まんまるな月が空から下界を見下ろす。その光にはさげすみが込められているということに誰も気づきはしない。
どこかで酔っぱらいの笑い声がする。閑静な住宅街に突如として紛れ込んだ雑音。先ほどまでは風がびゅうびゅうと家屋の隙間を通り過ぎる音だけが聞こえたのに、それさえも止んで。今はただ森閑とした街に若干の酒臭さを含んだ、しゃがれた笑い声が、未だ眠りにつかない者たちの耳を刺すばかりだった。その能天気さに無意識な皮肉が含まれていることを、高笑いは未だ気づいていないのだろう。自分がこの町の腫れ物になっているだなんて、思ってもいないだろう。
酔っぱらいの横を一人の男が通り過ぎた。それはちょうど彼が千鳥足で路地裏の街灯を通り過ぎた時だった。二十代前半の男。大学生のようだ。彼は横目で酔っぱらいの赤くなった顔を睨むと、すれ違いざまに鬱憤のこもった舌打ちをする。吐き捨てられた不満が無様に路傍に転がっていた。
今日は本当に散々な一日だった。
家に帰り着いた男は胸中で不満を募らせる。
大学の授業には遅刻し、バイトではミスをして散々に怒鳴られ、その帰路では道端に落ちていたガムを踏みつけてしまった。まだ買ったばかりの新作のスニーカーのソールにはベトベトとして、ところどころに塵芥の吸着した濁った白色の塊がこびりついていた。彼は沈鬱に曇った二つの眼で玄関を見据える。そこには乱雑に脱ぎ捨てられた白色のスニーカーが転がっていた。
こう見ると、まだアッパーの部分には汚れ一つついておらず、新品と嘯いても相違ない見た目をしている。それなのに、一つの汚点があるだけで、そのすべてが汚く陳腐なものに見えてしまうのはなぜだろう。
そんな考えが浮上しては、幻聴のように時折耳を指す笑い声にかき消された。さっきの酔っぱらいの声だ。築四十年のボロアパートでは、酒に駆り立てられた男の呵呵大笑を防げるはずもなく、部屋全体に品性下劣な酔っぱらいの声が響き渡る。部屋のおぼろげな照明の下、俺はちゃぶ台に突っ伏し、両耳を手でふさいだ。そして、次第に大きくなっていくその笑い声に、鬱憤のこもった大きなため息を漏らした。愉快なその声に惨めな自分を馬鹿にされ、嘲笑われているようだった。
横や上の階からも舌打ちが聞こえてきそうだった。
酔っぱらいの声が止み、ふと顔を上げる。
年季の入ったちゃぶだいの上には、怪しげに光を放つ分厚い一冊の白い本があった。
浅い意識から薄く目を開ける。ぼんやりとした視界の片隅、嫌な音が耳を刺す。頭上でけたたましく鳴り響くアラームの音にたたき起こされ、俺はおもむろに起き上がった。スマホを手に取り、画面を確認する。九月十三日、金曜日、午前九時。それだけ確認すると、スマホを横に放り投げた。深呼吸のために吸った朝の澄んだ空気を、食傷のため息として吐き出す。未だ鳴り響くスマホのアラーム音に嫌気がさし、強引に掛け布団を脱ぎ捨て、スマホの上に被せた。部屋中にホコリの臭いが充満する。俺は再び眠りに落ちようとする二つの重たい瞼を擦りながら数歩あるく。小石のような目ヤニが二つ三つ指の際に触れてはポロリと零れ落ちた。
また数歩歩く。玄関へと続く短い通路には、右手に小さなキッチン、左手に白い扉が位置している。半開きになった引き戸に体を潜り込ませる。絶妙に小さい浴槽のある風呂場と、脱衣所には、歯ブラシやらヘアワックスやらが散乱した洗面台がある。
洗面台の所々水垢のついた鏡の前に立つ。鏡のなかには、むくんだ顔に不格好な寝ぐせのついた、野暮な醜男がいた。口の端を無理やり持ち上げ、はにかんでみる。
やはり映えない。
顔を洗い寝ぐせを治す。部屋着を取り払い、淡い青のジーンズと白いTシャツに身を包む。
もう一度鏡を見れど、醜男に毛が生えた程度の見栄のしない大学生がそこにはいた。悔し紛れに、シャツをジーンズにインするなんて小手先のテクニックを披露してみる。
少しはましになっただろうか。
いや、そんなことないか。
気休め程度にしかならないよな。
そんな自問自答が頭を駆け巡り、頭蓋骨の内側でぐるぐると渦巻く。いくらファッションや髪型にこだわったところで、所詮元の素材は変わらない。毎朝身に染みて感じていることなのに、それでも毎朝期待してしまう。半開きになった引き戸を全開にして洗面台を出ると、せっかく整えた髪を両手でぐしゃぐしゃとかき乱した。俺は、部屋の脇に転がっていたいつものキャンバス地のトートバックを肩に背負い、脇目もふらずに家を出た。
スマートフォンを家に忘れたことに気付いたのは、駅の改札口に着いた時のことだった。最近改装されたばかりの最寄り駅は、真新しい建材の匂いが揺曳と漂っている。そんな中、利用者数が多い故ついた、地面の黒い汚れがひときわ目立っていた。
俺は、そんな黒いシミをいくつかスニーカーで踏みつけながら歩く。いつも通りスマートフォンをかざして改札口を通ろうとしたとき、右手をズボンのポケットに入れたところで異変に気付いた。
「やべっ」
小声で叫ぶ。
そこにあるはずのものがなかった。
そう悟った瞬間に、いつもよりズボンが軽く感じたのは気のせいだろうか。
俺は苦渋に顔を歪める。本当は大声で叫びたい情感だったが、多くの乗客がはびこる中、そんなことをしたら警察沙汰は免れない。何より騒いでいるところを撮影されて、SNSにでも投稿されたら一発アウトだ。俺の人生積んでしまう。
まあ、そもそも俺にはそんな勇気なんてない。
取るに足らない杞憂を捨て去り、おとなしくスマートフォンを取りに帰ることにした。
件の失せ物は、部屋の中で見つかった。それは、今朝強引に脱ぎ捨てた掛け布団の下敷きとなっていた。俺は自戒の念に駆られる。今朝あんな不逞を行わなければよかったと、つくづく後悔した。刻々と時間が迫りくる中、悠長に感傷に浸る時間なんてあるわけもなく、俺はドタバタと急いで部屋を後にした。
案の定大学の講義には遅刻した。静まり返った廊下の、目の前に佇む巨大な扉から教授の淡々と説明する声が漏れ出していた。インフレーションやらデフレーションといった無機質な言葉の一つ一つが、俺の胸をえぐる。激しくなる動機を抑えゆっくりと扉を開く。キーという少々耳障りな音を立てて扉が開く。教授の四角い眼鏡の内側の、冷たい目線が俺の肌を貫いた。彼のジェルでオールバックに固めた髪の、てっぺんの光っている部分を一瞥し、軽く会釈をすると早々といつもの席に着いた。
「おい、誠。また遅刻かー?」
隣から微笑を含んだ声が聞こえる。
俺は声のする方をキッと睨んだ。
「おいおい、そんなに怒んなよ。かわいいお顔が台無しだぞ。誠ちゃん。」
にやにやとした顔を浮かべるのは田中 涼介。俺と同じ高校出身の男だ。精悍な顔つきに筋骨隆々な体、男なら誰しもが憧れるであろうその外見に、最初は気疎いを覚えていた。
「うるせえ。今日の遅刻はやむを得ないことだったんだよ。いつもの寝坊とはわけがちがう。」
俺はどうにか釈明しようとかぶりを振る。
「なんかあったん?」
そう聞かれたところで俺は言葉を詰まらせた。スマホを家に忘れたなんて言ったら自分の愚行を露呈することになる。そんなことをすれば涼介から馬鹿にされるのは目に見えていた。だからといって、もう寝坊ではないと言ってしまった手前言い訳の余地がない。
あきらめて俺はつまびらかに事を話した。
しかし、案外彼は馬鹿にはしてこなかった。それどころか同情までしてきた。
やはり、分からないやつだ。高校時代も、彼はいわゆる一軍で、あまり目立つことがなかった俺とは関りがなかった。というよりかは、俺の方から極力関わらないよう逃げていたのかもしれないが。
実際のところ俺は、高校時代の彼に若干の恐怖心をいだいていた。それは、彼らのノリに巻き込まれる恐怖心だったり、下手に関わって嫌われることに対するものだったりした。そんな毛嫌いしてきたやつが大学になった途端、突然話しかけてくるもんだから最初は吃驚したもんだった。入学式の当日、新入生の席で偶然隣になった俺に彼は話しかけてきた。
「君、同じ高校だったよね?」
俺は最初、自分に話しかけられたと気づかずに無視してしまった。しかし、右肩をトントンと叩かれたところで、対話の相手が自分だと気づいた。喉から心臓が飛び出るかと思った。
彼はもう一度同じ質問を投げかけてくる。記憶は定かではないが、俺が最初に発したのは、かすれた声の「あ」だった気がする。それから言葉が詰まってしまった。一瞬機能を停止して、フリーズした脳がもう一度稼働し始めたのは、俺の危機管理能力によるものだったのだろう。このまま何も話さなければ、俺は変人認定され、地獄の大学生活を送ることになる。そんな杞憂が頭を迸り、何か話さなければという思いが先行し、気づくと口を開いていた。
「はい。」
大きな会場内に上擦った元気のいい返事が響き渡る。焦って音量調節をミスってしまった。周りからクスクスと笑い声が聞こえる。俺は赤面し、隣に座る彼の顔を直視できなかった。完全に終わったと思った。しかし、彼の反応は思っていたものと一風違ったものだった。
「こんなおもろいやつ俺の学校にいたんだ。知らなかったわ。これから仲良くしてくれよな。」
そういって彼は拳を差し出してきた。その時初めて直視した彼の顔は、太陽よりもキラキラしていて、優しさに溢れた優しい笑顔だった。
大学の授業が終わり、今度はバイト先へと直行する。時刻はすでに午後4時半。
溜まっていた単位の習得に焦っていると、こんな時間になってしまった。大学の正門から真っすぐと伸びる長い道を猛進していた。視界の脇を通過する車の走行音とエンジン音の合間で、タンタンと軽佻な足音が聞こえる。その一定のリズムに合わせて、リュックのチャック同士がぶつかり合うカチャカチャという金属音、そのリュックの中で重たい何かが上下に揺さぶられる音が聞こえてきた。俺はその音の根源が気掛かりで隣を一瞥する。そこには涼しい顔で道の先を見据え、走る涼介の姿があった。彼も同じで単位が危うく、二人して遅くまで大学に残っていたのだ。すました顔の涼介をよそに、早くも限界を迎えそうな体力、全身の筋肉が呻吟していた。鈍重な足音の合間に聞こえてくるのは、惨めにも荒くなった呼吸音だけだった。ふと、緩んだ口からよだれが垂れそうになって右手の甲で拭う。
「大丈夫?ちょっと休むか?」
気遣わし気な声が聞こえてきた。
余計なお世話だ。
そう言いたいところだったが、すでに体は限界をむかえていた。背に腹は代えられず、俺は彼の言葉に甘えることにした。首を縦に振る。それを察知したのか否か、涼介が走るのをやめた。
「結構走ったもんな。ちょっと疲れたよな。」
そう言う彼の表情からは、疲労なんて微塵も感じられなかった。
「……あぁ。」
俺はやっとのことで返事を返す。
長い沈黙の中で、二人の不揃いな足音だけが耳に残った。
