うという簡単な買い物だった。
 仏具屋の主人は、子どもだけで買い物に来たことをたいそう褒めてくれ、お使いの商品のほかに、缶ジュースを一本ずつプレゼントしてくれた。
「ありがとうございます」
 礼の言葉を述べると、主人は蕩けそうなほど目尻を下げた。
「偉いなぁ。気を付けて帰るんだよ」
 当然、家に帰るまでの道中でジュースを空けた。暑い日だったので喉がカラカラだった。
 お使いは、食品のように傷む心配もなかったので、公園にも寄り道した。長栄寺と商店街との間に大きな滑り台のある公園があり、かねてより司を連れて行きたいと思っていたのだ。 
 ちょうど正午という時間帯のせいもあり、公園は人が少なく、存分に遊ぶことができた。
 夢中で遊んでいると、うっすらと尿意を感じ始めた。だが、遊びを中断するのが惜しい。まだ大丈夫、まだ大丈夫と誤魔化しているうちに、家まで我慢できないほどのっぴきならない状態になってしまった。場所を選んでいる余裕などなく、崇文は公園の奥のほうにある木の茂みに飛び込んだ。
 似たような状況だったのだろう、司が膝を擦り合わせる珍妙な走り方で後ろをついてきた。お互いに適当な茂みで済まそうと背を向けると、どうしてか司が、靴が触れ合うほどすぐそばに並び立った。
「?」
 もしや、まだ一人で用を足せないのだろうか? 女の子のトイレの手助けなどしたことがない。どうしようと焦っていると、司は立ったままスカートをたくし上げ、躊躇なくパンツを下ろした。
「⁉」
 後にも先にも、あれほど驚いたことはない。ひとは本当に驚くと声が出なくなるものだ。
「妹」だと思っていた存在は、「弟」だった。
「つ、司」
 視覚で「男」だと突きつけられ、脳が動きを停止した。これまでの司の可憐なイメージと、今見ている光景とがうまく結びつかず、呆然と立ち尽くすしかなかった。
 立ったまま用を足し終え、スカートを元に戻すと、司は「用を足さなくて大丈夫なのか?」とでも言うようにこちらを見上げてきた。大きな瞳とそれを縁取る長い睫毛。学校で見る女子の、誰よりも可愛らしい顔立ち。髪は少し伸びて、顎に届くくらいになっていた。
 限界だったはずの尿意はすっかり引っこんでいた。震える手で司の手を取り、飛ぶような勢いで家に帰った。
「お母さん!」
 玄関先で叫ぶと、母がすっ飛んできた。崇文のただならぬ様子に、状況を察したようだった。母は司を奥の部屋へ連れて行くと、玄関先で立ち尽くす崇文に一言「夜にお話しましょう」とだけ言った。
 何も手に着かないまま夜を迎え、司が寝入ってから、仏間で母と向かい合った。
「俺、俺、司のこと……ずっと女の子だと」
 すべてを言い終わらぬうちに、母が唇の前に人差し指を立てた。
 しぃー、と、密やかに息を吐く。
「――司は女の子よ。あなたの妹」
「え……、だって」
 なぜ女の子のふりをしているのか、囁くように母に尋ねた。
「そうしなければ、司は死んでしまうの」
 母は、神妙な顔つきで、とてもすぐには信じられない話を語り始めた――。