明日から夏休みだった。長期休暇に歓喜する反面、気軽に伊織の姿を見られなくなると思うと残念な気持ちにもなった。SNSでは親友にしているが、現実は連絡先すら知らない相手である。休日に会う手段はない。奇跡的な偶然を掴むためには、夏休みの間でも適度に伊織を見るためには、どのような対策を講じればいいのか。翔真は一人思い悩んだ。
終業式や一学期最後のHRも終わった放課後の教室。翔真と同じようにまだ残っているクラスメートの中には、早速遊ぶ約束を取り付けている人たちがいた。翔真には誰かと日程を合わせて遊ぶ相手は一人もいない。寂しくなどない。一人は気楽だ。自由だ。誰にともなく意地を張る翔真は、一人が良いのを証明するように考え事に耽った。
偶然を装って伊織に会うためには、伊織の行動範囲を知る必要がある。伊織がよく行きそうな場所でまず思い浮かぶのは書店だ。毎日書店に通えばいずれその姿を目にできそうだが、いつの何時頃に来るかまでの判断はできない。だからといって、開店から閉店まで何も買わずに長居するわけにもいかない。流石にそのような体力も時間もない。
まだ学生の身である。暇にはさせないとばかりに、各教科から出された課題が山のようにあった。計画的に始末しなければ、後で痛い目を見るのは自分だ。伊織のことばかり考えていたら、何も手につかなくなってしまう。
長期間、伊織の行方が不明になるのは落ち着かなかった。SNSに投稿するストックも大量にあるわけではない。大体いつも枯渇している。すぐにネタが尽きるのは目に見えている。せめて伊織の家を知っていれば、と思案して、刹那、ハッと目の覚めるような気分を味わった。そうだ。家だ。家があるではないか。
急激に鼓動が高鳴り、心拍数が急上昇した。これまで、伊織の後をつけるのは正門までにしていた。今日もそのつもりだった。しかし、自分に課したその取り決めをなしにしてしまえば、伊織の住まいが明らかになるのではないか。
自宅の情報を手に入れられれば、休日でも伊織の動向を観察できる可能性がある。住所を知るだけで、ベールに包まれた伊織のプライベートに訪問できてしまえる。そこには垂涎の情報が。すぐに行動に移すべきだ。
翔真は伊織を振り返った。最前列になってから席替えはしていなかった。最後列の伊織の席は空いている。いない。荷物もない。既に教室を出てしまったようだ。いつの間に。
急いで荷物をまとめた。今日を逃したら、一ヶ月以上お預けになってしまう。伊織の自宅の場所を突き止める。それが一学期最後の試練だ。特大の情報だ。必ず入手してみせる。
バタバタと教室を飛び出した翔真は、廊下と階段を駆け抜けた。勢いよく校舎を出て、辺りをきょろきょろと見回す。伊織はいつも正門の方へ向かっている。家の場所によっては裏門から帰る人もいるが、伊織は正門からだ。
正門へ足を向け、突き進んだ。夏の陽気に晒され、じわりと汗が滲んだ。拭った。早歩きであることも汗を滲ませる原因になっているようだった。翔真は急いだ。伊織の家を知るためには、伊織本人を見つけないといけない。
学校の敷地を出て、視線を巡らせた。伊織。伊織。伊織。いた。見つけた。翔真の瞳が、獲物を捉えた鋭い目つきに変わった。伊織は曲がり角を曲がっている。建物に阻まれ、姿が見えなくなる。翔真は呼吸を整え、尾行のスイッチを入れた。
伊織はまっすぐ家には帰らず、翔真の帰り道の方向へ進んでいた。考えられるのは書店への寄り道だ。翔真は一定の距離を保ったまま、伊織を見失わないように後をつけた。時間ならたっぷりある。最後まで粘って、絶対に自宅を特定する。
気配を悟られないよう、息を潜めて歩き続けること数分。前方に書店の看板が見えた。予想通り、伊織は駐車場に入って行く。遅れて翔真も入り、隣のドラッグストアを素通りした伊織が書店に足を踏み入れるのを確認した。
後に続くべきかどうか迷った。今回は伊織が帰り着くまで、尾行に気づかれてはならないのだ。どこかに隠れて伊織が出てくるのを待つ手もあるが、隠れられるような場所はない。出入口付近でうろちょろするのも怪しまれる。ここは潔く入店するのが自然か。もし店内で自分の存在に気づかれたとしても、会話はせずに商品を物色しているふりをすればいい。所詮は薄っぺらい関係なのだから。
書店の自動ドアを反応させた。害のない普通の客を装いながら伊織を探す。居場所さえ分かれば、そこを避けて店内を徘徊できる。書店であちこち頻繁に動き回ることはあまりないはずだ。
一番確率の高い文庫売り場を見た。あれ、と思わず首を傾げた。正面にも棚の方にも、他の客の姿はあっても伊織の姿はなかった。
どこにいるのだろうと次の候補を探しつつ歩みを進める。隣のコミック売り場を覗いてみる。伊織はいない。更に隣の売り場を覗いてみる。いた。伊織は通路の奥の方にいた。
目を凝らす。学習参考書の売り場のようだ。勉強熱心な人だ。夏休みの間も、課題以外で自主的に勉強をするつもりなのだろうか。
伊織の居場所を探し出した翔真は、気づかれる前に来た道を引き返した。学参売り場には近づかないようにし、ぶらぶらと店内を彷徨い歩く。
ふと、意識が文庫売り場へ向いた。伊織の机を漁った時に発見した本の在庫はあるのだろうか。買うつもりはないが気になってしまい、あてもなくふらついていた翔真は文庫売り場に踏み込んだ。
商品は著者名の五十音順に並んでいた。目的の本の著者は、あ、から始まる。すぐに見つけられた。在庫はあった。棚から抜き取り、表紙を眺める。血液のような色合いの文字と、大きな翼の生えた、頭部のない石像。
