翔真のクラスの席順は、未だデフォルトの出席番号順だった。窓際の前列から後列へ向かって番号順になっている。翔真が気にしている伊織が一番だ。翔真の知る限りでは、伊織は学年で見ても不動の一番であった。
クラスが変わっても出席番号は変わらない伊織は、翔真よりも先に登校しており、自席である最前列で黙々と本を読んでいる。何の本かは、やはりカバーに阻まれて知り得なかった。
新学年になって二ヶ月ほどが経過していた。他クラスのほとんどは一足先に席替えをしたようで、既に出席番号順ではなくなっている。それをなぜか異様に羨ましがる生徒は少なくなかった。
今日こそ担任に訴えかけようと数人で結託して奮起する生徒がいる中、翔真はあまり乗り気になれずにいる。今の席が離れ難いほどに気に入っているからではなく、今の席であれば、前の席にいる伊織を観察できるからであった。席替え後も伊織の背中を見られる席であればいいが、必ずそうなるとは限らない。伊織の前になってしまうとさりげない動作で眺められなくなる。前から後ろを頻繁に振り返るなど不自然でしかない。変わり者扱いされて終わりである。
席替えという教室内のささやかなイベントも、翔真にとっては憂鬱だった。伊織の後ろになれる確率は一体どのくらいなのだろうと、平凡な脳味噌なりに計算を試みる。だが、どう計算するのが正解なのかさっぱりだったため、翔真は粘ることもなくすぐに諦めた。頭から湯気が出そうなほど考え尽くしたとしても、正確なパーセントが導き出せるとは思えない。
手っ取り早く数学教師に質問しに行ってみるか、などと血迷いそうにすらなったが、寸前で正気を取り戻す。馬鹿なことは聞けない。伊織の後ろになれない可能性もあるように、なれる可能性も秘めているのだから、なれないかもと悲観するだけ精神が擦り減るだけだ。
雑に無理やりまとめて自分に言い聞かせた翔真は、自席で隠れてスマホを触った。息をするように自然と、指がSNSを開いた。
「なあ、席替えのくじ、作っとかない?」
「それいいな。こっちで予め準備しとけば、先生もその気になってくれるかも」
「俺も手伝うよ」
アプリを開いたと同時に右斜め前から聞こえた声に意識を引っ張られ、翔真はスマホから顔を上げた。どうしても席替えをしたいらしい男子生徒数名が、一つの机に固まっていた。
くじを作ろうと提案した代表者が、机から引っ張り出したノートを開く。それでくじを作るのか、と予想したところで、男子生徒が真っ新なページを大胆にも引き裂き始めた。ビリビリと破かれる音が朝の教室に響く。チラッと音を気にした生徒はいたものの、それだけだった。
暫し男子生徒の行動を眺めていた翔真もまた、何も言わずに手元の液晶画面に視線を落とした。暗くなっていた。自動的にスリープモードになる前にタップして起こす。最近発信した投稿が目に入った。
【いつでも余裕のあるイケメン、それが俺の親友】
【イケメンの親友は顔だけじゃなく字まで整ってる。これが汚かったらちょっと面白かったのに】
それぞれ次の投稿の候補に挙げていた情報だったが、結局どちらも載せていた。何がいいねに繋がるか分からない。そのため、出さずにいるよりも出した方が絶対に良いと判断してのことだった。
投稿する際に文章は多少なりとも工夫したが、それを踏まえても心底つまらない呟きである。時間が経てば経つほどそう思う。くだらない。しょうもない。センスがない。無論、いいねなど一つもついていない。恐らくこれからもつかない。
もっと何か反応を示したくなるような特別な情報が欲しい。伊織の意外な素顔だったり、意外な特技だったり、こちらが予想できない意外な事柄があるのなら知りたい。親友ならそのようなことも知っていてもいいのではないか。
翔真は伊織の腹の中を探ってやろうと目を上げた。読書中の姿を食い入るように観察する。伊織は本の世界に入り込んでいる。瞳が動く。上から下へ。そしてまた、上から下へ。文章を目で追っている。指先が滑らかにページを捲る。上から下へ。再び、上から下へ。繰り返す。いつまでも繰り返す。ひたすら文字を追っている。翔真の視線に気づく様子もなく、ひたすら没頭している。一体何を読んでいるのだろう。伊織を夢中にさせている物語は、一体どのようなものなのだろう。
教室の人口密度が増していく。話し声も増していく。伊織は顔を上げない。集中力は途切れない。本を読み始めたら物凄い集中力を発揮する親友、と翔真は脳裏に書き留めた。しかし、情報としては弱かった。読書家であれば誰もがそうに違いないのだ。珍しくとも何ともない。このような脆弱な情報では当たり前のように流されてしまう。
見つめるだけでは得られることに限界があった。声をかければ話が早いのだろうが、翔真にその勇気はない。仮にもし話しかけることができたとしても、口調や動作がぎこちなくなってしまうのが目に見えている。
