あれはね、本物の豚なのよ。
私たちの御言葉が分からない、澱みを受け取る縁。
私たちの幸福は、豚の犠牲で成り立っているの。
だから、私たちは手を合わせて命に感謝するのよ。
「豚になってくれて、ありがとう」
***
臨時ニュースです。
成人とみられる刺殺体が見つかった煉り島市の事件で、新たに住宅の床下から子供と見られる遺体が発見されていたことが、警察への取材で分かりました。
また遺体からは、「ふくいんがきこえた」と記された切り込みが見つかっており、警察は犯行声明の可能性もあるとみて調べています。
警察は遺体の身元確認を急ぐとともに、事件の詳しい経緯について捜査を進めています。
続報が入り次第お伝えします。
「さて、本日の星座占いです。秋山さん?」
「はい。本日の一位は、射手座のあなた!自分の目指したい方向が明確に見えてくるでしょう。ラッキーアイテムはチンアナゴ!12位は残念、蠍座のあなた」
「それでは、今日も元気にお気をつけて!」
「ラッキーアイテムがチンアナゴって、おかしくないか。なんなら、今日は水族館でも行くか?」
海人の声に洗濯物を取り込む手を止める。
「あなたお仕事でしょう?占いなんていいから、パパには湊のご飯代稼いできて貰わないとね?」
湊は絵を描くことに相当集中しているのか、返事をしない。
「湊、何描いてるの?」
膝に手を突き絵を覗き込むと、湊を中心に、私と海人が仲良く手を繋いでいた。
「あ。あなた、水素水ちゃんと吹きかけた?昨日、霧吹き忘れてそのまま出勤しちゃったじゃない」
「…はあ。またそれかよ。水素だとか何だとか、お前が馬鹿にしてる占いと何が違うんだよ」
うんざりとした夫の声に苛立ちが募る。
「占いと一緒にしないでよ。これはちゃんとした厄払いなのよ」
あ。靴、左足から履いてね、と付け加える。
「はいはい、じゃあ行くからな。鍵ちゃんと閉めろよ」
お弁当を作り湊に着替えさせると、雨音が激しくなってきた。
…あの人、折りたたみ傘置いていってる。
「仕方がないなあ、もう」
ジャケットを羽織り、傘を差して家を飛び出した。
「あんなに気が抜けていたら、事故とかに巻き込まれないかしら」
今度は水素水だけでなく、塩も取り入れてみてもいいかもと考えていると、軽が目前の水たまりを横切った。
水飛沫が跳ね、思わずぎゅっと目を瞑る。
「…最悪」
「ああ、ごめんね!」
ドライバーの男が手を合わせ軽く謝罪し、逃げるように発進した。
やはり、運が足りていない。
海人は今年、長年の厄除けが功を奏し課長に昇進した。
いつも死んだ魚の目をしているというのに、あの日はやけに機嫌良く帰宅してきたことを覚えている。
全ては私のおかげだ。
あと少し。
ビルが立ち並ぶコンクリートジャングルについ臆してしまう。
我が家の閑静な住宅街とは似ても似つかない。
「あの、高島なんですけれども。これ渡しておいていただけますか?」
「高島ですね、かしこまりました。お渡ししておきますね」
受付の女性に託し、背を向ける一瞬、人混みに旦那の後ろ姿を見たような気がして振り返る。
目をこらすが、あの中肉中背は見当たらなかった。
「…気のせいか」
そろそろ湊を学校に送り出す時間だ。
三回深呼吸をして、左足から歩き出す。
大丈夫、今日も私は徳を積んでいるのだから。
「ただいま。湊、学校行くよ」
返事はない。
嫌な予感がする。
子供が静かな時は大抵、何か後ろめたい事をしている時だ。
「湊!」
「ママ、これ何?」
リビングの戸を開け放つと、湊が何かを持ち立ち尽くしていた。
「何、これ?」
何かのペアチケットだ。
イラストを見てどこか分かった。
電車で三駅の距離にある、新装開店した水族館だ。
今日は水族館でも行くか?
今朝の海人の声が脳内で反芻する。
まさか、女と?
あの仕事第一な旦那に、そんな芸当が出来るとは到底思えない。
だが、先ほど人混みの中に旦那の後ろ姿を見た。
隣に女がいたかは定かではないが、もしそうなら。
12位は残念、蠍座のあなた。
今朝の占いがふと頭を過ぎる。
あの時、アナウンサーはなんと言ったか。
スマホを取り出し、慣れないフリック操作で検索バーに入力していく。
『おはようモーニング! 蠍座 今日の運勢』
ページをロードする時間さえもどかしい。
早く、早く否定して。
私の思い過ごしだと言って。
「ママ?遅れるよ」
湊の声は頭に入らずすり抜けていく。
待ちきれずリロードボタンを押し、公式サイトにアクセスする。
開いた。
六月十日の運勢
蠍座 十二位
残念。
今日の貴方は、知りたくない秘密を知ってしまうかも。
ラッキーアイテムはバスソルト。
知りたくない秘密。
水族館。身に覚えのないチケット。後ろ姿。
「…チンアナゴだなんて、笑えない」
チケットを握りしめる。
本当に無実なら、これを見せても動揺しないはずだ。
日付の切れた二枚のチケットを見ないふりをしながら、居間の食卓にそっと置いた。
「ただいま。飯なに…てか、電気付けろよ。何時だと思って」
「これ、なに?」
チケットを夫の目前に突きつける。
夫は突然の事態に目が白黒している。
「これ、二枚しかないよね。日付も切れてるけど、誰と行ったの?」
「あと、今日あなたの職場に行ったらあなたを見かけたんだけど、女の人と腕組んでたよね?私、見たんだよ」
「…そ、それは、向こうから頼まれて、断り切れなくて」
時が凍る。
「嘘だよ。確かに私はあなたの後ろ姿は見たけれど、女と腕組んでるところは見ていない」
ダンッ!
みるみるうちに夫の顔に血が集まり、赤く染まる。
「お前、俺を試したのか?俺を騙したんだろう!」
「騙したのはそっちでしょう。無実なら私の見間違いで終わっていたんだから」
夫は癇癪を起こし、地団駄を踏む。
「お前が厄除けだとか訳の分からない事ばかり言って、俺を巻き込むからだろ!もううんざりなんだよ!」
「お前はまともじゃないんだよ。母さんの言う通りだった。お前みたいな学もなければ器量も良くない女を貰ってやったのが間違いだった」
結婚指輪がフローリングに投げつけられ激しく音を立てた。
「ずっと大切にする。僕と結婚してくれませんか」
二人でお金を出し合って買った指輪。
小粒のダイヤが細い指によく映える、そう言ってはにかんだ。
もう、駄目か。
「ママ?」
はっとする。
自室で遊んでいたはずの湊が、居間に降りてきていた。
湊は父親を訝しげに見つめている。
「いい?湊。ママの言う事は必ず守るのよ。パパみたいになりたくないでしょ」
海人は唇を噛み締める。
「パパはね、ママと湊を裏切ったのよ。パパに謝って欲しい?」
湊は私と海人を交互に見ている。
私は海人から視線を逸らさない。
「パパ、悪いことをしたら謝るんだよ」
「…悪かった」
そう言って頭を下げる海人を見て、無意識に口角が上がった。
***
「湊、人間はね、大多数の不幸の元に幸福が成り立っているの。それがこの社会の成り立ちであり、決まりなのよ」
湊は、私の言う事が分からず沈黙している。
「家族であっても、私たちの間には順序があるの。難しいかもしれないけど、これを読んであげるね」
私は占いのセミナーで購入した子供用の絵本を取り出した。
ブタさんがいると みんながしあわせ
みんなのわるいうんきを すいとってくれるよ
ブタさんは かわいそうじゃないよ
ブタさんはわるいことをして ブタになりました
みんなでブタさんに ありがとうをいおうね
「豚さん可哀想。本当に悪いやつなの?」
湊は本当に優しい子だ。
つい微笑み、小さな頭を撫でる。
「そうよ。豚は悪い事をして皆から嫌われているの」
「パパは、豚なの?」
私は何も言わずに、微笑んだ。
***
──五年後。
「湊、今日のお祈りはもう済ませたの?」
今日の吉方角である南南西の方向に、三つ指を突き拝礼する湊を見て安堵する。
いつものように盛り塩を四隅に配置し、セージの葉に火をつけ燻らせながら部屋中を徘徊する。
魂が整い、喜んでいるのが分かる。
スマホのアラームが鳴る。
餌の時間を完全に失念していた。
生き物を飼うというのは、想像以上に手のかかるものだ。
南京錠を解錠し、空き部屋の引き戸を開く。
立ち上がる異臭に思わず鼻をつまむ。
「餌の時間よ。起きなさい」