翔真は本を裏返し、のろまなペースであらすじを読む。伊織の私物を探ったその日にタイトルで検索をかけて調べていたため、なんとなくの内容は把握していたが、改めて見てみてもやはり怖そうな本であった。
予想していたホラーではなくミステリーのようで、それもかなりグロテスクな描写があるらしい。衝撃のミステリーと謳われてもいたが、翔真にとってはあらすじだけで既に衝撃的で、もうそれだけで十分だった。
時間をかけてあらすじを読んでいると、視界の隅に人影が映り込んだ。見たい本を手に取るのに自分が邪魔になっているのかもしれないと思い、さりげなく横へずれつつ人影を一瞥する。
「それ、面白かったよ」
顔と声がほぼ同時に一致し、翔真は目玉が飛び出そうになった。腰を抜かしてひっくり返りそうになった。伊織だ。伊織だった。平然と話しかけてきたのは、学参売り場にいたはずの伊織だった。
完全に気を抜いていた。確実に伊織と目が合っている。紛れもなく、伊織は自分に声をかけている。
伊織が話しかけてくるなど予想外だった。会話をせずに商品を物色しているふりは通用しない。苦手なアドリブをせざるを得ない。翔真は懸命に動揺を隠しながら、害のない人であろうとした。
「……あ、雨宮じゃん、偶然」
「偶然?」
即座に返ってきた咎めるようなその一言で、ピシッと空気が張り詰めた。書店の穏やかな雰囲気には似つかわしくないほどの緊張感。息が乱れる。口が渇く。
まさか、尾行に気づいているのか。それとも、こちらの反応を見るための単なるはったりか。伊織は一度自分を疑ったことがある。同じ時間帯に書店にいる時点で、勘繰るのは当然かもしれない。しかしここで、白状するわけにはいかない。
「な、何疑ってんだよ。偶然に決まってんだろ? それより、この本、面白かったんだ?」
手にしている本に話題を持っていく。伊織の趣味の話である。誰だって好きなものの話になると気分が良くなるはずである。伊織に気持ちよく話をさせれば、都合の悪い話題から逸れていけるはずである。
そう期待したが、伊織はうんともすんとも言わなかった。翔真の内面を探るかのように凝視してから、ふいと顔を背けて文庫の棚を見る。スッと伸ばされた手が、一冊の本を抜く。冷徹な横顔。自分はもう用無しか。声をかけてきたのはそっちなのに。
非情にも無視され胸が悪くなったが、それならそれでいいとポジティブに考えた。苦手な会話なしで、物理的に離れられるチャンスが訪れただけだ。
この機会を逃すまいと本を棚に戻そうとしたその時、西原、と伊織に名前を呼ばれた。手が止まる。体が固まる。無言で伊織の顔を見遣ると、ばっちり目が合った。
とてつもなく嫌な予感がした。険しい顔をした大人に呼び出された時みたいな不安感が胸に広がる。翔真が抱いている懸念など知る由もない伊織が、やおら唇を開いた。
「西原、この前学校で、俺の本触った?」
「……え?」
「触った?」
「……え、な、なんでだよ。ひ、人のもの、勝手に触るわけないだろ?」
質問を噛み砕いて飲み込むのに数秒かかった。一拍も二拍も置いてようやく返した否定の言葉には、隠しきれていない動揺が表れていた。嫌な予感は、最悪な形で的中してしまった。
バレている。本に触ったのがバレている。なぜバレた。本は元の場所に戻したはずだ。まさか、入れる向きが間違っていたのか。上下か裏表が逆だったのか。
自分はどこでミスをしたのかと記憶を遡っていると、もしかして、と思い当たる節が見つかった。
あの時、表紙を見たくてカバーを外した。そこまでは問題なかったはずだ。問題だったのは、外したカバーを戻す時だ。慣れていない上に慌てていたせいもあり、綺麗に付け直せていなかったのかもしれない。それで、疑問を持たれてしまったのか。誰かが本に触ったと。それは、体育の授業に遅れて参加した翔真ではないかと。
「ちょうど、今西原が持っている本を、読み進めていた時だよ」
感情の読み取れない声でさらりと付加した伊織が、抜き出した本を棚に戻した。淡々と指摘された翔真は、まだ自分の手元にある本に視線を落とす。『殺戮にいたる病』。伊織が読んでいるのを知らなければ、絶対に手に取りはしなかった本である。
伊織が異変を覚えた際に読んでいた本と同じ本を、翔真は今持っている。翔真は本を読まない。此奴は本を読む人間ではないと、恐らく伊織も察している。偶然にしては、出来すぎている。故に、伊織は翔真への疑いを深めているのだろう。
もう誤魔化しは効かないと分かっていながらも、意固地になっている翔真は形だけでも足掻いてみせた。
「だ、だから、なんだって言うんだよ。俺はちょうど、この本が気になっただけであって」
「本、読まないよね」
「よ、読む。読むし。学校では読んでないだけだし」
「じゃあ、最近読んだ本教えて」
グサッと刺された。一瞬で言葉が詰まった。黒目が右へ左へうろうろする。最近読んだ本。そんなものはない。一ページも読んでいないのだから。
伊織に痛いところを突き刺され、翔真は血だらけになった。無い知恵を絞って適当なタイトルを作り上げようにも、何一つ浮かんでこない。目に入った本のタイトルを引っ掴んで晒し上げようにも、内容にまで踏み込まれたら答えられない。
本を読む人であれば簡単に答えられるはずの問いでも、一冊も読んでいない翔真には難問だった。挽回できる策を見出せない。見事なまでの撃沈である。
「嘘吐くの下手くそだね。外したカバーを付け直すのも下手くそだね」
言葉だけで翔真を追い込んだ伊織の口から落ちたのは、シンプルな暴言だった。翔真は頭に血が昇りそうになる。自覚していても、いざ他人の口から言われると腹が立つ。言い返してやりたいと喉の奥に熱が集中したが、舌が固まったように動かず結局声にはならなかった。
