【読書が好きな親友が勧めてくれた小説。読みやすいと思うと言われたけど、本に親しんでない俺でも読めるのか少し不安】
【親友との帰り道の途中で、人懐っこい猫に出会した。イケメンと猫の画はかなり良すぎた】
嘘と真実を混ぜた画像付きの二つの投稿には、ぽつぽつといいねが届いていた。久しぶりに貰ったいいねである。気を抜けば口元が緩んでしまうほど翔真は歓喜した。嘘を吐いている罪悪感は日に日に薄れていっていた。
やはり、画像を載せると見てもらいやすい。もしかしたらこのままいいねが増え続けるかもしれない。安直な妄想が脳内を駆け巡るが、現実は煌びやかなものではなかった。
小指にも満たない小さなアカウント。なかなか大勢には見つけてもらえない。伊織にもスポットライトが当たっている様子はない。伊織は決して、片手で数えられるくらいのいいねで済む容姿ではなかった。
足りない。足りない。全然、足りない。伊織の顔は、親友の顔は、その程度などではない。親友はイケメンだと常日頃から呟いている身としては、イケメンだとちやほやされなければ納得できない。埋もれてしまっては、翔真の、ネット上の人たちにとってはカケルの、美的感覚が狂っていると思われる。見る目がないと思われる。伊織はイケメンだ。確実にイケメンだ。だから、親友にしたのだ。顔の良い親友がいる。それだけで、ステータスになるのだ。
投稿後の初動は良くなかったとしても、数日後にいきなり人目に浮上するパターンがないわけではなかった。不満を覚えても、ここは気長に待つ他ない。必ず伊織が、伊織と猫が、大量のいいねを引き寄せてくれるはずだ。
学校は夏休みに突入していた。予定のない翔真は家で、とりわけ自室でだらだらしてばかりいる。伊織の家を知っていれば散歩を装って見に行けたが、残念ながら写真を撮った公園までの情報しかない。その先に続く道は途絶えている。どこまで歩いてどこで曲がり、どこの家がそうなのか分からない。
道中にある適当な家の門を叩いて尋ねる方法も思案してみたが、翔真はコミュニケーション能力が低いが故の無口な人種であった。人と話すのが下手なわけではない伊織の口数の少なさとは訳が違うのである。
他人の家のインターフォンを鳴らす。出てきた人に身分を打ち明け、人を探している旨を伝える。やることを箇条書きにするのは簡単だが、実行するとなると何倍にもレベルが上がる。
クリアできる気がしない。不審者扱いされて終了する未来が見えた。勘の良い人であれば、翔真の言動から奇怪さを感じ取るだろう。此奴は怪しい、探している人に近づけさせてはならないと、自己満足な正義感を振り翳して警察に通報するかもしれない。
いくら計画を企てても、良くない噂が立てられそうな悪い展開ばかり浮かんでしまう。元々あるわけでもない自信がどんどん消失していく。見知らぬ誰かに尋ねる方法は即座に却下した。探すのなら、自力で探すしかない。
伊織に会えそうな場所の第一候補は、間違いなく書店だ。次いで、伊織の帰り道の途中にあった公園。そこに住み着いている可能性のある猫を、また触りに来るかもしれない。待ち伏せして姿を見るだけでなく、新たな写真も撮れたら万々歳だ。
近いうちに書店か公園に寄ってみるかと結論を出した翔真は、自室の回転椅子に座ったまま大きく伸びをした。一仕事を終えたみたいな気分だった。方針は決まった。後は向かった先で伊織に会えるのを願うしかない。
翔真は椅子を軋ませて座り直した。思考の渦の中から抜け出すと、机に置くだけ置いている課題の山が現実を突きつけてくる。やらなければならない。
一つを適当に引っ掴み、雑に広げた。ホッチキスで留められた数学のプリント。一枚捲った。裏にも問題があった。確認したのはこれが初めてではなかった。何度見ても問題はなくならない。なくなるはずもない。
翔真は無気力な動作で二枚目を捲った。面倒臭かった。課題というものはなぜこんなにも面倒臭いのか。問題を解く気になるスイッチが硬い上に重く、力を込めても動いてくれない。
プリントを最後まで捲り終え、最初に帰ってきた。捲るだけで全ての解答欄が埋まっているようなマジックなど起きるはずもなく、綺麗に全て空欄のまま。スイッチは動かない。
溜息を吐いた。どうにも意欲が芽生えない。プリントから離れた手がスマホを触ろうとしている。気づいた翔真は咄嗟に手を引っ込めた。見ても何も変わっていない。いいねも何も増えていない。最後に見てからそれほど時間は経っていないのだから。
スマホを触りたくなる衝動を手を握って抑え込み、広げたプリントを睨みつけた。一問目に的を絞る。意外と解けそうな計算問題だった。やる気ゼロだったが、小数点以下くらいの微々たる変動が心に表れた気がした。
まずは一問解くか。低すぎる目標を掲げた翔真は、スマホを見ないように意識しながらガチャガチャと筆箱を弄る。とにかくシャーペンを握らなければ話にならない。
引っ張り出したシャーペンは、書店で購入したものだった。伊織と揃いであるはずのシャーペン。伊織というきっかけがなければ、絶対に買わなかったであろうシャーペン。
