嘘と欲求

【親友に勧められたシャーペンを購入。デザインが結構かっこいい】
 パッケージを開封する前に撮った写真を添付し、短い文章を添えて送り出した投稿には、念願のいいねがついていた。朝の教室で誰とも連まずにいる翔真は、思わずにやけてしまいそうな顔で画面を見つめた。
 いいねはたった一つだけだが、それでも誰かの反応があったことを証明するには十分である。押してくれたのは、数少ないフォロワー、ではない。文房具が好きだという初めて見るアカウントだ。
 複雑な気持ちにはなったものの、この際誰でも構わないという願望の方が勝った。誰でもいいから反応してほしかった。翔真はいいねに飢えていた。砂漠に落ちた一滴の水滴が、瀕死だった翔真を延命させた。
 目論見通り、文字だけの投稿よりも画像付きの投稿の方が目に止まりやすいようだ。過去の画像なしの投稿は尽く無反応であった。誰の目にも見える場所に落としたつもりなのに、実際に落ちた場所は誰の目にも触れないゴミ箱の中。
 親友は本を読み始めたら物凄い集中力を発揮するなど、親友はジャンケンが強くて運が良いなど、親友は横顔が整っているなど、数打ちゃ当たる精神で、親友にした伊織の些細な情報の全てを吐露したが、掠りもしない無駄打ちばかりだった。
 伊織はイケメンなのに。親友はイケメンなのに。自分はイケメンの伊織と親友なのに。それなのに、なぜ、どうして。いつまで経っても現状は変わらないのか。ふとした時に歯噛みしてしまう翔真は思った。まさか、脚色や主観を加えていることが裏目に出てしまっているのだろうか。真実に嘘を織り交ぜて、都合の良い嘘を真実に飲み込ませることに失敗しているのだろうか。
 翔真は爪を噛みたくなるほどに悶々としていた。期待するなと言い聞かせているのに、心のどこかで期待しては毎回裏切られての繰り返し。胸にこびりつく黒い何かを誰にもどこにもぶつけられず、ストレスだけが溜まっていく。誰かのせいにしてやりたいが、誰も悪くないことは分かっている。誰も自分を裏切っているわけではないことも分かっている。
 そうして自己嫌悪に陥って、次に来るのは虚無感。しかし、時間が経てばまたネットの海に飛び込んでしまう。再び息苦しくなった時に垂涎していたいいねが届いた。それまでなぜかしていなかった画像付きの投稿に押されたいいねが、死にかけていた翔真に酸素を送った。同時に、見えていなかった新たな道を作り出した。
 やはり、画像だ。画像を載せた方が良いようだ。どうしてこんな単純明快なことに気づかなかったのだろう。もっと早く気づいていれば、もっと早くいいねが貰えて、もっと早く画像を利用する方法に移行できたかもしれないのに。
 一つのいいねで味を占めた甘っちょろい翔真は、これまでの方針を変えてみることにした。載せる画像は、伊織と揃いのシャーペンのように伊織に繋げられるものか、あるいは伊織本人を映したものか。翔真が望んでいる反応がすぐに得られそうなのは後者の方だろう。伊織はイケメンなのだ。そこは全く嘘ではない。
 それでも誰の目にも止まらないのは、ただイケメンと呟くだけでは信憑性に欠けるからかもしれなかった。文字だけならいくらでも嘘を吐ける。親友ではないのに親友と嘘を吐けるのと同じように。よって、伊織の画像を載せた方が良いのではないかという結論に至った。伊織の容貌を映した画像を載せれば、面食いの人たちが目敏く見つけ、きっと騒いでくれる。自分は、その伊織と、ルックスの良い伊織と、親友なのだ。
 しかし、実行に移すには一つ問題点があった。どのようにして伊織を本当の親友っぽく撮るかである。妙案を思いついたはいいものの、それらしく撮るのは少々難易度が高い。
 徐々に興奮が冷めていく感覚に陥る。来るかどうかも分からないチャンスが来るまでは、自分にできそうなことから順に進めていくしかないのかもしれない。できそうにないことは無理してやらない。翔真のささやかな理念である。