話すのは上手くない。下手に距離を縮めようとして不審がられてしまったら都合が悪い。いつか自然な流れで会話ができるようになる日が来るのを願って、今は大人しく外から伊織に関するあれこれを掻き集める方が賢明だ。無理をするべきではなかった。焦ってこけるのだけは避けたい。
本の世界に没入していた伊織が、机に置いていた栞を片手に顔を上げた。黒板の上を見ているようで、翔真もつられて目を向ける。時計だ。針はあと数分でSHRが始まる時間を指していた。
伊織に視線を戻す。本に栞を挟み、壊れ物を扱うように丁寧に机の中に片したのを見届けた翔真は、握ったままだったスマホの電源を切った。伊織と違い、サッとポケットに押し込んで片す。
「あー、やっとできた。ギリギリ。これで今日絶対席替えするからな」
「良い感じの席、当たりますように」
「俺も当たりますように。欲を言えば一番後ろの席でありますように」
「てかこれ、お手製の紙箱、折ってくれてありがとう」
「全然。めちゃくちゃ折るの簡単だし気にすんな」
集まっていた男子生徒が全力を注いでいたくじ作りが終わりを迎えたようだ。翔真はあまり顔を動かさずに彼らを見遣った。囲っている机の上には四角い紙箱と折り畳まれた紙。男子生徒は即席の箱の中に即席のくじを放り込み始めた。本当に席替えをする羽目になってしまいそうだ。
登校してきてから一発目のチャイムが鳴った。仲の良い友達と固まって話し込んでいた生徒が席へ戻っていく。協力してくじを作成していた人たちも着席する。空いていた席が順に埋まると、程なくして担任教師が入ってきた。
「おはようございます。SHRを始めます」
教卓の前に立ち、簡単な挨拶を済ませた担任が連絡事項を伝えていく。今日もこれと言ったイレギュラーはない。決められた時間割の通りに授業を受けるだけである。
「先生、今から席替えしませんか?」
担任が話し終えてすぐ、挙手をしながらそう提案した生徒に視線が集まった。一生懸命くじを作成していた男子生徒だ。
彼の案に、一緒になってくじを作っていた人たちが即座に賛同する。遅れて周りもポジティブな反応を示し始める。気分は乗らないが嫌だと言えるはずもなく黙っている翔真を含め、良いも悪いも言わず声を上げない生徒もいた。
誰も嫌な顔はしていなかった。無言の肯定か、やってもやらなくてもどちらでもいいという中立的な立場で、人が生み出す流れに身を任せようとしているのか。
個人的に気になる伊織は、固く口を閉じていた。かったるそうにしているわけではないが、興味はなさそうである。
「先生の手間を取らせないようにくじも作りました」
「作ったんですか?」
男子生徒が出来たてほやほやの紙箱とくじを見せてアピールすると、目を瞬かせた担任からごもっともな突っ込みが入った。担任のリアクションは控えめだ。前向きな回答は得られないかもしれない。
翔真はそれで良かったが、やる気満々でくじまで作った男子生徒はそうもいかないようだ。表情が不安げに曇りかけた。が、派手なリアクションは取らない担任が、雲を晴らすような軽やかな声で男子生徒に光を差した。
「分かりました。やりましょうか、席替え」
「え、いいんですか?」
拍子抜けしそうなほどあっさりと許可が下りた。自分から発言していながら逆にいいのかと質問を投げ返す男子生徒に、いいですよ、と今度は即答してみせる担任がおかしそうに笑う。
念願の席替えが決行されることになり、教室内が一気に騒めき始める。盛り上がるクラスメートの中で、翔真は一人微動だにせず息を潜めていた。担任は断らなかった。クラスメートも大多数がにこにこと破顔してテンションを上げている。素直に席替えを受け入れるしかない。
伊織の後ろになれるかなれないか。運を味方につけられるかつけられないか。翔真は意味もなく手を摩り、ごくりと唾を飲んだ。運試しと称して、鬱々せずに軽い気持ちで楽しめばいいのに、なかなか意識を変えられない。
「簡単な図と人数分の数字を黒板に書きますので、みなさんはくじを引く順番を決めてもらえますか?」
担任の指示を受け、発起人の男子生徒が自ら動いて仕切り始めた。担任は生徒に背を向け、黒板にチョークを走らせる。
「順番だけど、角の四人にジャンケンしてもらって、最後まで勝った人からこう、蛇みたいな道なりで引くとかどう?」
男子生徒は例を示すように、指先で空中に横線を描いた。線はすぐに急カーブして直進し、またすぐに急カーブして直進する。前から後ろへ、もしくは後ろから前へ、それから隣の席へ行き、後ろまたは前へ行く。それを繰り返す流れだろう。異論を唱える者はいなかった。