翔真はカチカチと芯を出し、いつでも文字が書ける体勢で目の前の問題と向き合った。勉強する意識を懸命に高めていく。一問二問と解いていけば、頭から伊織のこともスマホのことも抜けていくはずである。
翔真は集中して課題に取り組んだ。迷わずにすらすら解ける問題ばかりではなかった。頭を抱えつつも解を出す。一枚目裏側の最後の問題まで始末する。
堪らず吐息を漏らした。一枚分を終わらせるのに随分と時間がかかってしまった。成績優秀な伊織だったら、翔真が呻き声を上げている間に二、三枚は進んでいるのではないか。
シャーペンを置いた。グッと伸びをした。課題は少しだけ進んだ。ペースはゆっくりだ。
欠伸が漏れた。自室のため、我慢などしない。大口を開けて閉じた翔真はふと、対峙した数学以外の科目のことを考えてしまった。気が滅入った。数学以外まだ何も手につけていないわけではないが、どれもこれも表面を軽くなぞっただけのちまちました進み具合である。
倒した課題を掻き合わせても、全体の一割も行っていない。本当に少ししか進んでいない。先は長い。長すぎる。それでもまだ、一ヶ月はある。経験上あっという間に過ぎるのは知っているのに、毎年のように現実逃避をする翔真は、相も変わらず愚かな人間だった。
早くも休憩と称して、何の我慢もせずにスマホを手に取った。ちょっとだけだ。ちょっと触るだけ。ちょっと触ったらすぐにやめる。勉強を再開する。そう思うだけで、できたことなどないのに。その意思が、欲求に勝ったことなどないのに。結局いつも、勉強よりも遥かに長い時間、スマホの画面を見続けてしまっているのに。
スマホを、とりわけSNSを、気にしすぎだと分かってはいる。だが、定期的に見なければ落ち着かなかった。一つでも数字が増えているかもしれない可能性を捨てきれない。確率的には低いのに、決してゼロではないせいで、一縷の望みに賭けてしまう。全ての投稿のいいね数に変動がないのを見て、どろどろとした黒い感情が湧き上がることの方が多いのに、やめられない。
いいねが欲しい。とにかく欲しい。それで、足りない何かを埋められるはずなのだ。満たされるはずなのだ。そうでなければ、嘘を吐いてまで伊織を親友にした意味がなくなる。
期待するな。期待するな。言い聞かせている時点で期待していることには目を背けて、翔真はSNSを開いた。何の変哲もない見慣れた画面が広がる。通知欄が視界に入る。変わり映えがない。
肩の力が抜ける。鼻から息が漏れる。いつものことだ。自分が何を投稿したって、誰の心にも届かない。響かない。ちっぽけな存在がいくら声を大にして叫んだって、誰の耳にも聞こえない。
片手で数えられる程度の反応を貰っても、毎日どこかで誰かの投稿が反響を呼んでいるネット上の世界では、あまりにもゼロに等しい。いいねを貰って気分が上がったとしても、それは薬を服用したみたいに一時的に感じる高揚で、効果が切れればどうにもできない現実を突きつけられる。
でも、と翔真は思う。でも、違う。伊織を写した画像は違う。文字だけの投稿で、また、翔真自身に関する投稿であれば、変化がないのは仕方がないと言えなくもないが、イケメンとして写した伊織の画像は違う。違うのだ。
絶対に、低空飛行などしてはいけない。絶対に、伸びないといけない。伊織はイケメンなのだから。イケメンは伸びると相場が決まっているのだから。伸びないのはおかしい。どこからどう見ても伊織はイケメンなのに。おかしい。おかしい。こんなのおかしい。絶対におかしい。
まだ世間に見つかっていないのだと気長に待つつもりでいながら、数字が増加していない現状を目の前にすると、八つ当たりのような不満が溢れてしまった。蓋をして押さえ込もうとしても、ぐつぐつと煮立つ焦りと苛立ちが隙間から堂々と顔を出す。
どうして。どうして。どうして。伊織はこんなにもイケメンなのに。どうして。どうして伸びない。いいねが増えない。
翔真は感情のままに画面に指を滑らせた。スマホを触るのはちょっとだけの予定でいたが、守れたことなどない通り、ちょっとだけになりそうになかった。指は止まらなかった。画面にのめり込むように動かした。
【伊織の画像が全然伸びない伸びると思ったのに何でおかしい普通にイケメンなのにおかしい伊織が埋もれるわけない埋もれちゃいけない誰でもいいからもっと反応してほしいイケメンだとかかっこいいだとか言ってほしい伊織はイケメンなのに親友はイケメンなのに俺にはイケメンな親友がいるのにこのまま多くの人の目に触れないまま消えていくなんて考えられない伸びろ伸びろ伸びろ伊織はこんなところで燻ってちゃいけない伸びろ伸びろ伸びろ伊織はどう考えてもめちゃくちゃイケメンで俺はそんな伊織の親友でもっと羨ましがってくれたらいいのにこんなイケメンと親友なんて羨ましいとか何でもいいからもっともっといいねが欲しい伊織にはもっといいねがつかないといけない納得できない伊織のかっこよさといいねの数が全く釣り合ってないあり得ないおかしいおかしいおかしいおかしい絶対おかしい】
