嘘と欲求

 天国から地獄へ落ちるのは一瞬だった。あれだけ垂涎していたいいねが、拡散が、今は翔真の命を奪うために撃ち込まれる弾丸のようで。集中砲火に震えが止まらなかった。
 顔の見えない人たちに四方八方から狙われる恐怖。不穏な煙が上がり始めてから数日経っても増え続ける数字。いらない。いらない。もういらない。叫んで願っても、一度ついた火は簡単には消えず、翔真を追い詰めるように燃え広がるばかりだった。
 伊織の犯罪者予備軍疑惑と翔真の盗撮写真疑惑がほぼ同時に浮上してから、刺激を求めるネット上の住民の餌食となり燃焼するのは早かった。
 バズが炎上に形を変え、翔真の上昇していた気分は急降下している。垂直に落下するジェットコースターに乗っているかのようだった。どこまでも落ちていき、いつまでも上昇する気配がない。
 家から一歩も出られず部屋に籠もり続ける翔真は、スマホ片手に縮こまっていた。何も手につけられない。何もできない。課題も、最近になって面白さに気づいた読書も。
 バズって調子に乗った勢いで買った文庫本は、机の上に放置したまま。翔真は緩慢な動作で手を伸ばし、本の表紙を開いた。開けば読む気になるかもしれない。暗転した心情から目を背けられるかもしれない。
 タイトルが目に入った。『殺』と見えて、ああ、と情けない声が漏れた。そうだ。買ったのは、伊織が面白いと言っていたシリアルキラー系の本だった。攻撃的な言葉が胸に突き刺さって抜けないでいる余裕のない精神状態では、この本を読むことはできそうにない。
 本に罪は全くないのに、タイトルの初っ端にある『殺』の字を視界に入れてしまったがために、勝手に精神的なダメージを受けてしまった。自分は顔のないのっぺらぼうみたいな誰かに殺されかけている。
 殺される。殺される。見えない誰かに殺される。殺されてしまう。情け容赦なく一方的に向けられる悪意は、得体の知れない化け物に迫られているかのように脅威そのものだった。
 虎視眈々と殺すタイミングを窺っている恐ろしい化け物の動向が、気になってしまった。炎に塗れ取り囲まれている今は、距離を取った方がいいと頭では理解しているのに、体が言うことを聞かなかった。
 自分の心に不利益を被るのは明白なのに、SNSを見るのをやめられない。ネットの世界から抜け出せない。背を向けて一目散に逃げられない。目を離したら、その隙に命を奪われてしまいそうな恐怖に苛まれる。敵と対面する方が、命を削られてしまうのに。分かっているのに。誰にも助けを求められない翔真は、たった一人で地獄に立ち向かってしまった。
【親友の盗撮写真まだですかー】
【此奴全然出てこなくね?】
【親友を盗撮するのあり得なくない? 普通にキモいんだけど】
【画像の男も、投稿してる奴も、どっちも犯罪者予備軍とか終わってる。類は友を呼ぶって本当なんだな】
【未来の殺人鬼と未来の盗撮魔は早目に駆除すべき】
【いくらイケメンでも、殺人欲求を持ってるってなるとちょっと無理かも】
【犯罪者予備軍は、本物の犯罪者にならないうちに自分で死んでください。自分で自分を始末してください。それが社会の平和のためです】
【ここ数日ずっと無反応だけど、もしかして、殺人欲のある頭のおかしい親友を一生懸命盗撮してる最中?】
【過去の投稿見てきた。親友のことばっかで普通に引いた。やたらイケメンイケメンって褒めちぎってるってことは、逆に考えればこのアカウントの中の奴はブサイクなんじゃね? だとしたら、ブサイクが盗撮してるってこと? 想像しただけで吐きそう】
【犯罪者は消えろ】
【あんまり煽ると殺人鬼と盗撮魔に進化した二人に襲われるかもしれないからやめなよー】
【もう猫を何匹か殺ってそうな目してんね。人にも既に手を出してたりして】
【殺人鬼と盗撮魔が一緒にいんの? 犯罪のオンパレードじゃん】
【お前ら二人はさっさと死んだ方がいいね】
【ヤバい奴の親友になれるのはヤバい奴だけなのが証明された】