 展開を焦ると確実にへまをする。伊織本人よりも、伊織に関連づけられるものから詰めていくのが安全か。結果的には、いいねが貰えたら何でもいいのだった。
 翔真は緩んでいた表情を引き締めた。机の下に隠して見ていたスマホを切り、ポケットに突っ込む。伊織本人だろうが伊織関連のものだろうが、周りに誰かがいる中でスマホを向けてパシャパシャ撮るのは憚られる。
 それならば、どうするべきか。熟考する翔真は、机の上に両肘を立てて指先を組み合わせた。その上に顎を乗せ、どこを見るでもなく一点を見つめる。
 方針は決まったものの、誰にもバレないように撮影するのは容易ではないだろう。都合の良い展開ばかり想像していたせいで、立ちはだかっていた壁に気づかず真正面からぶち当たってしまった。衝撃に頭が痛くなりそうだった。
 ふっと瞼を下ろした。視界を閉ざすことで、嫌でも目に入ってくる余計な情報を一気に遮断する。散らばっている考えをまとめ、結論を下す。
 伊織のあれこれについては、これまで通り尾行して探る。写真については、その過程でタイミングがあれば撮る。ひとまずは、撮れる機会を待ってみるのがいいかもしれない。
 いつまでも結果が出なければまた方法を考え直せばいいだけで、最初から完璧にやり遂げようとする必要はない。焦るな。焦るな。平凡な自分にできることなど限られているのだから。
 翔真は言い聞かせながら、いいねを貰った興奮に飲み込まれないように大きく深呼吸をした。ゆっくりと目を開ける。生徒が一人、教室に入ってくる。出入り口に近い席に着いている翔真の前を、欠伸を噛み殺しているのか眠そうな顔で通り過ぎていく。
 組んでいた指を崩した翔真は、全体重を預けるように椅子の背に凭れかかった。最前列となり、頻繁には目に焼き尽くせなくなった伊織を思う。いつも本を読んでいるため、何とはなしに振り返っても、カバーに包まれた本を読んでいるだけだろう。万が一にもカバーが外されているわけもない。
 本のタイトルやジャンルを知りたければ、もう直接聞くしかないのだろうか。もし声をかけるのならば、鳴りを潜めている勇気の欠片を引っ張り出して掻き集め、それを思い切り振り翳す覚悟を決めるところから始めなければならない。
 考えただけで億劫だった。伊織を親友にしてはいるが、現実は全く親しいわけではない。話しかける行為は心理的な負担が大きかった。誰とでもフレンドリーに話せるタイプであればと思ったが、だったらそもそも、裏でこそこそと親友でもない人を親友になどしないだろう。
 慣れない行動をとってぎこちなくなるくらいなら、また伊織が書店に向かった時に追いかければいい。商品を選んでいる間は、決してカバーに邪魔はされない。それまではお預けだ。
 朝っぱらからうんうん唸り、今後についてある程度整理したところで、前触れもなく欠伸が出た。口を隠して深く息を吸い、深く吐く。目が濡れる。
 身を捩って椅子に座り直すと、傍で人の気配を感じた。影は机と机の間の通路を通り過ぎるわけでもなく、なぜか翔真の近くで立ち止まった。何か用があるのかと警戒スイッチをオンにする翔真は、徐に顔を持ち上げた。
 意思とは関係なしに悲鳴を上げそうになった。ガタガタと激しく音を打ち鳴らして椅子から転げ落ちそうになった。堪える。喉元まで迫り上がった声も出さずに堪える。代わりに、発声のエネルギーが胸部に集中するかのように、心臓がバクバクと轟音を立てて暴れ始めた。
「西原に聞きたいことがあるんだけど」
 仰天のあまり一人でバタバタして視線を彷徨わせる翔真を意に介さず、目の前の伊織は至って冷静に話しかけてきた。冷淡なのかマイペースなのか分からない。ただ、淡々とした声の調子や、翔真を見下ろすきつめの眼差しから察するに、驚かす意図があったわけではなさそうだ。
 本人に悪気はなくとも、伊織を意識している翔真にとっては心臓に負荷がかかりすぎる登場だった。
 激しく脈打つ鼓動を鎮めさせようと胸を押さえる。別に汗などかいていないのに額の汗を拭う仕草をする。気休め的な動作を考えもなしに繰り出しながら、翔真は脳内で伊織の言葉を復唱し、反芻し、咀嚼した。