それは無言で起き上がる。
ドッグフードを配膳すると、それは涎を垂らしていた。
本当に行儀の悪い獣だ。
「待て。お手。伏せ」
手で合図をすると、それは窮屈そうに素手で口に流し入れる。
豚は綺麗好きな動物だと思っていたが、どうやら外れの個体らしい。
「さ、湊のご飯今すぐ用意するわね。今朝は湊の好きな豚の生姜焼きにするから」
手を塩水で何度も何度も執拗に洗浄し、身を清める。
豚は床に這いつくばって必死に餌を喰らっている。
それがしゃっくりを上げながら泣いている事に気づく。
屠殺される時、豚は泣くのだろうかとふと思う。
「美味しいよ、母さん」
湊の声に抑揚はないが、嬉しそうな気持ちを感じ取り笑顔になる。
「器もお箸も、今日のラッキーカラーの黄色にしたからね」
「今日も豚がいてくれる事で、よりご飯が美味しく感じられるわね」
息子と私二人きりの、本当に穏やかな時間だ。
あの日、占いを見つけたのは私が選ばれた者だからだ。
だからこそ、どんな小さな綻びも許せない。
「湊。またお茶碗持ち上げてる。それは誤った常識だっていつも言っているでしょう」
黙々と食していた湊の手が止まる。
「湊、返事は」
湊は聞こえているはずだが、何も言わずに俯いている。
「…学校で、先生に行儀が悪いって言われた」
手が震えだす。
まだそんな低次元な波動を受け取っているなんて。
今止めないと、豚になってしまう。
深くため息をつく。
「そう。母さんが間違っているって言うのね。御言葉も聞こえない奴らの方が正しいって言うのね」
湊がゆっくりと顔を上げる。
空洞だ。
喜も悲も怒もない、空洞。
あともう少しなのに。
もう少しで、湊は”完成”するのに。
私は壁に掛けられた鞭を持ち出す。
湊が硬直するのが分かる。
「こっちに来なさい。今すぐに。母さんの言う事が聞けないの?そこにいる豚になりたくないでしょう」
湊は拳を作り、震えながら一歩一歩近づいてくる。
これでいい、私だってやりたくない。
でも、これは湊の為なのだから。
顔は避けなくてはいけない。
最もエネルギーが集まる部分なのだから。
私は湊のブレザーとシャツを脱がし、壁に手をつかせる。
湊の白い背中には、幾つものミミズ腫れが走っている。
何度も何度も、教えを叩きこんできた。
「今日は三つ目と七つ目の教えを破ったから、十回ね」
湊を高次元の存在にする為に、私も心を鬼にしなくては。
深く深呼吸をして、鞭を振りかぶる。
バチン!
湊が背中を震わせ、くぐもった悲鳴を上げる。
私は涙を堪えきれずに嗚咽する。
これは湊の成長の為だ。
きっと、湊も分かってくれる。
母さん、僕を正しく育ててくれてありがとうと感謝するだろう。
「…行ってきます」
「行ってらっしゃい。お弁当、持ち上げちゃ駄目よ」
「…はい」
儀式を終えた湊を、快く送り出す。
一瞬、我が子の揺れに動揺したが、ちゃんと私の湊に戻ってくれたので安堵する。
「あら、高島さん、湊くんも!本当に仲がいいのねえ」
隣の樫本さんがゴミ出しの途中にこちらに笑いかけていた。
「いえ、そんな。私はまだ至らぬ所ばかりで」
そう言うと、樫本さんは大げさに手を何度も振る。
「いやいや、近所でもよく噂になってるのよ。湊くんは本当に優秀で礼儀正しくて、今時良く出来た子だって」
「それもこれも、お母さまの教育がなっているからよねぇ。うちの馬鹿息子の勉強も見てもらいたいわぁ」
樫本さんの息子の雄くんは中学校受験に失敗し、地区の決められた中学校に通っている。
野球一本の毎日で、いつも遅い時間に帰宅しているのをよく見る。
私を見かけると、いつも帽子を脱いで軽く頭を下げる、そういう子。
だが、彼らに私たちの御言葉は聞こえていない。
「雄くんもいつも感じが良くて、私の方がいつも緊張してしまうんですよ。湊にも見習うようによく言っています」
「あらほんと?やだぁ、お世辞が上手いのねえ」
樫本さんが大きく笑い声を上げるのに合わせて私も笑う。
「そういえば、旦那さん最近元気ないんじゃない?」
一瞬、誰の事を言っているのか理解が追い付かなかった。
「旦那は最近ゴタゴタしていて…ご心配をおかけして申し訳ないです」
「あら、そうなの?早く元気になるといいわねえ」
伝えておきます、と言い強制的に会話を終わらせ、ドアを閉めた。
大丈夫。この家畜にはまだ役目があるのだから。
簡単に屠殺などしない。
今日は新たな開運グッズがオンラインで発売される。
いつも開始と同時に瞬きの速さで売り切れるので、事前にクレジットの情報を登録し、すぐに購入出来る状態にしておかなくてはならない。
豚にカードなどという文明の利器は必要ないので、私が全てを管理している。
今日は一体、どんな物が並ぶのだろう。
幼いころ、女児たちの間でシール交換が流行っていた。
プクプクと立体的だったり、ホロがキラキラと輝くシールは需要が高く、希少だった。
シールにもきちんとしたレートが存在し、お目当てのシールを手に入れる為には、自分のお気に入りのシールを交換する必要があった。
今、あの頃に戻ったように、心の底からワクワクしている。
それもこれも、お母さまの教育がなっているからよねぇ。
樫本さんの言葉を反芻し、つい口角が上がる。
そう、私は息子の未来の為に涙を流せる子思いの親なのだ。
雄くんには、一生かかっても到達できない高みに湊を連れていく。
そして財を築いた湊は私にこう言うのだ。
「今まで僕を愛してくれてありがとう。お礼に新居を購入したよ」
私は一戸建てで優雅に湊と余生を過ごし、そして湊に惜しまれながら高次元の存在として寿命を終える。
そこまで考えて、涙が滲む。
そしてその未来は、着々と近づいてきている。
***
豚が屠殺される時、十頭程度が屠殺の為の部屋に入れられる。
扉が閉まり、二酸化炭素が充満するが、豚はすぐには失神しない。
意識を失うまでにタイムラグが存在する。
豚たちは長い時間、藻掻き、苦しみ、息切れや窒息に苛まれる。
ガスだけでなく、電気ショックを与える方法もある。
完全に意識を失う個体もいれば、麻痺で動けなくなるだけの個体もいる。
そこで逆さづりにした豚に切り込みをいれ、失血死で屠殺するのが一般的な流れだ。
父がガスを吸い込み、生理的な涙や鼻水に塗れ、少しずつ血を流しながら死を待つ姿を想像する。
父は苦しむだろうか。
己の行動を悔やみ、懺悔し、初めて御言葉を聞くのだろうか。
僕はどうだろう。
逆さづりにされ、流血しながら、己の過ちを悔いるのだろうか。
母に、悔いるのだろうか。
「高島。この英文翻訳出来るよな?」
「はい」
ぼんやりとした思考を隅に追いやり、教師の望むように答える。
机の下で、両手の親指と人差し指を合わせ、結界を作る。
“私は誰の教えも受け取りません”と心の中で唱える。
母がいつもどこかで見ている気がする。
僕が教えを破らないか、常に視線を張り巡らせているという考えが頭から離れない。
母は、ここにはいないのに。
「よーし。お前ら、先生がたんまり宿題出してやるからな。ありがたく受け取れよ」
生徒の喧騒も耳には入らない。
…家、帰りたくないな。
僕のキッズスマホには位置共有アプリが入れてある。
もちろん、放課後に友達と遊ぶのも、立ち食いをしにコンビニに寄るのも許されない。
今朝の新しい背中の傷が痛む。
それもこれも、お母さまの教育がなっているからよねぇ。
外から見れば、母は教育熱心で立派な人間なのかもしれない。
雄くんとは小さい頃、よくカードゲームをして遊んでいた。
変わったのは、父が過ちを犯してからだ。
母は人が変わったように占いや教えにのめり込んだ。
もう二度と、元の家族には戻れないのだろうか。
雄くんが羨ましい。
唇をきつく噛み締め、鉄の味がする。
逆さづりにされるべきは、母なのかもしれない。
母が助けを乞う叫び声が頭から離れず、その後の授業は上の空だった。
終業のチャイムが鳴り響き、重たい身体を無理やり動かす。
「なあ湊、カラオケ行かね?今日こそは行こうぜ」
前の席の坂下くんが肩を組み懇願する。
「…うん、ごめん。今日も塾があってさ」
彼の重々しい溜息を聞くのは何度目だろう。
「いいじゃねえかたまには。先生に呼ばれたーとか、腹いてーとか、何でもあんだろ」