押し寄せる負の感情で身体を熱くさせる翔真に気づきもしない伊織は、下手くそだと貶すだけ貶して口を閉ざした。本に触った犯人は翔真だと断定している様子なのに、翔真の行動を咎める気配がない。ただねっとりとした嫌な感じを残してくるのみである。
弄ばれている気がした。これなら、気持ちの悪い生物でも見るような目を向けられた方がましである。寧ろ、そのようなリアクションになるのが普通なのではないか。
地道に伊織の情報を得ているはずなのに、訳の分からない謎が増えてしまった。付き纏われているのに気づいていながら、何の感情も表に出さないのが逆に恐ろしく感じてしまう。伊織の考えが読めない。
「『殺戮にいたる病』は、初心者にはハードル高めの本だと思うよ」
半端な形で途切れた会話を、脈絡のない言葉で伊織が繋いだ。いきなりすぎて咄嗟には喋れない翔真を置いて、伊織は文庫売り場の正面へ向かう。商品に視線を落とし、一冊の本を手にするとすぐに戻ってきた。伊織の言動についていけずにいる翔真の前に、マイペースに事を進める伊織が本を差し出す。頭に疑問符が大量生産される。
「これ、おすすめ」
「え……」
「こっちの方が、本読むの慣れてなくても読みやすいと思う」
押し付けられ、受け取らされた。翔真が状況を把握する間もなく、もう用はないとばかりに伊織はさっさと姿を消した。今度はいくら待っても戻ってこなかった。店を出たのかもしれない。
渡された本を見た。黄色が目立つ明るい表紙だった。主人公と思しきキャラクターが中心に描かれている。『殺戮にいたる病』と違って、タイトルは簡単に読めた。『成瀬は天下を取りにいく』
読めるタイトルだったものの、翔真は人知れず困惑してしまった。本は読まない。読めない。羅列された活字を見ると酔ってしまいそうになる。
でも、これは、この本は、情報収集している伊織からおすすめだと差し出された本だ。全くもって理由は分からないが、間違いなく伊織に勧められた本だ。翔真の中で、伊織は親友の設定だ。その相手から推薦された本を、読む読まないは別として、買わないのはどうなのか。
翔真は表紙を見て唾を飲んだ。期待に胸が膨らんだ。これは使える。親友から勧められた本としてSNSに投稿できる。シャーペンについて投稿した時に文房具好きの人が反応してくれたように、今度は本好きの人が反応してくれるかもしれない。いいねが貰える絶好のチャンスだ。親友と仲良くできていることもアピールできる。
決断を下した翔真は一冊を棚に戻し、一冊を手にしたままレジへ直行した。商品を店員に渡す。鞄を弄り財布を取り出す。初めて本を買う。内心緊張していた。高揚にも似ていた。
読めるだろうか。読めないかもしれない。読めずに保管してしまうかもしれない。それでも伊織が、ネット上で親友にしている伊織が、勧めてくれた本である。買って表紙の画像付きで投稿することに意味がある。いいねを貰えるはずである。
「カバーをお付けしましょうか?」
商品のバーコードを通し、値段を伝えてくれた店員に事務的に尋ねられた。翔真は財布の中の小銭を掻き集めていた手を止めた。斜め上に目を向ける。脳裏に伊織の姿が浮かぶ。
本にはいつもカバーを付けて表紙を隠している伊織。その伊織が言った。下手くそだね。カバー付け直すの下手くそだね。下手くそ、下手くそ。
胸や頭の奥の方がじわじわと熱を持ち始めた。静まっていたはずの腹立たしさがむくむくと膨れ上がっていく。
「お願いします」
ほぼ衝動的に言っていた。下手くそが頭の中を縦横無尽に駆け回る。下手くそ。下手くそ。下手くそ。
翔真は乱暴に小銭を手にし、トレイに置いた。置く時のみは、印象が悪くならないよう意識して丁寧に置いた。ちょうどあった。手早くカバーを付け、翔真の出した小銭を確認した店員から本とレシートを受け取る。
店員が付けてくれたカバーを見た。綺麗な見本だった。これで慣れるまで練習する。もう下手くそなどとは言わせない。必ず見返してやる。強い気持ちを胸に、翔真は書店を後にした。
外の空気を思い切り吸って、思い切り吐く。本や財布を鞄にしまった翔真は気持ちを切り替えた。まだやるべきことがある。こちらが本命である。
駐車場の出入り口まで向かうと、左右を交互に見た。翔真の自宅へ続く道とは逆の方向で、遠くを歩いている伊織の後ろ姿を発見する。急ぎ足で突き進んだ。
決してダッシュはせず、早歩きで地道に距離を縮めていく。そうしているうちに、見慣れた校舎が見えてきた。また登校している気分を味わってしまう。癖で校舎に入ってしまわないよう、翔真は伊織から目を離さずに尾行を続けた。
伊織は校舎へ続く正門を通り過ぎていく。遅れて翔真も素通りした。ここからどこまで歩いていくのか。伊織の家は近いのか、遠いのか。また、どのような家に住んでいるのか。謎に包まれたその全てが、今日、判明する。
翔真は口角が持ち上がりそうになった。唇を噛んで押さえ込む。一人で歩きながらにやにやなどできない。伊織から目を離したくないため、俯いて顔を隠す行為もできない。
歪みそうになる表情を懸命にコントロールする翔真は、帰宅中のただの学生です、という何でもない顔を作って貼り付けた。粘着力はない。すぐに剥がれそうになる度に強く擦り付けた。
校舎の前を通り過ぎてから、二十分程度が経っただろうか。その間、伊織は一度も振り返らなかった。奇跡的に気づかれていないのかもしれない。この調子で順調に進んでいけば、いずれは伊織の家が分かる。着々と知りたい情報に近づいてきているのを実感して、呼吸が荒くなった。
