嘘と欲求

 朝起きたらまず、スマホを触る。SNSを開く。数字を見て、落胆する。スクリーンショットを眺めているみたいにプラスマイナスゼロの画面を見て、溜息を落とす。不平不満をぶちまけてしまいそうになるのを堪え、スマホを伏せる。水気を含んだ黒い靄が勢いよく落下する。身体が重くなる。動けなくなる。何もできなくなる。何もする気にならなくなる。
 目を閉じる。微睡む。二度寝する。起きる。スマホを触る。溜息を吐く。怠くなる。弱い。嫌い。朝は。毎日毎日毎日。スマホを見ては、暗くなる。やめればいいのに、やめられない。確認せずにはいられない。
 いつものように目が覚めた。思考するよりも行動するのが先だった。枕元に置いていたスマホを手にした。息をするようにSNSを開いた。癖になっている悪い習慣だった。
 どうせ何も変わっていない。見ても暗くなるだけ。また焦りと苛立ちが募るだけ。諦めの気持ちが大部分を占めているのに、もしかしたら、という期待が根強く残っていた。厄介な感情だった。期待なんかしなければ、結果を見る度に一喜一憂しないだろうに。
 ベッドの上で寝転がったまま、惰性で開いたSNSを見た。瞬間、翔真は目をカッと見開いて飛び起きた。なだらかに鼓動していた心臓が、喧しい音を立て始める。体温が急激に上昇する。汗が吹き出しそうになる。息が乱れる。スマホの画面から目が離せなくなる。
 瞬きするのも忘れてしまうほどの衝撃を前に、翔真は今が夢か現実か区別がつけられなくなった。
 目覚めたはずなのに、本当はまだ眠っているのではないかと、ぱちぱちと目を瞬かせる。自分に都合良くできている夢を見ているのではないかと、ごしごしと目を擦る。見ているものは遠くならず、儚く消えてなくなる気配もない。また瞬きをして擦る。消えない。瞬きをして擦る。消えない。
 意味があるのかどうかも分からない動作を馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返しているうちに、翔真は徐々に現実感を取り戻していった。
 SNSには、見たこともない数の通知が届いていた。タップすると、見たこともないアイコンがずらりと並んでいた。一つの投稿にいいねが集中していた。拡散されていた。返信も引用もされていた。何がどうなっているのか頭の整理が追いつかなかったが、これだけは理解できた。
 バズっている。翔真のした投稿が、バズっている。爆発的に伸びている。注目を浴びているのは、本命だった伊織と猫の投稿だ。伸びないのはおかしいと燻っていたものに、どこかの誰かによって光を当てられ、結果、翔真が妄想しまくった展開となっていた。
 寝る前までは凍ったように静止していた投稿だったのに、寝ている間に熱を与えられ、気づけば溶解していた。寝て起きたら、世界がひっくり返っていたかのようだった。自分だけが、ひっくり返る前の世界に取り残されているかのようだった。
 呆然と眺めている間にも、通知は届き続ける。いいね。拡散。返信。いいね。拡散。返信。いいね。拡散。返信。いいね。拡散。引用。いいね。拡散。引用。いいね。拡散。引用。いいね。拡散。いいね。拡散。いいね。拡散。いいね。いいね。いいね。
 止まらない通知。人生で初めての経験。いいね。いいね。いいね。大量のいいねが、求めていたいいねが、次から次へと自分の手元に届いている。いいね。いいね。いいね。いいね。いいね。止まらない止まらない止まらない。
 とてつもなく大きな感情が雪崩れ込んできた。口元が緩む。無敵な気分になる。何かが足りなくて空いていた穴が一気に埋まっていく心地良さを感じる。快感に近かった。あまりの多幸感に指先が震えた。
 いいね。いいね。いいね。いいね。いいね。止まらない。翔真の興奮も、止まらない。うちに秘めていた醜い承認欲求が、みるみるうちに満たされていく。気持ち良さに溺れてしまいそうになりながら、翔真はいくつも届いている返信と引用に目を向ける。
【顔が良すぎる。ガチでかっこいい】
【イケメンと猫の組み合わせほど至高なものはない】
【猫の画像とか動画とかを漁ってたらイケメン釣れたんだけど】
【芸能界にいても良さそうな人じゃない? 一般人として置いておくのはもったいない気がする】
