嘘と欲求

【俺の親友、いつ見てもイケメンすぎる】
 今朝こっそりとした投稿には、いいねもコメントもゼロだった。
 授業と授業の間の休憩時間。椅子に深く腰掛けた西原翔真(にしはらしょうま)は、自らの指でSNSに投稿した一言を眺めて小さく溜息を吐き出した。陰気臭くて重たい溜息だった。教室全体が和気藹々と楽しげな雰囲気に包まれる中で、翔真の周りの空気だけがどんよりと淀んでいた。
 ゼロには慣れているはずなのに、実際に数字がゼロなのを目の当たりにすると、やはり残念な気持ちになってしまう。これが承認欲求によるものだと言えばそうなのかもしれない。
 ただ思ったことを呟いただけで、こんなのはただの独り言で、独り言は誰にも届かないもので、言わば、心底どうでもいいことで。自分が逆の立場であれば、このような取るに足らない呟きにいちいちリアクションなどしない。スルーする行為に悪気があるわけでもない。相手もきっとそうだ。だから、気にするだけ無駄なのだ。
 これが普通。ゼロが普通。無反応なのが普通。毎回言い聞かせて、毎回翔真はげんなりする。全くもって、嫌になる。強く言い聞かせている時点で、数字を気にしているではないか。
 親友がイケメン。イケメンなのだ。親友が。誰かは食いついてくれるかもしれないと思った。結果、誰も食いついてくれていなかった。数少ないフォロワーは仕事や学校でスマホを見ていない可能性も考えられるが、あまり期待しすぎてはならない。いいねなど貰えないのが普通なのだから。翔真はまた、言い聞かせた。
 誰の目にも止まっていないであろう投稿から、自身のプロフィール画面に目を向ける。名前はカケル。言わずもがな、偽名である。自己紹介文には、日常とか趣味とか。一言のみ。アイコンはネットで見つけたフリー壁紙の良さげな一部分。ヘッダーもまた然り。
 最初に設定してからほとんど変更していない新鮮味のないプロフィール。良く言えばシンプルで見やすいが、悪く言えばモノクロのように地味だった。
 フォロワー数は片手で数えられるほどしかいないアカウント。何気ない日常や適当な趣味についてぽつぽつと落としているだけのつまらないアカウント。他人から何かしらの反応がある方が珍しいくらい無色透明なアカウント。つまり弱小アカウントなのだった。底辺アカウントなのだった。翔真の動かしているアカウントは。
 鼻から息を吐き出し、翔真は顔を上げる。多数の生徒の姿が目に入る。誰も翔真を気に留めていない。翔真は視線を動かした。人と人の間から覗き見るようにして、窓際の一番前の席に目を遣った。
 教室の隅の席に座っている生徒、雨宮伊織(あまみやいおり)は、文庫本を開いていた。休憩時間はいつもそうだった。誰とも連まず、黙々と一人の時間を堪能しているのだ。それでいて、読書が趣味の地味な人であるようには見えない存在感があった。独特の雰囲気がある人。物静かで大人しい人。一匹狼でミステリアスな人。周りからはそう称されていた。
 地味な人だと陰でこそこそと嗤われない所以は、顔が極端に良いせいだ。眉目秀麗であることが、地味さを完全に払拭している。これが、どこにでもいそうな普通の顔面であれば、あるいは、醜悪とも形容されそうな不細工な顔面であれば、翔真が片足のみならず両足まで突っ込んでいる陰気臭い地味男にカテゴライズされていたに違いない。誰よりも整っている顔面が、伊織の評価を持ち上げているのだ。
 やはり、イケメンだ。どの角度から見ても、人と人の隙間から見ても、イケメンだ。顔面のレベルが違いすぎて、不用意に近づくことすら憚られるほどに。
 伊織が本のページを捲った。ごくりと唾を飲む。翔真は握っているスマホに目を落とした。素早く指を動かす。
【本のページを捲る動作すらイケメンなの本当にどういうことなのか親友に問い質してやりたい】
 親友、と打つと、罪悪感が募った。今朝もそうだった。翔真は気づかないふりをして、その文言をSNSに投稿した。