四隅の席に座る四人が注目を浴びる。その中には伊織も含まれている。仕切っている男子生徒は四人でジャンケンするようお願いし、伊織以外の三人がスッと片手を挙げた。どことなく浮き浮きした様子である。遅れて周りに合わせた伊織は、楽しそうでも怠そうでもなく、ただ大人しく言われた通りのことをしているだけのようだった。
最初はグーから始まるお馴染みの掛け声と共に、四人は勝ち残りのジャンケンを開始した。四人だとあいこが続くだろうかと構えていたが、予想に反してたった一発で三人が脱落した。一人がチョキを出す中、三人は見事にパーだった。二本の指でまとめて敵をぶった斬ったのは、伊織だった。
親友はジャンケンがめちゃくちゃ強いかもしれない。新たな情報を書き加えながら、翔真は一発で三人を仕留めた伊織を見つめた。勝利を収めたものの、ノーリアクションだった。
「凄い。一回で決まった。面白いくらい圧勝じゃん」
「三人揃ってパーとか、気が合いすぎてるね」
「雨宮が文句なしの一番ってことで」
「え、ってことは、俺が最後? マジか。みんな良い席残しといてよ」
伊織に完敗した三人含め、誰も不満を漏らすことなく和気藹々と進行していく。黒板には幾つもの四角で区切られた簡易的な図形ができあがっていた。担任は枠の中にランダムで数字を書き込んでいる。
言い出しっぺの男子生徒が席を立った。くじの入った手製の紙箱を持ち、左右に振ってシャッフルしながら伊織の元へ向かう。数字を書き終えた担任は干渉せず、生徒の自主性を尊重しているようだった。
トップバッターの伊織が、選ぶような仕草はせずに適当にくじを摘んだ。前列前列前列、と祈るように念を送る中、伊織が早速紙を広げようとする。その行動を、男子生徒が止めに入った。
「全員が引いてから見ない?」
目を上げた伊織は、うんともすんとも言わずにただ一つ頷いて、開きかけた紙を元の形に折り畳む。口を開かない伊織を気にした様子もなく、男子生徒は礼を言って後ろへ移動した。
伊織が寡黙な人であることは、皆が知っていることだった。近寄りがたい印象はあるが、素行が悪いわけではない。物静かなだけなのだ。
一言だけだが伊織に話しかけた、今現在くじを持って回っている男子生徒の物怖じしない性格が羨ましい。翔真にはできない。簡単ではない。なぜ普通に喋れるのだろう。きっと伊織と目も合った。端正な顔面を目の前にして、なぜ平気でいられるのだろう。聞いてみたいが、それすらも翔真は聞けない。伊織に限らず、人に話しかけるのは得意ではなかった。会話をして情報を得る行為は、一生できる気がしない。
翔真がくじを引く順番がやってきた。できるだけ後ろの席を引きたい翔真は、伊織のようにさっさと選ぶ真似はせず、暫し紙箱の中のくじを睨みつけるようにして見つめた。透視などできないが、せめてもの抵抗だった。
人一倍真剣に悩む翔真の眼前で、男子生徒が持っている紙箱を左右に揺らした。中のくじが移動する。催促されているようだった。あまり逡巡してはいられない。時間をかけたとて分かることなど何もない。翔真は大人しくピントが合ったものを手に取った。
指先で摘んだ、四つ折りにされたくじを検分するようにじっくりと眺めた。当然ながら、何も見えない。何かが変わるはずもない。裏返してみても同じだった。
本当にこれでよかったのか。これは後列に埋まっている数字のどれかなのか。
前列になると死するかの如く大真面目に臨む翔真は、むくむくと膨れ上がる不安に襲われた。もう一度くじを引き直したくなったが、そんな勝手な真似は許されない。変更したいと申し出る勇気もない。これを選んだ自分の勘を信じ、失敗すれば潔く死ぬしかない。
人知れず暗澹とした気持ちに陥る。先程から悪い想像ばかりしてしまう。翔真はくじを指先でギュッと摘んだ。悲観しすぎてはダメだと意識して良いイメージを思い描く。
伊織の後ろで伊織を観察し、そこで得た情報を親友の情報としてSNSに投稿し、いいねを貰う。ありきたりなものではない、興味を注がれるような特種であれば、もっと多くのいいねが貰えるかもしれない。いつ見てもゼロではなくなるかもしれない。
伊織に関することは少しも見逃したくない。授業中であっても伊織を知りたい。不審に思われずに後ろから伊織を見ていたい。この手で選んだくじは、後列の数字が書かれたくじだ。絶対そうだ。絶対、絶対、後列だ。
思わず息が乱れてしまいそうなほど必死に祈りながらも、どこか冷静な部分も残っている翔真は、伊織に視線を送った。席替えに本気になりすぎている翔真と温度差のある伊織は、くじを机の上に置いたまま何をするでもなく暇そうにしていた。
翔真は伊織の机上にぽつんと置かれているくじを睨める。前列だ。絶対、絶対、前列だ。前列前列前列。呪うように念を飛ばした。翔真の周りだけ空気が淀んでいるようだった。
それぞれの思惑を胸に、全員がくじを引き終えた。誰からともなく紙を広げる。伊織がくじを手にするのを見て、翔真も倣った。恐る恐る広げる中で、一足先に数字を目にした生徒から歓喜だったり落胆だったりの感情が迸った。
