嘘と欲求

 新しい席となってから数週間が経った。当時は絶望を感じていたが、今となってはすっかり順応している。近くの席である女子生徒と話すことはないものの、特に問題なく生きられていた。誰かとべちゃくちゃ喋るタイプの人間ではないことが、功を奏しているのかもしれない。
 女子生徒は翔真を気にせず、休憩時間の度に豪快に笑いながら盛り上がっている。男として全く意識されていないようで多少なりともショックを覚えたが、変に意識されて居た堪れなくなるよりはましだった。何より、翔真も女子生徒を全く気に留めていない。お互い様であった。
 翔真が女子生徒よりも格段に気にしている伊織を眺める行為は、自身の悪運のせいでほぼ規制されていた。元々少ない伊織の情報は既に底をついている。毎日欠かさずSNSに投稿しているわけではないが、ネタ切れが続くとその分だけリアクションを貰えるチャンスも減ってしまう。
 今までできていたことが席替えを機にできなくなってしまい、日々の観察でなんとか入手していた手札は空っぽになっていた。さてどうしたものかと伊織を眺めていた時間を使って考えあぐねた結果、怪しまれないように伊織の後を追う偵察方法を思いついた。一見問題があるように聞こえるが、同じクラスで同じ授業を受けるのだ。移動教室や体育の時などであれば、偶然を装って尾行しても何らおかしくはない。
 思い立ったが吉日である。翔真はすぐに行動に移した。何もできなかった時間を取り戻すように、自然な成り行きを意識して伊織の後を追いかけ続けた。
 こそこそと偵察を続けてはっきりしたことがある。伊織は移動が早い。歩くペースといった動作ではなく、移動する時間が早いのだ。授業の五分前くらいまで教室でのんびりしている生徒を尻目に、伊織は授業に必要なものを準備するなり誰よりも早く席を立っている。
 教室の後ろから出たのだろう、思っていたよりも早い段階で廊下を通り過ぎていく姿を発見した際には、普段の癖でだらだらと教科書やノートを引っ張り出していた手を大慌てで動かした。その結果、焦りのあまり手を滑らせ、床に私物をばら撒く大惨事を起こしてしまった。
 大幅な時間ロスだ。落としたものを急いで拾い集めながら翔真は思った。油断していた。気を抜いていた。休憩時間は大抵本を読んでいるため、少し本の世界に入ってから移動するものだとばかり思っていた。もしかしたら逆なのかもしれない。移動してから本を読むつもりなのかもしれない。
 記憶を辿れば、スマホを隠れて見るなどして目を離した隙にいなくなっていた、ということは確かにあった。その理由は、速攻教室を出ていたからだったのだと、別の角度からの観察を開始して明らかとなる。枯渇していた情報にほんの少しの潤いが齎された瞬間だった。良い傾向だ。初手から派手に物をぶちまけてしまったが。
 拾った教科書や筆記用具を抱え、伊織の後を追いかける。見つけた背中が移動先の生物室へ入っていく。伊織は振り返りもせずに開けた扉を閉めた。翔真の歩行が一瞬止まる。開けたら閉める。それだけのことであるのは分かっているのに、分厚い壁を作られた気分になった。気持ちがずんと重たくなってしまったが、扉を閉めたのは自分に気づいていないからだ、つまり尾行は上手くいったのだと前向きに考えた。
 翔真は閉められた扉をゆっくりと開ける。伊織以外まだ誰もいなかった。一番乗りだった伊織は予想通り文庫本を広げている。誰かが入室してきたのには気づいているだろうが、顔を上げる素振りはない。
 翔真はガン見しすぎないように眺め、何も言わずに席に着いた。ここでも翔真は最前列だった。不運にもほどがあるが、生物の授業に関しては奇跡的に伊織も最前列である。横を不自然なまでに見続けるのはできないものの、教室よりも観察はしやすい。
 クラスメートが続々とやってくるまでの数分間は、伊織と二人きりであった。生物教師は職員室にいるか隣の準備室にいるかだろう。どちらにせよ、生物教師もいずれ顔を出す。
