嘘と欲求

 伊織に疑われてから数日の間は、観察と尾行を控えていた。と言えば聞こえはいいだろうが、実際は必死に自制していた。目で追い後を追うのがいつしか癖になっていたために、無意識にしてしまうそれらの行動をとにかく我慢していたのだ。
 控えようと決意すること。それ自体は容易かった。やめようと思えばやめられると呑気に構えていたからだ。しかし今は、癖になってしまった行動をやめることの難しさを痛感している。
 我慢するのはストレスだった。SNSのいいね数が、シャーペンの投稿以外変わらずゼロのままなのもストレスだった。画像を載せれば反応を得られやすいと学んだのに、未だ活かせずに停滞している現状もストレスだった。
 この我慢がいつまで持つか分からない。もう持たないかもしれない。もっと伊織を知りたくて、親友にしている伊織を知りたくて、伊織本人や伊織に関連する何かを写真に収めたくて、まとまったいいねが欲しくて、たまらない。
 もう夏休みに入ってしまう時期だ。長期休暇を挟んでしまうといずれ自棄を起こしてしまうかもしれない。道を踏み外してしまう前に、伊織の情報を、いいねが貰えるとっておきの情報を、一つでも多く蓄えておかなければ。安心できない。夏休みの間に親友に関する事柄を一つも投稿できないなど、そんなことがあっていいわけがないのだから。
 結局、我慢は一週間も持たなかった。伊織には一度勘付かれてしまった。ならばもう後をつけるもつけないも一緒なのではないか。どちらを選んでも警戒されているのだとしたら、行動を抑えずに伊織を追いかけ情報を収集し、機会があれば写真を撮った方が絶対に良い。半ば開き直り、我慢をやめた翔真は意気込んだ。忍耐力がなかった。
「次、体育なんだけど。怠すぎる」
「こんな暑い中やってらんないよね」
「体育嫌いだわ。着替えるのも面倒いし」
「激しく同意」
 前の授業が終わったばかりの休憩時間、翔真の周りの席の女子生徒三人が文句を垂れていた。その会話で、次の授業が体育であるのを翔真は思い出す。女子生徒の言葉に引きずられるように、翔真もどんよりとした気分になってしまった。
 聞こえた愚痴には翔真も同意である。ここで会話に割り込める男子はいかにも陽キャの人間だが、翔真はそうではないため無言のままでいた。まず割り込む気など毛頭なかった。心の中で共感するのみである。
 翔真の運動能力は、見るに堪えない奇怪な動きをしてしまうほど音痴なわけではないが、かといってできると言えるわけでもない中途半端なレベルだった。チームの足手纏いになったりギリギリならなかったりするくらいのレベル。できるかできないかではっきりと分別するなら、確実にできない方だ。
 気にしている伊織に無様な姿を見られているかもしれないと思うと、体育の時間だけ木っ端微塵に砕け散って消えてしまいたくなる。伊織は翔真よりも断然動ける人だった。
 着替えるために別クラスへ移動する女子生徒を尻目に、翔真は先程の授業の教科書やノートを机の中に押し込んだ。体操服などの入ったバッグを手にしながら、さりげなく後ろを振り返る。
 すぐに伊織を見つけた。ちょうど、制服を脱いでいるところだった。女子はまだ数名残っている。全く気にしている様子はないが、それは他の男子も一緒だった。男子よりも女子の方が気まずそうで、俯きながら慌てて教室を出て行く。
 入れ違いで他クラスの男子が続々と入ってきた。運悪く伊織との間に入られ、姿がよく見えなくなってしまう。強制終了である。しかしながら、例え同性であっても着替え中をじろじろ見るのは変態行為極まりないため、それはそれで良かったのだと前向きに捉えた。
 手にしたバッグを開け、体操服を引っ張り出す。緩慢な動作で制服を脱ぎ、これから運動をします、という格好に着替えた。深い溜息が漏れそうになった。伊織が動いている姿を見られるのは得だが、自分が動いている姿を伊織を含めた他の生徒が目にすることを考えると、やはり消滅してしまいたくなった。
 仲の良い友人とわちゃわちゃ喋りながらぞろぞろと教室を出て行く生徒の姿をぼんやりと眺める。人混みが落ち着いてから出て行こうと、何をするでもなく突っ立っている翔真の目に、群衆に紛れるように移動する伊織の姿が映った。反射的について行こうとしたが、数人で固まって廊下に出るグループに阻まれてしまう。タイミングを逃した。伊織の姿は見えなくなった。翔真は思わず息を吐く。仕方がない。