翔真も書かれた数字と出会した。五、だった。黒板の数字と照らし合わせる。左から順に見た。目的の数字を探し出した瞬間、思わず悲鳴を上げそうになった。咄嗟に口を押さえ、手元のくじを見て、黒板を見て、何度も確かめた。確かめた。何度確かめても、間違いなかった。身体がずっしりと重たくなるのを感じた。翔真の引いたくじは、一番前の廊下側の席を示していた。
全力で飛ばした呪いが跳ね返ってきたかのように止めを刺され、自滅する。終わった。伊織を窺う意味も見出せないほどに、夢も希望も何もないすっからかんな席だった。終わった。
生徒が荷物を持ってぞろぞろと移動し始める。突っ伏してしまいたくなるくらい最悪な気分だが、さっさと動かなければこの席を引き当てた人に迷惑がかかってしまう。
翔真は憎きくじを握り潰し、荷物をまとめた。そうしながら、誰かを責めたい衝動に駆られていた。このくじを選んでしまったのは、例の男子生徒が早く引けと催促してきたせいだ。これを引いて最前列になってしまったのは、担任がその枠に五を書き入れたせいだ。自身の運が悪かっただけで誰の責任でもないのに、まるで器の小さい翔真は他人のせいにせずにはいられなかった。
荷物を抱え、嫌々ながらも決して文句は口にせずに机と机の間を縫う。感情を全て声に乗せている生徒の脇を通り過ぎ、既にもぬけの殻となっている席に非常に重たい腰を下ろした。ここは最後にくじを引いた人の席でもあった。当の本人は一体どこへ、と首を動かすと、最も後ろの席でその姿を発見した。満面の笑みを浮かべていた。残り物には福があるとはよく言ったものである。
翔真は羨望のあまり睥睨してしまいそうになった。気づかれる前にサッと顔を背けようとした時、翔真の目は恐ろしいものを捉えてしまう。
伊織がいた。残り物で幸を掴んだ男子生徒の隣の席に座ろうとしている伊織がいた。ジャンケンに一発で勝つだけでなく、まだ誰も手をつけていないくじを引いて後ろの席を当ててもみせた伊織は、なんて運が良いのだろう。
夢も希望も何もない席であることは分かっていたが、ここまでとは思わなかった。絶望の中にも更なる絶望があるのかと翔真は無気力に椅子の背に凭れ、鼻から息を吐き出した。
最前列と最後列。この位置関係では、ほぼ一日中、伊織を自然な形で見つめることはできそうにない。ひとまず、親友は運が良いとだけ脳内メモに追加したが、今後の収穫はなかなか思うようにいかないかもしれない。
「最悪、めっちゃ前の席なんだけど」
「でもうちら近くじゃん。やったね」
「前の方でこの三人固まるとか奇跡すぎない?」
最悪な席を引き落ち込んでしまう最中、近くで女子生徒三人の会話を耳にした。伊織の行方ばかりに気を取られ、教室で無事に生きるためにはそれなりに重要でもある隣や真後ろの席が誰なのかを見落としていた。女子生徒の声は近い。自覚してしまうと、途端に嫌な予感が胸を覆い尽くした。
翔真はそろそろと顔を向けた。まずは左、女子。通り過ぎて左斜め後ろ、女子。振り返って真後ろ、女子。その周りにも数人の女子。女子ばかり。
息苦しくなるような事実を確認して、翔真は速攻で前を向く。予感は的中してしまった。完全に囲まれている。残念ながら、生きにくい席だ。軽くハーレム状態でへらへらにやにや喜ぶ男子など、女好きの変態か生粋の変態だけである。翔真はただただ暗鬱な気持ちだった。
時間を巻き戻してしまいたい。誰かと席を交換してしまいたい。当然承諾されるはずもない要望だ。誰が最前列を引き当てた人間と席を交換したい、または交換してもいいと思うのか。そんなのは、頼まれたことを断れないお人好しだけではないか。
仮にもし、不正するかのように入れ替えを行えたとしても、一番後ろに伊織がいる時点で何をしても無意味である。するのなら伊織本人と交代するしかない。伊織と同列になって横顔を眺め続ける手もあるが、それはそれで不自然極まりなかった。やはり後ろからが最も安全なのだ。
「はい、それでは、しばらくの間はこの席順でいきましょうか」
全員が移動し終えると、すたすたと教卓の前に立った担任が短く一言でまとめた。翔真のように望んだ席を引けなかった生徒の嘆く声が未だに響くが、運ですからね、と担任は嫌味なく笑んで軽く流した。
そうだ、運だ。運なのだ。そんなことは分かっている。自分の運があまりにも悪すぎたからこそ、伊織の情報を簡単には得られなくなってしまった上に、話したことなど一度もない女子に囲まれてしまったのだ。くじを引く際に急かすような真似をしてみせた男子生徒を恨むのも、黒板に責任重大な数字を軽い気持ちでランダムに書き入れた担任を恨むのも、どう考えてもお門違いである。