数十メートル先を歩いていた伊織が、急に足を止めた。ワンテンポ遅れて翔真も立ち止まる。全身に緊張が走った。伊織の横顔が見えた。まずい、と逃げる姿勢に入ったが、伊織はそれ以上は首を回さず、顔を向けた方向へ徐に歩き出した。
間一髪で危機を免れたものの、翔真は小首を傾げてしまった。まっすぐ帰宅するにしては不自然な動きだ。帰り道の途中で不意に気が変わったような、目に入ったものに好奇心を刺激されて見に行くような、そんな雰囲気だった。
止めた足を踏み出した。向かった先に何があるのか。伊織の気を引いたものは何なのか。早く見たい。早く知りたい。伊織に関連する情報は全部欲しい。何だって欲しい。
気づけば大股の早歩きになっていた。今にも駆け出してしまいそうだった。自制した。我慢した。この最終局面で衝動に駆られてしまったら、計画が水の泡となる恐れがある。冷静さを失ってはならない。
伊織が曲がった場所まで辿り着いてすぐ、翔真は顔を横に向けた。短い下り坂の先に、滑り台やブランコなどの遊具があった。公園だ。
遊びに入ったわけではあるまいと伊織を探すと、設置されたベンチの辺りでしゃがんでいるのを見つけた。何気なくその足元に目を向けて。息が止まった。
猫がいた。白と黒の毛色をした猫がいた。野良猫だろうか。伊織は野良猫に引き寄せられたのだろうか。
猫は伊織を警戒していない。寧ろ媚びるように、甘えるように、自ら伊織に擦り寄っている。家を飛び出した飼い猫の可能性が浮上したが、そのような距離感でもない気がした。
伊織は手の甲で猫を撫でている。伊織に心を開いているらしい猫は逃げない。完璧にコミュニケーションが取れているのを見るに、猫との触れ合いは昨日今日に始まった話ではないことが窺えた。伊織はかなりの頻度で猫と戯れているのではないか。
滅多に見られないであろう珍しい光景を、翔真は目に焼き付けた。目に、焼き付けた。そこで翔真はハッとなった。鋭い刃物で身体を刺し貫かれたかのように、翔真の中で閃きがパチンと弾けた。
伊織と猫。親友と猫。イケメンと猫。かっこいいとかわいいの融合。SNSで受けそうな画。興味を引きそうな画。これを収めないでどうするのか。
翔真は忙しない動作でスマホを引っ張り出した。伊織が猫と別れる前に、この眼福な画を撮らなければ。こういうことがあったと言葉で説明するよりも、画像を載せて視覚的に訴えかけた方が伝わりやすい。おまけに、親友はイケメンであることの証明にもなる。
カメラアプリを開き、伊織と猫を映した。二本の指で画面を拡大する。手が震えていた。本の奥付を撮った時よりも震えていた。被写体が人か物か、生があるかないかの違いだろうか。
今回は人間と動物。生きている。撮っていることに気づかれる場合がある。そうなる前に、早く撮らなければ。シャッターチャンスがいつ終わるか予測ができない。何でもいいから撮る。いいから撮る。撮る。撮れ。撮れ。撮れ撮れ撮れ。
画面を、タップした。数回、タップした。回数分のシャッター音が、やけに大きく耳に響いた。無意識に息を止めていた。苦しくなった。我に返った。息をした。画面に意識を向けた。血の気が引いた。後退った。シャッター音が鳴り響いた。ビクッと肩が上がった。誤って画面に指が触れてしまった。
画面の中で、翔真は伊織と、目が合っていた。伊織は確実に、自分にスマホを向ける翔真を、認識していた。スマホを弄る角度ではなく、写真を撮る角度であることにも、きっと気づいた。
猫から手を離した伊織が、徐に立ち上がった。猫がびっくりしたように逃げ出した。伊織は猫には目もくれず、まるで感情の読めない表情で翔真を凝視していた。驚きとも憤りとも言えない表情だった。
視線だけで追い詰められている切迫感を覚えた。その圧に堪えきれなくなった翔真は、弾かれたように来た道を駆け出した。
伊織の写真を撮った。許可など取っていなかった。紛れもなく、盗撮だった。書店で顔を合わせた時のように、偶然、などと言える状況ではなかった。
自宅まで追いかける計画は中止だ。中止せざるを得ない。続行はできない。伊織の自宅を知るのはまた今度だ。
全力疾走しながら、時折背後を見る。伊織は追いかけてきていない。それでも、不安だった。翔真は走り続けた。慣れない道をがむしゃらに、走り続けた。
もし伊織に捕まったら、写真を撮ったことを吐かされる。その後、問答無用で消されてしまうだろう。そんなこと、あってはならない。せっかく撮った貴重な写真を、全て失うなどあってはならない。翔真はスマホを強く握り締めた。
どのくらい風を切っていたのか。息が苦しくなった。後方に首を巡らせる。伊織はいない。翔真はペースを落として足を止めた。心臓が爆音を立てていた。汗だくになっていた。服が肌に張り付いていた。濡れた体が気持ち悪かった。
手の甲で流れる汗を拭って、乱れに乱れた呼吸を整える。翔真はスマホを触った。撮影した写真を確認する。伊織と猫ははっきりと映っている。伊織は間違いなくイケメンだ。確実に、猫と戯れているイケメンの写真だ。
興味を示してくれる人は多いのではないか。三桁や四桁、いや、もしかすると、五桁以上ものいいねが貰えるかもしれない。
欲望の塊みたいな妄想を繰り広げながら、翔真は画面をスワイプした。伊織と視線が絡み合った。心臓が飛び跳ねる。スマホを取り落としそうになる。
翔真は顔を上げ、辺りを見回す。どこにも伊織はいない。再び画面を見る。目が合う。そんなはずもないのに、画面に映る伊織が今にも喋り出しそうな恐ろしい気配を感じてしまった。