醜い真情を吐露した勢いのまま投稿を押した。スマホは無反応だった。もう一度押した。無反応だった。画面を見ていながらどこも見ていなかった目が不意に正気に戻った。
字数制限を大幅にオーバーしている。オーバー分の文字の背景が赤くなっている。危険信号の赤だった。画面は文字だらけだった。句読点のない非常に読みにくい文章だった。まるで呪文のようだった。
気づかぬうちに狭まっていた視野が徐々に開けていく。翔真は顔を上げる。意味もなく天井を見つめる。心を落ち着かせるように目を閉じる。
全身が熱くなっていた。真っ黒な感情に飲み込まれそうになっていた。数回深呼吸を繰り返す。ゆっくりと瞼を持ち上げ、スマホを見下ろす。投稿する文章を打ち込む画面のままである。翔真は胸を撫で下ろした。
投稿できなくてよかった。こんな汚いものを落とさずに済んでよかった。親友という表記で通してきた伊織の本名すら出してしまうほどに感情的になっている、本性剥き出しの馬鹿みたいな文章を、誰かに見られる場所に落とさずに済んでよかった。
翔真は読み返したくもない投稿を消去し、自身のプロフィールを開いた。いつ見ても何も変わらない。変えていない。投稿内容も陳腐なものばかり。特別なのは伊織と猫の画像付きの投稿のみだ。これに最も動きがあってほしいのに、いいねも一切届かなくなりすっかり沈黙していた。
冷静さを取り戻しはしたが、不満は払拭されていない。翔真は増える気配のないいいねにもどかしさを覚えた。
深い溜息を吐きながらスマホを手放し、両肘をついて頭を抱える。伊織の画像は猫と共に写したものしかない。あの画像がダメなら、もっと別の、伊織の顔がよく見える画像である方がいいのかもしれない。それなら、一目見てすぐにイケメンだと分かる。
夏休み中に最低一回でも、伊織の姿を見なければ。見て写真を撮らなければ。何が何でも撮らなければ。親友はイケメンなのだから。
翔真は乱暴に前髪をかきあげ、回転椅子の背に凭れかかった。椅子が呻くように軋んだ。モヤモヤとイライラが刺激された。乱れた心を整えたいのに、ストレス発散の方法すら分からなくなっていた。自分はいつもどのようにして、胸に渦巻く蟠りを溶かしていたのだろう。
溜息ばかりが漏れる。物に当たりたくなってくる。行儀悪く貧乏ゆすりをしてしまいそうになる。部屋には誰もいないため何をしようと気にする必要もないが、虫の居所が悪いからといって、何かに当たったり膝をゆすったりするのが癖になってしまったら大変だ。
翔真は乱れる感情をコントロールしようと、両足首をクロスさせ、両手指を組み合わせた。そうしながら、両目は気を紛らわせそうなものを探していた。
広げたままの数学のプリントを素通りし、机の棚を捉える。教科書やノートがこれ見よがしに立ち並んでいた。すっかり勉強をする気分ではなくなった翔真は、相手にせずに無視をした。指一本触れなかった。
教科書類が敷き詰められている棚の一番端に、一際高さの低い本が刺さっている。伊織に勧められて購入した文庫本であった。
小説を保管する場所などなく、置き場所に困り果てていたところで見つけた棚の隙間。ここでいいかと差し込んでからは放置していた。一ページも読んでいない。もう下手くそだと馬鹿にされないよう練習すると息巻いていたカバーの付け外しも、店員が付けてくれたままの状態で外してもいない。
下手くそだね。柔らかい口調でありながら、棘を刺すように辛辣な伊織の言葉が木霊した。下手くそだね。
翔真は組んでいた指を解き、文庫本を抜き出した。幻聴が聞こえて気が変わった。練習する。手に馴染ませる。もう下手くそだとは言わせない。そして、これを読む。読めたら読む。読んでみる。一ページでも二ページでも。一文でも二文でも。
伊織に勧められたとはいえ、最終的に買う決断を下したのは翔真自身だった。伊織は買えとは強制していない。買わずに店を出ることもできた。
でも、しなかった。親友にしている伊織におすすめとして提示されたから。買えばSNSに投稿するネタになるから。いいねが貰えるかもしれないから。
不純な理由ではあるが、翔真は自分の意思で買ったのだ。どうせなら、元を取りたい。本を読めば、気分転換にだってなるかもしれない。
付けられているカバーの片側を外した。裏表紙のあらすじをまずは読んでみる。この小説は成瀬あかりが主人公で、彼女は最高の主人公らしい。本屋大賞を受賞した圧巻の青春小説とあるが、翔真はいまいちピンとこなかった。本屋大賞とは、と疑問が浮かぶ。
本を読まないため文学賞については無知も同然だが、賞を受賞しているのなら作品の評価は高いのだろう。翔真の煩悩塗れの頭でも想像はできた。
明るそうな話だった。伊織はこのような青春小説も読むのかと今になって翔真は思った。あらすじにシリアルキラーとある殺人系の本を読んでいるのを知った後では意外性がある。