 体育が絡むと無気力になってしまう翔真は、先に行った集団に加わろうともせずに教室を見回した。まだ着替えている生徒がいた。先にトイレにでも行っていたのかもしれない。人がほとんどいなくなっていることで焦りを感じているのか、ヤバいヤバいと慌てた声が聞こえてきそうだった。よく見るとその生徒は、伊織の近くの席を制服置き場として借りていた。
 伊織の近く。翔真の視線が、まるで何かに引き寄せられるように伊織の席へ移動する。無人の席。机の上には伊織の制服。机の中には伊織の私物。意図的に自制をやめた翔真の中で、ある黒い衝動が鎌首を擡げる。唾を飲んだ。息が漏れた。心拍数がじわじわと上がった。
 早着替えのようなスピードで、制服から体操服に変身した生徒が、バタバタと教室を去って行く。その際、目が合った。行かないのかと一瞬不思議そうな顔を浮かべられたが、他人のことなど気にしていられないとばかりにすぐ逸らされた。廊下をすたすたと足早に進んでいく足音を耳にする。程なくして、音が聞こえなくなり、気配も感じられなくなった。
 無音の教室に、翔真だけが残った。翔真しかいなくなった。他の誰もいなくなった。自分しかいない状況を自覚すると、不意に芽生えた衝動がむくむくと大きくなっていくのを実感した。
 良くないと分かっていた。分かってはいたが、欲求を抑えられなかった。伊織を知りたい。伊織の中身を知りたい。ただ目で追うだけでは得られない伊織の内側を知りたい。伊織の何もかもを知りたい。伊織のことは他の誰よりも知っていたい。知っていないといけない。伊織は親友なのだから。
 衝動に突き動かされるがまま、翔真は足を踏み出した。伊織の席に照準を合わせる翔真の瞳孔が開いた。呼吸が荒くなった。心音が近かった。唇が乾いた。舌先で舐めて濡らした。熱い息が漏れた。一歩、また一歩、伊織の席へ近づいた。
 たった数日、我慢していただけ。それだけなのに、予想以上に反動は大きかった。今ならまだ間に合う、引き返すべきだと分かっていながらも、翔真は自分で自分を止められなかった。教室に誰もいないことが、体育が終わるまでは誰も帰ってこないことが、翔真の背中を強く押していた。
 授業に間に合わないかもしれないだとか、厳格な体育教師に叱咤されるかもしれないだとか、生徒にサボりだと責められてしまうかもしれないだとか、そんなことは今はどうでもよくて、ただ目の前にある、喉から手が出るほど欲しいものを入手したい一心だった。息が詰まりそうなくらいのリスクを冒してでも、翔真は伊織の情報が欲しくてたまらなかった。
 伊織の机の側で、ゆっくりと足を止めた。手の届く距離に迫った数々の誘惑を前に、くらくらしてしまいそうなほど息が上がっていた。痛いくらいに激しく鼓動が早鐘を打っていた。
 翔真は机上に置かれた、伊織の着ていた制服を見下ろす。意外にも、畳み方は雑だった。適当に丸めて適当に置いただけのように見える。思わず手を伸ばした。指先が小刻みに震えていた。恐怖からではなかった。恐怖は感じていなかった。
 これだけ形が崩れているのであれば、こちらが多少手を加えても気づかれる心配はないのではないか。誰も自分の制服を触ろうと企む人間がいるとは思うまい。
 でも、もし、と翔真の中で仮定の話が頭に浮かぶ。でも、もし、気づかれたら。気づかれてしまったら。分かっている。どうなるかなど。分かっている。でも。抑えられない。止められない。
 伊織を知りたい。何でもいいから。どんな些細な事柄でもいいから。伊織を知りたい。それだけだ。それだけなのだ。たったそれだけのことで、翔真は一線を越えてしまう直前まで来てしまっていた。
 視界が急激に狭まる。ゆるゆると伸ばした手が、伊織の制服に触れようとしている。ふらふらと浮かせた足が、引かれた線を越えようとしている。
 まだ間に合う。ギリギリ間に合う。これを逃せば、もう引き返せない。正しい道へと繋がる経路は絶たれ、戻れなくなる。分かっている。分かっているはずなのに。手も足も止まらない。止められない。口元が無自覚に歪んでいくのも、止められない。
 どろどろの真っ黒な欲求が、脳内を満たしていった。五感の全てが奪われ、正常でなくなっていった。
 瞳孔が開き切っている翔真の指先が、伊織の制服に、カッターシャツに、触れた。瞬間、退路が絶たれた。勝てなかった。目先の欲望と、目先の誘惑に、勝てなかった。