五時十分。結局バイトにも遅刻してしまった。五時から入っていたバイトのシフトに十分も遅刻してしまったのだ。他のスタッフに申し訳なく、合わせる顔がない。俺は「居酒屋 寿 」と書かれた店の暖簾の前で身じろぎできずにいた。そんな俺の背中を押しながら、涼介が店の中へと入る。黒いTシャツに群青色の前掛け、画一的な制服に身を包んだ店のスタッフの視線が一斉に集まる。その視線に呆れの色が灯っていくのを肌でひしひしと感じた。俺は体を委縮させ、更衣室へと向かう。両脇で作業を行うスタッフの視線が痛い。いたたまれず、俺はすぐさま制服に着替え、仕事に取り掛かった。俺の担当である厨房では、すでにもう一人の担当スタッフが忙しそうに料理の仕込みを行っていた。せわしなく動く体に呼応して、ゆるくウェーブのかかったポニーテールが揺れる。
「すいません、理沙先輩。遅れました。」
彼女が振り返る。透き通るように白い肌に大きな二つの目。
整った輪郭の、整った唇が微笑を浮かべる。
「もう、遅いよー。早く手伝って。開店時間になっちゃう。」
彼女は上目遣いで眉を顰める。
悪意を少しも含有しないその仕草が、ただただかわいらしい。理沙先輩は一個上の先輩だ。都内の国立大学に通っいる。Fラン大学の俺とは大違いだ。容姿端麗、才色兼備として職場内でも話題となっていた。
そんな彼女に見とれていると、誰かに後ろから背中をたたかれた。
反射的に振り返ると、ニヤニヤとした表情でこちらの様子を伺う涼介の姿があった。
「お前、遅刻してんだから、あんまりぼーっとすんなよ。」
「うるせぇ。」
きまり悪くて小声でつぶやいた。
涼介は含み笑いを浮かべながら、理沙先輩と俺の顔とで視線を行き来させる。
「お前だって遅刻してんだから、早く自分の仕事に戻れよ。」
そう言い放つと、俺は涼介を厨房から追い出した。彼は去り際に豪快な笑い声を残し、その場から去った。
とんだ不意打ちを食らったものだ。俺は理沙先輩を一瞥する。彼女はまな板の上で包丁を躍らせ、黙々と作業をしていた。ひとまず胸をなでおろす。俺は彼女の横に並び、作業を始めた。
この日は客が多かった。午後8時を回った店内は、連休前の金曜ということも相まって、千客万来多くの客で賑わっていた。そんな中、足りなくなったホールの人手を確保する目的で、厨房のスタッフから何人かがホールに駆り出されていた。俺もその一人だった。そして代わりに、店長が厨房を手伝っていた。要は役不足だったのだろう。きっと、俺のような効率の悪い人間が厨房で佇むよりも、自らが厨房に出向いた方が効率よく回るという腹積もりだったのだ。あながち間違っていないような気がして、俺は一人苦笑した。
店の奥の掘りごたつに座る、スーツを着た四人の中年男性のうち一人が、赤く染まった顔をして、すいませんと腕を上げる。その心地よさそうに緩んだ顔を見て、腹の底から奔騰してくる得体のしれない活力のようなものが、表情筋の自由を奪う。すっかり緩んでしまった自分の顔に、まだ気づけずにいた。
俺はオーダーの内容を急いで厨房へ伝えに行く。
「理沙先輩、オーダーです!」
「はーい!」
商品受け渡し口から、ひょっこりと顔を出した理沙先輩の目が覗く。
「生四つ追加と枝豆いちです。」
早口でオーダーを伝える。
「おっけー。」それだけ言うと彼女は、二度見するように俺のほうを向いた。
なんだか動悸がしてきた。
てっきりすぐ引っ込むと思った理沙先輩は、未だ俺の顔をみつめていた。物珍しそうな目で。
「誠君、なんだか嬉しそうだね。なんかいいことでもあった?」
え?嬉しそう?
俺は自分の口を手で覆う。唇の端の方が微かにもりあがっていた 。気づかぬうちに笑顔になっていたようだった。多分さっきの中年のせいだろう。
大変だが充実した一日だった。
まだ一日が終わってもないのに、勝手に振り返りを始める自分の思考を強制的にシャットダウンする。
「まぁ、秘密です。」
そう言い捨てると、俺は再びホールの方へ走っていった。
そんなさなか事件は起きた。ドリンクのオーダーが入っていた卓へ飲み物を届けようとしていた。受け渡し口には表面にキラキラと光る結露が付いた、生ジョッキが七つ並んでいた。まさかこれ全部を運べというのか?無理だ。あきらめよう。
普段ならきっとそう考えただろう。しかし、調子に乗っていた俺はあらぬことかジョッキをすべて自分で運ぼうとしたのだ。しかも、一度に。両手に大量のジョッキを抱え、注文した卓へと急ぐ。早く喜んでもらいたい。その一心のせいで、他の大事な部分が見えなくなっていた。グラグラ揺れる不安定なジョッキ。案の定俺は掘りごたつの注文卓を前にして、生ビールを激しくぶちまけた。しかも、飛び散ったビールの一部が、向かいの掘りごたつに座る、不惑な女性客の衣類にかかってしまったのだ。
女性客は激しく憤怒した。クリーニング代を払えだの、食事代をタダにしろだの。挙句の果てには、「最近の若者は――」と、極めて自己満足的な批判を長々とたれる。光陰矢の如しとはよく言ったものだ。人生で、これほど時間が経つのを遅く感じたのは初めてだった。俺は唯々諾々と謝ることしかできなかった。騒ぎを聞きつけた店長が、顔に焦燥の色を浮かべながら駆け付けた。少々登場が遅くなってしまったのは、きっと注文が混雑していたせいだろう。それにもかかわらず、客は店長の登場が遅くなったことでさらに腹を立てた。店長に対しても、先ほど俺にしてきた説教じみた文句を長々と垂れる。こんな忙しいときに拘束されては、店が回らなくなってしまう。現に厨房では溜まりきったオーダーに、スタッフの手が回っていない。それでも次から次へと増えていく注文に、今にも理沙先輩の悲鳴が聞こえてきそうだった。俺は申し訳ない気持ちで胸が張り裂けそうだった。というよりも、もはや自ら胸を裂き、出てきたはらわたを献上したい気持ちだった。ふと店長を一瞥する。俺は全身の血の気が引くのを感じた。店長は客の相手をしながらも、燃えるような憤慨のこもった目つきで、俺のことを睨んでいた。今まで目にしたたことないほどの激昂ぶりに俺は身震いした。
結局決着は、客の食事代をサービスすることと、クリーニング代を支払うことに落ち着いたらしい。涼介から聞いた話だった。店長は店の閉店後すぐさま俺を厨房の奥に呼び出した。きっと怒られることが明確だったので、俺は勤務時間中何度も逃げ出そうとした。しかし、理沙先輩のことを考えると、そんなことできるはずもなかった。俺はこの身に制裁が下されるのを、今か今かと待ち続けることしかできなかった。まぁ、もはやその審判が下されるときには、俺はこの店にいられなくなるかもしれなかったがが。そしてついに鉄槌が下るとき、ドタバタという足音とともに救世主が現れた。
「すいません店長、こいつがビールこぼしたの、実は俺のせいなんです。」
そういって現れたのは涼介だった。この時ばかりは、こいつが白馬に乗った王子様に見えた。安心感が勝っていたためすぐには気づかなかったが、彼の発言は事実無根だった。だってそんなことあるはずがない。なぜなら、彼は事件当時、俺がビールをこぼした掘りごたつの位置からはかなり離れた、窓際のテーブル席への配膳をしていたからだ。しかし、そんなこと露も知らない店長は彼の荒唐無稽な発言を即刻信じた。
どうしていつもこいつは俺のことを庇うのだろうか。
遅刻の件だってそうだ。涼介だけだったら、きっと間に合っていただろう。それなのに、こいつはどれだけお人よしなんだ。俺を庇って叱られる彼を見て、心苦しさで胸が締め付けられる。それと同時に得体のしれぬ悔しさのようなものが奔騰してきたような気がしたが、俺はそれを頑なに無視した。ふと、店長の説教が止んだ。どうやら、次にどんな話題でお灸を添えようかと吟味しているらしかった。おれはその一瞬、涼介の眼光が鋭く光ったのを見逃さなかった。まるで、ハイエナのようなその眼差しに、胸がドキリと大きく波打つのを感じた。
そこからは涼介の御業が光った。説教がこんなに早く終わるものとは思ってもみなかった。今まで知らなかったが、彼は意外と弁がたつタイプのようだった。一瞬の隙をつき、すぐさま自分と俺の立場を正当化した。いとも簡単に店長の激高を消沈させてしまったのだ。俺は彼のスキルに盛大な拍手を送りたい気分だった。店長の消化不良そうな顔の浮かぶ、説教の締めに「すいませんでした。」の一言を添えると、そそくさと厨房を後にした。
とりあえず、店長からの許しはもらえた。しかし、理沙先輩に迷惑をかけてしまったというその事実一つが、質量をもって重くのしかかる。
今日の一件のせいで嫌われたらどうしよう。
そんなことばかりを考えてしまう。あの先輩が、そんなことで人を嫌いになるはずがない。それは重々承知している。そのはずなのに、心のどこかから温泉みたく湧き出た不安が杞憂を生み、その上澄みのくだらぬ妄想ばかりが俺を惑わした。刻一刻と過ぎ去る時間にいてもたってもいられず、俺は駆け出した。
店を抜けた道の先に、理沙先輩の姿はなかった。道の先では、忽然と浮かぶ常闇が俺を嘲笑っていた。
そりゃそうだ。彼女がバイトを上がってから、何分経ったと思っているのだろう。説教を食らっている間に、気まずそうな顔を浮かべ、静かな足取りで店を後にした彼女の背中を、俺は横目で見送ったはずだった。
暗闇にポツリと一本だけ立った、古い街頭のおぼろげな光が、うなだれた俺の黒い影を地面に投影する。店へと戻る俺の足は重く、踏み出す一歩一歩が道のアスファルトの中へ深く深く沈んでいきそうだった。
帰路についた。今日はなんだかいつもの道では帰りたくなくて、わざわざ回り道で帰ることにした。
いつもは早歩きで歩く道を、今日はゆったりと、まるで社交ダンスでも踊るようにふらふらと歩く。いつもは右に曲がる突き当りを、今日は左に曲がった。その先は行き止まり。それでも意地になって、他に通れそうな道を探しながら来た道を引き返す。突き当りまで戻ってきたところで、俺はあることに気がついた。突き当りというのは、家の塀によって作られた壁だ。その突き当りを成す二つの家の塀の間に僅かな隙間があった。その隙間が細い抜け道を形成していた。
俺は隙間に体をねじ込む。体を横にしてやっと通れる狭さだった。遠くに見える光を目指して、真っすぐつき進む。時折鼻をつく嫌な臭いをこらえながら。
やっとのことで外に出た。暗い路地裏。知らない道だった。左側はまたしても行き止まり。種々雑多なシミのついた、背の高い壁が阻んでいた。右側を向くと等間隔にポツリ、ポツリと並ぶ古い街頭が、道の先へと続いている。まるで誘導されているようだ。俺は酩酊したような心地で、その光に導かれるように歩く。
気づくと目の前には一軒の古民家があった。看板が掲げられているところを見ると、何かの店のようだ。錆びた看板には、横文字で「堂書幻」と書かれている。唐突な違和感が襲う。不自然な名前の響きに俺は気づいた。多分読み方が逆だったのだ。右から左へと読むと、「幻書堂」。腑に落ちるのと似た感覚に、俺は二三度頷いた。