汗が額を伝う。拭いもせず、翔真は突発的に該当の写真を消去した。こちらを見ていない伊織の写真に画面が変わり、ホッと胸を撫で下ろす。帰ったら写真を選別してSNSに投稿しようと、気を取り直した翔真は家路に就いた。
終業式や一学期最後のHRも終わった放課後の教室。翔真と同じようにまだ残っているクラスメートの中には、早速遊ぶ約束を取り付けている人たちがいた。翔真には誰かと日程を合わせて遊ぶ相手は一人もいない。寂しくなどない。一人は気楽だ。自由だ。誰にともなく意地を張る翔真は、一人が良いのを証明するように考え事に耽った。
偶然を装って伊織に会うためには、伊織の行動範囲を知る必要がある。伊織がよく行きそうな場所でまず思い浮かぶのは書店だ。毎日書店に通えばいずれその姿を目にできそうだが、いつの何時頃に来るかまでの判断はできない。だからといって、開店から閉店まで何も買わずに長居するわけにもいかない。流石にそのような体力も時間もない。
まだ学生の身である。暇にはさせないとばかりに、各教科から出された課題が山のようにあった。計画的に始末しなければ、後で痛い目を見るのは自分だ。伊織のことばかり考えていたら、何も手につかなくなってしまう。
長期間、伊織の行方が不明になるのは落ち着かなかった。SNSに投稿するストックも大量にあるわけではない。大体いつも枯渇している。すぐにネタが尽きるのは目に見えている。せめて伊織の家を知っていれば、と思案して、刹那、ハッと目の覚めるような気分を味わった。そうだ。家だ。家があるではないか。
急激に鼓動が高鳴り、心拍数が急上昇した。これまで、伊織の後をつけるのは正門までにしていた。今日もそのつもりだった。しかし、自分に課したその取り決めをなしにしてしまえば、伊織の住まいが明らかになるのではないか。
自宅の情報を手に入れられれば、休日でも伊織の動向を観察できる可能性がある。住所を知るだけで、ベールに包まれた伊織のプライベートに訪問できてしまえる。そこには垂涎の情報が。すぐに行動に移すべきだ。
翔真は伊織を振り返った。最前列になってから席替えはしていなかった。最後列の伊織の席は空いている。いない。荷物もない。既に教室を出てしまったようだ。いつの間に。
急いで荷物をまとめた。今日を逃したら、一ヶ月以上お預けになってしまう。伊織の自宅の場所を突き止める。それが一学期最後の試練だ。特大の情報だ。必ず入手してみせる。
バタバタと教室を飛び出した翔真は、廊下と階段を駆け抜けた。勢いよく校舎を出て、辺りをきょろきょろと見回す。伊織はいつも正門の方へ向かっている。家の場所によっては裏門から帰る人もいるが、伊織は正門からだ。
正門へ足を向け、突き進んだ。夏の陽気に晒され、じわりと汗が滲んだ。拭った。早歩きであることも汗を滲ませる原因になっているようだった。翔真は急いだ。伊織の家を知るためには、伊織本人を見つけないといけない。
学校の敷地を出て、視線を巡らせた。伊織。伊織。伊織。いた。見つけた。翔真の瞳が、獲物を捉えた鋭い目つきに変わった。伊織は曲がり角を曲がっている。建物に阻まれ、姿が見えなくなる。翔真は呼吸を整え、尾行のスイッチを入れた。
伊織はまっすぐ家には帰らず、翔真の帰り道の方向へ進んでいた。考えられるのは書店への寄り道だ。翔真は一定の距離を保ったまま、伊織を見失わないように後をつけた。時間ならたっぷりある。最後まで粘って、絶対に自宅を特定する。
気配を悟られないよう、息を潜めて歩き続けること数分。前方に書店の看板が見えた。予想通り、伊織は駐車場に入って行く。遅れて翔真も入り、隣のドラッグストアを素通りした伊織が書店に足を踏み入れるのを確認した。
後に続くべきかどうか迷った。今回は伊織が帰り着くまで、尾行に気づかれてはならないのだ。どこかに隠れて伊織が出てくるのを待つ手もあるが、隠れられるような場所はない。出入口付近でうろちょろするのも怪しまれる。ここは潔く入店するのが自然か。もし店内で自分の存在に気づかれたとしても、会話はせずに商品を物色しているふりをすればいい。所詮は薄っぺらい関係なのだから。
書店の自動ドアを反応させた。害のない普通の客を装いながら伊織を探す。居場所さえ分かれば、そこを避けて店内を徘徊できる。書店であちこち頻繁に動き回ることはあまりないはずだ。
一番確率の高い文庫売り場を見た。あれ、と思わず首を傾げた。正面にも棚の方にも、他の客の姿はあっても伊織の姿はなかった。
どこにいるのだろうと次の候補を探しつつ歩みを進める。隣のコミック売り場を覗いてみる。伊織はいない。更に隣の売り場を覗いてみる。いた。伊織は通路の奥の方にいた。
目を凝らす。学習参考書の売り場のようだ。勉強熱心な人だ。夏休みの間も、課題以外で自主的に勉強をするつもりなのだろうか。
伊織の居場所を探し出した翔真は、気づかれる前に来た道を引き返した。学参売り場には近づかないようにし、ぶらぶらと店内を彷徨い歩く。
ふと、意識が文庫売り場へ向いた。伊織の机を漁った時に発見した本の在庫はあるのだろうか。買うつもりはないが気になってしまい、あてもなくふらついていた翔真は文庫売り場に踏み込んだ。
商品は著者名の五十音順に並んでいた。目的の本の著者は、あ、から始まる。すぐに見つけられた。在庫はあった。棚から抜き取り、表紙を眺める。血液のような色合いの文字と、大きな翼の生えた、頭部のない石像。
翔真は本を裏返し、のろまなペースであらすじを読む。伊織の私物を探ったその日にタイトルで検索をかけて調べていたため、なんとなくの内容は把握していたが、改めて見てみてもやはり怖そうな本であった。