 翔真の思考がカケルの独言として発信される。しばらく文字を見つめた。画面は何も変わらない。意味のない行動だった。フォロワーの多いアカウントのように、即座に大量のいいねがつく夢みたいな現象など起きるはずもなかった。
 翔真はスマホの電源を切り、制服のポケットに押し込んだ。椅子の背凭れに身を預ける。顔を上げ、黒板の上の掛け時計の長針を見つめた。次の授業まであと二分。
 友人同士で固まって話していた生徒が徐々に自席へと戻っていく。眺めていた長針に秒針が重なった。一秒後には長針を追い越していく秒針。翔真は次に秒針を追いかけた。一定の速度を保ったまま円を描く秒針が、時計のてっぺんを示す。あと一分。
 時間の経過を視覚的に捉えているせいか、妙に萎えて冷静になった。自分は一体何をしているのだろう。途方もないほどの虚無を覚えた。馬鹿みたいに時計の針を眺めていることではなく、SNSに嘘の投稿をしたことに対してだった。熱が冷めるといつも思う。嘘を吐いてまで、自分は一体。
 チャイムが鳴る直前であっても本に食いついている読書家の伊織は、一ミリたりとも翔真の親友ではなかった。SNSでいいねを貰うための策として、翔真が勝手に親友にしているだけの、ただのクラスメートであった。翔真は伊織と話したことすらない。親友なのは全くの嘘である。イケメンなのは本当で、親友なのは嘘っぱちなのである。
 伊織が本に栞を挟んだ。キリのいいところまで読めたらしい。閉じた本を大事そうに机の中にしまう。どんな本を読んでいるのかと表紙を盗み見て情報を得ようとしたが、本には厳重にカバーが付けられていた。
 だろうな、と翔真は鼻から息を吐き出した。伊織がカバーなしで本を読んでいるのを見たことがない。これから見ることもないだろう。伊織に直接聞いて答えてもらう以外で知る方法はなさそうだった。
 仮にもし、伊織が本にカバーを付けていなかったとしても、残念ながら前と後ろで席も離れている。目を凝らしてみても、表紙の全体の色味くらいしか分からないに違いない。もしくは、何一つ分からないか。本を閉じて机にしまう一瞬の間だ。希望は限りなく低かった。
 親友として伊織のことを呟くのなら、もっと伊織の情報がいる。適当にでっちあげる手もあるが、事実を投稿した方が信憑性は増すはずだ。伊織が読んでいる本のタイトルや好みのジャンルは、貴重なデータになり得るものだった。親友なのだから。親友の好みを知らないなど不審に思われる。
 授業の開始を知らせるチャイムが鳴り響いた。翔真は一旦伊織から目を離す。見すぎて視線を感じ取られてしまってはならない。存在に気づかれ、警戒されてしまったら思うように動けなくなる。伊織の意識の中に、自分はいない方が都合が良いのだ。
 教科担任が教室に入ってきた。学級委員が号令をかけ、授業が始まる。数学である。翔真は教科書やノートを開きつつ、再度伊織に目を向けた。しかし、ちょうど人と被ってよく見えなかった。チャイムが鳴って目を離す直前までは空いていた席が埋まっているせいだ。
 翔真は邪魔だと思いながら前屈みになる。伊織の長い指先が教科書のページを捲っている。見開きの中央を手で軽く押さえてから、伊織は筆箱からシャーペンを取り出して握った。軸が黒く、シンプルでクールなデザインだ。
 不自然な前傾姿勢で伊織を見ていると、横から視線を感じた。隣の席の人に怪訝そうな目を向けられているのに気づき、翔真は内心で焦りながらもしらばっくれるように姿勢を元に戻した。教科書を見るふりをして平静を装うが、目はうろちょろと忙しなく泳ぐ。
 見られていた。気まずい。恥ずかしい。身体の内側が異様に熱い。伊織に警戒されるのはもちろんのこと、クラスメートからも変に思われたくはない。悪目立ちする噂でも流されてしまったら堪ったものではなかった。伊織を眺める際には周りにも注意しなければ。地味で存在感が薄いとは言え、気づかぬうちに見られているかもしれないなら気は抜けない。