その不思議な雰囲気に惹かれ、引き戸の金属の取っ手に手を掛ける。ひんやりとした感覚が指先に伝わる。そのまま戸を引くと、まず目に飛び込んできたのは、四、五メートルはあるだろうか、天井まで伸びた巨大な本棚と、そこに整然と並べられた大量の分厚い本だった。その本棚が何列にも連なって店内を席巻している。俺は店に足を踏み入れた。
「いらっしゃい。」
横からしゃがれた声が聞こえてきた。俺は脊髄反射で振り向く。そこには、銭湯の番台のような、うず高い席に座った人影がみえた。しかし、机の上に高く積まれた本のせいで、顔がよく見えなかった。その人物は、机の上に置いてあった本の棟たちを手で払いのける。バタバタという重たい本の落ちる音とともに、顔があらわになった。
肩まで伸びた真っ白な髪の毛に、真っ白なひげ。やせ型じゃなければサンタクロースに酷似していたであろう。そのおじさんは、俺の目を見据えて薄気味悪い笑みを浮かべた。
黄色くくすんだ肌の色が彼を浮浪者のように見せた。
「ようやく来たようじゃな。随分長いこと待っていたわい。」
まるで、俺が来ることを想定していたようなその口調に反駁する。
「待っていたって、俺はたまたま立ち寄っただけですよ。ここに来るのは初めてだし。おじいさん俺を誰かと間違えていませんか。」
すると、彼は黄色い歯を見せて笑う。
「いいや、間違えてなんかおらん。決まっていたんだよ。お前さんこの店に来ることは、お前さんの生まれるずうっと昔から。」
荒唐無稽な彼の発言に俺は半ば呆れる。
認知症か何かではないのだろうか、このジジイは。
「決まっていた?そんなこと誰が決めたっていうんですか、おじいさん?」
「それは私にも分かりかねるな。神様なのかもしれんし、カルマなのかもしれない、もしくは運命や宿命なのかもしれん。」
何だよそのいい加減な論理は。破綻しているじゃないか。
「そんなこと言ったって、証拠がないでしょ。証拠が。俺はそんないい加減なこと信じられませんね。」
すると、気色の悪いサンタは笑った。いや、さっきからずっと笑ってはいたが、上がっていた口角をさらに持ち上げた。乾燥したその唇には血が滲み、裂けてしまいそうだった。
「証拠ならここにたくさんあるじゃろう。」
俺はぐるりと周りを見渡す。
何を言っているんだ、このじいさんは。ここにあるって言ったって、あるのは本ばかりじゃないか。そこで俺はある違和感を覚えた。並んでいる本が画一的すぎる。というよりかは、同じ色、同じ形、同じ分厚さの本しか並んでいなかった。本棚に並んでいる本も、さっきじいさんが落とした本も、みな同じ白色で、金色の唐草模様が彫られている。さらには見た感じ、辞書のように厚さが5センチ程もあるという点も同じだった。俺は、さっきじいさんが落としたうちの一冊を手に取る。表紙には【堀越 一郎】とだけ書かれていた。著者だろうか。その他には題名も何も書いていない。俺は興味本位で、その本の表紙をめくろうとした。そのとき、さっきまでは静かだったじいさんが突然声を荒げた。
「開けちゃならん。」
俺は驚き、本を落としてしまった。
「な、なんでだよ。」
「そういう決まりじゃ。」
じいさんはぶっきらぼうに答える。なんだよさっきから決まり決まりって、こっちは客だぞ。商品を手に取って確認するぐらい、させてくれてもいいじゃないか。俺は不満を募らせる。ふと、じいさんが番台を立ち、下に降りてきた。手には俺が持っているのと同じ白い本が握られている。
「お前さんのはこっちじゃ。」
そういうと、突きつけるように本を渡してきた。俺はその本をまじまじと見る。そして、驚愕した。表紙には【長谷川 誠】と書かれていた。
俺の名前だ。なんで俺の名が本に刻まれているんだ。
じいさんの方を一瞥すると、また気味の悪い笑みを浮かべている。
単なる偶然か、それにしては都合が良すぎる。そもそもなんでこのじいさんは俺の名前を知っているんだ。様々な憶測が頭の中を駆け巡る。でも、どれも違う気がする。憶測のどれをとっても、この状況は説明がつかない。俺が身じろぎせずにいると、じいさんは呆れたように言った。
「どうした、読まないのか?」
読む?さっきは読もうとして怒鳴ったくせに?意味が分からない。俺は表紙に手を掛ける。
――一ページ目。
二○○一年 三月 二十九日 十六時 二〇分 四十五秒 誕生。東京都 ○○市 △△区 つきのうら産婦人科 六番分娩室 母 長谷川 由香里から出生……。
俺は舐めるように、ページに綴られた細かな文字を読み進めた。
なんだよ、これ。俺に関する個人情報まるっきり全部載ってるじゃねえか。俺が唖然としていると、またもや口を挟まれた。
「おいおい、そんなもったいない読み方をするんじゃない。一度読んだページは消えてしまうんじゃから。」
そう言われたそばから、目の前で開いていたページが忽然と姿を消した。まるで、霧の中に消えていくように、残像が線になってスーッと消えて行ってしまった。もう何が起きても驚かない自信があったが、こんなあからさまな超常現象を見て驚かないはずがなかった。見間違えではないのかと、俺は何度も目をこする。
「ほら、言わんこっちゃない。」
じいさんは、やれやれといった様子でかぶりを振った。
「世界にたった一冊しかない本なんじゃから、大切に読みなさい。」
さすがに目の前の胡散臭い男の言うことを信じざるを得なかった。
「じいさん。一体この本は何なんだ。」
相変わらずニヤニヤとして、じいさんは言う。
「この本か、これはな、お前さんの人生の設計図じゃよ。お前さんがどのように生まれて、どのような人生を歩むのかという計画が書かれておる。試しに、もう少し読み進めてみなさい、きっとお前さんが今まで歩んできた人生と、まったく同じ人生がそこには書かれておるはずじゃから。」
俺は言われたとおりに再び本を開く。
――百ページ目。
二○○二年 三月 二十九日 一歳の誕生日。初めて言葉を喋る。内容「お母さん。」
初めてケーキを食べる。お父さんが初めての誕生日プレゼントを買ってくる。内容 「つみ木セット」
俺はじいさんの忠告をよそにパラパラとページをめくる。横からじいさんの嘆く声が聞こえたが、気にせず読み進めた。
――四〇五ページ目。
二○○四年 四月 六日 幼稚園の入園式。東京都○○市 △△区 つきのうら第一幼稚園に入園。入園祝いに母方の祖父母から現金七万円。父方の祖父母から現金三万円と食事券が贈られた。式中に席を立ち、走り回ったことで担任から目を付つけられる。
断片的な記憶が、鮮明に蘇ってきた。確かにそんなこともあったような気がする。でも、俺の知らない祝い金などの情報まで書かれていることには少々驚いた。
「どうだ、信じる気になったか。」
「そんなこと聞かれなくたって、さっきの一件でとっくに信じたさ。」
「さっきの一件?あぁ、ページが消えたやつか。そんなことで信じるのか。お前さんの信念も弱いもんじゃな。
憤慨したが、このじいさんになにを言っても無駄だと悟った俺は、下手に刺激しないようにした。
「あぁ、それと、言い忘れてたんじゃが、消えたページの分、新しいページが追加される仕組みになっておる。実際にページの厚さは変わっておらんじゃろう。一番後ろのページに追加される仕組みになっておるから、もし最近のことが見てみたかったら、一番後ろのページを読むといい。本がリセットされて、きっと最近のことが読めるじゃろうよ。まぁ、あまりお勧めはせんがね。」
「なるほどな。ありがとう、じいさん。」
ニタニタと笑うじいさんをよそに、俺は本当の帰路についた。
気づくといつもの道にいた。どうやって帰ったのか自分でもよくわからなかったが、つつがなく帰宅できるのだから結果オーライだ。そう思っていた矢先、またアクシデントに見舞われた。ガムを踏んでしまったのだ。しかも新品の靴で。まるでいきなりエレベーターのケーブルが切れたかの如く、俺の気分は真っ逆さまに一気に底まで沈んでいった。気分が落ち込むのに乗じて、脳裏に再び理沙先輩の影が姿を現した。最悪な気分のまま、重々しい足取りで家へと歩く。その途中で酔っぱらいに出会った。愉快な呵呵大笑を響かせながら、呑気に道の真ん中を歩いている。
むかつく。
本当なら蹴とばしてやりたい気分だった。しかし、我執の念に触発されて起こした行動は、いい結果を生むことはないをと相場が決まっている。俺は当てつけばかりに大きな舌打ちをぶつけると、そそくさとその場を後にした。
家に帰ってもなお、高笑いは耳を離れなかった。ボロアパートだから仕方ない。そう割り切れたら幸せなのだろうが、あいにくそんな強心臓ではなかった。玄関に転がるスニーカーを見て、なんだか泣きたい気持ちになった。俺は部屋の中央のちゃぶだいに顔を突っ伏す。だんだん大きくなっていく笑い声に半ばパニックになりそうだった。そんな時、ふと部屋の電気が点滅した。そろそろ取り換えなきゃいけない。そんなことを思って、顔を上げる。目の前には、おぼろげな光に照らされ怪しい光を照射する白い本があった。
俺は何の気なしに本を手に取った。
百ページ目までパラパラとめくる。書かれている内容は日に日に濃く長くなっていく。日付も最近のものに近づいていくにつれ記憶が鮮明になり、よりこの本の信憑性が増していった。しかし、人間だれしも同じ行動を繰り返しやっていると、慣れてしまうものである。この極めて奇怪な本にも、慣れが訪れてしまった。確かに過去のことが詳細に記述されているのは摩訶不思議で、この本を読むということは、非常稀有な体験をしていると言っても相違ない。しかし、よく考えてみると、それは日記を読むことや、過去記録されたビデオを見るのとも相違ない気がする。過去のことを知るのなんて、現代の技術をもってすれば朝飯前だ。むしろ、文面なのだからこの本の方が遅れているといっても過言ではない。過去のことが書いてあるからなんだというのだ。それは、自分しか知らないはずの情報をなぜか知っているという、ただの気色の悪い書物に他ならないだろう。それ以外には別に何かあるわけでもなく、やっていることはただのストーカーと一緒ではないか。そんな考えが浮かぶと、急に読むことが馬鹿らしくなった。俺は適当にバラバラとページをめくる。そして、最後のページまでやってくると本を閉じた。なんだかどうしようもなく自分が滑稽におもえて、今まであったことは、すべて酔いの中で起きた幻覚なのではないだろうか。という気さえ起った。しかし、現に目の前に本があるのだから現実なのだろう。それに、俺は今日酒を飲んでいない。それならば、どうして酔いが回るというのだろう。俺は、この奇妙な現象についていちいち考えること自体が無駄なのではないかと思った。ならば、受け入れて楽しむまでだ。俺は、再び本を開いた。