本当は青春系をよく読むのだろうか。それも意外に見えてしまった。様々なジャンルの本を毛嫌いせずに積極的に読んでいるのかもしれないとも予想してみるが、これも不確実なものである。まだまだ伊織について知らないことが多すぎた。
未だ謎に包まれた伊織も読んだであろう本を暫し眺めてから、剥がしたカバーを付け直そうと翔真は気を引き締めた。
ここは家である。学校ではない。緊張も警戒もする必要はない。当時は焦っていた。だから上手くいかなかったのだ。今は落ち着いている。簡単にできる。することは決して難しいわけではない。下手なのは改善できる。
翔真は無駄に真剣な表情で、紙と紙の間に裏表紙を入れ込んだ。上部から緩めに差し込み、次に下部を。恐らくこの部分が失敗していたのだろう。だから気づかれ、下手だと貶されてしまったのだ。
ミスさえなければ、触った事実があってもないことにできた。指摘されたのはカバーについてのみで、制服に触れて匂いまで嗅いだ変質者並みの行動については問われなかったのだから。
嗅覚が伊織の匂いを思い出した。汗臭さが混じっていても、ずっと嗅いでいられるくらい良い匂いだった。また嗅げるものなら嗅ぎたい。伊織の匂いを嗅ぎたい。変態的な欲求が脳裏を掠め、翔真は慌てて首を左右に振った。不埒な思考を掻き消した。
意識を現実に引き戻した翔真は、無事に付け直せたカバーを見つめて一息吐いた。焦っていなければできるのだ。下手くそだと馬鹿にされる筋合いはない。
一度失敗した箇所が上手くいき、妙な自信がついた。甘っちょろかった。しょうもなかった。それでも、翔真には重要であった。胸中を包んでいた靄が晴れていく感覚に陥るほどに。
翔真は機嫌良く本に触れ、表紙を開いた。今なら無理なく読めそうな気分だった。意欲を失う前に薄い紙を捲り、目次をなぞるように見る。
一文読んだら次は二文を。一ページ読んだら次は二ページを。といった具合に、成し遂げやすい低い目標を次から次に定めクリアしていけば、ひとまずは一話を読み切れるはずだ。根気強く繰り返していけば、最終的には一話のみならず最後まで読めてしまえるかもしれない。
小さな目標の上に立つ大きな目標を叶えるために、翔真は本編へ続くページを繰った。書き出しはセリフだった。あらすじでも初っ端にあったセリフである。
二箇所で強調され、それだけ煽られてしまうと続きが気になってしまった。セリフそのものも、どういう意味だと興味を引かれる。自然と目が次を追っていた。
今なら読めそうな気分というのはあながち間違いでもなさそうで、翔真はその後も、個性的な主人公が巻き起こす物語を追いかけ続けた。
読めるかどうか自信がなかった翔真だったが、読み始めると思っていた以上に夢中になった。途中で飽きることもなく一話を読み終えた時には、胸の中に達成感と高揚感があった。読む前に感じていた不満が全て取り除かれたわけではないが、粘ついたその黒い感情が隅に追いやられた感覚だ。心が浮き立っている。自然と顔が綻んでしまいそうになる。
なんだこれ。面白い。どんどん読み進められる。慣れてないのにめちゃくちゃ読まされる。こんな経験初めてだ。
自分でも予想だにしなかったこの感情を、誰かに言いたくてたまらなくなった。溢れ出す熱を、翔真は自分の中だけに留めておける気がしなかった。
発散したい。誰かに聞いてほしい。共感してほしい。褒めてほしい。普段全く本を読まない人間が、読めないと決めてかかっていた人間が、一話だけでも読んだのだ。嫌にならずに読んだのだ。翔真にとっては偉業を成し遂げたようなものだった。本に面白さを見出す日が来るとは想定外だ。
読めないと思っていても、腹を括ってその気になれば、暗号に見えていた活字が解読できるようになるのだと知った。解読した文章は、翔真にエンタメを届けてくれた。読書による束の間の現実逃避は、心に安寧を齎してくれた。
胸を覆う興奮を叫べる場所は、SNSしかない。翔真は本の間に指を挟み、片手でスマホを引き寄せて操作した。栞など持っていなかった。書店にある無料の栞も取っていなかった。本に接着されている栞紐の存在にも気づいていなかった。一旦吐露したら、また読むつもりでいた。
本を読む前と後で、やはり変化のない数字が否応なしに目に入った。光が差していた気持ちに暗幕がかかりそうになる。翔真は襲いかかってくる負の感情に打ち勝とうと、努めて明るい調子で稚拙な文章を綴った。
【親友に勧められた小説、『成瀬は天下を取りにいく』をちょっとだけ読んでみた。普段本を読まないからちゃんと読めるのか心配だったけど、いざ読んでみたら想像以上に面白くて夢中になった。これからもう少し読む】
投稿。どこかの誰かが反応してくれるのを願って、翔真はアプリを閉じた。その際また目にした変わり映えのない数字に歯噛みしてしまいそうになったが、別にいいねがゼロなわけではないと言い聞かせてどうにかやり過ごした。
指を挟んでいたページを開く。気分が落ち込み苛立つような事柄は考えないようにする。読書をするという新たな気の紛らわし方を知った翔真は、ゆっくりと文字を追い、物語の中に思い切り飛び込んだ。