 緊張感が全身を駆け抜ける。隣の人は既に翔真に興味を失くしたのか、前を向いて教師の話を聞いていた。翔真もようやく授業を受ける姿勢になったが、頭の片隅には伊織が居座り続けていた。
 翔真の集中力が欠落していても、授業は滞りなく進んでいく。あからさまに授業を妨害したり、堂々と眠りについたりするような、極端に不真面目な生徒はこのクラスにはいなかった。伊織も真面目に受けている。
 伊織について入手している数少ない情報の一つに、クラスでも学年でも三本の指に入るくらいに成績が良いというのがあった。イケメンで、尚且つ聡明。ますます敷居が高く感じる。優秀な伊織と違って、翔真は至って平均的な成績だ。良くもなく、悪くもない。伊織と同じくらい勉強ができていれば、話しかける難易度は下がったのだろうか。
 話しかける、と考えて、話しかけたいのか、自分は、と翔真は自問自答した。吐いた嘘を本当にしたいのか。伊織と現実でも親友になりたいのか。
 無理に決まっている。伊織と親友になれるとは思えない。頭の偏差値も、顔の偏差値も、差がありすぎる。おまけに伊織との共通点も見つけられない。話題がない。近づけない。親友は疎か、友人にすらなれる気がしない。
 それでも、翔真の分身でもあるカケルという人間には、イケメンの親友がいるのだ。伊織が親友なのだ。翔真自らがそのような設定にしたのだ。たった一つでも、貰えば有頂天となるいいねのために。
 翔真は黒板に書かれた数式を、機械的に板書した。教師の話はほとんど頭に入っておらず、意識は完全に伊織の方へ向いていた。伊織が気になって、伊織を知りたくて、授業に身が入らない。
 隣の人に怪しく思われたばかりなのに、我慢できず前屈みになった。覗き込むようにして伊織を見つめてしまう。教室に拘束されている状態で得られる情報など高が知れているのに。
「西原、さっきからそわそわしてどうした? 集中しろよ」
 不意に名を呼ばれ、ビクッと肩が揺れた。まるきり聞いていなかった教師の声だった。厳しく咎められたわけではないのに、余所見をしていた翔真は悪戯をして叱責された子供のように萎縮してしまう。注意力が散漫になっている様は、教壇から見ると目立っていたのだろう。
 教師に名指しで授業態度を指摘された翔真の心拍数は、驚いたように急上昇していた。同時に、杞憂に過ぎないであろう不安も募っていた。伊織だらけの思考を読み取られてしまったのではないか。伊織を見過ぎだと揶揄われてしまうのではないか。そして周りに引かれてしまうのではないか。当の本人に嫌悪感を剥き出しにされるのではないか。単に注意されただけなのに、数々の懸念事項がぐるぐると脳内を駆け巡る。ネットで嘘を吐いている罪悪感によるものかもしれない。
 ごくりと唾を飲み込んだ翔真は前を向き、すみません、と小さく頭を下げた。くすくすと笑っている人はいないが、視線は痛かった。伊織にも格好悪いところを見せてしまった。余裕があるわけではないのに懲りもせず目だけで窺ったが、伊織はこちらを振り向きもしていない。興味などないらしい。自分だから興味がないのか。自分ではなくても興味はないのか。どちらであっても切ないが、どちらかと言えばまだ後者の方が傷は浅く済みそうだった。後者であれ。
「ついでだ、西原。前に出てこの問題を解いてみろ」
 集中できていない翔真に対して怒鳴りはしていない教師が、手に持ったチョークでトントンと黒板を軽く叩いた。xやy、二乗や三乗が含まれた、一目見ただけで解く気が失せそうな複雑な式が書かれている。習いたてのものだ。不安はあったが、指名された以上拒否はできない。そわそわして話を聞いていなかった自分が悪い。翔真は大人しく返事をして席を立った。
 注目を浴びながら向かった黒板の前で、誰かが落としたのか真っ二つになっているチョークの片割れを手に取った。妙なプレッシャーを感じる。緊張感とも言えた。手足がガタガタと震えそうになった。クラスメートには背中を向けているため分からないが、恐らく何人かは自分の手元を見つめているのではないか。もしかしたら、その中には伊織も含まれているかもしれない。別のことをしていてほしいが、感じる視線はいつまでもなくならない。望みは叶いそうにない。