【おすすめ欄にめちゃくちゃ見た目がド好みの人流れてきたんだけどやばすぎる。猫とセットなのも天才】
【こんなイケメンが親友とか羨ましい。きっとカケルさんもイケメンなんだろうな】
【この画像のイケメンは一体どこの誰ですか?】
【普通にかっこいい。女子にモテるだろうね】
【クラスにこれだけ顔の良い人がいたら毎日ドキドキして心臓持たなそう】
【顔から何から完璧すぎるとこっちが死にたくなるから、どこか擁護しきれない欠陥があってほしい】
【かっこよすぎだし、物凄く見つけちゃった感】
 伊織に対して好印象を抱いている人ばかりだった。やはり自分の美的感覚は狂ってなどいないのだ。高揚感が胸に広がっていく。伊織はイケメン。親友はイケメン。伊織はかっこいい。親友はかっこいい。
 翔真は人知れず鼻高々になった。伊織を親友にしてよかった。伊織でなければ、これだけ大量のいいねを貰えなかった。伊織がいる限り、また伸びる可能性は大いにある。伊織は間違いなくイケメンなのだから。ネット上で多くの人に認められたイケメンなのだから。
 現在進行形でいいねが増える度に、日頃溜まっていた不平不満が払拭されていく。全てはこの時を迎えるための苦難だったのではないかとすら思えた。何を呟いても反応がなく思い悩んでいた日々が、今まさに糧として消化されている感覚だ。
 毎日暗くなりがちな朝が、今日ばかりは異様に明るかった。最高の気分である。今なら何でもできそうである。後回しにしている面倒な課題すら余裕で始末できそうである。課題をしている間にまだいいねが増えている可能性を想像したら、自然と気持ちが昂ってしまった。
 翔真は貰ったコメントを見るだけ見て、リアクションはせずにスマホを閉じた。衝動のままに返信してしまったら、調子に乗った言葉だらけになってしまう。ここは下手に反応しない方がいい。バズっているのにまだ気づいていない体でいる方がいい。
 知らない間にとんでもないことになっている、などと呟くのはもう少し後だ。もう少し冷静さを取り戻してからだ。熱が冷めない今は、何を呟くにしても、アカウント名のカケルではない、その中の人である翔真の感情が入りすぎてしまう。
 一旦スマホから意識を逸らすと、思い出したように尿意を催した。バズったことで絶好調になっている翔真は、横着せずに素直にベッドから降りる。雑多な机の上に、多くのいいねを保管しているスマホをそっと置く。
 用を足し、すっきりして戻ってくると、翔真は適当な私服に着替えて回転椅子に腰を下ろした。にやにやと薄笑いを浮かべながらも、気持ち良く課題を開始しようと教科書とノートを広げる。数学ではなく英語である。本文を写して訳す課題である。数学は放置しているが、現在のテンションであればそれもできてしまいそうだ。
 胸の高鳴りが治まらないほどにハッピーだった。にやにやからにちゃにちゃに変わってしまいそうだった。人には見せられない気持ちの悪い顔で笑ってしまいそうだった。にやにやもにちゃにちゃも、止まらなかった。
 表情が緩みすぎてしまうのを気にした翔真は、ギュッと口を閉じて我慢した。すぐに唇が震え始める。口角が持ち上がりそうになる。歯が見えそうになる。顔に出やすい翔真にとって、溢れて止まらない嬉しさを胸中だけに留めておくのは至難の業だった。
 滝のように流れる感情を目の前の課題にぶつけて発散させようと、翔真は伊織と揃いのはずのシャーペンを引っ掴んだ。カチカチと芯を出し、ノートに教科書の英文を書き写していく。バズっているのを思い出しては頬が緩みそうになる。課題の内容は頭に入ってこなかった。
 機械的に英文を写し続け、キリのいいところで手を止めた。さて、いいねはどうなっているだろう。翔真は胸を弾ませながらSNSを確認する。数字は大幅に増えている。天にも昇るような気持ちに全身が熱くなる。まだまだ伸びそうだ。伊織の効果は絶大だ。
 悦に入る翔真は自身の過去の投稿を眺めた。伊織と猫の画像以外にもちらほらといいねが届いていた。特に、最近落とした小説に関する投稿に多く集まっている。読書初心者の下手な感想であっても肯定されている。読書家の人たちに歓迎されている。温かな波が胸に迫った。