【こんなイケメンと親友なの羨ましいなと最初は思ったけど、なんか殺人欲求秘めてる犯罪者予備軍っていう噂が流れてから羨ましくなくなった。カケルさん危なそう、となったけどこっちも盗撮魔の噂が。ここまで来るとどっちもどっちすぎて何とも言えない】
【猫が無事なのかだけでも知りたい。猫好きだから、もし殺してたら絶対に許さない】
【犯罪者予備軍なら、いつか誰かが犠牲になる前にどうにか処置した方が絶対にいいと思う。まずは病院かな。行ってらっしゃい】
【シンプルに死んでほしい。犯罪者になったらもっと死んでほしい】
【ストーカー気質かもね。無駄に親友親友繰り返して、必死にアピールしようとしてる感じ。そもそも親友っての嘘なんじゃないの? 外見的な情報ばかりで、あってもいいような具体的な会話の内容とか全然ないじゃん。勝手な想像だけど】
 息が乱れた。吐きそうになった。口を押さえた。手が震えていた。まだ疑惑だったはずのものが、否定も肯定もしていないのに確信に変わっている。伊織は殺人鬼にされ、翔真は盗撮魔にされている。死ぬことまで願われている。親友自体が嘘であることにも勘付かれている。
 いいねを貰うためだけに重ねてきた醜い嘘が、ここにきて翔真に牙を剥いた。自業自得だった。自分で蒔いた種だった。
 自分のせいで、ただの被害者である伊織までもが攻撃されている。犯罪者予備軍にされ、攻撃されている。事実かどうかも定かではないのに勝手に事実にされ、攻撃されている。
 きっかけを作ってしまったのは、紛れもなく翔真であった。翔真が盗撮画像を投稿さえしなければ、伊織の中学の同級生に見つかることも、仄暗い欲求について暴露されることもなかったはずなのだ。誹謗中傷される必要だってなかったはずなのだ。
 ひたすらいいねが欲しくて、そのために、顔の良い伊織を親友にして利用した。誰に頼まれたわけではない。自らが考え自らが始めた物語だった。
 明るい結末が思い描けない。どのように動けば挽回できるのか、軌道修正できるのか、数日前のバズの状態に戻せるのか、何も浮かばない。目の前が真っ暗で、何も見えない。呆然と立ち止まるしかない。
 どこにも進めない物語を強制終了させるには、暗闇の向こう側でこちらを罵倒している人間の言う通りに、死んだ方がいいのかもしれない。全員が、死ぬことを望んでいるのかもしれない。
 本当の親友などいない。味方は一人もいない。誰もいない。誰も助けてはくれない。一人で解決するしかない。一人で火を消すしかない。望み通りに死ぬしかない。死ねば終わる。全て終わる。何も持っていない自分を消せる。伊織を利用して嘘を吐き続けた自分を消せる。
 心が折れるのは簡単だった。思考が極端な方向へ導かれていくのも簡単だった。死ね。盗撮魔。死ね。ブサイク。死ね。ストーカー。死ね。死ね。死ね。一つ一つの言葉が凶器となって、翔真の心臓をグサグサと射抜いていく。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。幻聴が聞こえる。死ね。幻聴に傷つけられる。死ね。両耳を押さえても、声は脳に直接響く。死ね。死ね。死ね。犯罪者は死ね。死ね。死ね。死ね。
 心のどこかで、決して弱くはないと思っていた自身のメンタルが、本当は豆腐のように脆く壊れやすかったのを知った。メンタルの弱さに劣等感を抱き、それがまた翔真を苦しめた。
 無視してしまえばいいのに、できない。軽く受け流してしまえばいいのに、できない。やり過ごせない自分が、情けない。SNSに囚われ、いつでもどこでもどんな心境でも見ずにはいられない自分が、情けない。
【こんな異常性癖持った奴がいるから、罪のない人が殺される。胸糞悪い】
【誰かがストーカー説を指摘してた。確かにそうかも】
【死んでほしい。それが無理なら社会に出てこないでほしい】
【嘘か本当か分からないけど、火の無い所に煙は立たないから、疑ってかかるのは当然】
【この画像の男のこと知ってるって人いなかったっけ? どこ行ったの? 名前とか出しちゃえばいいのに】
【殺人欲求があるって痛すぎない? 中二病?】
【これ、特定班が動いてるらしい】