 聞きたいことがある。何を。何を聞きたいのだ。伊織は翔真を見ている。聞きたいことがある。額ではない背中にじっとりと汗をかく。伊織は翔真を見ている。聞きたいことがある。まさかとは思うが、伊織に隠れてしていることが、バレてしまったのか。伊織は翔真を見ている。じっと見ている。翔真の内面に気づいているのかいないのか、その目からは判断できない。できないが、伊織が声をかけてくる理由が他に思い浮かばない。
 自然と目が泳いでしまう翔真はたじたじになった。一方的に話を進めはしない伊織が、はっきりとたじろぐ翔真の返事を待っている。伊織は翔真を見ている。翔真を見ている。見ている。翔真の目が泳ぐ。目が泳ぐ。泳ぐ。頭の中の思考も泳ぐ。思考も泳ぐ。泳ぐ。ゆらゆら、ゆらゆら。
「……俺に、話しかけてる?」
「目が合ってるし、西原の名前も出したよ」
 うんでもそうでもお前以外に誰がいるでもない独特な言い回しをする伊織は、ようやく返ってきた言葉が阿呆丸出しのようなものであっても苛立つ様子もなくゆったりと喋った。胸を覆う嫌な予感は一向に消えない。かなりまずい状況だった。
「な、なんだよ。俺に聞きたいことって」
 右へ左へ、視線がうろうろ。心当たりがあるのを全く隠せていなかった。自然と瞬きも多くなり、伊織と目を合わせられない。
 元々誰かと目を合わせて話をするのは苦手だが、だとしても落ち着きがなさすぎる。分かってはいるものの、いきなり演技が上手くなるわけでもない。もし伊織の聞きたいことが翔真の予想している事柄であるのなら、このリアクションが答えのようなものだった。
 一人で焦る翔真と違って冷静な伊織は、一旦翔真から目を離し、軽めに教室を見回した。翔真もつられて周りを見遣ると、少なくない生徒が物珍しげな表情で翔真と伊織を交互に見ていた。纏う雰囲気は異なるものの、どちらも口数が少ない性質で、だからこそ興味が湧いてしまう組み合わせなのかもしれない。
 じろじろ見られ好奇の目に晒されていることに気づいてしまうと、翔真は今すぐに逃げ出したい衝動に駆られた。殻に閉じこもって誰の目にも触れない場所へ瞬間移動してしまいたい。
「ここだと話しにくいから、ちょっと来て」
 ついてくるよう促した伊織が先に教室を出て行く。すぐに動けずに見送ってしまった翔真は、固まっている思考をフルスロットルで回した。
 まずい。人に聞かれたくない内容なら、ますます裏での行動に関しての可能性が高まってしまった。まずい、まずい。これはまずい。多分、ほぼ確定だ。それ以外あり得ない。いくら考えても、他に思い当たる節などない。まずい。非常にまずい。どうやって誤魔化せばいい。何のことかとしらばっくれるしかないだろうか。もしくはこのまま、ついていかない選択肢も。
 決断しかけて、いやいやと首を左右に振る。それでは明らかに変だ。逆効果だ。何か後ろめたいことがあるのではないかと勘繰られ、やっぱりそうだったのかと思われる気しかしない。ここはもう、大人しくついていくしかない。いくしかない。いけ。
 意を決した翔真はのろのろと席を立ち、刺さる視線とは決して目を合わさず、肩を縮こまらせて教室を出ようとした。
 躓いた。ちゃんと上げたつもりの足が、扉のレールの僅かな段差に当たって躓いた。格好悪くつんのめり、格好悪い姿勢で廊下に飛び出してしまう。動揺しているのを全身で表すような鈍臭さだった。
 爪先を引っかけた瞬間、自分でも驚くほどに俊敏な動作で何事もなかったように装いはしたが、内心では気が気ではなかった。ダサい場面を多数の人に見られたかもしれない。恥ずかしくて振り向けない代わりに耳を澄ました。教室から冷笑などは聞こえなかった。
 パニックに陥っている。一旦落ち着こうと意識して深呼吸を繰り返した。吸って、吐く。吸って、吐く。それから、伊織の後を追うために足を一歩踏み出した。同時に顔を上げると、またしても翔真は驚愕し、口から情けない声が漏れそうになった。音を喉の奥で押し潰す。