行きたいんだけど、その塾厳しくてさ、と濁す。
家のことを何も気にせずに、坂下くんと大声で歌えたらどんなに楽しいだろう。
僕はいつまで、心を殺し続ければ良いのだろう。
「まあ聞けよ。実は今日さ、綾乃も呼んでんだよ」
心臓がどきりと跳ねる。
日下綾乃さん。
生徒会長で、入学式の集会で隣同士だった。
「高島くん、入学生代表なんて凄いね!頭良いんだね!」
初めて女の子に話しかけられた僕は、何も言葉を返せずに言い淀んでいた。
あれからクラスは離れ、生徒会に入る事を母に禁止された僕は、自然と話す機会を失っていた。
あの日下さんと、カラオケ。
スマホの電源を切った。
このまま僕は学校に忘れるんだ。
「湊、綾乃の隣に行けよ。こんなチャンスもうないだろ?」
慌てて拒否する僕に、坂下くんがいいからと隣に座らせる。
日下さんの顔が見れない。
「高島くん、久しぶりだね。高島くんも来るって聞いて、私本当にうれしくて!」
身振り手振りを交えて嬉しそうに話す日下さんが、眩しくて目を逸らす。
僕なんかが、日下さんの隣にいていいのだろうか。
そもそも家では全く音楽が流れないので、何を歌えばいいのか皆目見当もつかない。
それでも、僕はこの夢のような時間が終わってほしくないと心から願っていた。
「高島くんって呼びづらいから、湊って呼ぶね」
アップルサイダーを吹き出しかける。
「え、いや、あの…うん。日下さんが良ければ」
彼女がふふっと笑う。
「もう、綾乃でいいよ。あ、ねえ、これ一緒に歌おうよ!」
「でも、僕この曲知らないよ」
綾乃さんは首をぶんぶんと横に振る。
「いいの!私は湊と歌いたいんだよ。再会を祝して、綾乃と湊歌いまーす!」
今だけは、母の傾倒する占いも、屠殺される豚も、何も考えなくていい。
ただの高島湊という人間として生きていいんだ。
「いやー、四時間なんてあっという間だよな」
今頃、スマホが壊れるほど通知が溜まっているだろう。
母に何と言えば良いのだろう。
「湊、楽しかったね。私、方向一緒だからそこまで帰ろう」
綾乃さんが手を繋いだ。
坂下くんがヒューヒューと盛り立てる。
「いいじゃん、いいじゃん!湊いい奴だから、今お買い時だぜ」
うるさいな、と振り払うように駆け出した。
「私ね、ずっと湊くんと話したかったの。クラス離れ離れになっちゃって、ずっと寂しくて」
綾乃さんの優しい声が耳に心地いい。
しかし、どこかで母に見られていたら、という疑念が付きまとう。
僕だけならまだ良い、綾乃さんがもしも巻き込まれたら。
もしそうなったら、僕は絶対に自分を許せない。
「私の家、こっち」
綾乃さんが繋いでいた手を離す。
離れた体温がそのまま心の距離になるのではないかと不安を抱く。
「…私、まだ帰りたくないな」
え?と言い返す前に、綾乃さんが僕の背に手を回す。
これは現実なのだろうか。
あの日から、誰にも、母にも抱きしめられてこなかった。
なのに今、あの綾乃さんが、僕を。
もう御言葉なんて聞こえなくたっていい。
くだらないルールなど、どうでもいい。
綾乃さんがいれば、僕はもう、それで。
「え?これ…」
背中に手を回していた綾乃さんが、硬直する。
はっと気づく。全身の血の気が引く。
背中の、醜い幾つものミミズ腫れ。
母が僕に刻んだ、愛情の残滓。
綾乃さんがぱっと腕を離し離れる。
彼女の顔は、見てはいけないものを見たように強張っている。
「いや、あの、えと…違うんだ、これは」
「…ごめん。私、行くね」
綾乃さんが踵を返し駆け出す。
「…ははっ」
乾いた笑いが漏れる。
足が勝手に動き出す。
家の明かりはついていない。
鍵を開け居間を覗きこむが、母の姿はない。
もしかしたら、痺れを切らして寝ているのかもしれない。
音を立てないように階段を一歩ずつ上る。
説明するのは、明日でいい。
「湊」
自室のドアノブにかけた手が止まる。
頭が真っ白になる。
後ろを、振り向けない。
「カラオケ、楽しかった?」
目を丸くする。
何故、それを。
スマホは学校に忘れていった。
位置共有アプリでは足取りは追えなかったはずだ。
「ママね、湊の事が心配で、湊のお財布に今朝GPSを入れておいたのよ。気づかなかったでしょう」
「今日の占いで、湊が悪魔に誑し込まれるって出てたから」
吐く息が冷たい。
ずっと監視されていた。
「あ、あの子は違うんだ。たまたま僕が転んで、その弾みで」
ふふっ。
母さんは笑っている。
まだ後ろを振り向けない。
「湊、覚えてる?豚は悪い事をしたから豚になったのよ」
母は微笑んでいる。
見なくても分かる。
あの日、父に首輪を着けて飼育を始めた日。
あの日も、母は微笑んでいた。
「ママが至らなくてごめんね。今朝の儀式で、湊の汚れを全部落としたつもりだったんだけど... 私も、まだまだね」
腕をがしっと掴まれる。
「湊には、もっと大きな愛が必要なんだね」
腕を引きずられる。
爪が皮膚に食い込み、痛みで顔が歪む。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「ううん、謝るのはママの方だよ。湊が寂しい事に気づけなくてごめんね」
「その子の分まで、たっぷりママが愛してあげるからね」
浴室の引き戸が勢いよく開かれる。
浴槽にはすっかり冷めきった冷水が張られている。
何度目かの謝罪を口にしかけ、母の手が荒々しく髪を掴んだ。
間髪入れずに頭を浴槽に沈められる。
息を吸う間もなかった。
鼻から水が入り、痛みに身悶える。
酸素を求め、口が勝手に開き冷水を飲み込む。
苦しい、苦しい。
息が、出来ない。
「湊、寂しい思いさせてごめんね。ママがちゃんと、愛してあげるからね」
視界が白み、意識を失いかけた瞬間、水から引き上げられる。
すぐにまた冷水に沈められる。
豚は、ガスを吸い込んでからしばらく藻掻き続けるという。
これは、僕の屠殺なんだ。
馬鹿な夢を見た、高島湊の屠殺なのだ。
「湊、ママの気持ち、分かってくれた?」
「…うん、母さん。今まで悲しませてごめん」
そう言うと、母の目が潤みだし、抱擁される。
「…良かった。やっと、ママの御言葉が聞こえたのね」
この手は、僕を絶対に離さない。
この手は、僕を絶対に裏切らない。
そうか、僕はずっと。
「ママね、今の良い子になった湊にして欲しい事があるの」
こっちにおいで、と手を引かれる。
もうあんな女の事はどうでもいい、母さんさえいれば。
どこに行くのかとぼんやりとしていたが、目の前には豚が異臭を放ちながらいびきを立てて転がっていた。
「ママね、いつもこの豚の世話をしているの。湊にも、そろそろお世話を始めて欲しいなって」
今朝の鞭が手渡される。
「この豚はね、今朝、粗相をしたの。しつけも大事なお世話だから、出来るよね、湊?」
母の笑顔は張り付いていて、面のようだった。
何も言わずに受け取る。
豚は僕には気づいていない。
鞭を振りかぶる。
無防備な背中を目掛けて、思い切り振り下ろした。
「うああっ!!」
豚が声にならない悲鳴を上げる。
間髪入れずに、今度は臀部に振り下ろす。
「いあああっ!」
豚になるくらいなら、僕は屠殺する。
喰らわれるくらいなら、跡形もなくなるまで喰らい尽くす。
僕は、豚にはならない。
ひたすら無心で鞭を振り下ろしていた。
悲鳴が上がらなくなり、ふと我に返ると、豚は失神していた。
所々、赤く腫れあがり、出血している。
「湊、本当にあなたは成長したわね。私の教えがついに実を結んだのね」
母が僕を再度優しく抱きしめる。
温もりが心地いい。
鞭の先端から零れ落ちる豚の血が、ぽたりと僕の足に落ちた。
汚らわしい。不浄だ。
僕は母と共に御言葉を聞き、高次元の存在になるんだ。
***
妹とは五歳差で、いつも私の後を付いてまわる臆病な子だった。
シール交換が好きで、クラスの女の子に話しかけたいが勇気を出せず、私によく泣きついていた。
ある日、妹が人気者の愛莉ちゃんに勇気を出して話しかけた事があった。
「えーと、ごめん。誰だっけ」
妹は打ちひしがれ、クラスの卒業パーティーを仮病で欠席した。
内向的で自分を蔑む癖があり、それは妹が成人になるまで続いた。
彼女が変わったのは、海人さんに出会ってからだ。