【いつか絶対人殺すだろ。見れば見るほど人殺しそうな目してるし】
【盗撮写真早く投稿してくださーい】
【反応なさすぎるけど、死んだのかな。もし死んでたら、犯罪者予備軍一人減るね】
【盗撮にストーカー? 親友を? おまけにその親友とやらには殺人欲求がある? ガチだったらマジで引く】
【今はまだ犯罪者とまではいってないかもだけど、将来的にそうなる可能性を考えたら、死ねってなるのも分かってしまう】
【親友なのも嘘説流れてる】
【写真が撮られた場所を特定した。多分ここ】
 冷たい風が喉を通り過ぎた。手の先から足の先まで、凍りついたように硬直した。特定、した。多分、ここ。途切れ途切れに、翔真を脅かす情報が脳内を駆け抜けていく。
 嫌でも目に入った、添付された画像。不安や恐怖が膨れ上がり、急激に上昇する心拍数。心ない言葉で吊し上げられ、死にたくなるほど苦しくなっていた翔真を更に追い詰める事象。
 画像には見覚えがあった。ありすぎた。ベンチの位置、遊具の位置、その他の情報。全てが記憶と重なった。ベンチの側で猫と戯れていた伊織の姿すら、載せられた画像で容易に想像できた。特定された。特定されてしまった。伊織の写真を撮った場所を。あの公園を。
 画面の中にいたはずの多数の敵が、液晶をぶち壊して飛び出してきたかのような錯覚に陥った。自分を殺しにくる人間が目と鼻の先にワープしてきたかのようにも感じ、翔真は怯えながら意味もなく息を潜めてしまった。家の住所が晒されたわけではないのに。一番危険なのは、写っている伊織の方なのに。
 呼吸が浅くなった。上手く息ができなくなった。このままガタガタと震え続けても、転機などやってこないのは自覚していた。恐ろしくても動かなければ、攻撃を防がなければ、あっという間に刺されて殺されるだけ。翔真に勝手に親友にされた被害者の伊織も、刺されて殺されるだけ。
 自業自得の翔真はともかく、道連れにされているに過ぎない伊織が殺されるのは絶対に違う。伊織に魔の手が触れる前に、手を打たなければならない。
 ネット上では特定班と呼ばれる何者かに公園を晒され、焦燥感と責任感が風船のように膨らんでいた。恐怖に飲み込まれ放置し続けていたら、伊織本人が特定される恐れがある。嫌がらせされる恐れがある。翔真の投稿のせいで。翔真が親友にしたせいで。
 追い詰められた伊織がとうとう自殺でもしたら、一生拭えない罪悪感でこちらも死んでしまう。伊織が死ぬ結末だけは、絶対に迎えたくない。迎えさせてはならない。
 焦燥感と責任感を内包した風船がパンパンに膨らみ、肩が揺れてしまうような音を発して破裂した。四方八方に散らばる目に見えない中身。全身に流れ込んでくるそれが、意気消沈していた翔真に少しの勇気を与え、奮い立たせた。
 一度は死んだ方がいいと思った。死ぬしかないと思った。死ねば物語を強制的に終わらせられると思った。でも、未だ、死ぬための行動を何一つ起こせていない。爆弾じみたスマホを手放せずに握り締め、回転椅子に膝を抱えて座ったまま。
 衝動的な自殺もできない。何もできない。嘘しか吐けない。人に迷惑をかける嘘しか吐けない。承認欲求を満たすための嘘しか吐けない。身勝手な嘘しか吐けない。その嘘も、暴かれようとしている。
 嘘であるのを他人から指摘されるくらいなら、自分から先に認めてしまった方が角は立たないのではないか。嘘を吐くのをやめ、正直に打ち明けるべきなのではないか。きっと、そうだ。それがいいはずだ。
 正直に話そう。話して、謝るのだ。嘘を吐いていたことを。盗撮したことを。犯した事柄を認めて謝るのだ。
 悪いのはこの物語を始めた自分である。自分だけが悪い。伊織は悪くない。伊織への誹謗中傷はやめてほしいとも伝えなければ。罵詈雑言は自分が全て受ける。とにかく伊織から意識を逸らさせる必要がある。
 正常な判断力を失っている翔真は、爆弾を慎重に解除するように恐る恐るスマホを扱った。小刻みに震える指先で、拙い文章を打ち込んでいく。