ページは千ページまで飛んでいた。しかし、そこでは相変わらず過去のことが淡々とつづられているだけだった。俺はまた、最後のページまでバラバラとめくると本を閉じた。そしてまた開く。四、五回ほど繰り返したところで、あることに気づいた。書かれている内容が、今日の日付を超えていた。今日は九月十三日のはずだ。しかし、開いたページには九月十四日と書かれていた。偶然か、必然か、何度もスキップした先に書れていたのは、明日の出来事だった。しかも、その日に何が起きるのかつまびらかに説明されている。俺は興味本位で読み始めた。
――五二五ページ目
二〇二二年 九月 十四日 中尾 理沙の家に招待される……。
その一行が真っ先に目に飛び込んできた。
俺は頭が真っ白になった。理沙先輩の名前が出てきただけでもうれしいのに、家に招待なんて……。俺は激しい動機がしてきた。続きの文章を読もうとするが、気が動転してうまく言葉が理解できない。まるで、夢の中で文字を読むときのように、目では視認しているはずが、脳への情報伝達が滞っているようだ。
気づくと文字は消えていた。
しまった。詳細を理解するより先に本の秩序が作動してしまった。俺は、浮足立つ気持ちを抑え、夜を過ごした。
その日の夜はあまり眠れなかった。
次の日、目を覚ますと時刻はすでに午後一時を回っていた。昨晩興奮のせいであまり眠れなかったことが祟ったのだろう。一日の半分を睡眠で消費してしまったというのに、今日は虚しさも喪失感も感じなかった。理沙先輩の家に招待されるということだけで、頭がいっぱいだった。起きると俺は、即刻身だしなみを整えだす。いつもは寝ぐせを治すだけのストレートヘアだが、今日は長らく使っていなかったヘアワックスを、洗面台の鏡の裏から取り出し、インターネットでやり方を調べながら頑張ってセットした。鏡に映る自分の姿は、我ながらイケていた。衣服も今日は持っている中で一番高いセットアップを着て足取り軽やかに家を出た。といっても、行先は居酒屋だったが。
居酒屋の暖簾をくぐると、店長が驚いたような顔をして俺のことを見てきた。
「どうしたんだ、長谷川君。今日はやけに早いじゃないか。」
その顔にはどこか気色の色が感じられた。
「はい。昨日は皆に迷惑をかけてしまったんで、自分が一番に来ないと話にならないと思いまして。」
「そうか、そうか。」
店長はうれしそうに頷く。
本当は全くそんなこと思ってもいない。付け焼き刃な理由だった。単に、理沙先輩のことで頭がいっぱいで早く来すぎてしまっただけだ。
そんなこと露知らない店長は、問題児がようやく改心したんだと喜んでいるようだった。
他のスタッフも俺がすでに職場に来ていることに驚いたのか、来る人全員が目をむく。
悪い気はしなかった。
そして、ようやく目当ての人が現れる。
彼女もまた目を丸くして俺に近づいてきた。
「どうしたの、誠君。今日はやけに早いね。」
俺は、さっき店長に説明したのと同じ理由を理沙先輩に告げた。
変に緊張してしまって、声が上擦ってしまう。
それでも理沙先輩は頷きがちに聞いてくれた。
「えらいじゃん。私、そうやって自分の非を認めて改心できる人って、とっても素敵だと思う。」
彼女はそう言ってくれた。素敵。その言葉だけで、どんな苦行も頑張れるような気がした。
実際、その日の業務は過去一キレが良かったような気がした。店長にもまた褒められた。本に書いてあったことを現実にするため、必死に努力した。しかし、業務中にはこれといって進展があるわけではなかった。ついに業務の終了時間になったが、理沙先輩からは何のアクションもなかった。
何だよあの本。結局インチキかよ。
俺は本に対する鬱憤で腹の虫がおさまらなかった。今すぐ破り捨ててやりたいそんな衝動にも駆られた。むしゃくしゃする気持ちを抑えるため、散歩がてら近くのコンビニに立ち寄って帰宅することにした。
コンビニに着くと、真っ先にカップラーメンのコーナーへと足を運んだ。いろいろな種類のラーメンが整然と並べられている。パッケージの写真を見るだけでよだれがあふれ、活発に動いていた腹の虫が食い物を欲して叫びだしそうだった。俺はたくさんあるうちの一つ、大盛のカップ焼きそばを手に取るとレジに直行した。会計を済ませたのち、併設してあったイートインスペースでお湯を入れ、窓際カウンター席で出来上がるのを待った。そんな時、ふと、誰かに肩をたたかれた。憤慨の頂点に達していた俺は、ちょっかいを掛けてきたやつに我慢ならず、やり返してやろうと睥睨で振り返った。
しかし、俺の怒りはすぐに消沈することとなった。
そこにいたのは理沙先輩だった。
俺は、驚きのあまり金魚みたく口をパクパクさせる。
「さっきぶりだね、誠君。私も一緒に食べていいかな?」
手には豚骨味のカップラーメンが握られていた。
えっと、こう言うときってなんて答えればいいんだっけ。俺は驚きのあまり、一瞬言葉を忘れた。数秒時間を置いたのち答えた。
「え、あ、はい。喜んで。」
何だよ喜んでって。自分の発言に自分で突っ込む。それくらい慌てていた。
理沙先輩は俺の左側に座ってきた。
香る豚骨の匂いに混じって、仄かにいい香りがしたような気がした。彼女は席に着くと、
缶ビールの蓋を開けた。シュコッっという気持ちの良い音を立て、ふたが開いた。彼女
は、おいしそうに第一口目を口にした。なんというか今まで抱いていたイメージが、崩れたような気がした。
理沙先輩ってカップラーメンとか食うんだなー。とか、そんなことをぼんやり考えていると、不意に左の太ももにヒリヒリとした痛みが走った。そこで我に返った。最初に目に映ったのは慌てふためく理沙先輩の姿だった。
「ほんとごめんね、誠君。痛くない?火傷してない?」
目線を下すと、机の上に倒れたカップラーメンの容器に、散乱する麺、机から滴るスープに、濡れた太ももと、その上に数本乗っかった麺。どうやら、彼女は机に置いていたカップラーメンを倒してしまったようだった。涙目で謝罪してくる彼女を、不覚にもかわいいなんて思ってしまった。幸い火傷はしていないようで、服がダメになっただけで済んだ。
「本当にごめんね。よかったらうちでシャワー浴びて行って。うちすぐ近くだから。」
無意識に耳がピクリと動いた。彼女の言葉を脳が理解したとき、俺は胸の内で歓喜した。
「え、いいんですか?」
「うん。私のせいでこんなことなっちゃって、本当に申し訳ないよ。」
「いいんですよ。気にしないでください。」
理沙先輩には申し訳ないが、正直ラッキーだと思ってしまった。まさか、こんなことで理沙先輩の家に上がり込めるなんて思ってもみなかった。先ほどまでの痛みはどこに行ったのやら。俺はスキップでもしたい心地だった。
理沙先輩に連れられるがまま、軽やかな足取りで道を歩いた。道程ではたくさん理沙先輩と話すこともできたし、こんなに楽しい帰路は初めてだった。
理沙先輩の家は十階建てマンションの三階にあった。三階の角部屋。エレベーターを降りて真っすぐ歩くと、部屋のドアの前に立った。ドアには三〇一の文字が掲げられている。理沙先輩がピンク色のトートバックから鍵をとりだした。先輩がドアにカギを差し込む瞬間、俺はどんどん鼓動が早くなっていくのを感じた。
開け放たれた玄関から中へ入る。すでに、部屋の奥からふんわりと甘い香りが漂ってきていた。
「待っといて、今電気付けるから。」
そう言って、彼女は先に部屋の中へ入っていった。間もなくして、部屋に明かりが灯る。
「お邪魔します。」
常套句を告げると、俺は灯蛾の如く、光の漏れ出す部屋の方へと歩いていく。
次第に甘い香りが強くなっていった。
部屋は、こぢんまりとしたワンルームで、清潔感と温かみが共存していた。日当たりの良さそうな窓辺には、小さな観葉植物やマグカップが並び、カーテンやベッドカバーはパステルカラーで統一されている。ベットサイドには、もくもくと煙を吐くアロマディフーザーが設置されており、それがこの部屋の香りを彩っているのだろう。他にも、壁に動物を題材にした絵が数枚飾られていた。俺は慣れない環境に浮足立つ。
「待っといて、今タオルとかとってくるから。」
背後でバタリと扉の閉まる音がする。
理沙先輩が部屋から出て行ってしまった。
ゴクリと気唾を飲み込む。今にも粗相をしてしまいそうなこの両手を、ポケットにしまった。俺の中で欲望と理性の葛藤が巻き起こる。頭の中では大戦争が勃発していた。
俺の理性が負けない内に早く戻ってきてくれ。胸中で強く願った。その願いが叶ったのか、理沙先輩はすぐに部屋に戻ってきた。助かったという気持ちと、落胆の気持ちが混交し、俺は彼女とまともに目を合わせられなかった。
「誠君。はいこれ、タオル。」
彼女は茶色のバスタオルを一枚手渡す。
「お風呂は廊下の二番目の扉のとこだから。」
「オッケーです。ありがとうございます。」
俺はタオルを手に風呂場へと向かった。脱衣所に着くと、そそくさと衣類を脱いだ。脱衣所は部屋の中よりも、女性を感じさせるもので溢れかえっていて、何だか落ち着かない。洗面台のヘアアイロンや、化粧品、転がっている黒のヘアゴムに監視されているようだった。浴室内に入ると、理沙先輩の匂いが充満していた。周りをきょろきょろと見る。当たり前だが自分以外この空間にはいない。俺は思いっきり部屋の空気を吸い込んだ。肺が彼女の匂いで満たされる。夢見心地だった。吸ったことはなかったけれど、きっとたばこを吸うとこんな気持ちになるのだろう。いや、それ以上なのかもしれない。体の中が彼女で満たされたことで、変な妄想をしてしまう。俺は慌ててそれを掻き消した。早いところこの空間からでなければ、俺は本当に頭がおかしくなってしまいそうだった。タオルラックから吊り下げられたシャンプーを手に取る。そこでも、彼女がこのシャンプーを使っている情景を想像してしまい、不覚にも下半身が熱くなるのを感じた。慌てて思考を停止させる。修行僧が瞑想するのと同じよう目を閉じ、髪を洗うという行為だけに集中して雑念を捨て去る。突如として、彼女の匂いを凝縮したような香りが嗅覚を襲う。そりゃそうだ、シャンプーは彼女の匂いを構成する一大要素だ。危うく自我を失いかけた。頭に着いた泡を流してもいないのにボディーソープを手に取ると、彼女を感じる前に体を洗った。俺は体に着いたボディーソープやらシャンプーの泡を洗い流すと、浴槽から逃げるように外にでる。今考えると、なぜシャンプーまでしてしまったのだろうと、深く反省した。
脱衣所で体を拭いていると、外から声が聞こえた。
「誠君、あがったー?」
理沙先輩の声だ。
「はい!あがりましたー。」
「じゃあさ、脱衣所に白のTシャツとスウェットのパンツおいてあるから、それ着といて。」
え、今なんて?