 勧められた本は、無事に最後まで読み切っていた。伊織の言った通り、慣れていなくても読みやすく、また面白い本だった。他にも楽しく読めてしまえる本があるのかもしれないと思うと、偶然を装って伊織に会う目的以外で書店に寄ってみたくなった。
 だったら、と翔真は一人頷く。だったら、行くしかないのではないか。近々書店に寄るつもりではあった。その近々が、きっと今日だ。普段よりも腰は軽い。足も軽い。気力もある。ここはもう行くしかない。翔真はスマホと財布を持って家を飛び出した。
 時折、SNSを覗いた。ふわふわと空高く飛んでいきそうになった。心なしか、雲が近い。手を伸ばせば届いてしまうかもしれない。自分は空を飛んでいるのかもしれない。
 浮かび上がって有頂天になっている翔真はにやにやしてしまった。誰も自分が、SNSでバズっている投稿の中の人だとは思うまい。イケメンの親友を持っている人だとも思うまい。
 親友ではないのに親友だと嘘を吐いている罪悪感はなくなっていた。満たされていく承認欲求が、罪の意識を掻き消していた。伊織を親友にしたことも、伊織を盗撮したことも、全ては大量のいいねを獲得するため。伊織はイケメンなのだから。イケメンでなければ、わざわざ伊織を親友に選びなどしなかった。
 ネット上に解き放った伊織の顔面のおかげで釣れた、数え切れないほどのいいね。それをしっかり閉じ込めたスマホを握り締め、翔真はスキップしてしまいそうなくらい軽い足取りで書店の自動ドアを潜った。
 まっすぐ文庫売り場を目指し、伊織を観察していた時には眼中になかった商品を凝視する。正面に平積みされた本は、新刊やベストセラー、書店独自のランキングに載っている作品、映画化作品など、売れ筋が中心だった。『成瀬は天下を取りにいく』も積み重なっていた。
 同じ本が家にあるのに思わず手に取った翔真は、パラパラとページを捲った。何気なく文章を読むと、前後の展開が頭の中に流れてきた。翔真は安堵する。自分は間違いなく一冊の小説を読めたのだと実感する。
 本を戻し、再び様々な色合いの表紙を眺めた。黒目が一周する。ありすぎて、何から手をつければいいのか迷ってしまった。ひとまず目についたものを取ってみたが、タイトルもあらすじもあまり胸に響かない。
 今の自分が求めているのはこれではないのだろう。初心者のくせしてまるで上級者のような目線で分析する翔真は、触れたばかりの本を静かに戻した。
 その後も目が合った本を見ては、何様のつもりなのだろう、上から目線で毒を吐いて選別し続けた。違う。これではない。求めていない。興味が湧かない。読んでみたいとまでは思わない。
 違う、違う、と分かっているかのように本を見ているが、見ているだけで、実際は何も分かっていなかった。面白そうなのかどうなのかも。自分が何を読みたいのかも。
 たった一冊読み切っただけの翔真には、本を選ぶ基準が確立していない。いろいろ読んで好きなジャンルを見つけるのが手っ取り早い方法なのかもしれないが、懐事情もあり、何でもかんでもは買えなかった。
 読書家の伊織は、何を基準に選んでいるのだろう。これだけ大量の本がある中、どのようにして、読んでみたい一冊を見つけているのだろう。知りたくなったが、聞けなかった。伊織はいない。いても自分から話しかけるのは容易ではない。SNSの投稿が伸びていることによるテンションの高さを持ってしても、伊織には負けてしまう。
 気になる本が見つからず、だんだん自分が何を求めているのかも分からなくなってきた。意気揚々と買うつもりで来たが、この調子では何も買えない。
 文字の情報量が多く、キャパを超えつつあるのを感じていた。あらすじを読んでも頭に入ってこない。本の中身が徐々に暗号化されているように見える。読めない自分にあっという間に戻っているかのようだった。少し疲れているようだ。選ぶだけなのに疲れてしまうようだ。
 翔真は暫し本から意識を逸らそうとスマホを見ることにした。本に関して調べているふりをして、当たり前のようにSNSを開く。いいねの数を見て、エネルギーを補給する。にやついた顔をした仮面がぴたりと貼り付いてしまう。元気になった。また何でもできそうなふわふわした気分になった。いいね。いいね。いいね。ハッピー。