私なんて、と言う妹に、海人さんはよくこう言っていた。
「もっと自由に伸び伸びと生きていい。ありのままの君が好きなんだ」
先を越された結婚式で、妹が幸せそうに微笑む花嫁姿を見て、私は心から安堵した。
すぐに湊くんが産まれ、新居を構え、かなみは順風満帆の日々を掴み取った。
今日は、サプライズで妹に会いに行く日だ。
湊くんの好きな地元のチョコレートと、ご利益があると人気の幸運守りを買っていこう。
大荷物を抱え、額に滲む汗をハンカチで拭い、呼び鈴を押す。
「はい、高島ですが」
「かなみ、私だけど」
妹は黙っている。
私の突然の訪問がよっぽど嬉しくて声も出ないのだろう。
「ちょっと、早く入れてよ。見えるでしょ、この大荷物」
返答がないまま、玄関のドアが重々しく開かれた。
「何、いきなり。困るんだけど」
「全く、相変わらず辛気臭い顔してるわね。そんなんじゃ幸福が逃げていくわよ」
お邪魔しまーす、と足を踏み入れて、ぎょっとする。
部屋中が何だか分からない骨董品のようなガラクタで溢れかえっている。
妹は物に執着せず、いつも綺麗好きな人間だったはずだが。
「あ、お茶菓子なんかいいからね。新幹線でたらふく飲み食いしてきたから。湊くんは?」
妹は表情を変えない。
魂ここにあらずといった妹が、ガラクタの山の中で異物に見えた。
「いるけど、今勉強していて忙しいから」
「そう?でも暫くぶりなんだから、湊くんの顔見たいんだけどなあ。あ、そうだ」
あれもこれもと買い揃えたお土産の数々を食卓に並べる。
「これ、湊くんの大好きなチョコレート。それからこれが、私が手芸教室で編んだマフラー!」
「最近冷え込むでしょう、風邪も流行ってるみたいだしねえ」
ごそごそとハンドバッグを掻きまわす。
「あったあった。これね、石濃神社の幸運守り。凄い人気で手に入れるの大変だったんだから」
そう言って、自慢げにお守りを妹に見せつける。
途端、死んだ魚の目をしていた妹が表情を変えた。
バンッ!
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
お守りは私の手から強奪され、床に叩きつけられていた。
お守りが、割れている。
妹は息を上げながら、尋常ではない形相でお守りを睨みつけている。
「こんな不快な物、神聖な家の中にいれないで!」
かなみは悲しい事や腹立たしい事があっても、一度も声を荒げたり反抗しない優しい子だった。
いつも相手の良い所を見つけて、何かあれば私が悪いと内省する子だった。
そのかなみが、憤怒を抑えきれずに泣いている。
「…え、いきなりどうしたの?お守り、これ…割れちゃったじゃない」
激しい眼光が私を射抜く。
気まずい沈黙に言葉が見つからない。
それから、ずっと気になっていることがある。
この家に入ってからずっとしている異臭だ。
この匂いを知っている。
幼い頃、父に連れられ、家族で初めて動物園に遊びに行った。
初めて見る動物たちが物珍しく、私と妹は歓声を上げていた。
かなみがどうしてもライオンを見たいと駄々をこねたので、父が疲れ切って寝ていた私をおぶって猛獣ゾーンに向かった。
途中、耐えがたい異臭が鼻をつき、私は目を覚ましぐずりだした。
ライオンの匂いではない。
何事かと見回すと、それは道中にあった豚舎だった。
そうだ、これは、豚の匂いだ。
途端に怖気に似た居心地の悪さを感じる。
このガラクタの量は、趣味でハマっていますというレベルを逸脱している。
それに、違和感はもう一つある。
居間を見渡す限り、海人さんの嗜好品や私物が何も置かれていないのだ。
共に暮らし、生活を送っているとは思えない程だ。
まるで存在そのものが最初からいなかったようで、鳥肌が立つ。
妹の豹変ぶりも相まって、この家の空間そのものが呪物のように思えた。
「えっと、そうね。なんだか忙しそうだし、そろそろお暇しようかな。最後に湊くんにご挨拶だけしたいんだけど」
「叔母さん、こんばんは」
覇気のない声に、一瞬誰の声かと身構えた。
振り返ると、階段の途中で湊くんが立ち尽くしていた。
「あ、あら湊くん。元気だった?ええと…元気そうね」
言葉に詰まり、しどろもどろになる。
湊くんの服はボロボロで所々穴が開いており、髪は伸びきっていて、声を聞かなければ誰だか分らなかった。
「その、 湊くん、学校は楽しい?」
湊くんの目は虚ろだ。
「学校にはもう行っていないんだ」
「そ、そうなの...けど、元気そうで良かったわ」
再度漂う沈黙に耐えられず、必死に話題を探す。
「そうよ。湊くんの好きなチョコ買っておいたから、あとでお母さんと食べてね」
それじゃ、と言い背を向けた瞬間。
ドンっ!
戸を突き破るような物音が耳を劈いた。
何事かと振り返る。
かなみも湊くんも棒立ちしている。
二人ではない。では何が?
「気にしないで。最近、ペットを飼い始めたのよ」
かなみの声には抑揚がない。
何もない空間を力ない目で見つめている。
「ペ、ペットって、あんな大きな物音…一体、何を飼い始めたのよ?」
かなみがゆっくりこちらに視線を向ける。
「豚よ」
***
遅い。
いつも二十一時半には運動としてリードをつけ散歩をしているというのに。
まさか、逃げ出した訳じゃないだろうな。
スマホをタップし、アプリを開く。
どうやら会社にはいるらしい。
また、女と密会しているのか?
女と話すことは、例え会社の女であっても徹底的に禁じている。
だが、私の目が届かない所で何をしているか分かったものではない。
今日の散歩は取りやめだ。
また湊に躾をさせなければ。
今日はどの鞭にしようか。
前々回、一番大きな悲鳴を上げたお気に入りの鞭にしよう。
どうせなら、セミナーのDVDを流しながら鞭を振るおう。
豚が死後辿る末路について、教えてやらなくては。
いつの間にか食卓に座ったまま眠っていた。
時計は午前三時を示している。
寝息が聞こえソファを見ると、教義本を開いたまま湊が眠っていた。
部屋は真っ暗で、豚が帰宅した形跡はない。
まさか、本当に逃げたのか?
また、私を裏切ったのか?
占いを続け、徳を積み続けていれば変わってくれると信じていた。
昇進や湊の学業が右肩上がりなのも、全ては私が邪悪な波動を排除し、良い運気を取り込み続けて来たから。
だからこそ、いつか私の真意と愛情に気づき、また愛してくれるのだと信じてきた。
「もっと自由に伸び伸びと生きていい。ありのままの君が好きなんだ」
そう言ってくれたじゃない。
海人、お願いだから帰ってきて。
元の海人に戻って。
その日は眠れず、スマホにセージの煙を燻らせ、塩水で拭き取り清め続けた。
日付を超えても、三日経過しても、海人は帰ってこなかった。
「ママ、礼拝の時間だよ。盛り塩を用意しないと」
「ママ、聞いてるの?」
はっとする。
礼拝。盛り塩。
今までの日常の言葉が、どこか遠い異国の地の言葉に聞こえる。
頭が真っ白なまま塩を器に振り入れる。
「ねえ、塩が零れてる。ちゃんとお祈りしたの?」
「そう、よね。お祈りしないとね」
親指と人差し指を合わせ結界を作り、硬直する。
お祈りの言葉が、出てこない。
頭では分かっているのに、口が動かない。
「不可視の理よ、迷える我らの魂を不浄からお守りください。御言葉で我らをお救いください」
見かねた湊が御言葉を口にする。
あやふやな思考のまま、あとに続けて口にする。
「ママ、今日おかしいよ。波動が乱れてる。ご飯、僕が用意するから座っててよ」
心配した湊が私の手を引き、ソファに座らされた。
必死にセージの匂いを吸い込み、深呼吸をする。
「いただきます、命に感謝します」
せっかく湊が用意してくれたと言うのに、何も考えられない。
湯気の立つ肉と新鮮な野菜が色どりを添えている。
何か、食べなくては。
私は白米のお茶碗を持ち上げる。
昨日から何も口にしていない。
咀嚼するが、味はしない。
「…母さん」
湊の声が震えている。
視線を向けると、湊は目を見開きこちらを凝視していた。
***
南京錠を外し、首にリードを着ける。
母は俯いている。
「ほら、どうしたの?運動する時間だよ」
全く手のかかる。
溜息をつき、用具箱から清掃用のバケツを持ち出す。
バシャッ!