 翔真は二人だけのこのタイミングを逃すまいと、教科書のページを捲って予習しているふりをしながら横目で伊織を盗み見た。伊織は長い指先で本のページを捲っている。表紙にはしっかりとカバーが施されている。中身が分かれば親友の解像度が上がるだろうに、未だに文庫本という型の情報しかなかった。
 親友なのに親友の好きな本のジャンルすら知らないとなると、それは本当に親友なのかと疑われかねない。もっと詳細を知りたい。誰も知らないような伊織を知りたい。
 整った横顔を見つめ、整った横顔という情報も使えるな、と頭の片隅に記憶する。些細な事柄でも集めておくことは重要で、取捨選択はその後でいい。とはいうものの、投稿の際に捨てた情報は今のところゼロに等しかった。惜しみなく捨てられるほど多くの情報を得られているわけではないからだ。
 視線に気づかれる前に一旦顔を逸らすと、黒板の横にある扉の奥から人の気配を感じた。直後に扉が開く。中から出てきた人とばっちり目が合った。生物教師は準備室に籠もっていたようだ。
「あれ、西原くん、珍しく早いね」
 いつもは遅い翔真を前に瞠目しつつも、生物教師はすぐににこにこと笑みを見せて話しかけてきた。
 翔真は目上の教師の雑談のような声かけに何と返せばいいのか分からず、それでも何かを返さなければと一瞬の間にあれこれ考えたが答えは出なかった。結局、はい、まあ、と語尾に三点リーダーが何個もつきそうなくらいのコミュ力のなさを発揮するだけ発揮して、静かに唇を閉ざした。
 沈黙。生物教師はそれ以上は何も言わず、抱えていた教材を教卓に置いた。無理に会話を続けられるのも苦手だが、自分が発言した後に気まずい空気が流れるのも苦手だった。
 傍らからは、本のページを捲る微かな紙の音。伊織は集中を途切れさせることなく文字を追っている。全く気にしてくれていない。異様なまでに気にしているのは翔真だけである。勝手に親友にしているのだから当然であった。
 薄い紙を捲る音。本の中ではキャラとキャラの会話が繰り広げられているのだとしても、リアルでは翔真も伊織も生物教師も誰も何も喋らず、時間だけが過ぎていった。
 お喋りなクラスメートが揃うまで、翔真がいなければ流れていなかったであろう妙に居心地の悪い空気は流れ続けていた。それでも翔真は、伊織を追いかける行為をやめようとは思わなかった。翔真の中では、空気の悪さから逃れることよりも、伊織の情報を得ることの方が優先度は高いのだった。
 授業を終えて教室に戻る時も、伊織の行動は早かった。ちんたらせずに席を立ち、また一番に扉を開けて出て行く。翔真は後を追いつつも、後を追っているとは思われないよう自然な動作を意識した。おかしなことは何もない。他のクラスメートも同じ動線を辿るのだ。普通にしていればいい。
 伊織の後に動き、伊織をこっそり眺め、貴重な情報を吸い取るかの如く様子を窺う。生物や音楽、体育などで、教室を移動しなければならない時は毎回後をつけるのが習慣になりつつあった。
 放課後になって伊織が帰路に就いてからも、貪欲な翔真は尾行を続けた。といっても、自宅への道は真逆のため、尾行するのは正門を出るまでの間である。流石に自宅までは行かなかった。そこまでついていってしまうと、気づかれた場合の上手い言い訳ができない。帰り道など同じではないのに同じだと目を見て堂々と言い張れる自信はなかった。
 今の自分にできそうにないことはやらない。欲張りすぎるといつか痛い目を見る。どんなに焦燥感を抱いていても、自身の技量を見誤ってはならない。自分は伊織のように何でもそつなくこなしてしまう器用な人間ではない。イケメンでもなければ余裕があるわけでもない。脳内はいつだって煩悩で溢れ返っている。伊織、伊織、伊織。雨宮伊織。彼は唯一の親友である。
 この日も翔真は伊織に張り付いていた。本人や他人に不審な行動を咎められることもなく、無事に放課後を迎えられている。翔真は帰宅する伊織の後ろを十分に離れて歩き、その背中を見つめていた。正門を出てしまうまであと僅かだ。そこを抜けたら大人しく帰路に就き、SNSをじっくり確認する。教室でもこそこそ見てはいるが、思う存分見られてはいなかった。