予想していたホラーではなくミステリーのようで、それもかなりグロテスクな描写があるらしい。衝撃のミステリーと謳われてもいたが、翔真にとってはあらすじだけで既に衝撃的で、もうそれだけで十分だった。
時間をかけてあらすじを読んでいると、視界の隅に人影が映り込んだ。見たい本を手に取るのに自分が邪魔になっているのかもしれないと思い、さりげなく横へずれつつ人影を一瞥する。
「それ、面白かったよ」
顔と声がほぼ同時に一致し、翔真は目玉が飛び出そうになった。腰を抜かしてひっくり返りそうになった。伊織だ。伊織だった。平然と話しかけてきたのは、学参売り場にいたはずの伊織だった。
完全に気を抜いていた。確実に伊織と目が合っている。紛れもなく、伊織は自分に声をかけている。
伊織が話しかけてくるなど予想外だった。会話をせずに商品を物色しているふりは通用しない。苦手なアドリブをせざるを得ない。翔真は懸命に動揺を隠しながら、害のない人であろうとした。
「……あ、雨宮じゃん、偶然」
「偶然?」
即座に返ってきた咎めるようなその一言で、ピシッと空気が張り詰めた。書店の穏やかな雰囲気には似つかわしくないほどの緊張感。息が乱れる。口が渇く。
まさか、尾行に気づいているのか。それとも、こちらの反応を見るための単なるはったりか。伊織は一度自分を疑ったことがある。同じ時間帯に書店にいる時点で、勘繰るのは当然かもしれない。しかしここで、白状するわけにはいかない。
「な、何疑ってんだよ。偶然に決まってんだろ? それより、この本、面白かったんだ?」
手にしている本に話題を持っていく。伊織の趣味の話である。誰だって好きなものの話になると気分が良くなるはずである。伊織に気持ちよく話をさせれば、都合の悪い話題から逸れていけるはずである。
そう期待したが、伊織はうんともすんとも言わなかった。翔真の内面を探るかのように凝視してから、ふいと顔を背けて文庫の棚を見る。スッと伸ばされた手が、一冊の本を抜く。冷徹な横顔。自分はもう用無しか。声をかけてきたのはそっちなのに。
非情にも無視され胸が悪くなったが、それならそれでいいとポジティブに考えた。苦手な会話なしで、物理的に離れられるチャンスが訪れただけだ。
この機会を逃すまいと本を棚に戻そうとしたその時、西原、と伊織に名前を呼ばれた。手が止まる。体が固まる。無言で伊織の顔を見遣ると、ばっちり目が合った。
とてつもなく嫌な予感がした。険しい顔をした大人に呼び出された時みたいな不安感が胸に広がる。翔真が抱いている懸念など知る由もない伊織が、やおら唇を開いた。
「西原、この前学校で、俺の本触った?」
「……え?」
「触った?」
「……え、な、なんでだよ。ひ、人のもの、勝手に触るわけないだろ?」
質問を噛み砕いて飲み込むのに数秒かかった。一拍も二拍も置いてようやく返した否定の言葉には、隠しきれていない動揺が表れていた。嫌な予感は、最悪な形で的中してしまった。
バレている。本に触ったのがバレている。なぜバレた。本は元の場所に戻したはずだ。まさか、入れる向きが間違っていたのか。上下か裏表が逆だったのか。
自分はどこでミスをしたのかと記憶を遡っていると、もしかして、と思い当たる節が見つかった。
あの時、表紙を見たくてカバーを外した。そこまでは問題なかったはずだ。問題だったのは、外したカバーを戻す時だ。慣れていない上に慌てていたせいもあり、綺麗に付け直せていなかったのかもしれない。それで、疑問を持たれてしまったのか。誰かが本に触ったと。それは、体育の授業に遅れて参加した翔真ではないかと。
「ちょうど、今西原が持っている本を、読み進めていた時だよ」
感情の読み取れない声でさらりと付加した伊織が、抜き出した本を棚に戻した。淡々と指摘された翔真は、まだ自分の手元にある本に視線を落とす。『殺戮にいたる病』。伊織が読んでいるのを知らなければ、絶対に手に取りはしなかった本である。
伊織が異変を覚えた際に読んでいた本と同じ本を、翔真は今持っている。翔真は本を読まない。此奴は本を読む人間ではないと、恐らく伊織も察している。偶然にしては、出来すぎている。故に、伊織は翔真への疑いを深めているのだろう。
もう誤魔化しは効かないと分かっていながらも、意固地になっている翔真は形だけでも足掻いてみせた。
「だ、だから、なんだって言うんだよ。俺はちょうど、この本が気になっただけであって」
「本、読まないよね」
「よ、読む。読むし。学校では読んでないだけだし」
「じゃあ、最近読んだ本教えて」
グサッと刺された。一瞬で言葉が詰まった。黒目が右へ左へうろうろする。最近読んだ本。そんなものはない。一ページも読んでいないのだから。
伊織に痛いところを突き刺され、翔真は血だらけになった。無い知恵を絞って適当なタイトルを作り上げようにも、何一つ浮かんでこない。目に入った本のタイトルを引っ掴んで晒し上げようにも、内容にまで踏み込まれたら答えられない。
本を読む人であれば簡単に答えられるはずの問いでも、一冊も読んでいない翔真には難問だった。挽回できる策を見出せない。見事なまでの撃沈である。
「嘘吐くの下手くそだね。外したカバーを付け直すのも下手くそだね」
言葉だけで翔真を追い込んだ伊織の口から落ちたのは、シンプルな暴言だった。翔真は頭に血が昇りそうになる。自覚していても、いざ他人の口から言われると腹が立つ。言い返してやりたいと喉の奥に熱が集中したが、舌が固まったように動かず結局声にはならなかった。