翔真は一度ぐしゃぐしゃに握り潰した紙を意味もなく広げた。歪んだ数字を見下ろし、黒板を一瞥する。そしてまた、不満を漏らすように乱暴に握り潰して机の上に放った。
クラスが変わっても出席番号は変わらない伊織は、翔真よりも先に登校しており、自席である最前列で黙々と本を読んでいる。何の本かは、やはりカバーに阻まれて知り得なかった。
新学年になって二ヶ月ほどが経過していた。他クラスのほとんどは一足先に席替えをしたようで、既に出席番号順ではなくなっている。それをなぜか異様に羨ましがる生徒は少なくなかった。
今日こそ担任に訴えかけようと数人で結託して奮起する生徒がいる中、翔真はあまり乗り気になれずにいる。今の席が離れ難いほどに気に入っているからではなく、今の席であれば、前の席にいる伊織を観察できるからであった。席替え後も伊織の背中を見られる席であればいいが、必ずそうなるとは限らない。伊織の前になってしまうとさりげない動作で眺められなくなる。前から後ろを頻繁に振り返るなど不自然でしかない。変わり者扱いされて終わりである。
席替えという教室内のささやかなイベントも、翔真にとっては憂鬱だった。伊織の後ろになれる確率は一体どのくらいなのだろうと、平凡な脳味噌なりに計算を試みる。だが、どう計算するのが正解なのかさっぱりだったため、翔真は粘ることもなくすぐに諦めた。頭から湯気が出そうなほど考え尽くしたとしても、正確なパーセントが導き出せるとは思えない。
手っ取り早く数学教師に質問しに行ってみるか、などと血迷いそうにすらなったが、寸前で正気を取り戻す。馬鹿なことは聞けない。伊織の後ろになれない可能性もあるように、なれる可能性も秘めているのだから、なれないかもと悲観するだけ精神が擦り減るだけだ。
雑に無理やりまとめて自分に言い聞かせた翔真は、自席で隠れてスマホを触った。息をするように自然と、指がSNSを開いた。
「なあ、席替えのくじ、作っとかない?」
「それいいな。こっちで予め準備しとけば、先生もその気になってくれるかも」
「俺も手伝うよ」
アプリを開いたと同時に右斜め前から聞こえた声に意識を引っ張られ、翔真はスマホから顔を上げた。どうしても席替えをしたいらしい男子生徒数名が、一つの机に固まっていた。
くじを作ろうと提案した代表者が、机から引っ張り出したノートを開く。それでくじを作るのか、と予想したところで、男子生徒が真っ新なページを大胆にも引き裂き始めた。ビリビリと破かれる音が朝の教室に響く。チラッと音を気にした生徒はいたものの、それだけだった。
暫し男子生徒の行動を眺めていた翔真もまた、何も言わずに手元の液晶画面に視線を落とした。暗くなっていた。自動的にスリープモードになる前にタップして起こす。最近発信した投稿が目に入った。
【いつでも余裕のあるイケメン、それが俺の親友】
【イケメンの親友は顔だけじゃなく字まで整ってる。これが汚かったらちょっと面白かったのに】
それぞれ次の投稿の候補に挙げていた情報だったが、結局どちらも載せていた。何がいいねに繋がるか分からない。そのため、出さずにいるよりも出した方が絶対に良いと判断してのことだった。
投稿する際に文章は多少なりとも工夫したが、それを踏まえても心底つまらない呟きである。時間が経てば経つほどそう思う。くだらない。しょうもない。センスがない。無論、いいねなど一つもついていない。恐らくこれからもつかない。
もっと何か反応を示したくなるような特別な情報が欲しい。伊織の意外な素顔だったり、意外な特技だったり、こちらが予想できない意外な事柄があるのなら知りたい。親友ならそのようなことも知っていてもいいのではないか。
翔真は伊織の腹の中を探ってやろうと目を上げた。読書中の姿を食い入るように観察する。伊織は本の世界に入り込んでいる。瞳が動く。上から下へ。そしてまた、上から下へ。文章を目で追っている。指先が滑らかにページを捲る。上から下へ。再び、上から下へ。繰り返す。いつまでも繰り返す。ひたすら文字を追っている。翔真の視線に気づく様子もなく、ひたすら没頭している。一体何を読んでいるのだろう。伊織を夢中にさせている物語は、一体どのようなものなのだろう。
教室の人口密度が増していく。話し声も増していく。伊織は顔を上げない。集中力は途切れない。本を読み始めたら物凄い集中力を発揮する親友、と翔真は脳裏に書き留めた。しかし、情報としては弱かった。読書家であれば誰もがそうに違いないのだ。珍しくとも何ともない。このような脆弱な情報では当たり前のように流されてしまう。
見つめるだけでは得られることに限界があった。声をかければ話が早いのだろうが、翔真にその勇気はない。仮にもし話しかけることができたとしても、口調や動作がぎこちなくなってしまうのが目に見えている。