 前を歩く伊織が、学校の敷地内から出た。今日の情報収集も終わりだ。翔真はポケットにしまっているスマホを触ろうとして、ふとある異変に気づいた。思わず立ち止まってしまう。急に静止した翔真の脇を通り過ぎて行く生徒が、不思議そうな顔で翔真を一瞥する。
 翔真は一点を見つめてごくりと唾を飲んだ。翔真を追い抜いていった生徒は、伊織の帰り道の方向へ曲がった。しかし当の伊織は、いつもとは逆の道を進んでいた。どこへ行くつもりなのだろう。
 突然のイレギュラーに動作が一時停止してしまったが、気を取り直した翔真はスマホを触るのを中断し、徐に足を動かした。なぜか胸の鼓動が高鳴っていた。理由は定かではないが、明らかに普段と行動が異なっている。つまりこれはチャンスである。今まで正門までしか成し得なかった放課後の尾行を延長できるのだ。みすみす逃すわけにはいかない。
 翔真は学校の敷地を出てからも、伊織の後ろ姿を眺めて歩いた。翔真の帰り道の方向である。そこから外れて後を追っているわけではない。行きと帰りで通っている道である。すなわち合法である。目的地が同じ移動教室と類する形である。前方に伊織がいる。それだけのことである。
 伊織はどこを目指しているのだろう。この近辺に伊織の行きそうな場所などあるだろうか、と小首を傾げてしまいそうになったところで、ハッと思い出した。あるではないか。間違いなく伊織が行きそうなところが。翔真は一人納得して頷いた。
 書店だ。翔真の帰り道の途中には、書店がある。本に興味があるわけではない翔真は、毎日通っていても立ち入らない書店。だが、暇さえあれば本を読んでいる伊織であれば、自宅と真逆の場所に書店があったとしても、億劫に思わず立ち寄るかもしれない。
 不意に閃いた予想が当たっていれば、ひとまず書店までは様子を窺えそうである。おまけに中までついていけば、伊織が普段読んでいる系統についても判明するかもしれない。ずっと知りたくて、しかしカバーに阻まれ為す術もなかった事柄だ。降って湧いたような幸運を掴まない手はない。
 伊織を知る重要な情報を得られそうで、翔真は気分が持ち上がっていた。期待に胸が膨らみ、思わず表情筋が緩んでしまいそうになる。一人で歩きながらにやにやするなど不審者認定されてしまうかもしれない。
 翔真は僅かに下を向き、唇をギュッと引き結んで必死に普通を装った。何も考えずにのんびりと帰っている男子高校生を演じる。脳内では期待感を煽る出囃子のようなものが永遠に鳴り響いていたが、表面には噯にも出さないよう努めた。
 翔真は意図せず口が開かないよう強く閉じたまま目を上げた。意識したせいか、いつもは気にも留めない書店の看板が、どんと視界に大きく映り込んだ。
 一台の車が左折し、駐車場へ入っていく。数メートル先を歩く伊織が、もう一箇所ある出入り口から駐車場に足を踏み入れる。思った通りだと翔真はほくそ笑みそうになったが、書店の隣にはドラッグストアがあった。もしかしたらそちらの可能性もあるのではないかと、先走る感情に慌ててセーブをかけたものの、高校生が放課後にわざわざ寄る店ではないだろう。そう結論づけ、脳裏を過った思考を即座に打ち消した。
 伊織に関する新しい発見ができそうなところまで来ている。唾を飲んだ翔真は伊織から数秒遅れて左に曲がり、普段はしない寄り道をした。迷いはなかった。
 伊織はドラッグストアの前を悠然と通り過ぎ、その隣にある書店の出入り口へ吸い込まれるように入っていった。早く追いついてどのような本を手にするのか見たい。逸る気持ちが足を急がせる。
 翔真は高揚感を深呼吸で抑え込みながら、駆け足にならないように一歩一歩ゆっくりと地面を踏み締めた。ここで変に早足になってしまうと、全てが水の泡になってしまうかもしれない。急ぐな。急ぐな。翔真は言い聞かせ、いつの間にか汗が滲んでいた手のひらを握ったり開いたりした。急ぐな。急ぐな。
 ざわざわと騒ぐ鼓動を落ち着かせる意味も込めて、書店に近づく僅か数秒の間に、翔真は伊織以外の目的を探そうと煩悩塗れの頭を回した。何かないかとぐるぐると脳内を掻き回しているうちに顔が険しくなっていき、気づけばあっという間に書店に片足を突っ込んでいた。