「目が覚めた?それとも、まだ豚になりたいの?」
母が震え、冷水で悴んだ手を伸ばす。
「湊…私は」
「そうか。やっぱりまだ駄目なんだね。まだ、本当の母さんには戻れないんだね」
リードを力強く引っ張り、異臭のする空き部屋から母を引きずり出す。
「湊、聞いて。私はずっと間違っていた。あなたにずっと、酷い事を」
「いいや、間違ってなんかいないよ。母さんは僕の人格も人生も否定するの?」
母の瞳が揺れている。
「豚ってさ、産まれてからすぐに断尾するんだよね。知ってた?」
「ストレスから尾を齧るのを防ぐ為にね。母さん、爪噛むのまだ止められないんだね」
母がぱっと爪を隠す。
「感染症になったら大変だし、選ばせてあげるよ」
コテの配線を繋ぎ、電源を入れる。
「これと鞭と、どっちがいいかな」
母の小さな背が父と重なった。
***
かなみは以前、うつ病になった私を懸命に見舞いに来ていた。
木幡市の十畳アパートで、毎日カーテンを閉め切っていた。
死にたいと零す私に寄り添い、ただ何も言わずに傍にいてくれた。
一度、二人で海を見に行った。
波が打ち寄せる音に耳を澄ましていると、かなみが私も死にたい時があったと音もなく頬を濡らしていた。
けれど、お姉ちゃんがいつも私の味方でいてくれたから、今生きようと思えているんだよ、と微笑んだのを覚えている。
もしも今、かなみが苦しんでいるのなら、次は私が海に連れていく番だ。
呼び鈴を鳴らすが、返答はない。
「お邪魔します…かなみ、いる?」
緊急時用に作った合鍵を使うが、誰の靴もない。
屋内は驚くほど静謐に包まれているが、異臭は更に酷くなっている。
おかしい。
以前よりも、部屋が異常なほど無機質だ。
よく見ると、廊下の奥にある用務箱の扉が開いている。
視線を奪われ、足が勝手に向かう。
中を見て、絶句する。
清掃道具ではない。
鞭や首輪が壁一面に掛けられている。
中には用途不明のコテまで置いてある。
変わったインテリアかとも思ったが、どれも使い込まれている。
ペットを飼い始めたの。
豚よ。
違う、これは家畜に使う物ではない。
ドンッドンッ。
突然の物音に心臓が大きく跳ね上がる。
「…かなみ?」
音は廊下の奥からだ。
恐る恐る歩みを進める。
空き部屋だ。
この家を建てる時、このスペースはいるのかいらないのかで珍しくかなみと揉め、大喧嘩をした。
この部屋は、いつか子供が産まれたら三人で一緒に遊ぶ共同スペースにするのだ、とかなみは一歩も引かなかった。
だから、この先を覗く事を恐れる必要はない。
南京錠が掛かっているが、用具箱で見つけた鍵が、合ってしまった。
意を決して、扉を開ける。
最初は何が転がっているのか分からなかった。
「…かなみ?」
それがもぞっと身体を動かす。
「湊?私…ごめんなさい、ごめんなさい」
虚ろな目はどこも見ていない。
キャミソールと短パンから伸びる肢体は、所々血が滲み固まっていた。
「かなみ、私だよ。しっかりしてよ!なんで、どうしてこんな」
「ママが間違っていました、本当に申し訳ありませんでした」
「湊様、本当に申し訳ありませんでした」
私の声が全く届いていない。
身体はここにあるのに、かなみがいない。
「湊様って、何なの?湊くんがこうしたの?」
かなみは脱力したまま何も答えない。
鼻をつく酸味のある異臭も気にせずに抱きしめる。
強く強く、かなみがこれ以上傷つかなくて良いように。
「今まで気づけなくてごめんね。私が今すぐ助けるから」
まずは通報を、とスマホを取り出す。
お願い、早く繋がって。
「はい110番警察です。事件ですか?事故ですか?」
「あの、妹が、家でその、監禁されていて。ええ、事件です」
電話越しの妙に冷静な態度がもどかしい。
「と、ともかく早く来てください。一刻を争うんです!」
「場所は」
言いかけ口を塞がれる。
「申し訳ありません。喧嘩が行き過ぎてしまって…。はい、ええ。伝えておきます」
「久しぶりだね裕子さん。こうやって呼ぶ事ももうないだろうけど」
「もう警察は居場所が分かってるわ。すぐにここに来る」
湊くんは柔和な笑みを崩さない。
「どうだろうね。こういう悪戯な通報はよくあるから」
「母さん、いい子にしてた?なんて、今日はお友達がいるみたいだけど」
かなみを見ると、這いつくばり湊くんに頭を垂れている。
「申し訳ありませんでした。私はこの方を存じておりません」
抑揚のない声にかなみの意志はない。
まるで糸で動かされる操り人形だ。
「母さんは今、魂を清めているんだ。裕子さんが思っている様な事態じゃないよ。だから心配しないで欲しい」
そう言いながら湊くんがかなみの頭を撫でる。
愛おしそうに。
言葉が出ない。
スマホは湊くんの手中にある。
私だけで逃げる事は出来ても、かなみを連れ出す事は難しいだろう。
湊くんがふっと笑う。
「ずっと出口を見てるけど、もう今夜の献立は考えなくていいよ。裕子さんは今、母さんと旅行に行っているからね」
「…何を言っているのか分からないわ」
こういうことだよ。
そう言って湊くんが近づいてくる。
目が、逸らせない。
少しずつ後退するが、背中が壁にぶつかった。
逃げるなら、今しかない。
かなみを助ける為には、まず私が生き延びなくては。
背を向け手を突き、勢いよく扉を開く。
ガンッ!ガンッ!