「来てくれないかと思った」
 ついてきていなかった翔真に気づいた伊織が戻ってきていた。蹴躓いた場面を見られてしまったのではないかと居た堪れなくなったが、伊織の表情には嘲笑も、かといって心配もない。顔に出ない人であれば分からないが、恐らく見られてはいないはずだ。
 翔真は至って普通に教室を出たばかりの体で伊織と向き合った。伊織が翔真に背を向けて歩き出す。翔真は緊張感を胸に、もう一度同じ道を辿る伊織の後を追った。
 伊織が向かった先は、階段途中にある踊り場だった。生徒がよく通る道ではあるが、今のところ人気はない。階段の上または下から人が来ても見える位置ではあるため、人影があったら口を閉ざして通り過ぎるのを待つことはできそうである。
 先導していた伊織が徐に振り返り、じっと翔真を見据えた。内に秘めたものを見透かそうとするかのような鋭い眼差しに、翔真は目を逸らして尻込みした。睨んでいるわけではないだろうに、睨まれていると感じるくらいには、顔の良い人のストレートな視線は迫力がある。
 一目散に逃走を図りたくなった。今度は階段に躓く未来が頭の片隅にちらついた。目立った段差のないレールに引っかかったのだ。今の翔真の精神状態であれば、階段に躓くのは十分にあり得る話であった。
 刃物を突きつけられているかのような緊迫感の中、空気が揺れる微細な変化を敏感に察知した。翔真は息を詰めた。伊織が息を吸った。言葉を発するための呼吸であることを、神経が過敏になっている翔真は感じ取っていた。
 伊織の唇を見た。開いた。口下手な翔真に、関係ない別の話をして本題に入らせないようにする術はなかった。抵抗できないまま、一撃を喰らう他ない。
「俺の勘違いかもしれないけど、西原、俺のことつけ回してる?」
 まっすぐ核心を突かれ、視界がぐにゃりと歪んだ。突きつけられていた刃物が、想定通りの位置に迷いなく突き刺さった。反動で身体がふらふらしてしまいそうになった。予想できていたのに、いざ指摘されてしまうと生きた心地がしなかった。
 俯く翔真は震える息を吐く。勘違いかもしれないと言ってはいるが、つけ回されているような気がするという違和感を伊織が覚えているのは確かだ。
 情報を得るためにつけ回しているのは間違いのない事実である。だとしても、ここで認めるわけにはいかない。上手い言い訳は思いつかなくとも、だからといって認めるのだけは違うと、翔真は咄嗟に悪知恵を働かせた。
「し、してない、そんなこと、全然。雨宮の勘違いだろ」
「じゃあ、なんで、そんな見て分かるほど動揺してるのか教えて」
「そ、それは、その、あ、あれだよ、あれ。まさか、雨宮から声をかけられるとは思ってなくて、だから、驚いたっていうか。ああ、ほら、接点ない人にいきなり、聞きたいことがある、とか、冗談抜きの真剣な声と顔で呼び出されたら、雨宮だって落ち着かなくなるだろ? それだから、これは。どこの誰が雨宮をつけ回してるのか知らないけど、少なくとも俺じゃないし、仮にもし、俺が雨宮をつけ回してたとしたら、そうかと聞かれて、はいそうです、なんて言うわけないし、まずその存在自体、雨宮の気のせいかもしれないし、だから、俺を疑うのは筋違いっていうか、雨宮の自意識過剰っていうか、まあ、そういうことだから」
「よく喋るね。後ろめたさがある人ほど、言い訳が長いらしいよ」
 間を置かずにズバッと速攻でぶった斬られ、伊織を非難してまで必死に誤魔化していた翔真は喉を詰まらせた。ここで止まるのは罪を認めるようなものだと気づいたが、続く言葉を引っ張り出せないせいで撃沈してしまう。
 否定するための言動が、全て裏目に出てしまっている。よく考えて発言をしなければ墓穴を掘る結果となる。読書家の伊織は口撃が強そうだ。対して翔真は話すのが下手な根暗である。長期戦は避けなければならない。あまり会話を続けると、ボロばかり出そうだった。
 翔真はどうにかこの場を打開する策を捻出しようとした。違和感を覚えている伊織に気のせいだったと思わせ、自分に降りかかった疑惑を解くにはどうすれば。