【親友との帰り道の途中で、人懐っこい猫に出会した。イケメンと猫の画はかなり良すぎた】
嘘と真実を混ぜた画像付きの二つの投稿には、ぽつぽつといいねが届いていた。久しぶりに貰ったいいねである。気を抜けば口元が緩んでしまうほど翔真は歓喜した。嘘を吐いている罪悪感は日に日に薄れていっていた。
やはり、画像を載せると見てもらいやすい。もしかしたらこのままいいねが増え続けるかもしれない。安直な妄想が脳内を駆け巡るが、現実は煌びやかなものではなかった。
小指にも満たない小さなアカウント。なかなか大勢には見つけてもらえない。伊織にもスポットライトが当たっている様子はない。伊織は決して、片手で数えられるくらいのいいねで済む容姿ではなかった。
足りない。足りない。全然、足りない。伊織の顔は、親友の顔は、その程度などではない。親友はイケメンだと常日頃から呟いている身としては、イケメンだとちやほやされなければ納得できない。埋もれてしまっては、翔真の、ネット上の人たちにとってはカケルの、美的感覚が狂っていると思われる。見る目がないと思われる。伊織はイケメンだ。確実にイケメンだ。だから、親友にしたのだ。顔の良い親友がいる。それだけで、ステータスになるのだ。
投稿後の初動は良くなかったとしても、数日後にいきなり人目に浮上するパターンがないわけではなかった。不満を覚えても、ここは気長に待つ他ない。必ず伊織が、伊織と猫が、大量のいいねを引き寄せてくれるはずだ。
学校は夏休みに突入していた。予定のない翔真は家で、とりわけ自室でだらだらしてばかりいる。伊織の家を知っていれば散歩を装って見に行けたが、残念ながら写真を撮った公園までの情報しかない。その先に続く道は途絶えている。どこまで歩いてどこで曲がり、どこの家がそうなのか分からない。
道中にある適当な家の門を叩いて尋ねる方法も思案してみたが、翔真はコミュニケーション能力が低いが故の無口な人種であった。人と話すのが下手なわけではない伊織の口数の少なさとは訳が違うのである。
他人の家のインターフォンを鳴らす。出てきた人に身分を打ち明け、人を探している旨を伝える。やることを箇条書きにするのは簡単だが、実行するとなると何倍にもレベルが上がる。
クリアできる気がしない。不審者扱いされて終了する未来が見えた。勘の良い人であれば、翔真の言動から奇怪さを感じ取るだろう。此奴は怪しい、探している人に近づけさせてはならないと、自己満足な正義感を振り翳して警察に通報するかもしれない。
いくら計画を企てても、良くない噂が立てられそうな悪い展開ばかり浮かんでしまう。元々あるわけでもない自信がどんどん消失していく。見知らぬ誰かに尋ねる方法は即座に却下した。探すのなら、自力で探すしかない。
伊織に会えそうな場所の第一候補は、間違いなく書店だ。次いで、伊織の帰り道の途中にあった公園。そこに住み着いている可能性のある猫を、また触りに来るかもしれない。待ち伏せして姿を見るだけでなく、新たな写真も撮れたら万々歳だ。
近いうちに書店か公園に寄ってみるかと結論を出した翔真は、自室の回転椅子に座ったまま大きく伸びをした。一仕事を終えたみたいな気分だった。方針は決まった。後は向かった先で伊織に会えるのを願うしかない。
翔真は椅子を軋ませて座り直した。思考の渦の中から抜け出すと、机に置くだけ置いている課題の山が現実を突きつけてくる。やらなければならない。
一つを適当に引っ掴み、雑に広げた。ホッチキスで留められた数学のプリント。一枚捲った。裏にも問題があった。確認したのはこれが初めてではなかった。何度見ても問題はなくならない。なくなるはずもない。
翔真は無気力な動作で二枚目を捲った。面倒臭かった。課題というものはなぜこんなにも面倒臭いのか。問題を解く気になるスイッチが硬い上に重く、力を込めても動いてくれない。
プリントを最後まで捲り終え、最初に帰ってきた。捲るだけで全ての解答欄が埋まっているようなマジックなど起きるはずもなく、綺麗に全て空欄のまま。スイッチは動かない。
溜息を吐いた。どうにも意欲が芽生えない。プリントから離れた手がスマホを触ろうとしている。気づいた翔真は咄嗟に手を引っ込めた。見ても何も変わっていない。いいねも何も増えていない。最後に見てからそれほど時間は経っていないのだから。
スマホを触りたくなる衝動を手を握って抑え込み、広げたプリントを睨みつけた。一問目に的を絞る。意外と解けそうな計算問題だった。やる気ゼロだったが、小数点以下くらいの微々たる変動が心に表れた気がした。
まずは一問解くか。低すぎる目標を掲げた翔真は、スマホを見ないように意識しながらガチャガチャと筆箱を弄る。とにかくシャーペンを握らなければ話にならない。
引っ張り出したシャーペンは、書店で購入したものだった。伊織と揃いであるはずのシャーペン。伊織というきっかけがなければ、絶対に買わなかったであろうシャーペン。