「はーい。」
高揚していることを感じ取られないように、平然とした口調で言った。
こんな好待遇が許されていいのだろうか。俺は天にも昇る気持ちで身に着ける。案の定サイズは少しキツかったが、彼女の香りが身の回りを漂い、なんだか抱きしめられているような心地だった。
幸せな気持ちのまま部屋に戻ると、理沙先輩はココアを用意しておいてくれた。部屋の中央のローテーブルに、湯気の立ち上るマグカップが二つ置かれている。その前に鎮座した先輩に、俺は手招きをされた。彼女のまにまに俺も隣に腰を下ろす。
緊張する。
「今日は本当にごめんね。あんな高そうな服汚しちゃって。」
「あー、もう全然大丈夫です。気にしないでください。」
正直服のことはもうどうでもよかった。服一枚でこんな経験ができるのなら安いもんだ。俺はココアを一口すする。思ったよりも熱くて、舌の先がジンジン痛んだ。
それから 一時間ほど雑談したのち俺は家を去った。帰り際に彼女は紙袋を差し出した。中にはさっき汚れたセットアップのズボンが入っていた。どうやら、洗ってくれたらしかった。しっかり乾燥までされている。そんなことしたら縮んじゃうんだけどな。なんて事を心の隅で考えたが、もう正直どうでもよかった。
家に帰り着くと、即座に俺は本を手に取った。理沙先輩の残り香が鼻をかすめる。この先の未来が知りたくて仕方がなかったのだ。
――五二六ページ
二〇二二年 九月 十五日 同じバイト先の中尾 理沙から勉強会に誘われる……。
その一文が目に飛び込んでくる。次は勉強会かー。俺は喉を鳴らした。続きが気になって俺は先を読み進める。
――五二七ページ
二〇二二年 九月 十六日 中尾 理沙との勉強会が行われる……。
どうやら勉強会は予定通り行われたようだ。俺はひとまず安堵する。続きを読もうとしたが、そんな一度にずっと先の未来まで知ってしまったら面白くない。そう思ってこの日
は、読むのをやめた。
次の日、バイトの帰り際、俺は理沙先輩と話す機会があったので最近あまり勉強できていない旨をそれとなく伝える。すると、何の滞りもなくスムーズに勉強会の誘いがきた。
やはり、あの本の効力は本物だ。それを実感するたびに、自分がこの世界で何者にも劣らない絶対的な力を手に入れたような気がして、嬉しくてたまらなかった。
ついに勉強会の当日になった。俺はまた身だしなみをキッチリ整えて家を出た。歩いて最寄り駅まで向かう。カフェの前まで来ると、ガラス越しに彼女が本を読んでいる姿が見えた。彼女は駅前のカフェの窓際の席にすわっていた。ドアを開けた時の、カランカランというドアベルの音を潜り入店する。すぐさま店員の「いらっしゃいませ」の声が店全体から聞こえた。ベレー帽を被った一人のホールスタッフが近づいてきて、「何名様ですか。」という半ば定型文となった疑問を投げかける。
「先に連れが入ってます。」
そういって店の奥を指さす。店員は納得したような顔をして、中へ通してくれた。
「理沙せんぱーい。」
彼女が振り向く。白いフリルのついたシャツが目を惹く。いつもは後ろで束ねている髪を、今日はおろしていた。緩くウェーブのかかった柳髪が肩まで伸びている。いつもと違う彼女の姿に心拍が隆起する。顔の下のところで彼女が手を振る。つられて俺も手を振った。
「すいません。待ちましたか?」
「いや、全然。私も今来たところだよ。」
「そっか、じゃあよかった。」
勉強会が始まった。四人掛けのテーブルいっぱいに参考書とノートを広げる。幸い学部が一緒ということもあり、俺はわからないところを理沙先輩に聞きながら勉強することができた。逆に先輩が俺に聞いてくることもあった。俺は意気揚々と彼女に教えた。実を言うと、一昨日本を読んだとき、先輩から質問される内容もつまびらかに記述されていた。それを見たのだ。予習は昨日のうちに完璧に済んでいた。彼女に教えているうちに会話が弾んだ。先輩が「私って理解が遅いかも」と微笑んで言った時、どうしようもなく愛おしく思えた。もっとこの人の近くにいたい、なんて野暮な願いが浮上する。浮上しては、カフェラテの中に入れたガムシロップみたいにグラスの奥底に沈んでいって、また沈澱した。
混ぜても、混ぜてもなんだか混ざらないような気がして。それなら最初から混ぜない方がいいんじゃないかって、勝手に自己解決を済ませてしまった。本当にそれでよかったのか、なんて自分でやったことなのに不安になっては、件の白い本に希望を託した。
午後六時頃、勉強会は終わった。カフェを出た後、少し二人で歩いてから帰ることになった。二人並んで歩く人気の少ない道。響く談笑。背後で夕焼けの橙色が二人の長い影を形作る。光の加減の性か、俺の影と彼女の影が手をつないでいるように見える。このままずっと、この時の中で息をしていたかった。駅に近づいたところで、ふと沈黙が訪れてしまった。気まずさのせいなのか、先輩と一緒に返っているということを思い出したからなのか、俺は妙に緊張した。改札の前に着いたところで、先輩がこっちを向き直った。
「ありがとう、誠くん」
そう言ってと微笑んだ瞬間、全てが心に刻まれた。情景も流れる時間も、音も声も匂いも全部、全部記憶した。しかし、そのありがとうが何に対する感謝なのか、俺にはまだ分からなかった。
「こちらこそ、ありがとうございました。」
一文字一文字、彼女の記憶に彫り付ける方に言った。告白したいという思いが頭をよぎる。しかし、まだ時期尚早だと思う。何より、あの本を読まずに失敗でもしたら本末転倒だ。今は我慢しよう。
時折点滅する電球の下、俺はまた本をひろげていた。
――五二八ページ
二〇二二年 九月 十七日 ……。
このページには当たり障りのない普遍的な日常しか書かれていなかった。面白くなくて、またページをめくる。
――五二九ページ
二〇二二年 九月 十八日 中尾 理沙とランチランチを食べに行く……。
進展はあったが何か物足りない。また一ページめくる。
――五三十ページ
二〇二二年 九月 二九日 中尾 理沙に告白したのち、付き合う……。
二度見した。目を見開きじっくりと見詰め、言葉の意味を自分の解釈と何度も照らし合わせる。しかし、付き合うといったら、男女の仲を深めることに他ならないだろう。その一文を何度も読み返した。じっくりと落とし込むように、丁寧に。やっと感情が追い付いてきた。俺はその場で思いっきり飛び跳ねた。
「っしゃあああ!」
俺は高々とガッツポーズを掲げる。隣の部屋に面している壁から、ドンと大きな物音がした。俺は小さな声で謝る。それでも歓喜は堪えきれず、満面に浮かべた笑みが中々取れなかった。
ピンポーン。
不意に部屋のチャイムが鳴った。
「はーい!今行きまーす。」
自分で発しておきながら妙に明るい声だと気味悪く思った。
玄関を開けると、そこには涼介の姿があった。そうだ、忘れていた。今日は二人で宅飲みする約束をしていたんだ。涼介は、片手にパンパンになったビニール袋をぶら下げている。彼は俺の顔を見るなり、怪訝な表情を浮かべた。
「うわ、誠?どうしたんだ。」
「え?何がだよ。」
彼の二つの瞳には、ニヤニヤと笑みを浮かべ、緩み切った顔をした俺の顔が映っていた。
「いやぁ、しかし、びっくりしたわ。お前がそんな笑ったとこ見たこと無かったから。何か危ない病気にでもかかったのかと思ったわ。」
缶コークを片手に、どっかりと腰を下ろした涼介が言った。ちゃぶ台の上には、涼介が買ってきたポテトチップスやら軽い総菜などおつまみが並んでいる。俺は、そのうちの
一つ、砂肝を爪楊枝で刺して口へ放り込む。
「そんなわけねぇだろ。あの理沙先輩といい感じになってるんだぜ。誰でもこうなるだろ。」
さすがに、本の話はしなかったが、涼介には今まで先輩とあった出来事をざっくばらんに語っていた。
「まぁ、それもそうか。お前ずっと好き好きーって言ってたもんな。」
涼介はおどけた調子で唇をキスの形にして、にじり寄ってきた。
「ちょっ、きめぇって。」
俺は酒も飲んでいないのに腹から笑いが込み上げてきた。
涼介も笑っていた。
突然彼が咳き込む。
「てか、お前部屋来たなすぎんだろ。せっかく前一緒に片付けてやったのに。」
涼介はぐるりと部屋の中を見渡した。
「たしかに。」
薄々気づいてはいたが、いざ面と向かって言われると少々気恥ずかしい。
俺は家を片付ける決心をした。それを断行する日がいつになるのか、自分でも見当がつかなかったが。まぁ、本に「先輩が家に来る。」とかの記述が書かれていれば、その時片付ければいい話だ。そんな呑気な考えが、部屋の中をふわふわ飛んでいた。
それから日常は、光陰矢の如し、一瞬で過ぎ去っていった。今日に至るまで、俺は本の内容を忠実に再現することに全身全霊を捧げた。少しでも間違えば未来が変わってしまうかもしれない。そう強迫観念にとらわれたからだ。昨日のランチも本に書かれていた通りの店に連れて行った。彼女は本とまったく同じ反応で喜び、まったく同じ言葉を口にした。すべてが順調に運んでいた。そして迎えた今日。俺は理沙先輩に告白する。
バイト終わりに彼女をとある公園に連れ出した。もちろんこの公園が本に書かれていたからだ。俺は、指定された位置まで彼女を連れる。
「見て、理沙先輩!ブランコ。」」
そういって俺は無邪気にブランコに飛び乗った。できるだけ自然に。すると彼女も隣の席に腰を掛ける。緩やかに彼女は漕ぎだすはずだ。
案の定、彼女はプログラム通りの行動を行った。
少しの雑談を交えてムードを作っていく。
完璧だった。
俺は横目で彼女の目が緩むのを視認した。
時は満ちた。俺は彼女の前に立った。
驚いたように彼女が俺の顔を覗き込む。俺は深呼吸をすると、口を開いた。
「先輩、僕、ずっと先輩のことが好きでした。俺と、付き合ってくれませんか。」
彼女はキラキラした目で俺の瞳を見つめる。それから一度目線を反らすと、うつむきがちに言った
「実は私も、誠くんといるとすごく楽しいなって思ってた。これからは、恋人として、よろしくお願いします。」
やった!成功だ。
俺はガッツポーズをした。
彼女は微笑んでいた。
頭上で三日月が二人を照らす。午後九時十七分のことだった。
二人手をつないで帰った帰路は、むせかえる程の甘美な心地が蔓延っていて、ただ歩いているだけなのに、酩酊してしまいそうだった。
理沙先輩を家まで送り届けた後、俺は家に帰宅した。玄関で靴を乱雑に脱ぎ捨て、その場に座り込んだ。
いつまで俺はこの本にすがって生きていかなければならないのだろう。いつのまにか、そんな考えが頭に鎮座していた。ずっと前から気づかないようにしていたのに。この先未来永劫、俺はこの本を俺は手放せないのだろうか。そんな恐怖にも似た感情が目の前に横たわっていた。事前に予定された行動を繰り返し、すでに知っている彼女のリアクションで楽しむ。そんなのでいいのだろうか。
それは本当に幸せなのだろうか。
いや、それだって幸せだろ?だって、予習ができるんだぞ。なんのトラブルも起こらない。順風満帆な生活が送れる。そうだろ?