話すのは上手くない。下手に距離を縮めようとして不審がられてしまったら都合が悪い。いつか自然な流れで会話ができるようになる日が来るのを願って、今は大人しく外から伊織に関するあれこれを掻き集める方が賢明だ。無理をするべきではなかった。焦ってこけるのだけは避けたい。
本の世界に没入していた伊織が、机に置いていた栞を片手に顔を上げた。黒板の上を見ているようで、翔真もつられて目を向ける。時計だ。針はあと数分でSHRが始まる時間を指していた。
伊織に視線を戻す。本に栞を挟み、壊れ物を扱うように丁寧に机の中に片したのを見届けた翔真は、握ったままだったスマホの電源を切った。伊織と違い、サッとポケットに押し込んで片す。
「あー、やっとできた。ギリギリ。これで今日絶対席替えするからな」
「良い感じの席、当たりますように」
「俺も当たりますように。欲を言えば一番後ろの席でありますように」
「てかこれ、お手製の紙箱、折ってくれてありがとう」
「全然。めちゃくちゃ折るの簡単だし気にすんな」
集まっていた男子生徒が全力を注いでいたくじ作りが終わりを迎えたようだ。翔真はあまり顔を動かさずに彼らを見遣った。囲っている机の上には四角い紙箱と折り畳まれた紙。男子生徒は即席の箱の中に即席のくじを放り込み始めた。本当に席替えをする羽目になってしまいそうだ。
登校してきてから一発目のチャイムが鳴った。仲の良い友達と固まって話し込んでいた生徒が席へ戻っていく。協力してくじを作成していた人たちも着席する。空いていた席が順に埋まると、程なくして担任教師が入ってきた。
「おはようございます。SHRを始めます」
教卓の前に立ち、簡単な挨拶を済ませた担任が連絡事項を伝えていく。今日もこれと言ったイレギュラーはない。決められた時間割の通りに授業を受けるだけである。
「先生、今から席替えしませんか?」
担任が話し終えてすぐ、挙手をしながらそう提案した生徒に視線が集まった。一生懸命くじを作成していた男子生徒だ。
彼の案に、一緒になってくじを作っていた人たちが即座に賛同する。遅れて周りもポジティブな反応を示し始める。気分は乗らないが嫌だと言えるはずもなく黙っている翔真を含め、良いも悪いも言わず声を上げない生徒もいた。
誰も嫌な顔はしていなかった。無言の肯定か、やってもやらなくてもどちらでもいいという中立的な立場で、人が生み出す流れに身を任せようとしているのか。
個人的に気になる伊織は、固く口を閉じていた。かったるそうにしているわけではないが、興味はなさそうである。
「先生の手間を取らせないようにくじも作りました」
「作ったんですか?」
男子生徒が出来たてほやほやの紙箱とくじを見せてアピールすると、目を瞬かせた担任からごもっともな突っ込みが入った。担任のリアクションは控えめだ。前向きな回答は得られないかもしれない。
翔真はそれで良かったが、やる気満々でくじまで作った男子生徒はそうもいかないようだ。表情が不安げに曇りかけた。が、派手なリアクションは取らない担任が、雲を晴らすような軽やかな声で男子生徒に光を差した。
「分かりました。やりましょうか、席替え」
「え、いいんですか?」
拍子抜けしそうなほどあっさりと許可が下りた。自分から発言していながら逆にいいのかと質問を投げ返す男子生徒に、いいですよ、と今度は即答してみせる担任がおかしそうに笑う。
念願の席替えが決行されることになり、教室内が一気に騒めき始める。盛り上がるクラスメートの中で、翔真は一人微動だにせず息を潜めていた。担任は断らなかった。クラスメートも大多数がにこにこと破顔してテンションを上げている。素直に席替えを受け入れるしかない。
伊織の後ろになれるかなれないか。運を味方につけられるかつけられないか。翔真は意味もなく手を摩り、ごくりと唾を飲んだ。運試しと称して、鬱々せずに軽い気持ちで楽しめばいいのに、なかなか意識を変えられない。
「簡単な図と人数分の数字を黒板に書きますので、みなさんはくじを引く順番を決めてもらえますか?」
担任の指示を受け、発起人の男子生徒が自ら動いて仕切り始めた。担任は生徒に背を向け、黒板にチョークを走らせる。
「順番だけど、角の四人にジャンケンしてもらって、最後まで勝った人からこう、蛇みたいな道なりで引くとかどう?」
男子生徒は例を示すように、指先で空中に横線を描いた。線はすぐに急カーブして直進し、またすぐに急カーブして直進する。前から後ろへ、もしくは後ろから前へ、それから隣の席へ行き、後ろまたは前へ行く。それを繰り返す流れだろう。異論を唱える者はいなかった。
四隅の席に座る四人が注目を浴びる。その中には伊織も含まれている。仕切っている男子生徒は四人でジャンケンするようお願いし、伊織以外の三人がスッと片手を挙げた。どことなく浮き浮きした様子である。遅れて周りに合わせた伊織は、楽しそうでも怠そうでもなく、ただ大人しく言われた通りのことをしているだけのようだった。