翔真はカチカチと芯を出し、いつでも文字が書ける体勢で目の前の問題と向き合った。勉強する意識を懸命に高めていく。一問二問と解いていけば、頭から伊織のこともスマホのことも抜けていくはずである。
翔真は集中して課題に取り組んだ。迷わずにすらすら解ける問題ばかりではなかった。頭を抱えつつも解を出す。一枚目裏側の最後の問題まで始末する。
堪らず吐息を漏らした。一枚分を終わらせるのに随分と時間がかかってしまった。成績優秀な伊織だったら、翔真が呻き声を上げている間に二、三枚は進んでいるのではないか。
シャーペンを置いた。グッと伸びをした。課題は少しだけ進んだ。ペースはゆっくりだ。
欠伸が漏れた。自室のため、我慢などしない。大口を開けて閉じた翔真はふと、対峙した数学以外の科目のことを考えてしまった。気が滅入った。数学以外まだ何も手につけていないわけではないが、どれもこれも表面を軽くなぞっただけのちまちました進み具合である。
倒した課題を掻き合わせても、全体の一割も行っていない。本当に少ししか進んでいない。先は長い。長すぎる。それでもまだ、一ヶ月はある。経験上あっという間に過ぎるのは知っているのに、毎年のように現実逃避をする翔真は、相も変わらず愚かな人間だった。
早くも休憩と称して、何の我慢もせずにスマホを手に取った。ちょっとだけだ。ちょっと触るだけ。ちょっと触ったらすぐにやめる。勉強を再開する。そう思うだけで、できたことなどないのに。その意思が、欲求に勝ったことなどないのに。結局いつも、勉強よりも遥かに長い時間、スマホの画面を見続けてしまっているのに。
スマホを、とりわけSNSを、気にしすぎだと分かってはいる。だが、定期的に見なければ落ち着かなかった。一つでも数字が増えているかもしれない可能性を捨てきれない。確率的には低いのに、決してゼロではないせいで、一縷の望みに賭けてしまう。全ての投稿のいいね数に変動がないのを見て、どろどろとした黒い感情が湧き上がることの方が多いのに、やめられない。
いいねが欲しい。とにかく欲しい。それで、足りない何かを埋められるはずなのだ。満たされるはずなのだ。そうでなければ、嘘を吐いてまで伊織を親友にした意味がなくなる。
期待するな。期待するな。言い聞かせている時点で期待していることには目を背けて、翔真はSNSを開いた。何の変哲もない見慣れた画面が広がる。通知欄が視界に入る。変わり映えがない。
肩の力が抜ける。鼻から息が漏れる。いつものことだ。自分が何を投稿したって、誰の心にも届かない。響かない。ちっぽけな存在がいくら声を大にして叫んだって、誰の耳にも聞こえない。
片手で数えられる程度の反応を貰っても、毎日どこかで誰かの投稿が反響を呼んでいるネット上の世界では、あまりにもゼロに等しい。いいねを貰って気分が上がったとしても、それは薬を服用したみたいに一時的に感じる高揚で、効果が切れればどうにもできない現実を突きつけられる。
でも、と翔真は思う。でも、違う。伊織を写した画像は違う。文字だけの投稿で、また、翔真自身に関する投稿であれば、変化がないのは仕方がないと言えなくもないが、イケメンとして写した伊織の画像は違う。違うのだ。
絶対に、低空飛行などしてはいけない。絶対に、伸びないといけない。伊織はイケメンなのだから。イケメンは伸びると相場が決まっているのだから。伸びないのはおかしい。どこからどう見ても伊織はイケメンなのに。おかしい。おかしい。こんなのおかしい。絶対におかしい。
まだ世間に見つかっていないのだと気長に待つつもりでいながら、数字が増加していない現状を目の前にすると、八つ当たりのような不満が溢れてしまった。蓋をして押さえ込もうとしても、ぐつぐつと煮立つ焦りと苛立ちが隙間から堂々と顔を出す。
どうして。どうして。どうして。伊織はこんなにもイケメンなのに。どうして。どうして伸びない。いいねが増えない。
翔真は感情のままに画面に指を滑らせた。スマホを触るのはちょっとだけの予定でいたが、守れたことなどない通り、ちょっとだけになりそうになかった。指は止まらなかった。画面にのめり込むように動かした。
【伊織の画像が全然伸びない伸びると思ったのに何でおかしい普通にイケメンなのにおかしい伊織が埋もれるわけない埋もれちゃいけない誰でもいいからもっと反応してほしいイケメンだとかかっこいいだとか言ってほしい伊織はイケメンなのに親友はイケメンなのに俺にはイケメンな親友がいるのにこのまま多くの人の目に触れないまま消えていくなんて考えられない伸びろ伸びろ伸びろ伊織はこんなところで燻ってちゃいけない伸びろ伸びろ伸びろ伊織はどう考えてもめちゃくちゃイケメンで俺はそんな伊織の親友でもっと羨ましがってくれたらいいのにこんなイケメンと親友なんて羨ましいとか何でもいいからもっともっといいねが欲しい伊織にはもっといいねがつかないといけない納得できない伊織のかっこよさといいねの数が全く釣り合ってないあり得ないおかしいおかしいおかしいおかしい絶対おかしい】