 でも、全部、見つからなければ、そんな事実は、なかったのと同じ。見つからなければ、問題など、ない。
 徐々に、しかし明確に、倫理観が狂い始めていた。軋む歯車に気づいていながら見て見ぬ振りをする翔真は、本能のままに伊織のカッターシャツを掴み取る。両手で広げ、そうするのが当然であるかのように裾の内側を弄った。取り付けられているタグを探し、指先で摘んで確認する。
 表記されていたサイズは翔真と同じ。体型に大差はないのは分かり切っていたが、可視化されたものを目にすることで、より確かな情報となるのだった。
 タグから目を離す。息が苦しかった。そこで初めて、無意識のうちに息を止めてしまっていたことに気づいた。思い出したように呼吸をすると、ふわりと、どこか気を引く匂いが鼻腔を掠めた。手元の衣服からだった。
 翔真は静止して逡巡した後に、ごくりと喉を鳴らした。徐にシャツを顔に近づける。今度は意図的に匂いを嗅ぐための呼吸をする。
 夏であるためか多少の汗臭さはあるものの、顔を歪めてしまうほどの悪臭はしなかった。至って清潔な匂い。長時間でも問題なく嗅いでいられそうな匂い。伊織の匂い。親友の匂い。
 数分前まで他人が着用していた衣服の匂いを無断で嗅ぐ。変態チックな危うい行動をしている自覚はあった。それでも、歯止めが効かなかった。やめられなかった。若干汗の混じった伊織の制服の匂いは、癖になりそうなものだった。
 その人を象徴する匂いによって更なる欲求が刺激された翔真は、隙間を埋めるようにシャツを鼻に押し付けた。汚れた身体の内側を綺麗にするかの如く、そこから香る伊織の匂いを目一杯取り込む。吸っては吐いて。吐いては吸って。そうして嗅げば嗅ぐほど、理性を失くしていくようだった。
 気の済むまで匂いを嗅いで、シャツから顔を離す。はあ、と熱い吐息が漏れた。人の服の匂いを思い切り嗅ぐなど初めての経験だ。高揚感を覚えつつも満足した翔真は、カッターシャツを大雑把に元に戻した。
 次は机の中を探ろうと、翔真は椅子の背に片手をつきながら膝を折った。すると、ポキッと小枝が折れるような音が鳴った。ドキッと胸が跳ね、翔真は動きを止める。膝の音だった。翔真以外の誰かが出した音ではない。
 意図しないタイミングで鳴った音に敏感に反応してしまった翔真は、元々潜めていた息を更に潜めた。きょろきょろと辺りを見回す。強迫観念に囚われたように、教室に誰もいないことを何度も何度も確認する。廊下に誰の気配もないことも、神経を張り巡らせてサーチする。
 いない。いない。誰もいない。ここには誰もいない。誰かが来る気配もない。間違いない。
 翔真は慎重に息を吐き出した。普段は気にもしない微音が、今は命取りとなってしまうのではないか。懸念するあまり全身が強張る翔真は、人知れず切迫していた。悪事を働いている意識があるからだったが、その感情を押さえ込んで捩じ伏せるほどに情報欲が飢えていた。
 屈んだことで必然的に距離が近くなった伊織の制服。息を吸う度に嗅覚を刺激する匂いがまた、翔真の理性をじりじりと蝕んでいくようだった。
 気を取り直した翔真は、なるべく音を立てずに椅子を引いた。そろそろと中を覗き込む。外からは見られなかった場所には、伊織の教科書やノートが余裕を持って入れられていた。
 高校の教材は何かと多い。その日に受ける授業で必要なものを全て押し込むのは困難だ。目の前の机の中にしまわれているのは、二、三教科分くらいだろうか。他は鞄に入ったままなのだろう。常に入れ替えながら、上手く机を使っているのかもしれない。入らなくなる限界まで押し込みがちな翔真とは大違いである。
 ゆとりのある机の中に、そっと手を差し入れた。ただ覗くだけでは満足できない。欲に急かされるがまま、翔真は適当なノートを引っ張り出した。表紙に流麗な文字で、数学、と書かれている。
 当たり前のようにページを開き、中に目を通す。過去に黒板で見た字と同じ字が、ノートにも並んでいた。翔真のノートよりも圧倒的に分かりやすくて見やすかった。頭の良い人は、ノートの取り方も違うようだ。
 翔真は伊織の筆跡を、意味もなく指でなぞった。少しだけ凹凸があり、確かに伊織はここに直接シャーペンを走らせたのだと実感した。シャーペンはきっと、翔真が以前書店で買ったものと同じものだろう。