 高揚する翔真の全身を、快感が駆け巡っていく。SNS上のいいねは、一度でも使うとやめられなくなる麻薬のようだった。貰えなければ気分が下がり、貰えば気分が上がる。いいね一つで、翔真の情緒は左右される。
 かっこいい。イケメン。顔良すぎ。親友にしている伊織を褒めちぎるコメントに調子が乗る翔真は、良い気持ちでスマホを閉じ、改めて本選びを再開した。カケルとしての投稿は、まだしなかった。
 正面の売り場に気になる本はなさそうだ。翔真は通路の方へ移動した。作家順にずらりと並んでいる棚を見て、一冊のタイトルが頭の片隅に浮かんだ。探す。すぐに見つかる。指先で触れる。手にする。妙にしっくりとくる。他のどの本を触っても、心には嵌まらなかったのに。
 記憶に残っている本を見下ろす。違うとは思わない。もしかしたら、これなのかもしれない。翔真が求めている本は。
 伊織から、初心者にはハードルが高いと言われたが、読んだ本人は面白いと言っていた小説。伊織が読んだ小説。十分買う理由になる。伊織が言っているのだから。信頼している親友が言っているのだから。間違いないはずだ。
 これをどうにか最後まで読み切れば、伊織が見た世界を自分の目でも見られる。間接的に伊織と繋がれる。伊織の趣味嗜好といった欲しい情報を得られる。
 自分が読みたいかどうか、読めるかどうかが二の次になっている翔真は、棚から抜いた本をそのまま持ち歩いた。購入する本の第一候補である。
 他にも何か、ぴったり嵌まるものがあれば候補にしようと、目に留まった本を積極的に手に取ってみるが、どれにも心のセンサーは反応しなかった。漏れなく棚に戻っていく。
 結局、最終候補は一冊のみで、数冊の中から一冊を選別する必要もなく決定だった。伊織が面白いと言った『殺戮にいたる病』を購入する。読めばきっと、伊織と同じ土俵に立てるはずだ。
 商品を持ってレジへ行き、今回もカバーをお願いして会計を済ませた。本と貴重品を抱え、書店を後にする。
 次はどこへ行こうか。もう帰ろうか。翔真は駐車場を出てから分岐している道を順に見た。大人しく帰宅しようか。もしくは、公園にでも行ってみようか。バズっている写真を撮った公園へ。
 駐車場の出入り口の隅っこで唸る翔真は、一台の車が入ってくるのを目にした。このまま答えが出るまで突っ立っているのも変に見られると思い、スマホを触ってカモフラージュする。
 癖でSNSを開くと、悩んでいた行き先の選択肢が一瞬で吹き飛んだ。翔真は考えるのをやめ、画面にのめり込む。数字は安定して伸びている。
 ほくほくしながらスクロールした。ハイになった。いいねやコメントを吸って、ハイになった。吸って、ハイになった。吸って。吸って。吸って。吸っ──
 異物が、紛れ込んだ。息が止まった。指が止まった。電池が切れたようにピタッと止まった。興奮していたところに冷水を浴びせられた感覚。
 全身が硬直する中、目だけが平然と動き回る。画面に映っている文章を読み進める。心地良い音を鳴らしていた心臓が、不吉な音を奏で始める。
【この画像の男、中学の時の同級生だ。何も知らない人たちのために教えてあげるけど、此奴、殺人欲求を持ってるヤバい奴だよ。顔が良いだけの犯罪者予備軍だから。騙されるな】
 殺人欲求。ヤバい奴。顔が良いだけ。犯罪者予備軍。騙されるな。予想外の言葉の数々に連続で殴られ、あっという間に思考がフリーズする。
 好評の中に潜んでいた悪評が浮き彫りになると、そればかり目につくようになった。真っ白な用紙に付着した決して取れない汚れを発見してから、その部分を執拗に気にしてしまうみたいに。
 伊織を貶める攻撃的な発言が、頭にこびりついて離れなくなる。伊織を絶賛する言葉を補給しても、マイナスはプラスにならない。へばりついた汚れは取れない。
 嘘だ。こんなのは嘘だ。嘘に決まっている。文字だけでは信憑性のない話だ。伊織の顔の良さに嫉妬している人物のやっかみに違いない。バズっている伊織を故意に下げて、良い意味でも悪い意味でも注目を浴びようとしているに違いない。