醜い真情を吐露した勢いのまま投稿を押した。スマホは無反応だった。もう一度押した。無反応だった。画面を見ていながらどこも見ていなかった目が不意に正気に戻った。
字数制限を大幅にオーバーしている。オーバー分の文字の背景が赤くなっている。危険信号の赤だった。画面は文字だらけだった。句読点のない非常に読みにくい文章だった。まるで呪文のようだった。
気づかぬうちに狭まっていた視野が徐々に開けていく。翔真は顔を上げる。意味もなく天井を見つめる。心を落ち着かせるように目を閉じる。
全身が熱くなっていた。真っ黒な感情に飲み込まれそうになっていた。数回深呼吸を繰り返す。ゆっくりと瞼を持ち上げ、スマホを見下ろす。投稿する文章を打ち込む画面のままである。翔真は胸を撫で下ろした。
投稿できなくてよかった。こんな汚いものを落とさずに済んでよかった。親友という表記で通してきた伊織の本名すら出してしまうほどに感情的になっている、本性剥き出しの馬鹿みたいな文章を、誰かに見られる場所に落とさずに済んでよかった。
翔真は読み返したくもない投稿を消去し、自身のプロフィールを開いた。いつ見ても何も変わらない。変えていない。投稿内容も陳腐なものばかり。特別なのは伊織と猫の画像付きの投稿のみだ。これに最も動きがあってほしいのに、いいねも一切届かなくなりすっかり沈黙していた。
冷静さを取り戻しはしたが、不満は払拭されていない。翔真は増える気配のないいいねにもどかしさを覚えた。
深い溜息を吐きながらスマホを手放し、両肘をついて頭を抱える。伊織の画像は猫と共に写したものしかない。あの画像がダメなら、もっと別の、伊織の顔がよく見える画像である方がいいのかもしれない。それなら、一目見てすぐにイケメンだと分かる。
夏休み中に最低一回でも、伊織の姿を見なければ。見て写真を撮らなければ。何が何でも撮らなければ。親友はイケメンなのだから。
翔真は乱暴に前髪をかきあげ、回転椅子の背に凭れかかった。椅子が呻くように軋んだ。モヤモヤとイライラが刺激された。乱れた心を整えたいのに、ストレス発散の方法すら分からなくなっていた。自分はいつもどのようにして、胸に渦巻く蟠りを溶かしていたのだろう。
溜息ばかりが漏れる。物に当たりたくなってくる。行儀悪く貧乏ゆすりをしてしまいそうになる。部屋には誰もいないため何をしようと気にする必要もないが、虫の居所が悪いからといって、何かに当たったり膝をゆすったりするのが癖になってしまったら大変だ。
翔真は乱れる感情をコントロールしようと、両足首をクロスさせ、両手指を組み合わせた。そうしながら、両目は気を紛らわせそうなものを探していた。
広げたままの数学のプリントを素通りし、机の棚を捉える。教科書やノートがこれ見よがしに立ち並んでいた。すっかり勉強をする気分ではなくなった翔真は、相手にせずに無視をした。指一本触れなかった。
教科書類が敷き詰められている棚の一番端に、一際高さの低い本が刺さっている。伊織に勧められて購入した文庫本であった。
小説を保管する場所などなく、置き場所に困り果てていたところで見つけた棚の隙間。ここでいいかと差し込んでからは放置していた。一ページも読んでいない。もう下手くそだと馬鹿にされないよう練習すると息巻いていたカバーの付け外しも、店員が付けてくれたままの状態で外してもいない。
下手くそだね。柔らかい口調でありながら、棘を刺すように辛辣な伊織の言葉が木霊した。下手くそだね。
翔真は組んでいた指を解き、文庫本を抜き出した。幻聴が聞こえて気が変わった。練習する。手に馴染ませる。もう下手くそだとは言わせない。そして、これを読む。読めたら読む。読んでみる。一ページでも二ページでも。一文でも二文でも。
伊織に勧められたとはいえ、最終的に買う決断を下したのは翔真自身だった。伊織は買えとは強制していない。買わずに店を出ることもできた。
でも、しなかった。親友にしている伊織におすすめとして提示されたから。買えばSNSに投稿するネタになるから。いいねが貰えるかもしれないから。
不純な理由ではあるが、翔真は自分の意思で買ったのだ。どうせなら、元を取りたい。本を読めば、気分転換にだってなるかもしれない。
付けられているカバーの片側を外した。裏表紙のあらすじをまずは読んでみる。この小説は成瀬あかりが主人公で、彼女は最高の主人公らしい。本屋大賞を受賞した圧巻の青春小説とあるが、翔真はいまいちピンとこなかった。本屋大賞とは、と疑問が浮かぶ。
本を読まないため文学賞については無知も同然だが、賞を受賞しているのなら作品の評価は高いのだろう。翔真の煩悩塗れの頭でも想像はできた。
明るそうな話だった。伊織はこのような青春小説も読むのかと今になって翔真は思った。あらすじにシリアルキラーとある殺人系の本を読んでいるのを知った後では意外性がある。