 長い言い訳は怪しまれることを知った。ならば、短く済ませればいいのか。そんな単純な話なのか。今している長考すら、疑惑を確信に変えるものなのではないか。
 ダメだ。ダメだ。考えれば考えるほど、自分が不利になっていく。でも、考えなければ、余計な一言を漏らしてしまう可能性がある。
 翔真は確かに黒だが、自分から黒だと言いたくはない。白だという体で話して、伊織にも白にしてもらわなければならない。黒から白にするには、一体どれだけの白を加えなければならないのか。
 普段はほとんど使わない神経を酷使しているせいか、頭痛の症状が表れそうになった。良い案が何も浮かばないことに焦りばかりが募っていく。まともな答えが出てこない。こうなったらもう、苦肉の策である。
「……俺は、何もしてない。本当に。しょ、証拠だってないだろ? 間違いなく潔白なのに、疑われるのはきついって。あ、ほら、雨宮かっこいいから、女子とかがちょっと、気にしてるとか、そんな感じじゃない? そ、そうだ、不安だったら、俺も一緒に犯人探しするから。それで、どう?」
 白であることを主張しつつ、しっかり対策も講じる。下手くそながらも情に訴えかける作戦だ。何がどうなのか自分でも分からないが、とにかくこの場を切り抜けられるのなら何でもいい。伊織の注意を逸らし自分への警戒を解かなければ、今後の情報収集と写真撮影に支障が出る。
 額にも背中にも大粒の汗が伝いそうなほどに追い込まれている翔真は、伊織が素直に引いてくれるのを願った。なかなか口を開かない伊織は、翔真の言葉を咀嚼して嘘か真か慎重に判断しているかのようで。感情の読み取れない表情で翔真を見つめている。口が渇いた。唾を飲んでも、ほとんど意味はなかった。
 居心地の悪い沈黙が落ちる中、視界の端で生徒が階段を上がってくるのが見えた。踊り場で向かい合い、お世辞にも仲が良いとは言えない異様な雰囲気を放っている男二人に気づいたが、すぐに見てはいけないものを見てしまったかのように顔を背ける。心なしか足早に過ぎ去っていく。生徒の姿が見えなくなった。計ったように伊織の唇が動いた。
「西原の言い分は分かった。犯人探しをするつもりはないから、一緒に探す必要はないよ。時間、取らせたね」
 伊織は一方的に切り上げ、それ以上は何も言わなかった。翔真に返答も求めなかった。自分から呼び出したのに、伊織は無慈悲に翔真を置いて踊り場から立ち去る。一度も翔真を振り返らなかった。
 取り残された翔真は、何とも言えない後味の悪さを感じた。深く追及されずに済んだのはよかったものの、晴れてほしかった疑念は恐らく晴れてなどいない。かけられた容疑を全力で否認する翔真の言葉を信じた人間の言動ではなかった。
 伊織は翔真の言い分を理解しただけだ。翔真を信じるとは言っていない。信じてくれたのなら、猜疑の目を向けてしまったことを謝罪してくれるのではないか。伊織からは、そのような一言など一切なかった。
 まだ疑われている。きっと警戒もされている。犯人だと決めつける発言はなかったが、もしかしたら伊織の中ではほぼ確定しているのではないか。誤魔化すのが下手すぎる翔真を見て、確信しているのではないか。
 陰でこそこそしていることを指摘されて、認めていると言わざるを得ないような慌てぶりを見せられながら否定されたとて、信じられるわけがない。酷い慌てぶりを発揮した翔真自身が思うのだ。信じる人間の方が稀有である。
 それでも翔真は、あのような様でも黒を白に変えられるのではないかと本気で思うくらいには必死だった。必死に隠そうとしていた。結果は言わずもがな。無駄な抵抗だった。
 伊織に違和感を持たれ、その正体は此奴なのではないかと怪しまれてしまった以上、決めたばかりの今後の立ち回りを再び考え直す必要がありそうだ。
 翔真は小さく溜息を漏らしながら階段を上った。文字だけのSNSでは取り乱さずに嘘を吐けてしまえるのに、現実ではからっきしダメな自分が心底嫌になった。