最初はグーから始まるお馴染みの掛け声と共に、四人は勝ち残りのジャンケンを開始した。四人だとあいこが続くだろうかと構えていたが、予想に反してたった一発で三人が脱落した。一人がチョキを出す中、三人は見事にパーだった。二本の指でまとめて敵をぶった斬ったのは、伊織だった。
親友はジャンケンがめちゃくちゃ強いかもしれない。新たな情報を書き加えながら、翔真は一発で三人を仕留めた伊織を見つめた。勝利を収めたものの、ノーリアクションだった。
「凄い。一回で決まった。面白いくらい圧勝じゃん」
「三人揃ってパーとか、気が合いすぎてるね」
「雨宮が文句なしの一番ってことで」
「え、ってことは、俺が最後? マジか。みんな良い席残しといてよ」
伊織に完敗した三人含め、誰も不満を漏らすことなく和気藹々と進行していく。黒板には幾つもの四角で区切られた簡易的な図形ができあがっていた。担任は枠の中にランダムで数字を書き込んでいる。
言い出しっぺの男子生徒が席を立った。くじの入った手製の紙箱を持ち、左右に振ってシャッフルしながら伊織の元へ向かう。数字を書き終えた担任は干渉せず、生徒の自主性を尊重しているようだった。
トップバッターの伊織が、選ぶような仕草はせずに適当にくじを摘んだ。前列前列前列、と祈るように念を送る中、伊織が早速紙を広げようとする。その行動を、男子生徒が止めに入った。
「全員が引いてから見ない?」
目を上げた伊織は、うんともすんとも言わずにただ一つ頷いて、開きかけた紙を元の形に折り畳む。口を開かない伊織を気にした様子もなく、男子生徒は礼を言って後ろへ移動した。
伊織が寡黙な人であることは、皆が知っていることだった。近寄りがたい印象はあるが、素行が悪いわけではない。物静かなだけなのだ。
一言だけだが伊織に話しかけた、今現在くじを持って回っている男子生徒の物怖じしない性格が羨ましい。翔真にはできない。簡単ではない。なぜ普通に喋れるのだろう。きっと伊織と目も合った。端正な顔面を目の前にして、なぜ平気でいられるのだろう。聞いてみたいが、それすらも翔真は聞けない。伊織に限らず、人に話しかけるのは得意ではなかった。会話をして情報を得る行為は、一生できる気がしない。
翔真がくじを引く順番がやってきた。できるだけ後ろの席を引きたい翔真は、伊織のようにさっさと選ぶ真似はせず、暫し紙箱の中のくじを睨みつけるようにして見つめた。透視などできないが、せめてもの抵抗だった。
人一倍真剣に悩む翔真の眼前で、男子生徒が持っている紙箱を左右に揺らした。中のくじが移動する。催促されているようだった。あまり逡巡してはいられない。時間をかけたとて分かることなど何もない。翔真は大人しくピントが合ったものを手に取った。
指先で摘んだ、四つ折りにされたくじを検分するようにじっくりと眺めた。当然ながら、何も見えない。何かが変わるはずもない。裏返してみても同じだった。
本当にこれでよかったのか。これは後列に埋まっている数字のどれかなのか。
前列になると死するかの如く大真面目に臨む翔真は、むくむくと膨れ上がる不安に襲われた。もう一度くじを引き直したくなったが、そんな勝手な真似は許されない。変更したいと申し出る勇気もない。これを選んだ自分の勘を信じ、失敗すれば潔く死ぬしかない。
人知れず暗澹とした気持ちに陥る。先程から悪い想像ばかりしてしまう。翔真はくじを指先でギュッと摘んだ。悲観しすぎてはダメだと意識して良いイメージを思い描く。
伊織の後ろで伊織を観察し、そこで得た情報を親友の情報としてSNSに投稿し、いいねを貰う。ありきたりなものではない、興味を注がれるような特種であれば、もっと多くのいいねが貰えるかもしれない。いつ見てもゼロではなくなるかもしれない。
伊織に関することは少しも見逃したくない。授業中であっても伊織を知りたい。不審に思われずに後ろから伊織を見ていたい。この手で選んだくじは、後列の数字が書かれたくじだ。絶対そうだ。絶対、絶対、後列だ。
思わず息が乱れてしまいそうなほど必死に祈りながらも、どこか冷静な部分も残っている翔真は、伊織に視線を送った。席替えに本気になりすぎている翔真と温度差のある伊織は、くじを机の上に置いたまま何をするでもなく暇そうにしていた。
翔真は伊織の机上にぽつんと置かれているくじを睨める。前列だ。絶対、絶対、前列だ。前列前列前列。呪うように念を飛ばした。翔真の周りだけ空気が淀んでいるようだった。
それぞれの思惑を胸に、全員がくじを引き終えた。誰からともなく紙を広げる。伊織がくじを手にするのを見て、翔真も倣った。恐る恐る広げる中で、一足先に数字を目にした生徒から歓喜だったり落胆だったりの感情が迸った。