【炎上の件について。自分に関する憶測は、事実であることを認めます。親友ではない人を親友と嘘を吐き続け、眉目秀麗な彼を盗撮して載せることでいいねを得ようとしました。申し訳ありません。全ての責任は自分にあります。彼に非はありません。彼に対しての誹謗中傷はやめてください。お願いします】
 膝を抱えた状態で、投稿した。勢いを止められず、投稿してしまった。心臓が早鐘を打っていた。
 これで攻撃の矛先が自分だけに向けばいい。叶うのなら、鎮火してくれればいい。謝罪したから、もう終わりにしてほしい。反省もしているから、もう終わりにしてほしい。いつまでも叩かないでほしい。
 落とした投稿は、即座に拾われた。注目される前であればあり得なかった。今は、悪目立ちしている。秒で反応され、秒で返信や引用が届けられる。
 数字が増える。増える。増える。爆発的に増えていく。翔真が表に出てくるのを、今か今かと待ち構えていたのかもしれない。
 軋む扉を緩慢な動作で開けた瞬間、道を塞ぐように立っていた人々の熱気に囲まれていく感覚。誰も彼もが翔真を見下ろし、真正面から攻め立てようとする気配。危機が訪れるのを全力で訴えているかのように、一向に治まらない動悸。投げつけられる返信を拾い集めようと、すっかり冷えた指先を使命感に駆られるかの如く動かす翔真。
【やっと出てきたと思ったら謝罪って。謝れば済むと思ってんのかよ】
【嘘吐きストーカー野郎な上に将来の盗撮魔。終わってんね。人生終了じゃんお前】
【勝手に親友にされて、盗撮もされて、ネットにも載せられて、第三者からは性癖じみた秘密も晒されて。あのイケメンが不憫すぎる】
【承認欲求モンスターが暴れてる】
【キモいキモい、普通にキモい】
【お前みたいな犯罪者気質の奴、近くにいなくてよかった】
【全部そっちのせいなのに、なんか被害者ぶってるような文章で腹立つ】
【親友にした人を盗撮して晒したなら、責任取ってお前も顔出せよ】
【嘘の親友を作るくらいだから、友達一人もいない陰キャなの確定】
【彼に非はないとか言ってるけどさ、それは勝手に親友にしたり盗撮したりしたそっちから見た意見じゃない? そりゃ非はないよ。画像の人が炎上してるのは、異常な欲求を持ってる噂が浮上したからでしょ? そんな噂なんか立たない普通の人だったら、ここまで燃え広がってないよ】
【此奴そのうちマジの犯罪者になるでしょ。ストーカーとか】
【人として最低。早く死になよ。犯罪者予備軍】
【まだ生きてたんだ。もう死んだかと思った】
【自分に責任があるって自覚してるなら、死んで詫びるべきでは? 盗撮魔さん?】
【何か勘違いしてませんか? 今回の炎上は、二つが一つになって大きくなったんだと思いますよ。あなたの盗撮行為と、画像のイケメンさんの異常性癖疑惑。それぞれ発火のタイミングがほぼ同じだっただけで、火元は別々ではないですか?】
【承認欲求が暴走すると、親友まで作っちゃうようになるんだ】
【盗撮魔と殺人鬼の二人はさっさと死んで】
【ないだろうけど、私も誰かに親友にされてるのかもしれないって思うと結構怖い】
【なるほど、となった返信をしてる人がいた。火元が異なってるのなら、どんなにイケメンを庇っても意味なんてなくない? 殺人鬼予備軍だっけ? その噂が消えたことにはならないと思う】
【ずっと騙されてて可哀想だなって哀れに思ってたけど、そもそも親友なの嘘なんだな。よかったじゃん。親友になってなくて。これが本当だったら、いつか絶対殺されてたよ。まあ、承認欲求を満たすための自己中心的な行動が見つかっても、殺されるかもだけど。顔だけの雨宮伊織に】
 スマホという名の爆弾が、翔真の身体を木っ端微塵に粉砕するほどの威力を伴って爆発した。その強烈な映像が頭蓋に流れた。
 爆弾処理、失敗。切断してはいけない動線を、焦った翔真は自らの手で引きちぎってしまった。結果、自滅した。炎上に炎上を重ねてしまった。自分の首を絞め、助けるつもりだった伊織の首まで絞めてしまった。
 翔真の目論見は、大がつくほどの失敗に終わった。しっかりと考え抜いたようでいて、本当は思考停止状態だったと言わざるを得ない。