俺は、一直線に本の元へと駆けていく。白い本を手に取ると、立ったまま急かされるように表紙を開いた。
――五三一ページ
また当たり障りのないことが書かれている。俺は更なる刺激欲しさにページをめくる。
――五三二ページ
まただ。足りない。
――五三三ページ……五三四ページ……五三五ページ……五三六ページ……
――五三七ページ
二〇二二年 一〇月 六日 ……田中 涼介が○○交差点で起きた交通事故で死んだ。
思考が止まった。酔いがさめた。
は?何かの間違いだろ……。俺は文字を指でなぞる。しかし、死の一文字が形を変えることはなかった。次のページを読む、その次のページも読む、その次も、その次のページにも彼の記述が出てくることはなかった。またページをめくる。
――五四二ページ
二〇二二年 一〇月 一一日 東京都○○市△△区 つきのうら斎場にて田中 涼介の葬儀が行われる。
目の前が真っ暗になった。気づくと俺は本をもって家を飛び出していた。
俺はあの日のT字路までやってきた。突き当りには細い抜け道がある。体をねじ込んでただ光の方へと猛進する。街頭の照らす道を駆け抜ける。気がつくと、目の前にはあの日と一風変わらない古民家があった。俺は急いで中へ入る。
番台から笑い声が聞こえてきた。
「随分と慌てているようじゃが、どうしたんじゃ?」
番台に置かれた本の隙間から、じいさんがぬうっと顔を出した。
嘲笑うような笑み。直観的に悟った。
こいつは、俺が何故もう一度この店に来たのかを知っている。
どうやったらこの本に書かれた未来を変えれる?
そう聞こうとした。しかし、俺が口を開くより先に、じいさんが食い気味に割り込んできた。
「残念ながら、未来は変わらんよ。それは預言書じゃなくて設計図じゃ、たとえお前さんがどれだけ、抗おうと行動をしたって無駄じゃ。物事は必ずその通りに進むようになっておる。決まっておるんじゃよ。」
じいさんは気味の悪い笑みを浮かべる。
俺は反駁しようとまた口を開く。しかし、即刻制された。
「お前さんは今、自分は事故の場所も日時も知っているから、涼介をその場所に行かせなければいい。なんて甘いことを考えておるじゃろう。それだから、居酒屋であんなミスをしでかすんじゃよ。じゃあ、お前さんがわかりやすいようにゲームに例えて説明してやろう。いいか、お前さんは世界という名のゲームの中のキャラクターじゃ。お前さんは製作者のプログラムしたとおりにしか動けん。現に今のこの状況も、製作者があらかじめプログラムした内容を、実行しているだけにすぎんのじゃ。お前さんは、自分の感情があって、それに準じて動いているなんて妄想をしておる。それは大きな勘違いじゃ。その感情もすべて、お前さんは製作者の成すべくして感じているにすぎんのじゃ。だから、お前さんが田中 涼介を助けることは絶対にできないということじゃ。」
「じゃあ、何のためにこんな本あるんだよ。」
天にも縋る気持ちで問う。しかし、じいさんの答えは俺が切望したものとは違った。
「このままゲームに例えて説明するとするならば、その本はお前さんのログじゃ、そしてフラグでもある。それがすべてじゃ。それだけのために存在しておる。実際の世界はもっと複雑で錯綜したつくりになっておるから、多少語弊はあるがな。」
悔しかった。その感情が、このじいさんに対するものなのか、理不尽な世界の秩序に対するものなのか、はたまた、たかが一冊の本に対してのものなのか、自分でもよく分からなかった。ただ漠然とした悔しさ、憤怒が質量をもって圧し掛かる。もはやその形而上の感情でさえも、形骸化したシステムの一つに過ぎないのかもしれない。そんな疑惑が俺をさらに苦しめた。
じいさんは変に高揚した声で言い放つ。
「お前さんの問いはそれで最後のはずじゃ。ほら、さっさと帰るんじゃな。……まぁ、もしこの本に書いてある未来を捻じ曲げれるものがいるとするならば、それがこの世界を作った製作者本人なんじゃろうな。」
不思議とそれ以上何も言い返す気にはなれなかった。
そこからはどうやって家に帰り着いたのか覚えていない。気づいたら家の中で朝を迎えていた。俺は体をむくりと起き上がらせる。当然布団を敷いていないので、体のあちこちが痛んだ。時計を見るとまだ朝の4時半だった。しかし、もう一度眠りにつく気にはなれなかった。顔を洗いに行く。コンという音とともに何かを蹴とばした感触があった。視線を下へ向ける。白い本だった。俺は本を持ち上げると、ちゃぶだいの上に置いた。
それから六日六晩、俺は誰とも関わる気になれなかった。四六時中部屋の中で本と向き合い、何か俺にできることはないのか、何か涼介を救う方法はないのか、必死に模索した。しかし、これといっていい解決案は浮かばなかった。時間だけがどんどん過ぎ去って、俺は日に日に焦りを募らせた。そんなことをしているうちに、何人もの人が部屋を訪ねてきた。大学にも、バイトにも顔を出していないからだろう。理沙先輩を筆頭に、店長や件の当事であることをまだ自覚していない涼介も皆心配そうな顔をして見舞いにやってきた。
別段体調は悪くなかったが、ろくな睡眠も食事もとっていないせいか、見舞いに来た人は皆、口を揃えて「やつれている」と言った。それは、俺も薄々感じていることだった。睡眠はとっていないが。毎朝形式的に顔を洗いに行く。その時、日に日に濃くなっていくクマ、コケる頬、血走る目を鏡越しに視認していた。顔色は悪く、血色感もない。
幽霊みたいだ。なんて、数日後に死ぬかもしれない友達を前にして、思ったこともあったくらいだ。それでも、俺は考えることを放棄してはいけなかった。そんなことできなかった。答えなんていくら考えたって出ないということはとっくに理解している。それでも辞められなかった。
呪いが頭から離れなかった。
数日後、運命の日。俺はスマホの画面に映る日付を、目に焼き付けるようにして確認した。洗面台へ行き、顔を洗う。水を汲んだ両手で触れる頬は骨ばっていて、まるでいつかの理科室の人体模型を触っているみたいだった。ふと、顔を上げる。洗面台の所々水垢のついた鏡のなかには、ガリガリの骨張った顔にボサボサに振り乱した髪の、野暮な醜男がいた。口の端を無理やり持ち上げ、はにかんでみる。
やはり映えない。
髪についたクセを治す。部屋着を取り払い、淡い青のジーンズと白いTシャツに身を包む。
もう一度鏡を見れど、醜男に毛が生えた程度の痛々しい引きこもりがそこにはいた。
垢ぬけ、頑張ったんだけどな……。洗面台にはスキンケア用品が所狭しと並んでいる。これも理沙先輩に気に入ってもらうため、本を参考に揃えたものだった。毎日欠かさずにやっていた肌のケアも、今となっては無駄になってしまった。ガサガサに荒れた肌を見て思う。バンバンと強く両頬を叩いた。
俺は洗面所を出る。獅子奮迅の足取りで部屋を出て行く。それが虚勢だって構わなかった。
最寄り駅から二駅電車を乗り継いだ場所に、彼の家はあった。アパートの三階。平日のお昼前の住宅街は閑散としていた。三〇二号室。表札には、「田中」と書かれている。俺は、チャイムを鳴らす。中から何やら大きな物音がした。しばらくすると、玄関の扉が開いた。家主は俺を見るなり驚愕して目を丸くする。
「え、誠?もう、大丈夫なのか?」
「あぁ、もう平気だよ。」
中から出てきたのは涼介だった。
彼は尋ねてきた理由を聞くことなく、すぐに家の中へ招き入れてくれた。
俺は四人掛けのダイニングテーブルに腰を掛ける。
「こんなものしかねえけど。」
そう言って、彼はグラスに入った麦茶をテーブルの上に置いた。久しぶりに訪れた彼の家はものが少なく、なんだか殺伐とした雰囲気だった。流行のミニマリストというやつだろうか。彼は俺の向いに腰を掛けた。
いよいよ、彼に伝えなくてはならない時が来てしまった。さぁ、どうやって伝えようか。あれこれ悩んでいるうちに、彼の方が先に口を開いた。
「どうしたんだ、急に家を訪ねて来たりして。」
彼はやけに神妙な面持ちをしていた。あと数時間後に死ぬなんて到底思えない。
「いや、まぁ、ちょっと話したいことがあってさ。」
「話?」
「あぁ、話っていうかお願いなんだけど。その……今日一日、一歩も外に出ないで欲しいんだ。」
涼介は訝し気に眉を顰める。
「なんでだよ。」
それを聞かれたら困ってしまう。
「理由は……うまく説明できないけど、お願いだから俺の言うことを聞いて欲しい。」
俺は彼の目をしっかり見据えて話をした。
「無理だよ。俺、今日大学もバイトもあるんだから。」
彼はかぶりを振る。
「そこを何とか、頼む。この通りだ。」
俺は両手をテーブルに添えて、頭を深々と下げた。
「どうしたんだよ、そんな必死になって。お前なんか最近おかしいぞ。」
そう言われるのも無理はなかった。彼は、これから先の未来のことについて、まだ何も知らないのだから。
「おかしいことを言っているのは百も承知だ。でも、お前の身のためなんだ。頼む。」
「俺の身のため?どういうことだ。」
しまった。必死に説得するあまりつい口が滑ってしまった。しかし、こうなってしまっては、もう後には引けない。背水の陣だ。俺は一か八か本当のことを告白することにした。
「信じてもらえるかわからないけど、お前は今日、外に出たら交通事故で死んじまうんだよ。」
彼は呆然自失としていた。さすがにこんな飛躍した論理、信じてもらえるわけがない。そう思っていた。しかし、彼の表情はいたって真剣なものだった。
「それ本当なのか?……分かった、今日は外に出ない。」
思ったよりも簡単に信じてもらえたのでこっちの方が呆気にとられる。
こいつ馬鹿でよかったー。この時だけは涼介の頭の悪さに脱帽した。
俺はそれからしばらくの間、涼介の部屋で過ごした。彼がちゃんと外出を自粛するか、様子を見ておきたかった。
「なぁ、誠。久しぶりに二人でこれやらないか?」
そういって彼が持ってきたのは、大学に入りたての頃、二人でよくプレイしていたゲームのカセットだった。パッケージには二体のモンスターが戦っている様子が描かれている。その臨場感あふれる様子に、見ているだけでプレイしたいという欲が混みあがってきた。