 気にする必要などない。信じる人もいるはずがない。みんなかっこいいと言っている。たった一つの後ろ向きな意見で、手のひらを返すはずがない。
 この引用は埋もれる。誰の目にも届かない。誰も気に留めない。誰も気づいていない。誰か見ている人なんて。いいね数を見遣って、スマホを取り落としそうになるくらい仰天した。
 引用が伸びている。拡散されている。返信もされている。それが肯定的な意見なのか、否定的な意見なのか。数字だけでは判別がつかない。
 翔真は小刻みに震える指先を画面に近づけた。きっと後者の意味だ。多くの人がこちらの味方をしてくれているはずだ。そう願いながら、引用の返信欄を覗いた。
【ガチ? 犯罪者予備軍?】
【もし本当だったらかなり印象変わるんだけど】
【信じていいのこれ】
【つまり人を殺してみたいってこと?】
【犯罪者予備軍って言われたら、なんかそう見えてきたわ】
【殺人鬼は人を殺す前に猫を殺すことがあるんだって。猫写ってるし、これは繋がったね】
【証拠がないから信用できない】
【言われてよく見てみたら、目が据わってるように見えない? 後で猫殺すつもりでいるとか?】
【顔良すぎでムカつくから、それくらいの欠点があった方がちょうどいいかもな】
【同級生なら、名前とかどこの学校に通ってるとか分かるよね?】
【映ってる猫は生きてるんだろうか】
【この人の言ってることって本当? なんか確定みたいな雰囲気だけど】
 雲行きが怪しくなっていた。流れが悪い方へ進んでいると言わざるを得なかった。全身の熱が徐々に冷めていく。夏なのに寒いくらい体温が下がっているようで、翔真は思わず自分を掻き抱いた。
 大丈夫、大丈夫、決して大事にはならない。いずれ静かになる。いずれ多くの人の興味は他へ逸れていく。時間が解決してくれる。そう言い聞かせても、突然の嵐に見舞われそうな嫌な予感は拭えなかった。
 余裕ぶって何も備えていなかったために、先の未来が訪れるのが途端に恐ろしくなった。伊織の中学の同級生だと自称する人物の言葉が、確実に嘘だと言い切れるほど、翔真は伊織の内面を知らない。
 伊織が殺人欲求を持っているなど嘘だと思う。嘘であってほしい。絶対、嘘だ。でも、もし、事実だったら。翔真はごくりと唾を飲んだ。
 自分は、周りからヤバい奴だと、犯罪者予備軍だと形容される人物を親友に選び、文字通り、親友だとネット上に公表し続けた。犯罪者予備軍と言われるほどにヤバい奴と親友である奴もヤバい奴だと顔を歪められる。
 親友が殺人欲求を持っていると知らなかったとしても、一緒にいて気づかないとか鈍感すぎる、人を見る目がなさすぎる、などと、安全圏にいる外野から好き放題言われ、普通ではない異常者の烙印を押されてしまうだろう。
 今はまだ伊織に大勢の意識が向いているが、いつ、誰が、どのような形で、伊織を親友にしている翔真の存在に気づくか分からない。いつ表に引き摺り出されるか分からない。伊織の背後にいつまでも隠れてはいられない。
 伊織を犯罪者予備軍と称する引用は伸び続けている。広まっている。白が黒に侵食されていく。天地がひっくり返ったように、数分前とは全く異なる世界が展開されている。
 あまりの落差に翔真は冷静さを失いかけていた。伊織に対する誹謗中傷の一歩手前の言葉ばかりが脳内を支配し始めている。
 否定的な意見そのものの母数は少ないはずなのに、一つ一つが大きく存在しているように見える。少し組み合わさるだけで、みるみるうちに闇が巨大になっていく。
 自身に取り巻いている悪い空気をどうにか払拭したい翔真は、食い入るように前向きな返信と引用を探した。良い意見だけ読んで、読んで、読んでも、気休めにしかならない。根本的な解決にはならない。
 見るのをやめた方がいい。一回離れた方がいい。もう一人の自分が制止を求めているが、指は画面を走り続ける。摩擦。摩擦。摩擦。バチッと、火花が散る。
【この画像ってさ、普通に盗撮写真じゃない?】
 指先が、画面から離れた。心臓が、不快な音を立てた。脳内が、最悪な未来を映し出した。大勢が、翔真と伊織を炙ろうとしていた。今にも燃え上がらんばかりの火の中へ、二人まとめて叩き落とされた。奈落の底は、真っ赤だった。