「ああああっ!」
扉を何度も閉められ、戸当りを支えていた指に耐えがたい痛みが走る。
「もう祐子さんはどこにも行けないよ」
ガチャン。
「裕子さんは魂が汚れているんだ。御言葉が聞こえていない。けど安心してよ、人は変われるんだ」
今夜の献立はドッグフードにしようか、と頬を撫でた。
***
今日は、湊様が伸びきった髪を全て剃り落として下さった。
それだけではない。
水浴びと、鼻輪を施していただいた。
鼻輪には番号が振られたタグがついており、私は02番、かなみが01番。
養豚でごく一般的に用いられる個体の識別方法だ。
姉妹だからよく似ている、と労って下さった。
「今日から番号で呼ぶ。これが解脱の第一歩だからね」
湊様はいつもお優しい。
私たちが何か粗相をすれば、湊様自ら手をお汚しになって折檻し、身を清めて下さる。
毎日愛されて、私は本当に幸せ者です。
礼拝中に目がくらみ、頽れる。
三日間の絶食で、私の身体が細胞ごと変わろうとしている。
体調を崩すのは、それだけ澱みが溜まっている証拠なのだという。
強烈な吐き気に襲われるが、出てくるのは胃液だけだ。
「良い兆候だね。身体が生まれ変わろうとしているんだ」
湊様が優しく背中を撫でて下さる。
私は湊様に選ばれて嬉しいです。
排泄の時間だ。
湊様が直々に用意して下さったバケツに跨がり、ホースで身体を清めていただく。
水圧を強めることで、身体の汚れを落とし清浄で潔白な精神を育むのだ。
この儀式は一日に三度行われ、湊様が全ての時間割りを定めている。
心から慈しんでいただき、私は幸福です。
いや、本当は違う。
精神と身体が引き裂かれる痛みが慢性化している。
どれだけの時が過ぎたのか分からない。
家族はどうしているだろう。
私の行方不明届けが出されていないだろうか。
私を探していないのだろうか。
段々、畏怖や心痛が鈍化して、この生活に適応してきているのが分かる。
私が私でなくなる気がして、恐ろしい。
かなみはずっとこんな生活を続けていたのだ。
一体、いつまで。
一体いつまで耐えれば良いのですか。
神様がいるのなら、私とかなみを悪魔からお救いください。
***
湊くんと知り合ったのは、入学式で隣の席になったことがきっかけだった。
浮き足立つ他の子たちとは違って、どこか達観したような落ち着きに惹きつけられた。
入学生代表として堂々と立ち振る舞う湊くんの目が、どこか空洞の様で深く印象に残ったのを覚えている。
湊くんをもっと知りたい。
少しでも近づきたい。
そんな思いが高じて、生徒会長になった。
湊くんも生徒会に入るとばかり思っていたが、部活にも入らず、毎日まっすぐ下校していた。
クラスは離れてしまったが、友人に会うという体で何度も湊くんのクラスを訪れ、遠目で眺めていた。
湊くんの読んでいる本を借りたくて、図書館に通い詰めた。
ドストエフスキーの罪と罰や、カフカの変身など、どれも難しい内容ばかりだった。
そんな中で、一冊だけ全く趣向の違う本があった。
「ぶたのいっしょう」という絵本だ。
子供用の童話で、村の家畜を逃がすという罪を犯した男が豚にされしっぽを切られるという話。
悪いことをしたら、それ相応の報いがありますよという教えだ。
明らかに湊くんが読むような代物ではない。
湊くんの事を知れば知る程、彼が遠のいていく。
ある時、「生き物を大切にしよう月間」という取り組みで、生物係がクラスを跨いで合同で兎のお世話をする取り組みが始まった。
そこで初めて、湊くんが生物係だと知り、私は慌てて申し込んだ。
十頭の兎を中庭のケージに放し、係が交代で餌をあげ、清掃する。
個体を識別する為、片耳に色別のシュシュを着けていた。
私がお世話を担当していたのは、ピンクのシュシュを着けた茶の体毛のショコラちゃんだった。
湊くんは青のシュシュを着けた白いミルクちゃんで、とても湊くんに懐いていた。
湊くんと話す絶好のタイミングだったが、いざ目の前にすると緊張して何も話しかけられなかった。
この取り組みは一ヶ月間続き、私はモヤモヤしたまま歳月だけが過ぎていった。
そんな中、ある決定的な事件が起きた。
当初十頭いた兎が、登校すると二匹に減っていたのだ。
残りの八頭の兎は、背中部分が激しく切り込まれ、死んでいた。
怯える生き残りは、青とピンクのシュシュ。
ショコラとミルクだけだった。
当然、私と湊くんが疑われ、白羽の矢が立った。
だが私にも湊くんにも、そんな事をする動機がない。
最初に異変に気づいたのは、三組の細川さんだった。
いつも通り餌をあげようとして、ケージから漂う鉄の匂いに気づき、駆け寄って死体を見つけたのだ。
警備の男性が、昨日の深夜の時点では兎は十頭いたと証言している。
私はその日珍しく遅刻をし、始業のチャイムギリギリに校舎へ駆け込んだ。
それはバレー部の顧問の佐々木先生も目撃している。
私のアリバイは証明されていたが、湊くんにはなかった。
皆が湊くんに後ろ指を指し、悪口を言っていた。
「猟奇殺人者」、「サイコパス」、「犯罪者」。
湊くんは全く意に介せず、いつも通り淡々と過ごしていた。
私は知っている。
湊くんはそんな事をする様な人ではない。
ミルクをあんなに優しい顔で撫でていた湊くんに、そんな事が出来るはずがないのだ。
小学校で一緒だった坂下くんに頼み込み、カラオケの場を用意して貰った。
態度には出さないが、きっとしんどい思いをしているだろうと手を打ったのだ。
いきなり誘って迷惑ではなかったか、不快ではないかと様子を伺っていたが、湊くんは楽しんでいる様でほっとした。
やっぱり、湊くんは兎を殺して楽しむ様な人ではない。
もっと仲良くなりたくて、方向が一緒だと嘘をついた。
「…私、まだ帰りたくないな」
湊くんの背中に手を回す。
彼の鼓動が早まっていくのが制服越しに伝わってくる。
私の緊張も、伝わっているのかな。
このまま、離れたくない。
ふと、指先が何かに触れる。
これは、傷?
ケロイドのような幾つものミミズ腫れがあった。
背中の執拗な傷。
はっとする。
兎の、死体。
ずっと湊くんの空洞を解き明かしたかった。
今、見つめ返しても彼の瞳に私は映っていない。
私は最初から、湊くんにとって誰でもなかったのだ。
***
教団のセミナーは毎月一度、ブルームーンの例外を除いて満月の日に行われる。
一度、湊に学校を欠席させ参加させた事があった。
先生の高潔な叱咤激励を聞き、信仰を正しく学ぶ集会だ。
産道と子宮を持つ女性は、広義の意味で上位の存在として扱われる。
子を成し教義を教え、広める役割を背負う。
産道を持たない男性は、御言葉を聞き浄化する事で穢れを落とす。
子を成す痛みを伴わず産まれて来た罪を、痛みを通して本質的な愛を学ぶ事を通して、浄化していく試練を背負う。
教えに耳を傾ける湊があまりにも静かなので、視線を向けて驚いた。
湊は、泣いていた。
私には何故泣いているのか分からなかった。
帰り道手を絡ませると、湊は何も言わずに振り払った。
何故、今更こんな事を思い出すのか。
あの時の私は、初めて湊と高次元に繋がれたのだと確信していた。
今思えば、あの時に湊は御言葉が聞こえたのかもしれない。
私がどれほど藻掻いても得られなかった抱擁を受け取ったのだろう。
今の湊には何が聞こえているのだろうか。
あの時泣いていた理由を問い正していれば。
いや、全ては机上の空論だ。
今や私は、名もなくした管理されるべき畜生なのだから。
思考を放棄する事は気持ちの良い事だ。
何も考えず、何も悩まず、ただ絶対的な指針に従ってさえいれば良い。
02番が毎日、壁に頭を打ち付けながら泣いているのが煩わしい。
こんな場所は早く出たいと、毎晩赤子の様に夜泣きをしているのだ。
湊様へ言伝し、すぐに02番が逆さに吊られ鞭打ちの折檻を受けた。
悲鳴を上げるたびに回数が増やされ、暫くは退屈しなかった。
その日の夜は、02番が来てから初めて深い眠りに就けた。
それもこれも、湊様の寛大なお心遣いのおかげだ。
数日後、湊様から恐れ多いお話をいただいた。
02番を豚として献上すれば、私にお許しを授けると仰ってくださったのだ。
それこそが、今までの不信心な言動を浄化する唯一の道であると。
こんな僥倖は、恐らくもう二度と訪れないだろう。
もしかしたら、湊が目を覚ましてくれるのかもしれない。
私が今まで湊に犯してきた過ちが、ついに許しを得るのかもしれない。
喜びに打ち震える。
「…え、な、なにして」
02番の声も耳に入らない。
気づけば、私は失禁していた。
***
しっぽをきられたブタさんは またわるいことをしました
ライオンさんのごはんを すべてたべてしまいました
こまったブタさんは おともだちのヤギさんをわるものにしました
ゆうきのあるヤギさんが ブタさんをうそつきだといいました
おこったライオンさんは わるいブタさんをたべてしまいました
湊様は今日、いつになく機嫌が良い。
鼻歌を口ずさみながら、私たちの餌を用意して下さっている。
飢えで手が震える。
水以外を口にするのはいつぶりだろう。
「ほら、餌の時間だよ。ちゃんと分量を考えて食べるんだ」
私は急いでお座りの姿勢をとる。
早く、早く。
餌皿を見て、硬直する。
01番と比べ、明らかに量が少ない。
何故、どうして。
私は何も粗相をしていないはずなのに。
「み、湊様、私は何か教えを破ってしまったのでしょうか?」
湊様は慈愛の笑みを浮かべている。
「いいや?ただ、01番が直々に交渉してきたんだ。02番が豚として生きるのに相応しいってね」
かなみが、何て?