翔真も書かれた数字と出会した。五、だった。黒板の数字と照らし合わせる。左から順に見た。目的の数字を探し出した瞬間、思わず悲鳴を上げそうになった。咄嗟に口を押さえ、手元のくじを見て、黒板を見て、何度も確かめた。確かめた。何度確かめても、間違いなかった。身体がずっしりと重たくなるのを感じた。翔真の引いたくじは、一番前の廊下側の席を示していた。
全力で飛ばした呪いが跳ね返ってきたかのように止めを刺され、自滅する。終わった。伊織を窺う意味も見出せないほどに、夢も希望も何もないすっからかんな席だった。終わった。
生徒が荷物を持ってぞろぞろと移動し始める。突っ伏してしまいたくなるくらい最悪な気分だが、さっさと動かなければこの席を引き当てた人に迷惑がかかってしまう。
翔真は憎きくじを握り潰し、荷物をまとめた。そうしながら、誰かを責めたい衝動に駆られていた。このくじを選んでしまったのは、例の男子生徒が早く引けと催促してきたせいだ。これを引いて最前列になってしまったのは、担任がその枠に五を書き入れたせいだ。自身の運が悪かっただけで誰の責任でもないのに、まるで器の小さい翔真は他人のせいにせずにはいられなかった。
荷物を抱え、嫌々ながらも決して文句は口にせずに机と机の間を縫う。感情を全て声に乗せている生徒の脇を通り過ぎ、既にもぬけの殻となっている席に非常に重たい腰を下ろした。ここは最後にくじを引いた人の席でもあった。当の本人は一体どこへ、と首を動かすと、最も後ろの席でその姿を発見した。満面の笑みを浮かべていた。残り物には福があるとはよく言ったものである。
翔真は羨望のあまり睥睨してしまいそうになった。気づかれる前にサッと顔を背けようとした時、翔真の目は恐ろしいものを捉えてしまう。
伊織がいた。残り物で幸を掴んだ男子生徒の隣の席に座ろうとしている伊織がいた。ジャンケンに一発で勝つだけでなく、まだ誰も手をつけていないくじを引いて後ろの席を当ててもみせた伊織は、なんて運が良いのだろう。
夢も希望も何もない席であることは分かっていたが、ここまでとは思わなかった。絶望の中にも更なる絶望があるのかと翔真は無気力に椅子の背に凭れ、鼻から息を吐き出した。
最前列と最後列。この位置関係では、ほぼ一日中、伊織を自然な形で見つめることはできそうにない。ひとまず、親友は運が良いとだけ脳内メモに追加したが、今後の収穫はなかなか思うようにいかないかもしれない。
「最悪、めっちゃ前の席なんだけど」
「でもうちら近くじゃん。やったね」
「前の方でこの三人固まるとか奇跡すぎない?」
最悪な席を引き落ち込んでしまう最中、近くで女子生徒三人の会話を耳にした。伊織の行方ばかりに気を取られ、教室で無事に生きるためにはそれなりに重要でもある隣や真後ろの席が誰なのかを見落としていた。女子生徒の声は近い。自覚してしまうと、途端に嫌な予感が胸を覆い尽くした。
翔真はそろそろと顔を向けた。まずは左、女子。通り過ぎて左斜め後ろ、女子。振り返って真後ろ、女子。その周りにも数人の女子。女子ばかり。
息苦しくなるような事実を確認して、翔真は速攻で前を向く。予感は的中してしまった。完全に囲まれている。残念ながら、生きにくい席だ。軽くハーレム状態でへらへらにやにや喜ぶ男子など、女好きの変態か生粋の変態だけである。翔真はただただ暗鬱な気持ちだった。
時間を巻き戻してしまいたい。誰かと席を交換してしまいたい。当然承諾されるはずもない要望だ。誰が最前列を引き当てた人間と席を交換したい、または交換してもいいと思うのか。そんなのは、頼まれたことを断れないお人好しだけではないか。
仮にもし、不正するかのように入れ替えを行えたとしても、一番後ろに伊織がいる時点で何をしても無意味である。するのなら伊織本人と交代するしかない。伊織と同列になって横顔を眺め続ける手もあるが、それはそれで不自然極まりなかった。やはり後ろからが最も安全なのだ。
「はい、それでは、しばらくの間はこの席順でいきましょうか」
全員が移動し終えると、すたすたと教卓の前に立った担任が短く一言でまとめた。翔真のように望んだ席を引けなかった生徒の嘆く声が未だに響くが、運ですからね、と担任は嫌味なく笑んで軽く流した。
そうだ、運だ。運なのだ。そんなことは分かっている。自分の運があまりにも悪すぎたからこそ、伊織の情報を簡単には得られなくなってしまった上に、話したことなど一度もない女子に囲まれてしまったのだ。くじを引く際に急かすような真似をしてみせた男子生徒を恨むのも、黒板に責任重大な数字を軽い気持ちでランダムに書き入れた担任を恨むのも、どう考えてもお門違いである。
翔真は一度ぐしゃぐしゃに握り潰した紙を意味もなく広げた。歪んだ数字を見下ろし、黒板を一瞥する。そしてまた、不満を漏らすように乱暴に握り潰して机の上に放った。