二人コントローラーを持ち、テレビの前に座る。数秒間画面が真っ暗になる。ゲームが起動するのを待つこの時間の高揚感は、まさしくあの頃感じたものと同じだった。ゲームは、当時大流行した格闘ゲームだった。当時の俺も喉から手が出るほどそのゲームが欲しかったが、何故少ない仕送りで生活しているものだからお金がない。そもそも、俺はゲーム機の本体すら持っていなかった。ゲームをプレイできる状態までもっていくのには、当時の俺からしたら相当なお金が必要だっただろう。そんなこんなで、俺はゲームをプレイすることを半ばあきらめていた。そんな時、涼介から割り勘でこのゲームを購入しないかという誘いを受けた。本体を持っていない俺が、割り勘で買って何かメリットがあるのか。俺は彼に尋ねた。当時大流行していたゲームだったから、一大学生である俺がゲーム機本体を持っていないことなんて想定していなかったらしい。それならと、彼は俺にゲーム機の本体も貸してくれる約束をした。その好条件に了承して、俺は彼と割り勘でゲームを購入する覚悟を決めたわけだ。それからというもの、俺は彼の家に入り浸る生活が始まった。彼は俺に本体を貸すに留まらず、俺専用のコントローラーまでも用意しておいてくれた。
「そんなもん買ったら、結局一人でカセットを買うよりも総額が高くなっちまうじゃねえか。」
俺は彼に突っ込んだ。彼は明快な笑い声をあげながら「確かにな」なんて腑抜けたこと
抜かしていたっけな。今では、なんで彼が一人でカセットを買わなかったのか分かるような気がした。そんな生活も、涼介が彼女をつくったとき終わりをつげた。彼らはすぐ半同棲のような状態になった。さすがに彼女のいる空間に長居するなんて、俺にもできるはずがなかった。涼介の寂しそうな顔を置き去りに、俺はこの家に来ることを長らくやめていた。
久しぶりにやったゲームは、自分が想像していたよりも遥かに楽しかった。二人で談笑しながら、過ごす時間がこんなにも幸せだなんてあの頃は気づきもしなかった。二人のコントローラーを操作するカチャカチャという音を置いて時間はどんどん過ぎ去り、気が付けばもう夕方になっていた。
やっぱり今日は何も起こらなかった。玄関で靴を履きながら俺は思う。俺は、最初からあんな胡散臭い本信じていなかった。何より、あの爺さんを俺は信じていなかった。
ドアノブに手を掛けたところで涼介は口を開いた。
「誠、ありがとうな。またいつか遊ぼうな。」
「おうっ。」
俺は彼とグータッチを交わす。
少しばかり寂し気な涼介の見送りを受けて、俺はアパートを後にした。朝来た道をゆっくり引き返す。背後で夕焼けが怪しく時を染める。交差点に差し掛かった。例の交差点だ。まぁ、今となっちゃただの交差点だ。俺は軽い足取りで渡ろうとした。
その時、後ろから涼介の声が聞こえた。ここに来るはずがないのに。
「まことぉぉぉぉ。スマホ忘れてるぞおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお。」
そういって彼は交差点に向かって一直線に走ってきた。左手をこちらに向けてぶんぶんと振って。
なんであいつ外に出てるんだ!しかもスマホって、俺はポケットの中を確認する。スマホなんか忘れていなかった。そもそも、彼の高らかに上げられた右手にスマホは握られていなかった。まるで、スマホを握っているような手の形をしていたが、その手は何もつかんでいない。空いた手のひらを虚しく風が通り過ぎるだけだった。焦点のあっていない目は俺じゃなくて交差点の方を向いていた。
一瞬の出来事だった。
俺は涼介の肩に弾き飛ばされ路傍に腰を打った。涼介が交差点のちょうど中央に飛び込んだ瞬間、今まで全く音なんてしなかったのにいきなり大型トラックが現れて、彼を轢き殺した。視界が赤く染まった。路上には無惨に飛び散る赤黒い血、どの部位のものなのかわからない肉片。全部が全部真っ赤だった。
俺は身じろぎできなかった。涼介を轢いたのちに急停車した大型トラックも、その中から降りてきた運転手の戦慄した表情も、今は全部が嘘にしか見えなかった。
俺は路傍で雄叫びを上げる。赤子のように泣きじゃくることしかできなかった。
無機質な街の中、世界の騒音にかき消されて一人の号哭が響くことはなかった。
それから月日は流れた。季節は冬となった。涼介の葬儀は何の滞りもなく行われ、少しずつ日常がもどってきた。大学やバイトにも少しずつ顔を出すようになり、今では前と変わらない生活を送っている。それでもふとした瞬間に彼を思い出す。そんな時はきまって彼の形見のゲームをプレイした。ゲームをプレイしている間だけは彼を身近に感じることができた。例に漏れず、今日もコントローラーをカチャカチャと動かしている。隣には、操縦者のいなくなったコントローラーが、淋しげに転がっていた。ふと近くに置いていたスマホのバイブ音が鳴った。理沙先輩からのメールが入っていた。
「明日暇?よかったら一緒にお出かけしない?」
お化けを模ったキャラクターのスタンプも一緒に送られてきた。
キャラの頭上にはハテナマークが浮かんでいる。
そこで俺は、明日が土曜日だということに気付いた。
次の日の朝、俺は都内のショッピングモールで彼女の到着を待った。東口が待ち合わせ場所だった。手をこすり、何度か足踏みする、。ここ最近急に冷え込んできたせいで、うまく体が順応していなかった。俺は、着てきた黒のダウンジャケットの襟のところに顔をうずめる。
予定時刻より少し遅れて彼女はやってきた。「ごめんごめん。」そう言ってやってきた彼女は茶色のトレンチコートに同色の長いブーツをはいていた。カジュアルながらも大人の色気を感じるファッションに、久しぶりに胸が高鳴る。
俺は彼女の手を取り、ショッピングモールの中へと入っていった。
「誠君。私洋服欲しいんだよね。一緒に選んでくれない?」
その一言を皮切りに、ファッションフロアへ足を運んだ。道の両脇で様々な系統の店が肩を並べる。しばらく歩いていると、先輩が一つの店に駆け寄った。彼女は店頭に並べられた服を一着手に取って、俺を手招きした。
「これむっちゃかわいくない?」
彼女はキラキラした目で言う。
「むっちゃいいと思いますよ。」
正直服の良し悪しはわからなかった。でも、彼女がこれほどはしゃいでいるんだ。それだけいい服に違いない。なんの根拠もない賛同をした。
すると彼女は喜色を浮かべ、「試着してみる。」なんて張り切っていたから結果オーライだろう。
俺は、時折揺れる試着室のカーテンの前で仁王立ちする。シャッという短い音とともに勢いよく空いたカーテンの向こう側には、クレオパトラが立っていた。笑顔を浮かべる彼女が一番綺麗だなんて、くさいセリフが頭に浮かんでしまって恥ずかしくなる。
「どう?」
「いいですね。めっちゃ似合ってます。かわいい。」
彼女は満足気に笑みを浮かべると、またカーテンの中へ消えていく。再びカーテンを開けると、また違う服を着た彼女がいた。
「どう?」
「いいですね。めっちゃ似合ってます。かわいいです。」
彼女はなんだか寂しそうな顔をした。俺は、自分の口の中がパサついているのを感じた。
ファッションフロアを回った後、俺たちはカフェでランチをすることにした。俺は席に座ると、その隣に大きな紙袋を置いた。中には、さっき理沙先輩が買った黒いフリルのついたワンピースが入っていた。向かいの席では理沙先輩がじっとメニューを眺めている。
これにしよう。いやでもこっちもいいなぁ。え、こんなのもあるの。なんて独り言を言いながら楽しそうにしている。女性はなぜこんなにも優柔不断なのだろう。毎度思うことだった。
ようやく彼女がメニューを決めた。俺は、メニューの一番最初のページ、店長のおすすめと書かれたオムライスを頼んだ。注文を聞いた店員が去っていくと、理沙先輩と俺の間に数秒の沈黙が訪れた。理沙先輩が口を開く。
「最近調子どう?元気?」
さりげない口調だったが、その言葉端には妙な重みが感じられる。きっと俺のことを気遣ってくれているのだろう。おそらく先輩の目には、俺の隣に涼介の姿がみえていた。
「はい。元気ですよ。」
即座に笑顔で答える。
また彼女は寂しそうな顔をした。
ランチを食べ終えると、雑貨屋へと向かった。
カフェで話している時、理沙先輩が「お揃いの何かでも買わない?」と提案してきたからだった。二人で雑貨屋へと向かう。雑貨屋ではおそろいのストラップを買うことになった。雑貨屋の壁一面には様々なストラップがぶら下がっている。さすがに量が多すぎて、この中から一つ選出するのは俺では役不足に感じる。ふと、隣を見ると先輩は楽しそうに選んでいた。きっとこの人は、選ぶという行為自体を楽しんでいるのだろう。それではいくら時間があっても足りないと思った。おれは手近にあったスタラップを一つ手に取る。何やらよくわからない緑色のクリーチャーのような見た目のそれを、先輩に見せる。
「これとかよくないですか?」
「おぉー。いいね!かわいい。かわいい。」
意外にも好評だった。やった、早く終わる。そう思ったのも束の間、彼女はとんでもないことを言い出した。
「でもこれもかわいくない?あ、でもこっちの方がいいかも。まって、誠君男の子だからこんな女の子っぽいのじゃ嫌か。じゃあ、やっぱこっちの方がいいかな……。」
彼女の悪い癖が出た。俺は未来永劫この時間が続くような気がした。
「俺は、でもこれが一番いいと思う。俺らなんか緑って感じするじゃん。」
俺は緑色のクリーチャーを再度推薦した。
「まぁ、確かに……。じゃあそれにしよ。」
やった、終わった。俺は彼女がまた変な気を起こさない内に会計を済ませた。彼女の不満げな顔を置き去りにして。
その後二人でゲームセンターに行った。そこで俺は、ずっと探していたゲームのキャラのフィギュアを見つけた。多くの時間とお金を費やして獲得したときには有頂天外した。