視線を向けると、かなみはとても誇らしげな表情を浮かべている。
「湊様、慈悲深い御言葉をありがとうございます。私は今日から、教えていただいた教義を胸に人間として」
「誰がそんな事を言った?」
湊様が表情の色をなくす。
「誰が人間として扱うと言った?教えを本当に聞いていたのか?」
「…え、ですが、湊様が直々に」
そこでかなみの言葉は途切れた。
湊様がかなみの頭を撫でる。
「残念だよ。自分だけが救われようだなんて、教えの真逆を行く思想だ」
「昔、僕に読み聞かせてくれたよね。ブタは虚偽の申告という罪を犯したんだ」
湊様がかなみの鼻を押し上げる。
豚鼻のかなみが泣いている。
「本当に、母さんは豚になってしまったんだね。悲しいよ、やっと元の母さんに戻ったと思ったのに」
「これは連帯責任だ。お互いを思い合う大事な教義を学べるように、これは没収する」
そう言って私たちの手つかずの餌皿が回収される。
「待って下さい!私は何もしていません!豚は01番です!」
湊様の深い溜息が場を凍らせた。
「今日の散歩は取りやめにして、お互いの絆を確認しようか」
その日は一日中、お互いの身体に鞭を打ち続けた。
意識が朦朧とする。
痛みと空腹で頭が割れそうだ。
かなみが、いや、01番がしでかしさえしなければ。
あの日、海に沈めておくべきだったのだ。
こんな役立たず、湊様の寵愛を受けるに値しない。
私こそが、湊様の教えを受け取るに相応しい存在であると証明し続けなくては。
***
「福音──豚の飼育日記」
二〇二一年 三月七日(日) 22時05分48秒
生物を飼うという事は、愛情や慈しみだけでは成立し得ない。
時には、粗相をする我が子に愛のある躾を行わなくてはならない。
それが飼い主の務めであり、責任なのだと理解していただけると思う。
先日、02番の豚が01番の餌が余分に多いと癇癪を起こした。
当然、躾を施したが、それからというもの01番を目の敵にしていた。
絆を育んで欲しいという一心で、暗所で三日間過ごさせ、孤独と仲間の大切さを学ばせてみた。
個としての自立を目指すのではなく、群れとしてより繋がりを意識出来る様に一歩前進出来たと思う。
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二〇二一年 三月十四日(水) 21時34分58秒
今日は01番の豚が自ら暗所に入り、02番の粗相を申告した。
過ちを見ていながら止められなかった己の責任であると。
これは大きな進化だ。
最近取り入れた、睡眠の制限という躾が功を奏した様だ。
そこで趣向を凝らし、02番にも01番の粗相で餌を没収するという体で、互いを互いが縛り付けるという状況を作り出した。
一方が他方に許しを与えれば、他方は救われるという条件を与えた。
01番がすぐに02番を許したのに対し、02番は己の末路に怯え、なかなか決断を下さなかった。
前回の記事での失態も含め、02番には寛大な折檻が必要だ。
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コメント一覧(3)
@ピロンちゃん
初めまして、私も、豚を、飼っています。
トイレを覚えなくて、大変ですが、可愛いです。
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@山本肇~世界一周ブログ~
なんかこれ、大丈夫なの?
虐待なんじゃない?
一応、通報しておきます。
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@ビッキーご主人様募集中
いいなあ。
私も飼われたい。
ご主人様募集中です!
ここにURL貼っておきますね!
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***
飼育日記みたいなの見つけたんだが
1名無しの怪談さん2021/04/02(日) 00:36:55 ID:Kf8aQ2xW0
これは明らかに飼育の域を超えてる
2名無しの怪談さん2021/04/02(日) 00:53:15 ID:9LmRz7DpS
どうせSMかなんかだろ解散
3名無しの怪談さん2021/04/02(日) 01:23:04 ID:V3tYcN6bH
豚じゃないだろこれ
人間飼ってるよ
4名無しの怪談さん2021/04/03(月) 10:39:28 ID:qX4Jw8MeZ
これ俺の近所かもしれん
一戸建てのタウンハウスっぽいわ
行かねえけど
5名無しの怪談さん2021/04/03(月) 10:50:33 ID:2AhsP9kUd
>>4
お前も早く飼われてこい。
体張ってネタ持ってこいよ。
6名無しの怪談さん2021/04/03(月) 10:50:34 ID:W7nE5rBxC
普通におもろいな
目覚めたわ
更新待つ
***
ブログを書いていて、気づいた事がある。
人間は己のテリトリーを侵されなければ、どんなに残虐な内容であってもエンターテイメントとして消費出来るという点だ。
そして、見てはいけない物を見ている自分という状況に喜びを感じる。
これは教義を広め、倫理観を書き換えていく足掛けになるかもしれない。
興味を持って貰う為の一歩は何であっても良い。
教義や教えという言葉を使わずに、潜在意識に刷り込んでいく事で思想を染めていく。
僕は正しいことをしている。
これで、この世界がより良くなっていく。
01番と02番は、食と睡眠を徹底的に制限し、相互の監視体制を取り入れた事で、御言葉に沿った言動を取り始めている。
懸念していた精神の虚脱も、不定期に休息の日程を差し込み制御して来た。
しかし、あと一つ、何かが欠けている。
盲目で従順である事は、必ずしも教義への正当な信心ではない。
あと何か一つ。
たった一つ。
そろそろ、潮時かもしれない。
***
この空き部屋には窓がない。
朝なのか夜なのか、時間間隔が失われている。
空気は澱み、停滞している。
しかし、初期には耐えがたかった異臭は何も感じられない。
今となっては、私自身が汚物そのものなのだろう。
02番として生きるうち、それまでの自分が何を信じ、何を指針としていたのか不鮮明になっている。
私はずっと、浮遊霊の様に生きているか死んでいるかも分からないほどに空虚だった。
今、この環境下で初めて、受動的に存在意義を与えられたのだ。
それが、たまらなく嬉しい。
01番には、今や憎む気持ちはない。
むしろ感謝さえしている。
形を持たなかった私が、輪郭を得るきっかけを齎してくれた存在なのだから。
湊様が今日お話しされた事は、落雷の様に私の身体を直撃した。
「これから話す事は、解放や解脱ではない。むしろ、概念としては仏教の昇華に近い」
「次の高次元な段階に進む為に、今から言う事を忠実に守る事を第一優先事項にして欲しい」
今までにないほど、湊様の目は煌々と野心に燃えているように見え、姿勢を正す。
「死と生は常に隣り合わせだ。光があれば影がある様に、清浄な御霊と不浄な御霊も例外じゃない」
「ほんの小さな掛け違いで、人間の精神は汚濁に塗れてしまう。ようやく清浄に近づいた今、そのリスクは何としても避けたい」
そこで、御霊を自由にする必要がある。
「あ、あの、湊様。私が無知で、仰っている意味が」
「わ、私も。高潔な思考に追い付けない未熟な自分が恥ずかしいです」
正直に申告するその姿に、魂が打ち震える。
「無知である事を恥じる事はない。許されないのは、むしろ教えを誤読し己の歪んだ知識を誇る事だ」
「僕が言っているのは、今この機会を逃してはならないという事だ。養豚でも、機が熟せば豚たちは出荷されていく。それは彼らにとって本望であり、本来の使命を果たすという最大の幸福なんだ」
湊様の提案は、私の稚拙な思考では決して思いつきもしないほど、高次元のエネルギーに満ちていた。
私たちは初めて、この聖域を出るのだ。
***
「雄、ご飯食べたら食器をシンクに置いて水に浸しておいてって言ってるでしょ。もう何回も言わせないで」
はいはい、と気の抜けた返事が返ってくる。
「こんな事、誰も教えてくれないのよ?親だから言ってるのに」
ぶつくさと小言を言うが、雄はテレビゲームに夢中で何も言わない。
ピンポーン。
「はい?どなた?」
こんな非常識な時間に訪問して来るのは一体誰かと、インターホンの画面に目をこらす。
「こんばんは、隣の高島です。夜分遅くにすみません。実はご相談したい事があって」
「実は、ご近所さんの間でうちに対するおかしな噂が広まっているみたいで…樫本さんしか頼れないんです」
そう言って高島さんが画面越しに頭を下げる。
画面には高島さんしか映っていない。
だが一瞬、後方で何か影が揺れたのが見えた様な気がした。
誰か他にいるのかとも思ったが、変な噂という言葉が気になった。
「ああ、高島さんね。なんだ、誰かと思っちゃった。今、開けるわね」
扉を開けると、マスク姿の高島さんが申し訳なさそうに顔を出した。
「急に押しかけて本当にすみません。これ、つまらない物ですけど」