 脳味噌をぐちゃぐちゃのミンチにしただけで何も回答が出ないまま、足は伊織を追いかけている。視線の先には文房具売り場。文房具売り場。文房具。そこで翔真は閃いた。
 そうだ、文房具だ。文房具を買いに来たことにすればいい。そうすれば、本を読まない人間が入店したとて不思議はない。そのついでで、買うつもりはないがちょっとだけ本を見てみようと、書店のメインの売り場を回っていたことにすればいいのだ。妙案である。
 翔真はそのような経緯を裏の設定にした。もしもの時の誤魔化し方法である。アドリブは弱いのだ。
 緊張した面持ちのままの翔真は、伊織が向かった先へ行こうとして、ふとその足を止めた。文庫売り場の正面に伊織がいる。伊織は商品を手にして裏表紙のあらすじを見ているようだ。
 こちらからは何を手にしているのか分からない。表紙が見えたらと若干腰を屈めて下から覗き込むようにしてみたが、へっぴり腰の不細工な格好になっただけで何も得られなかった。意味のない動作である。数冊の本を持ってレジへ行く客には怪訝な表情で見られてしまった。目が合った翔真は顔を隠すように咄嗟に俯きつつも、何事もなかったように姿勢を正した。
 レジの方から聞こえ始めた店員と客のやり取りを耳から耳へ流す。そうしながら目的の伊織を改めて見ると、伊織は一旦商品を戻し、別の商品を手に取っていた。見つめる先は裏表紙のあらすじ。購入するか否か即決する気配はない。しばらくはその場所に居座るかもしれない。
 翔真は店員と他の客の動きを窺った。翔真を気にしている人は誰一人いないが、伊織をじっと見続けるのも、伊織の周りをうろうろするのも、流石に怪しまれてしまうだろう。
 不審な行動が続くと、店員に万引き犯ではないかと警戒されてしまう恐れもある。故に、本の表紙を見るのはひとまず脇に置き、変な客認定されないように文房具売り場に逃げ込んだ。ここからならレジも見える。伊織が通ればすぐ分かる。文庫の正面からいなくなるまでは待機だ。
 店に入っていながら何もせずにただ突っ立っているのはどう考えてもおかしいため、翔真は文房具売り場を手前から見て回ることにした。
 豊富な種類のボールペンがずらりと並べられている棚から見ていく。本だけでなく文房具にも関心がない翔真は、目についたものを手に取って、それがノック式であればカチカチと何度かペン先を出して引っ込め、キャップ式であれば何とはなしにキャップを外して嵌め直し、試し書きができそうなら雑に波線を引いて試した。書きやすさがどうのこうのと謳っているボールペンであったが、へえ、そうなんだ、と冷めた感情しか湧かず、心が揺れ動くような現象は起きない。
 ボールペンの隣はシャーペンのコーナーになっていた。こちらはフックにかけられているため、書き心地を試す真似はできない。翔真は商品を選ぶというよりも鑑賞するような眼差しで見物し、ある一点に視線を絡め取られた。釘付けとなり、やおらそのシャーペンをフックから抜き取る。黒軸の、シンプルでクールなデザインのシャーペン。
 食い入るような目つきで対象を見つめた。頭の片隅に保存している情報の中から、ある一つの事柄が浮かび上がってくる。嫌がらずにすんなり顔を出してくれたデータを逃がさないように脳裏に貼り付け、現物と照らし合わせてみた。
 似ている。非常によく似ている。見れば見るほど似ている。似ているどころか、まんまこれなのではないか。伊織が使用しているシャーペンは。
 定期的に書店に通っているであろう伊織が、文房具もここで一緒に買うことは十分考えられる。翔真は偶然を装って同じものを買ってみようかと思案し、一旦商品を戻して手に提げていた鞄を弄った。常に入れたままの財布を取り出し、中を検めてみる。余裕はある。買える。半端な時期だが、シャーペンを新調する意味も込めて購入してみようと翔真は決断した。同じものを使用していることで、自然な接点が生まれるかもしれない。