押し寄せる負の感情で身体を熱くさせる翔真に気づきもしない伊織は、下手くそだと貶すだけ貶して口を閉ざした。本に触った犯人は翔真だと断定している様子なのに、翔真の行動を咎める気配がない。ただねっとりとした嫌な感じを残してくるのみである。
弄ばれている気がした。これなら、気持ちの悪い生物でも見るような目を向けられた方がましである。寧ろ、そのようなリアクションになるのが普通なのではないか。
地道に伊織の情報を得ているはずなのに、訳の分からない謎が増えてしまった。付き纏われているのに気づいていながら、何の感情も表に出さないのが逆に恐ろしく感じてしまう。伊織の考えが読めない。
「『殺戮にいたる病』は、初心者にはハードル高めの本だと思うよ」
半端な形で途切れた会話を、脈絡のない言葉で伊織が繋いだ。いきなりすぎて咄嗟には喋れない翔真を置いて、伊織は文庫売り場の正面へ向かう。商品に視線を落とし、一冊の本を手にするとすぐに戻ってきた。伊織の言動についていけずにいる翔真の前に、マイペースに事を進める伊織が本を差し出す。頭に疑問符が大量生産される。
「これ、おすすめ」
「え……」
「こっちの方が、本読むの慣れてなくても読みやすいと思う」
押し付けられ、受け取らされた。翔真が状況を把握する間もなく、もう用はないとばかりに伊織はさっさと姿を消した。今度はいくら待っても戻ってこなかった。店を出たのかもしれない。
渡された本を見た。黄色が目立つ明るい表紙だった。主人公と思しきキャラクターが中心に描かれている。『殺戮にいたる病』と違って、タイトルは簡単に読めた。『成瀬は天下を取りにいく』
読めるタイトルだったものの、翔真は人知れず困惑してしまった。本は読まない。読めない。羅列された活字を見ると酔ってしまいそうになる。
でも、これは、この本は、情報収集している伊織からおすすめだと差し出された本だ。全くもって理由は分からないが、間違いなく伊織に勧められた本だ。翔真の中で、伊織は親友の設定だ。その相手から推薦された本を、読む読まないは別として、買わないのはどうなのか。
翔真は表紙を見て唾を飲んだ。期待に胸が膨らんだ。これは使える。親友から勧められた本としてSNSに投稿できる。シャーペンについて投稿した時に文房具好きの人が反応してくれたように、今度は本好きの人が反応してくれるかもしれない。いいねが貰える絶好のチャンスだ。親友と仲良くできていることもアピールできる。
決断を下した翔真は一冊を棚に戻し、一冊を手にしたままレジへ直行した。商品を店員に渡す。鞄を弄り財布を取り出す。初めて本を買う。内心緊張していた。高揚にも似ていた。
読めるだろうか。読めないかもしれない。読めずに保管してしまうかもしれない。それでも伊織が、ネット上で親友にしている伊織が、勧めてくれた本である。買って表紙の画像付きで投稿することに意味がある。いいねを貰えるはずである。
「カバーをお付けしましょうか?」
商品のバーコードを通し、値段を伝えてくれた店員に事務的に尋ねられた。翔真は財布の中の小銭を掻き集めていた手を止めた。斜め上に目を向ける。脳裏に伊織の姿が浮かぶ。
本にはいつもカバーを付けて表紙を隠している伊織。その伊織が言った。下手くそだね。カバー付け直すの下手くそだね。下手くそ、下手くそ。
胸や頭の奥の方がじわじわと熱を持ち始めた。静まっていたはずの腹立たしさがむくむくと膨れ上がっていく。
「お願いします」
ほぼ衝動的に言っていた。下手くそが頭の中を縦横無尽に駆け回る。下手くそ。下手くそ。下手くそ。
翔真は乱暴に小銭を手にし、トレイに置いた。置く時のみは、印象が悪くならないよう意識して丁寧に置いた。ちょうどあった。手早くカバーを付け、翔真の出した小銭を確認した店員から本とレシートを受け取る。
店員が付けてくれたカバーを見た。綺麗な見本だった。これで慣れるまで練習する。もう下手くそなどとは言わせない。必ず見返してやる。強い気持ちを胸に、翔真は書店を後にした。
外の空気を思い切り吸って、思い切り吐く。本や財布を鞄にしまった翔真は気持ちを切り替えた。まだやるべきことがある。こちらが本命である。
駐車場の出入り口まで向かうと、左右を交互に見た。翔真の自宅へ続く道とは逆の方向で、遠くを歩いている伊織の後ろ姿を発見する。急ぎ足で突き進んだ。
決してダッシュはせず、早歩きで地道に距離を縮めていく。そうしているうちに、見慣れた校舎が見えてきた。また登校している気分を味わってしまう。癖で校舎に入ってしまわないよう、翔真は伊織から目を離さずに尾行を続けた。
伊織は校舎へ続く正門を通り過ぎていく。遅れて翔真も素通りした。ここからどこまで歩いていくのか。伊織の家は近いのか、遠いのか。また、どのような家に住んでいるのか。謎に包まれたその全てが、今日、判明する。
翔真は口角が持ち上がりそうになった。唇を噛んで押さえ込む。一人で歩きながらにやにやなどできない。伊織から目を離したくないため、俯いて顔を隠す行為もできない。
歪みそうになる表情を懸命にコントロールする翔真は、帰宅中のただの学生です、という何でもない顔を作って貼り付けた。粘着力はない。すぐに剥がれそうになる度に強く擦り付けた。
校舎の前を通り過ぎてから、二十分程度が経っただろうか。その間、伊織は一度も振り返らなかった。奇跡的に気づかれていないのかもしれない。この調子で順調に進んでいけば、いずれは伊織の家が分かる。着々と知りたい情報に近づいてきているのを実感して、呼吸が荒くなった。
数十メートル先を歩いていた伊織が、急に足を止めた。ワンテンポ遅れて翔真も立ち止まる。全身に緊張が走った。伊織の横顔が見えた。まずい、と逃げる姿勢に入ったが、伊織はそれ以上は首を回さず、顔を向けた方向へ徐に歩き出した。