 そこでふと、これだと勢い込んで購入したシャーペンは、本当に伊織と揃いのものなのかどうか確認したくなった。いつも遠くから眺めていたため、未だに現物をしっかりとは目にしていないのである。
 音を立てず静かにノートを閉じた。元あった場所にゆっくりと差し戻す。短く息を吐いてから、次はペンケースに触れようとした。その時、あるものが視界に映り込んだ。一気に意識を奪われる。瞳孔が開く。目が離せなくなる。
 手が勝手に動いた。シャーペンのことが頭から吹き飛んでいた。探し求めていたものをようやく見つけ出したみたいに、体温が急激に上がっていた。全身が興奮に包まれ始めていた。
 そこにあったのは、文庫本だった。伊織が休憩時間の度に読んでいる文庫本だった。翔真は不意打ちで文庫本を発見した。ペンケースに寄り添うようにしてそこに存在していた。
 本来ペンケースの感触を覚えるはずだった指先が、紙の感触を拾った。カバーである。頭に血が昇りそうになった。憎きカバーごと乱暴に引っ掴んで引っ張り出したい衝動に駆られた。
 攻撃的な思考と行動に飲まれそうになるのを、深呼吸をして堪える。ここで荒々しい所作になってしまったら、慎重に事を進めてきた意味がなくなる。焦ってはならない。ずっと知りたかった情報が、煽っているかのように無防備なまま眠っていたとしても。
 逸る気持ちを振り払いながら、丁寧に本を引き寄せた。このまま順調に行けば、伊織が好んで読んでいるジャンルを知ることができる。少なくとも、今読み進めている本がどのようなものなのかは確実に分かる。重要な情報を得られる。
 カバーが見えてきた。継続してゆるゆると引き抜いた。本の重みを感じる。咄嗟に両手で持ち直し、本を開く姿勢に入る。自然と呼吸が荒くなる。表紙に指を引っ掛ける。全貌が明らかになるまであと少しである。堪らず唇を舐める。高揚する。
 いよいよ本のタイトルが見えそうになったその瞬間、耳を劈くような爆発音がした。同時に両肩が持ち上がり、心臓が跳ね上がった。音の正体は授業の開始を知らせるただのチャイムであったが、翔真には目の覚めるような爆発音に聞こえた。
 強烈な音によって眼前の霧が晴れ、じわじわと視界が開けていく。目に水分が入った。沁みた。反射的に手で擦った。前髪や額が濡れていた。多量の汗をかいていた。翔真は黙って手の甲で拭った。
 授業が始まった。どうする。行くか、行かないか。考えた。いや、考えるまでもなかった。ここまできたら続けるしかない。土壇場で引くなどできない。手は既に、伊織の秘密に触れているのだから。
 チャイムが鳴っても意味などなかった。翔真はやめなかった。手についた汗を自身の服に擦り付け、再び本を触る。表紙を開く。もう何も、行動を阻むものはない。翔真は止まらない。伊織を親友にしてからずっと欲しかった情報が、勢いよく目に飛び込んでくる。
 『殺戮にいたる病』
 明らかとなったタイトルを見て、翔真の思考がピタッと止まった。嬉々とした表情のまま硬直した。こめかみを汗が伝う。目が文字を凝視する。だんだん奇妙な焦りが芽生え始める。汗を拭う。唾を飲む。苦笑しそうになる。
 読めなかった。一部の漢字が、翔真には読めなかった。読書慣れしていない上に漢字の読み書きも弱い翔真には、読めなかった。ただ物騒な意味の漢字であるのは想像できる。タイトルの読み方が分からなくとも、字面から受ける印象は禍々しいものだった。
 この本はホラー系だろうか。伊織はホラー系が好きなのだろうか。傾向を分析するには圧倒的にデータが足りないが、ひとまず、伊織は怖そうな本を読んでいると脳内メモを取っておく。タイトルは読めなくとも、一歩、否、二歩も三歩も前進できる貴重な情報だ。ようやく手に入れた情報だ。翔真は小躍りしてしまいそうになった。
 求めていたものの一部を入手して意気揚々としてしまう翔真だったが、心が満たされたのは数秒間だけだった。全体の一部分だけでは足りないものがある。どうせなら、タイトルの読み方も知りたいと思った。知れば秘密の輪郭が今よりもはっきりするのではないか。
 どこかにルビが振ってはいないかと紙の束をぱらぱらと捲る。活字だらけだった。読書をする習慣がない翔真には、まるで解読できない暗号のような文字に見えた。特定のページを開いて目を通そうとしているわけでもないのに処理しきれず、酔ってしまいそうになる。