 買わなければよかったなどと後悔したくなかった。それ故に、シャーペンを買う理由とメリットをいくつも並べ立て自身を納得させながら、翔真は一度フックにかけた商品を今度は買うつもりで手に取った。
 あれこれと理由を作っているうちに、親友に勧められて買ってみた、というストーリーにもできることに気づく。これは使える。一気に親友らしい関係になる。絶対に使える。証拠として画像も載せれば、目につきやすくなって何かしらの反応が貰えるかもしれない。買うしかない。買う以外の選択肢はなくなった。
 購買意欲が消失してしまう前に、翔真はレジへ向かった。道すがら文庫売り場の方を見遣ったが、正面にいた伊織はいなくなっていた。棚のある方に移動して物色しているのだろうと踏み、レジで待っていた店員にシャーペンを渡す。支払いを終えたら伊織の観察を再開しようと心に決め、財布の紐を緩めた。
 千円札と端数分の小銭をトレイに置き、釣り銭とレシート、商品を受け取って無造作に振り返る。瞬間、翔真は腰を抜かしそうになった。いつの間にか後ろに並んでいた人物を目にして、声にならない声が漏れた。心臓がドクドクと早鐘を打ち始める。瞬く間に身体が熱くなり、嫌な汗すら吹き出しそうになる。
 予期せぬ展開に黒目が右へ左へ忙しなく動いた。翔真は完全に狼狽えていた。音もなく静かに順番待ちしていた伊織を前に、全くもって動揺を隠せなかった。唐突すぎて言葉も見つからず、最早パニック状態である。準備していたもしもの時の対応も驚くほど一瞬で吹き飛んでいた。
「お客様、どうされました?」
 金を支払ってから突然動かなくなった翔真に、店員が不思議そうに声をかけてきた。我に返った翔真は、すみません何でもないです、とぼそぼそと早口に告げ、道を開ける。
 順番を待っていた伊織の視線が僅かに下がった。一人で動揺する翔真の手元を見ているようだった。
 買った商品を見られているのを察した翔真は、手にしていたシャーペンを隠す仕草をしてしまう。自分が使っているものと同じだと気づいたかもしれないが、しかし伊織は何も言わずに歩みを進めた。
 普通にしていればいいのに何一つ普通にできない翔真の前を、眉一つ動かさない冷静な伊織が颯爽と通り過ぎていく。声はかけなかった。かけられなかった。二人はそういう関係だった。クラスメートであっても距離がある関係だった。
 レジで会計をする伊織から気まずさは感じない。変に焦っているのは翔真だけで、店内にいる客の中でも翔真だけだった。
「二冊とも、カバー付けてもらえますか」
 滅多に聞くことのない伊織の声を、耳が素早くはっきりと拾った。トーンが一定で抑揚のない声。挙動不審になっている翔真を前にしても、声も顔も一切変化がない。学校で見ている伊織と何ら変わりがない。
 伊織とのあまりの温度差に、人目のある場所で自分だけが動揺している事実が途端に恥ずかしくなった。尻尾を巻いて逃げ出したくなったが、すんでのところで思い止まる。伊織は今まさに、本の代金を支払おうとしているのだ。翔真は息を吸って吐いた。落ち着け。落ち着け。これは、千載一遇のチャンスだ。
 幾分か冷静さを取り戻した翔真は、無口な親友を待つふりをして、さりげなく本の表紙を見ようとした。だが、カバーを付けている店員の手元は、ここからでは死角になってよく見えない。次に伊織が商品を受け取った時には、見慣れた憎きカバーが本を守っていた。せっかくのチャンスだったのに、予想外の展開に流されてしまったせいでものにできなかった。
 不甲斐なさに溜息が漏れたが、全てが計画通りにいくわけではない。本を買った伊織も後はまっすぐ帰宅するだろう。今日はここで切り上げるのが賢明だ。
 書店まで後を追えただけでも良しとした翔真は、最後まで伊織と一言の会話もなく店を出た。
 購入したシャーペンを見下ろし、買わない方がよかったのかもしれない、とひょっこり顔を出しそうになった後悔を慌ててぶん殴ってぶっ飛ばす。ゆっくりと息を吐いて気持ちを切り替え、元を取るべく此奴を利用しまくろう、と翔真は伊織と揃いのシャーペンを強く握り締めた。