 ひとまず翔真は、長くて複雑な式の下にイコールを書いた。気持ちを無理やり切り替える。テンパりそうな中で必死に頭を働かせる。テストではないため間違っても無問題だが、できれば間違いたくはない。無駄な恥をかきたくはない。
 翔真は持っている知識を総動員して問題を解いていった。自分を信じて突き進む。イコールが縦に連なっていく。悩みながらも懸命に解を導き出した翔真は、僅かに体積が減ったチョークを手放した。合っていますように、と願いながら教師の顔を見る。
「お、正解だ。素晴らしい」
 教壇の隅に移動していた教師がカラーチョークを手にやってきて、慣れた手つきで丸をつけた。不正解で赤面してしまう展開にはならずに済んだことに、翔真は胸を撫で下ろす。
 問題は無事に解けた。もう用はないはずだ。さっさと席に戻ろうと踵を返した翔真は、無意識のうちに伊織の挙動を確認してしまっていた。伊織はさらさらとノートにシャーペンを走らせており、俯き加減である。翔真の不自然な視線に気づいている様子はない。セーフだ。頻繁に観察していることが本人にバレたら最悪である。情報収集はこっそりひっそりと、気配を悟られないようにしなければならない。
 席に着いた翔真は、自分が解いた問題を書き写しておこうとシャーペンを持った。カチカチと芯を出し、黒板を見る。刹那、今すぐ消してほしいと思った。
 お世辞にも上手いとは言えない翔真の下手くそな字が、教師の字の中に溶け込めずに浮いている。解いている時は必死だったため気づかなかったが、ここまで羞恥を感じてしまうほど不恰好な数字の羅列になっているとは思わなかった。教師と違って黒板に字を書き慣れていないとは言え、これはあんまりだ。
 まっすぐ書いたつもりなのに書けておらず、落ちぶれるように右下がりになっている。教師の字の大きさに合わせて書いたつもりなのに、尻窄まりのようにだんだん小さくなっている。動揺や自信のなさが筆跡に表れていると言わざるを得なかった。早く消してほしい。
 教師の解説を聞きながら、翔真は黒板で解いた問題を無心でノートに写した。翔真の字はまだ消えない。誰も気にしていないことは理解しているし、いちいち揚げ足を取って馬鹿にするような幼稚なクラスメートなどいないことも理解している。しかしながら、精神衛生上良くない。紛れもなく、心理的な問題である。まだ消えてくれない。
「よし、じゃあ、この問題を、今度は誰に解いてもらおうか」
 心底しょうもないことで悶々としている翔真の耳に、誰かを当てようとする教師の声が聞こえた。僅かに顔を持ち上げ、できるだけ頭を動かさずに周りを見回す。誰も彼もが微妙に目を逸らしていた。当てられたくないのだ。今日は何日だから出席番号何番といった王道の当て方をしない、完全ランダム方式で指名する教師のため、誰一人として安心できない。当たる確率は全員平等だ。翔真は先程指名されたため、選択肢からは外れているはずである。連続で当てられたら一生恨んでしまいそうだった。
 翔真はきょろきょろしていると思われないよう姿勢を低くし、板書を取るふりをしながら目だけで伊織を一瞥した。伊織は平然としている。当てられるかもしれない、当てられるのは嫌だ、といった不安や心配の感情が一切ないように見えた。余裕がある。そこがまたクールだ。イケメンだ。翔真はSNSに投稿する呟きの候補として、脳内の片隅にメモした。親友はいつでも余裕のあるイケメン。
「それじゃあ、雨宮、これはお前に任せた」
 よく通るはきはきとした声でその名を呼んだ教師は、責任重大な任務でもお願いするかのような言葉で伊織を指名した。その瞬間、近くの席の人が安堵したように力を抜く気配がした。いつの間にか張り詰めていた空気が弛緩したようにも思えた。