ゲームセンターを去ると、次は映画館へと足を運んだ。今日のデートの目的でもあった。ユーフォーキャッチャーに時間をかけてしまった性で時間はぎりぎりだった。場内に着くと予約した席に隣り合って座る。本当はポップコーンなども買う約束をしていたが、そんなことしていたら映画が始まってしまう。彼女が腰を掛けたのとほぼ同時に場内が暗闇に包まれた。スクリーンに映像が映し出された。
ようやく映画が終わって、俺は伸びをする。隣を見ると、先輩が目に涙を浮かべていた。
「何泣いてるんですか?」
俺は彼女の顔を覗き込む。先輩は顔を反らした。
「感動しちゃった。誠君は映画楽しめた?」
正直言うと、途中からぼーっとしていてあまり内容が入ってこなかった。でも、そんなことを言えば嫌われてしまう。
「はい。めっちゃ面白かったです。」
嘘をついた。嫌われたくなかった。
「そう。どのシーンが一番面白かった?」
彼女の澄んだ目が俺の目を見据えていた。そんなこと聞かれたって答えようがなかった
「あの、幸助君と雪ちゃんが仲直りしたシーンとかですかね。」
無難に最初の方のシーンを述べる。
「あー。あれ、よかったよね。」
彼女がまた目を反らした。
二人で手をつないでエスカレーターを登る。一番上まで到達すると、まばゆい光が俺の両目をふさいだ。映画館をあとにした俺は先輩に連れられ展望フロアに来ていた。まだ空いているベンチに二人で腰を掛ける。沈みゆく夕日を背にして先輩が口をひらいた。
「あのね、誠君。私君のことが大切で、支えになりたいってずっと思ってた。でも、それも全部私の独りよがりな考えだったみたい。ここ最近誠君、ずっと無理してる気がする。」
彼女は俯いていた。
「そんなことない。」
語尾を荒げる。そんな俺の言葉を遮って彼女は続ける。
「あるよ。君がいつも上辺を取り繕ってるの、私にはわかる。私は、もうこれ以上君の重荷にはなりたくないの。」
俺は口を噤んだ。彼女の唇が震えている。
「ごめんね、誠君。私たち別れよう。」
その言葉を皮切りに、俺たちの関係は終わった。
俺は静かに頷いた。痛いほど強く歯を食いしばる。そうしていないと、何かが込み上げて溢れてしまいそうだったから。
夕日が沈み、出口に向かう道で俺たちは立ち止まった。理沙先輩が「またね」と手を振り、寂し気な笑顔で去っていくのを見送る。俺の胸には静かな痛みが残った。彼女といることで救われるはずなのに、いつの間にか疎ましく感じていた。そんな自分にずっと気づかないふりをしていた。だってその方が、みんな幸せになれる気がしたから。でも、そんなの所詮、欺瞞と同じだった。俺は一人、自戒の念に駆られながらモールを後にした。
一人部屋に帰った。ここにはもう何もなかった。何も残っていなかった。時折チカチカと点滅する電気の下で俺はうずくまった。何もかも全て失ってしまったんだ。涙すら枯れ果ててしまった。俺にとってのあの人は、唯一痛みを分かち合ってくれる人で、唯一安心と安らぎを与えてくれる人で、唯一の命よりも大切な存在だった。
俺は何処で間違えたのだろう。なぜこんな過ちを犯してしまったのだろう。そんな考えが奔騰してきた。
パタン。近くで何かの倒れる音がする。俺は顔を上げる。目の前のちゃぶだいの上には、怪しげに光を反射する一冊の白い本があった。
もう縋るものはそれしかなかった。俺はその本に未来を掛けた。一時の希死念慮を抑えるための精神安定剤が欲しかった。薄暗い部屋の中で俺は表紙を開いた。
―五四三ページ……五四四ページ……五四五ページ……五四六ページ……五四七ページ……五四八ページ……五四九ページ……五五〇ページ……五五一ページ……五五二ページ……五五三ページ……五五四ページ……五五五ページ……五五六ページ……五五七ページ……五五八ページ……五五九ページ……五六〇ページ……五六一ページ……五六二ページ……五六三ページ……五六四ページ……五六五ページ……五六六ページ……五六七ページ……五六八ページ……五六九ページ……五七〇ページ……五七一ページ……五七二ページ……五七三ページ……五七四ページ……五七五ページ……五七六ページ
このページまでは過去のログだった。俺は指に力を込めて次のページをめくる。
――五七七ページ
別段いい内容は書かれていない。
次のページをめくる。まだ足りない。次、次、次……数十ページめくったところで手を止めた。
――六〇二ページ
二〇二二年 十二月 四日 ……中尾理沙と復縁する。
曇り空の中に一筋の光が見えた。俺は安堵のあまり泣き崩れた。世界はまだ俺を見捨てていなかった。嬉しくて次のページを開く。幸せだった。何ページめくっても、それから彼女との関係が悪化することはなかった。俺はもっと先の未来まで見たくなった。それから五時間、余韻に浸りながら本を読み進める。気づくと深夜になっていたがそんなこと構わなかった。どれだけ読んでも飽きなかった。俺はふと手を止める。そのページを読むと、何か体の内側から熱いものが込み上げてきて、驚きと感動、そして圧倒的な責任感が一気に押し寄せてくる。気づくと俺は涙ぐんでいた。
――二四二八ページ ……
二〇二七年 十二月 四日 十二時 三四分 二一秒 第一子誕生。東京都 ○○市 △△区 つきのうら産婦人科 五 番分娩室 母 長谷川 理沙から出生。性別は男……。
さっきまではあんなに打ちひしがれていたのに、それが嘘みたいだ。さらにページを進める。窓の外では、とっくに日が登っていたが、今の俺にはそんなこと関係なかった。本の中では幸せな日常が続いている。それだけでよかった。俺は我が子の成長を文字越しに見守っていた。
現実世界では午後六時、夕方になった。一方、本の中では息子が生まれてから四年の年月が経った。今日は記念すべき息子、涼太郎の誕生日だった。この日は一大イベントを備えていた。それは家族三人で海外旅行に行くというものだった。行先はハワイだ。俺たちは遼太郎を引き連れて飛行機へ登場する。これが彼にとって初の搭乗だった。彼は終始浮かれているようだった。そのせいで離陸早々、CAの方からもらったジュースをこぼして、服を汚してしまったらしい。幸い、そういったアクシデントを見越して、理沙が着替えを持ってきてくれたため事なきを得たようだ。飛行機には夕方乗ったため、到着は翌朝となっていた。
そこまで読んで俺は続きを読むのをやめた。手が震えだす。その先に書いてあった文を読んで、俺は震駭する。息が苦しい。浅い呼吸で必死に息を吸う。それでも酸素が足りないようで。視界がぐるぐると回る。俺は手で頭を支える。
――三八八九ページ
二〇三一年 一二月 四日……長谷川家は搭乗した飛行機の事故で死絶する。
俺はその先のページをめくるのが怖くて、本を閉じた。
ふらふらとした足取りで、俺は家を出る。右手には白い本。茜色に染まった空の下を必死で走った。
T字路までやってきた。俺は目の前の壁に向かって猪突猛進する。
そして、唖然とした。
そこにあるはずの抜け道がなかった。目の前には行く手を阻む古びた壁があるだけ。どこにも隙間なんてなかった。俺は突き当りを左に曲がって裏から周りこむことにした。
しかし、そこにも目当ての店はなかった。あの日歩いた街灯の照らす道も、古民家もそこにはなかった。そこには、草の生い茂る広大な空き地が広がっているだけだった。見渡す限り何もなかった。激しい動悸がする。空き地の中央で俺は膝から崩れ落ちた。絶望で息が詰まる。呼吸をするたびにひゅーっ、ひゅーっと間抜けな音が鳴った。俺は力なく右手に握られた白い本を見る。覚悟を決めて俺は表紙に手を掛けた。乾いた音がして表紙は全開になる。そこにはまだ先ほどの三八八九ページが残っていた。
次のページを開いたら、見開きいっぱいに文字が書かれている。きっとそうだ。そうに違いない。俺はページに手を掛ける。また乾いた音がしてページが開かれた。
白紙。
次のページを開く。
白紙。
また次のページを開く。
白紙。
次のページ
白紙。
いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。そんな……、頼む、終わらないでくれ。
次のページ
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いやだ;あああああ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。
頼む。終わらないでくれ。白紙。終わらないでくれ。白紙。終わらないでくれ。白紙。終わらないでくれ。白紙。終わらないでくれ。白紙。終わらないでくれ。白紙。終わらないでくれ。白紙。終わらないでくれ。白紙。終わらないでくれ。白紙。終わらないでくれ。白紙。終わらないでくれ。白紙。終わらないでくれ。白紙。終わらないでくれ。白紙。終わらないでくれ。白紙。終わらないでくれ。白紙。終わらないでくれ。白紙。終わらないでくれ。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わらないで。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。終わるな。
終わるな。
白紙。
まんまるな月が空から下界を見下ろす。その光には蔑みが込められているということに誰も気づきはしない。彼の見つめる先には一人の男がいた。今では使われていない廃ビルの屋上に立つ男。人知れずその男は飛び立った。ぐしゃりという大きな音とともに、赤い鮮血が飛び散ったのを、この世界の誰も知ることはなかった。
今日も人知れずどこかの街に鎮座している一軒の古民家。その中で一人の白髭、白髪のおじいさんが白い本を読みながら、満面の笑みを浮かべていた。ついに読破したのか、その本を机の上に置くと、しゃがれた笑い声をあげた。
「やった。やったぞ。ようやく製作者が見つかったわい。やっと復讐することができた。」幸せそうに笑う彼は、そそくさと荷物をまとめると民家を後にした。
終わるな。