 謝罪してしまったがために、罪を認めたのだから遠慮なく叩いてもいい人、という認識に変わってしまったのを痛いくらいに実感していた。
 伊織をフォローしようとしたのに、何もできていない。寧ろ伊織を知っている例の人物の口から本名を引き出し、個人を特定しやすくしてしまった。
 考えるための脳味噌は、ぐちゃぐちゃに掻き回されていた。頭痛がした。吐き気がした。死にたくなった。泣きたくなった。翔真の行動全てが、伊織を追い詰めている。敵を近づけさせている。敵にヒントを与えてしまっている。
 写真を撮った場所を特定した人がいるように、伊織の詳細な個人情報を特定する人は間違いなく存在する。時間の問題だった。特定されたら、伊織に物理的な攻撃が施されてしまう。
 伊織は今、どこで何をしているのか。翔真が呼び寄せてしまった、ネット上の惨劇を把握しているのか。確認しようにも、連絡先は知らない。会いに行こうにも、家の住所も知らない。約束して会う術がない。話ができない。警告ができない。もしもの時の盾にもなれない。取りたい責任も取れない。知らない。できない。ただの無能でしかない。
 死にたくなった。泣きたくなった。吐きたくなった。ぐずぐずしている間にも、伊織の名前は拡散されていた。目に見えないところで、特定班が動き始めていた。
 雨宮伊織だって。調べろ。制服着てるし学校名とか分かるはず。調べろ。盗撮魔のカケルの本名と顔も判明する可能性ある。調べろ。調べろ調べろ調べろ。特定しろ。
 誰かを特定して晒す人だって、誰かを貶めて追い詰める人だって、漏れなく全員犯罪者予備軍だろうに、今この場では翔真と伊織だけが燃やして殺してもいい犯罪者にされている。自覚のない犯罪者集団が、自覚のないリンチをして、二人の人間を社会的に抹殺する。
 死ね。犯罪者。お前らに生きてる価値ないから。死ね。一刻でも早く死ね。今すぐ死ね。それができないなら、個人を特定して殺してやる。
 手にしていた爆弾を放り、翔真は堪らず部屋を飛び出しトイレへ駆け込んだ。嘔吐した。便器の蓋を開けるなり迫り上がってきたものを吐き出した。我慢できなかった。一度吐くと途中で止めるのは困難だった。
 豆腐のように脆いメンタルが、粉々に握り潰されている。人の心を食い物にして殺戮を繰り返してきた巨大な化け物が、着々と距離を縮めている。伊織を見つけ、翔真を見つけ、順番に殺そうとしている。首を絞め、胸を刺し、自身の娯楽のために殺そうとしている。無邪気に、無自覚に、鋭利な刃物を振り回して殺そうとしている。いつ殺されるか知れない状況で、平然としていられるはずもなかった。
 激しく嘔吐くと目の前が滲んだ。ぼやける視界の先には、便器に溜まっている水と混ざり合う吐瀉物。また不快感に襲われた。吐いた。時間差で、饐えた嫌な臭いまでも襲いかかってきた。吐いた。
 頭の中では声が響いていた。姿の見えない、男か女かも、子供か大人かも判断できない無機質な声が、翔真の身体を蝕んでいた。吐いた。聞こえる声が被害妄想によるものだとしても、被害妄想をしてしまうくらいには、自分を保つための精神は擦り切れていた。
 吐いた。吐いた。もう出るものはなかった。ないのに吐きそうだった。全身に打ち込まれた先の尖った言葉を、吐いて捨ててしまいたかった。
 嘔吐感が治まったところで、容赦なくへし折られ擦り潰されたメンタルは少しも回復しなかった。力なく床にへたり込む。トイレの床に座る行為に心理的な抵抗もないほど憔悴していた。便器からは悪臭がしている。弱々しく吐く息すらも臭っている。気にする余裕もなかった。
「あまみや……」
 吐瀉物の不快な味が残る舌が、無意識に動いた。か細く消え入りそうなその声は、助けを求めるようでもあり、許しを請うようでもあった。
 頼れるのは伊織しかいない。困った時に共に悩んでくれるような、あるいは手を貸してくれるような親友などではないのに。
 黒煙を上げて燃えているSNS上で、誰にも救われずに揃って火だるまになっているという共通の惨い事実だけで、自分には伊織しかいないと思った。伊織だけだった。