 翔真に続き、多くの人が避けたいと思っている事象の餌食となった伊織は、しかし嫌そうな素振りは見せず素直に返事をして黒板の前へ移動した。注目を浴びている。翔真はここぞとばかりに遠慮もせず見つめる。周りも同じことをしている。今は決して不自然ではない。その他大勢に溶け込めている。
 伊織がチョークを手に取った。横線二本の等号を書き、迷いなく問題を解いていく。握っているチョークは短めだ。翔真が使用した真っ二つになったチョークの片割れか。もしくはその相方か。はたまた別のチョークか。知ったところで何の得もない情報だが、塵も積もれば山となる、だ。親友にしている伊織に関することであれば、些細なことでも知りたかった。
 翔真を含めたクラスメートの視線など意に介した様子もなく、さらさらと答えまで書き終えた伊織がチョークを元の位置に戻した。黒板が見えるように横へずれる。そこで翔真はハッと気づいた。消えかけていた悶々が、みるみるうちに克明になっていく。
「正解だ。素晴らしい」
 翔真の時と同じ褒め方で丸をつけた教師が、翔真の中に再び表れた悶々の元凶を一旦隠してくれたが、文字通り、一旦だ。すぐに姿を晒した。新たに増えた筆跡によって、翔真の下手くそな筆跡が更に悪目立ちする。静かに席へと戻る伊織の字は、翔真とは比べ物にならないほど丁寧だった。翔真はますます自分の書いた字を消してほしくなった。消してくれ、早く。
 自身のあまりの字の下手さに唸ってしまいそうになりながらも、翔真は伊織が解いた問題をノートに書き写していった。黒板の余白はもう少なくなっている。そろそろ消してくれるかもしれない。そう願ったところで、教師が黒板消しを掴むのを目にする。ここら辺はもう消していいかと生徒に確認し、数名の返事を貰ってから消していく。翔真が解いた問題も消していく。綺麗さっぱりなくなったのを見て、ようやく解放された気分になった。
 少しだけ心に余裕が出てきた。翔真はSNSに投稿する呟きの二つ目の候補として、親友は顔だけでなく字まで整っている、と記憶の中にメモをする。いいねが貰えるような内容ではないことは重々承知しているが、何でも発信してみなければ分からない。何か反応があるかもしれない。確証のない、かもしれないに賭けるしかなかった。
 翔真は黒板にまだ残されている伊織の字を、なぞるように目で追った。教師の説明を耳から耳へ聞き流しながら式の最後までを見た後、まるで引き寄せられるように伊織本人を盗み見た。我ながら気持ちの悪い行動だ。しかし、よく見なければ分からないような小さな気づきすら見逃したくないため、じっくり観察してしまうのは致し方ないことである。翔真は無理やり自分を正当化する。
 授業に集中したりしなかったりする翔真は、こんな調子だから成績が振るわないのだろう、とまるで他人事のように思った。伊織を気にしすぎるのは良くない。自覚してはいるが、妙案を思いついたとばかりに伊織を親友にし、ネット上で嘘を吐き始めた時から続いているのだ。既に習慣化してしまっている。無論、現実では嘘は吐いていない。伊織にも迷惑はかけていないつもりだ。今後もかけるつもりはない。そのためには、絶対に誰にも知られてはならない。決意を固め、翔真は前を向いた。
「こっち側、消していいか?」
 黒板消しを持った教師が先程と同様に生徒に尋ねた。消す時は毎回律儀に聞いてくれる教師に、いいです、大丈夫です、と数人の生徒が答える。確認している以上、まだ消さないでほしければその旨を伝えることも可能だが、そうなったことはほとんどなかった。それでも、ちょっとしたコミュニケーションを取るためにはちょうどいいのかもしれないと翔真は思う。翔真が返事をしたことはなかったが。
 生徒のリアクションを受けた教師が、黒板をさらさらと消していく。伊織の書いたバランスの良い文字の羅列も消していく。全てが消えてなくなるまで、翔真は伊織の筆跡を、目に焼き付けんばかりに見つめ続けていた。