 途中、伊織が挟んでいた栞に引っかかった。半分近くは読み終えているようである。栞は広告付きの紙ものだ。拘りはなさそうだと素早く頭に叩き込む。
 左手に感じていた紙の厚さがなくなり、最後の方で目的のページを見つけた。奥付と呼ばれるページであった。翔真は本を顔に近づけ、ルビが振られたタイトルを記憶するようにぶつぶつと呟く。
「さつりくにいたるやまい。さつりく。さつりく。さつりく」
 馴染みのない読みを復唱するも、馴染みがないためにすぐ忘れてしまいそうだった。別のことを考えたら分からなくなりそうである。
 覚えられる自信がないと意気消沈しそうになったところで、電光石火の如く閃きが落ちた。そうだ。スマホがあるではないか。スマホで撮って保存しておけば、忘れてしまっても思い出せるではないか。今更画期的な道具の存在に気づくなど、なんて自分は馬鹿なのだろう。あれだけ写真を撮ろうと息巻いていたのに。
 本を持ったまま腰を上げた翔真は、机と机の間を縫って最前列の自席へ向かった。制服を弄りスマホを引っ張り出すと、すぐにカメラを開いた。そこで一旦、辺りを見回した。変わらず人の姿も気配もない。翔真はまた自分の世界に戻る。
 対象にスマホを翳した。手が異様に震えていた。なかなかピントが合わない。翔真は本を机の上の空いたスペースに置いた。ページが閉じないよう指先で固定する。スマホを持つ手に集中する。息を止めた。襲いかかる震えを蹴散らそうとした。苦しくなった。ピントを合わせた。画面下にある白い丸を親指で押した。シャッター音。きょろきょろする目。流れる汗。苦しさが増した。慌てて息を吸った。手の甲で汗を拭った。本のページが自動的に閉じた。ゆっくりと息を吐いた。
 緊張感が抜けない中、翔真は撮影したばかりの写真を確認する。ブレてはいない。問題なしだ。これでもし読み方を忘れてしまっても、焦る必要はなくなる。画像を消去しない限り、いつでも見られる。
 微かな安心感を覚え、僅かな余裕が生まれた翔真は、今度は表紙を見てみようと更なる欲をかいた。閉じた本に触れ、常に立ちはだかっていたカバーを慣れない手つきで剥ぎ取る。
 血液で書かれたようなタイトルと、首のない石像が目に入った。石像の背中には大きな翼が生えている。全体的におどろおどろしい雰囲気だったが、どこか神秘的な印象も受けた。不思議な感覚だ。白を基調としており、シンプルでありながらも一際目を引く表紙だとも思った。念のため、この表紙も撮っておこうと翔真はスマホを翳す。
「にしはらー、どこにいるー? もう授業始まってんだけどー」
 突然聞こえた大声に、口から心臓が飛び出そうになった。クラスの体育委員の声だ。いつまでも顔を出さない自分を探して呼んでくるよう教師に言われたのかもしれない。
 一瞬のうちに分析しながらも、翔真は焦っていた。絶対教室は確認するはずだ。何をしていたのか知られたら平和に生きていけなくなる。
 手にしていたスマホを制服の下に隠し、外したカバーを大慌てで元に戻す。上手くいかない。挟めばいいだけの状態ではなかった。カバーの内側の、紙と紙の間に表紙を差し込んでいるような形だった。動揺している上にカバーを付けるのは初めてであるため、全く持って手際よくできない。
 カバー如きに悪戦苦闘している間にも、足音は徐々に近づいてくる。やっとの思いで付け直したが、上手くできていないかもしれない。確認する時間も修正する時間もない。翔真は自分を信じ、足早に移動した。伊織の机の中に本を押し込み、立ち上がったところで体育委員が教室に顔を覗かせた。
「あー、まだここにいたのかよ。早く来いって」
 翔真を呼び寄せる体育委員は、何をしていたのかなどは聞かなかった。どうでもいいのかもしれない。多分、そうだ。地味で目立たない根暗な翔真の行動に、興味を持つ人がいる方が珍しい。
 伊織の席の近くで突っ立っているのに疑問自体は感じているかもしれないが、問われなければ何も答える必要はない。聞かれてもいないのに誤魔化す方が不自然だ。信じられないくらい嘘を吐くのが下手くそなのは、伊織に呼び出された件ではっきりしている。よって、余計なことは喋らないのが吉である。
 翔真は迷惑をかけたことのみ素直に謝り、体育委員の後を追うように教室を出た。結局、本の表紙の写真は撮れずじまいだった。