間一髪で危機を免れたものの、翔真は小首を傾げてしまった。まっすぐ帰宅するにしては不自然な動きだ。帰り道の途中で不意に気が変わったような、目に入ったものに好奇心を刺激されて見に行くような、そんな雰囲気だった。
止めた足を踏み出した。向かった先に何があるのか。伊織の気を引いたものは何なのか。早く見たい。早く知りたい。伊織に関連する情報は全部欲しい。何だって欲しい。
気づけば大股の早歩きになっていた。今にも駆け出してしまいそうだった。自制した。我慢した。この最終局面で衝動に駆られてしまったら、計画が水の泡となる恐れがある。冷静さを失ってはならない。
伊織が曲がった場所まで辿り着いてすぐ、翔真は顔を横に向けた。短い下り坂の先に、滑り台やブランコなどの遊具があった。公園だ。
遊びに入ったわけではあるまいと伊織を探すと、設置されたベンチの辺りでしゃがんでいるのを見つけた。何気なくその足元に目を向けて。息が止まった。
猫がいた。白と黒の毛色をした猫がいた。野良猫だろうか。伊織は野良猫に引き寄せられたのだろうか。
猫は伊織を警戒していない。寧ろ媚びるように、甘えるように、自ら伊織に擦り寄っている。家を飛び出した飼い猫の可能性が浮上したが、そのような距離感でもない気がした。
伊織は手の甲で猫を撫でている。伊織に心を開いているらしい猫は逃げない。完璧にコミュニケーションが取れているのを見るに、猫との触れ合いは昨日今日に始まった話ではないことが窺えた。伊織はかなりの頻度で猫と戯れているのではないか。
滅多に見られないであろう珍しい光景を、翔真は目に焼き付けた。目に、焼き付けた。そこで翔真はハッとなった。鋭い刃物で身体を刺し貫かれたかのように、翔真の中で閃きがパチンと弾けた。
伊織と猫。親友と猫。イケメンと猫。かっこいいとかわいいの融合。SNSで受けそうな画。興味を引きそうな画。これを収めないでどうするのか。
翔真は忙しない動作でスマホを引っ張り出した。伊織が猫と別れる前に、この眼福な画を撮らなければ。こういうことがあったと言葉で説明するよりも、画像を載せて視覚的に訴えかけた方が伝わりやすい。おまけに、親友はイケメンであることの証明にもなる。
カメラアプリを開き、伊織と猫を映した。二本の指で画面を拡大する。手が震えていた。本の奥付を撮った時よりも震えていた。被写体が人か物か、生があるかないかの違いだろうか。
今回は人間と動物。生きている。撮っていることに気づかれる場合がある。そうなる前に、早く撮らなければ。シャッターチャンスがいつ終わるか予測ができない。何でもいいから撮る。いいから撮る。撮る。撮れ。撮れ。撮れ撮れ撮れ。
画面を、タップした。数回、タップした。回数分のシャッター音が、やけに大きく耳に響いた。無意識に息を止めていた。苦しくなった。我に返った。息をした。画面に意識を向けた。血の気が引いた。後退った。シャッター音が鳴り響いた。ビクッと肩が上がった。誤って画面に指が触れてしまった。
画面の中で、翔真は伊織と、目が合っていた。伊織は確実に、自分にスマホを向ける翔真を、認識していた。スマホを弄る角度ではなく、写真を撮る角度であることにも、きっと気づいた。
猫から手を離した伊織が、徐に立ち上がった。猫がびっくりしたように逃げ出した。伊織は猫には目もくれず、まるで感情の読めない表情で翔真を凝視していた。驚きとも憤りとも言えない表情だった。
視線だけで追い詰められている切迫感を覚えた。その圧に堪えきれなくなった翔真は、弾かれたように来た道を駆け出した。
伊織の写真を撮った。許可など取っていなかった。紛れもなく、盗撮だった。書店で顔を合わせた時のように、偶然、などと言える状況ではなかった。
自宅まで追いかける計画は中止だ。中止せざるを得ない。続行はできない。伊織の自宅を知るのはまた今度だ。
全力疾走しながら、時折背後を見る。伊織は追いかけてきていない。それでも、不安だった。翔真は走り続けた。慣れない道をがむしゃらに、走り続けた。
もし伊織に捕まったら、写真を撮ったことを吐かされる。その後、問答無用で消されてしまうだろう。そんなこと、あってはならない。せっかく撮った貴重な写真を、全て失うなどあってはならない。翔真はスマホを強く握り締めた。
どのくらい風を切っていたのか。息が苦しくなった。後方に首を巡らせる。伊織はいない。翔真はペースを落として足を止めた。心臓が爆音を立てていた。汗だくになっていた。服が肌に張り付いていた。濡れた体が気持ち悪かった。
手の甲で流れる汗を拭って、乱れに乱れた呼吸を整える。翔真はスマホを触った。撮影した写真を確認する。伊織と猫ははっきりと映っている。伊織は間違いなくイケメンだ。確実に、猫と戯れているイケメンの写真だ。
興味を示してくれる人は多いのではないか。三桁や四桁、いや、もしかすると、五桁以上ものいいねが貰えるかもしれない。
欲望の塊みたいな妄想を繰り広げながら、翔真は画面をスワイプした。伊織と視線が絡み合った。心臓が飛び跳ねる。スマホを取り落としそうになる。
翔真は顔を上げ、辺りを見回す。どこにも伊織はいない。再び画面を見る。目が合う。そんなはずもないのに、画面に映る伊織が今にも喋り出しそうな恐ろしい気配を感じてしまった。
汗が額を伝う。拭いもせず、翔真は突発的に該当の写真を消去した。こちらを見ていない伊織の写真に画面が変わり、ホッと胸を撫で下ろす。帰ったら写真を選別してSNSに投稿しようと、気を取り直した翔真は家路に就いた。