本当は青春系をよく読むのだろうか。それも意外に見えてしまった。様々なジャンルの本を毛嫌いせずに積極的に読んでいるのかもしれないとも予想してみるが、これも不確実なものである。まだまだ伊織について知らないことが多すぎた。
未だ謎に包まれた伊織も読んだであろう本を暫し眺めてから、剥がしたカバーを付け直そうと翔真は気を引き締めた。
ここは家である。学校ではない。緊張も警戒もする必要はない。当時は焦っていた。だから上手くいかなかったのだ。今は落ち着いている。簡単にできる。することは決して難しいわけではない。下手なのは改善できる。
翔真は無駄に真剣な表情で、紙と紙の間に裏表紙を入れ込んだ。上部から緩めに差し込み、次に下部を。恐らくこの部分が失敗していたのだろう。だから気づかれ、下手だと貶されてしまったのだ。
ミスさえなければ、触った事実があってもないことにできた。指摘されたのはカバーについてのみで、制服に触れて匂いまで嗅いだ変質者並みの行動については問われなかったのだから。
嗅覚が伊織の匂いを思い出した。汗臭さが混じっていても、ずっと嗅いでいられるくらい良い匂いだった。また嗅げるものなら嗅ぎたい。伊織の匂いを嗅ぎたい。変態的な欲求が脳裏を掠め、翔真は慌てて首を左右に振った。不埒な思考を掻き消した。
意識を現実に引き戻した翔真は、無事に付け直せたカバーを見つめて一息吐いた。焦っていなければできるのだ。下手くそだと馬鹿にされる筋合いはない。
一度失敗した箇所が上手くいき、妙な自信がついた。甘っちょろかった。しょうもなかった。それでも、翔真には重要であった。胸中を包んでいた靄が晴れていく感覚に陥るほどに。
翔真は機嫌良く本に触れ、表紙を開いた。今なら無理なく読めそうな気分だった。意欲を失う前に薄い紙を捲り、目次をなぞるように見る。
一文読んだら次は二文を。一ページ読んだら次は二ページを。といった具合に、成し遂げやすい低い目標を次から次に定めクリアしていけば、ひとまずは一話を読み切れるはずだ。根気強く繰り返していけば、最終的には一話のみならず最後まで読めてしまえるかもしれない。
小さな目標の上に立つ大きな目標を叶えるために、翔真は本編へ続くページを繰った。書き出しはセリフだった。あらすじでも初っ端にあったセリフである。
二箇所で強調され、それだけ煽られてしまうと続きが気になってしまった。セリフそのものも、どういう意味だと興味を引かれる。自然と目が次を追っていた。
今なら読めそうな気分というのはあながち間違いでもなさそうで、翔真はその後も、個性的な主人公が巻き起こす物語を追いかけ続けた。
読めるかどうか自信がなかった翔真だったが、読み始めると思っていた以上に夢中になった。途中で飽きることもなく一話を読み終えた時には、胸の中に達成感と高揚感があった。読む前に感じていた不満が全て取り除かれたわけではないが、粘ついたその黒い感情が隅に追いやられた感覚だ。心が浮き立っている。自然と顔が綻んでしまいそうになる。
なんだこれ。面白い。どんどん読み進められる。慣れてないのにめちゃくちゃ読まされる。こんな経験初めてだ。
自分でも予想だにしなかったこの感情を、誰かに言いたくてたまらなくなった。溢れ出す熱を、翔真は自分の中だけに留めておける気がしなかった。
発散したい。誰かに聞いてほしい。共感してほしい。褒めてほしい。普段全く本を読まない人間が、読めないと決めてかかっていた人間が、一話だけでも読んだのだ。嫌にならずに読んだのだ。翔真にとっては偉業を成し遂げたようなものだった。本に面白さを見出す日が来るとは想定外だ。
読めないと思っていても、腹を括ってその気になれば、暗号に見えていた活字が解読できるようになるのだと知った。解読した文章は、翔真にエンタメを届けてくれた。読書による束の間の現実逃避は、心に安寧を齎してくれた。
胸を覆う興奮を叫べる場所は、SNSしかない。翔真は本の間に指を挟み、片手でスマホを引き寄せて操作した。栞など持っていなかった。書店にある無料の栞も取っていなかった。本に接着されている栞紐の存在にも気づいていなかった。一旦吐露したら、また読むつもりでいた。
本を読む前と後で、やはり変化のない数字が否応なしに目に入った。光が差していた気持ちに暗幕がかかりそうになる。翔真は襲いかかってくる負の感情に打ち勝とうと、努めて明るい調子で稚拙な文章を綴った。
【親友に勧められた小説、『成瀬は天下を取りにいく』をちょっとだけ読んでみた。普段本を読まないからちゃんと読めるのか心配だったけど、いざ読んでみたら想像以上に面白くて夢中になった。これからもう少し読む】
投稿。どこかの誰かが反応してくれるのを願って、翔真はアプリを閉じた。その際また目にした変わり映えのない数字に歯噛みしてしまいそうになったが、別にいいねがゼロなわけではないと言い聞かせてどうにかやり過ごした。
指を挟んでいたページを開く。気分が落ち込み苛立つような事柄は考えないようにする。読書をするという新たな気の紛らわし方を知った翔真は、ゆっくりと文字を追い、物語の中に思い切り飛び込んだ。