高島さんが差し出したのは、老舗和菓子屋の寿やの紙袋だった。
「あら!私も雄もここの和菓子好きなのよぉ。さ、早く入って。身体が冷えちゃうし」
高島さんがふふっと笑う。
「喜んでいただけて嬉しいです。やはり、湊様の審美眼は冴え渡っていらっしゃいますね」
聞き間違いかと聞き返そうとして、口を塞がれる。
寿やの手土産がフローリングに音を立てて落ちた。
微笑みを浮かべる高島さんの後ろから、マスク姿の湊くんと見知らぬ女性が家に土足で上がり込んだ。
何が起きているのか分からない。
雄に助けを求めたいが、高島さんに口を塞がれていて声を発する事が出来ない。
見知らぬ女性が紙袋から縄を取り出し、後ろ手で拘束される。
抜け出せない様、親指も縛り上げられ固定された。
物音に気づいた雄が振り返り、目を丸くする。
「雄くん、久しぶり。昔、よく遊んでたよね。今日は、雄くんのお母さんも一緒に皆で遊ぼうと思って」
雄は拘束された私の姿を見て、慌ててキッチンの包丁ホルダーから一丁引き抜いた。
湊くんは表情を変えず、私の首を締め上げる。
「ううっ…」
「雄くんだって久しぶりの再会が嬉しいだろう。君のお母さんも、一緒に遊びたいと言っているんだ」
私は大丈夫、と伝えたいが、ひゅーっという細い息しか出ない。
雄は震える手で包丁を向けていたが、ゆっくりと切っ先を下げた。
「02番は何を突っ立っているの?雄くんが困っているよ」
湊くんは落ち着き払っている。
「湊様、申し訳ありません」
02番と呼ばれた女性が包丁を奪い、鋭い眼光を向ける雄にも臆せず縄を巻き付けていく。
居間のフローリングの上に、雄と後ろ手を縛られたまま膝をついて並ばされる。
湊くんが膝に手をつき見下ろす。
「うん、いいね。いい目だ。自分の信じる物がちゃんとある人間の目だ」
やっぱり、僕の判断は間違っていない、と微笑む。
拘束から抜けだそうと藻掻くが、親指まできっちり縛られていて、全くびくともしない。
「こんな事をして、何をしているか分かっているの?!すぐに警察を呼ぶわ!」
高島さんをきっと睨むが、こちらを見ておらず、湊くんに羨望の眼差しを向けている。
親が子に向ける熱量ではなく、鳥肌が立つ。
「さて、何故今僕たちがここにいるのかについて、気になっているよね」
「実は、ご近所で我が家に対する変な噂が広まっているのは本当なんだ」
穏やかな口ぶりとは対照的に、湊くんの目は空っぽだ。
「何者かが、我が家の動向を伺っているんだ。飢えたハイエナの様に、高島家という一種のコンテンツを消費しているんだ」
誰だろうなあ、困るなあ、と目が合う。
「…何が言いたいの?私は噂も何も全く知らないわ!」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。けれど、真実という物は必ず明るみに出る物だから、安心して欲しい」
湊くんが言い終えると、02番がぬっと後ろから包丁を持ち這い出て来た。
「うああああっ!ああーっ!」
雄の絶叫が響き渡る。
口角から斜めに切りつけられた右頬から血が溢れ出ている。
私も悲鳴を上げる。
「な、何してるのよ!やめなさい!雄が、私たちが何をしたって言うの!」
湊くんの乾いた笑いが漏れる。
「それは、自分が一番良く知っていると思うけど。もしも思い出せないのなら、僕たちは協力してあげられる」
雄が痛みと恐怖から嗚咽しながら泣いている。
「母さん、早くこの人たちに謝ってよ!何したんだよ!」
必死に首を振り否定する。
「違うわ雄、私たちは何もしていない、無実なのよ!こいつらが頭のおかしい野蛮人なの!」
02番がまた振り上げる。
庇いたいが拘束されていて動けない、切っ先は雄を狙っている。
「やめて!お願い、やるなら私にして!」
グチャッ。
「うああ、ああ」
雄の力ない声が漏れた。
足下が急に生温い液体に濡れる。
視線を向けると、雄が失禁していた。
「分かったわ!言うから、言うからもうやめて!」
「最初は心配していたの、本当よ。何かを打ち付ける音と悲鳴が聞こえてきて、それから鼻をつく異臭が漂ってきて」
湊くんは何も言わない。
「それから、それから私は…いつしか耳を澄ませるのが楽しみになったの」
「ご近所に触れ回って、そうしているうちに、私が皆の中心になっていった。皆が私を必要としてくれた。だから…ごめんなさい、雄だけは見逃してください」
必死に頭を垂れ、床に這いつくばる。
足音が近づいてきて、ふわっと頭に手が触れる。
温かい。
しかしどこか機械的な動きに顔を上げる。
湊くんが泣きながら私の頭を撫でている。
「偉いね。ちゃんと己の罪を直視して過ちを認めている。それこそが浄化の第一歩なんだ」
「やはり、気づきは痛みを通してしか与えられない。女性が命を産み出す時、痛みを伴うのはそれが真理だからだ」
だからこそ、今日が再誕の日に相応しい。
02番が高島さんに包丁を渡し、切っ先が私に向けられる。
これは悪い夢だ、現実ではない。
「聞こえるだろう?僕らへの福音が」
湊くんの言葉を聞いた高島さんが包丁を振りかぶった。
雄の横たわる手を必死に手探りで探し、頬を添える。
冷たくなった体温が心地良い。
もう視界が揺らいでいる。
左側は暗闇に包まれ、何も見えない。
雄が産まれて来てくれた日を思い出す。
長時間の陣痛に耐え、ついに貴方が産道を通って産まれて来た。
あの時、私の命が絶えるまで貴方を共にいると、小さな小指と約束した。
顔を上げ、小指を力なく絡める。
もう、小さな鼓動は聞こえない。
雄、一緒に高尚な存在に、生まれ変わろう。
***
「01番は床下の準備を。02番は血痕を拭き取って、綺麗にね」
「雄くんの死体を床下に入れる。不信心な魂は死後、離ればなれになるべきだ」
必死に床板を外し、床下の空間を確認する。
何も入っていない。
子供の死体なら余裕を持って入りそうだ。
顔の傷を押さえ出血を防ぎながら、上半身だけを起こした雄くんの身体を引き摺る。
死体という物は、想像以上に重い。
額に滲む脂汗が右目に流れ込み、痛みが走る。
湊様は、この儀式を通して、私たちに何をお与えになるおつもりなのだろう。
どれほど素敵な教えを授けてくださるのだろう。
もしかすると、私たちは豚に身を落とすことなく、遂に人間として認められるのかもしれない。
双眼が潤み、熱を持つ。
今までの厳しい躾や折檻にも、意味があったのだ。
雄くんの死体を床下に押し込み、樫本さんのシャツを脱がし、露わになった腹部に慣れない手つきで包丁を使い文字を刻む。
私たちをここまで導いた祝福が存在した証を。
三人で樫本さん宅を一度に出ると目立つので、湊様が先行し、時間をずらして聖域に戻った。
計画は周到に達成された。
私も02番も、粗相をしていない。
湊様が、忠実なる僕に褒美を与えて下さるだろう。
「01番も02番もお疲れ様。今回の働きぶりには目を見張る物があった。教えがきちんと身に染みている証拠だ」
湊様がここまでお褒めの言葉を口にするのは、本当に珍しい事だ。
「そこで、その清らかな御霊に敬意を表して褒美を授けたい。教義を真に受け止めたのなら、この上ない喜びになるはずだ」
期待と興奮で、無意識に破顔する。
02番も同じく、喜びに打ち震えている。
「以前、不浄と清浄は隣り合わせに存在していて、教えを受けた御霊を自由にする必要があると説明した」
「そこで、僕は迷える御霊がその幸福を受け取るに値するか、不信心者への襲撃で躊躇せずに命令を遂行出来るかテストをした」
湊様の御言葉を、一言一句聞き逃さぬ様に注力する。
「結果は知っての通りだ。僕の期待以上の働きだった。僕はもう、今こそが最終段階である昇華を始めるべき絶好の機会だと判断した」
「魂の昇華とは、いずれ老いる肉体という方舟を捨て、より高潔かつ高尚な御霊への進化という事だ」
「この世で受け取れる波動にもエネルギーにも限界がある。死とは、恐怖の対象ではない。現世での学びや修練を終えたということだ」
***
湊様の御言葉が信じられない。
遂に、私たちは清浄な御霊であると認められ、より高次元な教えに近づく資格を得たのだ。
死を迎える恐怖は微塵もない。
むしろ、このまま教義を学び終えられず、不浄な存在として何も為し得ず生を終える事の方が耐えられない。
かなみが手を絡めた。
顔を見ると、未だかつて見たことがない程に、恍惚な表情を浮かべていた。
私は一人で死ぬのではない。
同じ信仰を抱え、苦楽を共にした同胞と生を終えられるのだ。
本当に、こんなに幸せな事はない。
湊様が食卓の椅子を三脚並べ、リュックサックから縄を取り出した。
先程、樫本さんを縛り上げた縄よりもずっと太く頑丈な物だ。
居間の天井には太い木製の梁があり、そこに湊様の指示で縄を結び合わせる。
「死にゆく事に痛みは避けられない。これを乗り越える事が、今世での最終試練になる」
「僕らが行き着く先は、世間一般の天国や地獄ではない。それは生者には不可視ではあるが、僕らがずっと追い求めて来た崇拝すべき物だ」
椅子に上り、縄に首を通す。
「本当に、良くここまで到達した。僕らはこれから共に不完全な肉体を捨て、不信心な有象無象が一生かけても到達し得ない高みへ行くんだ」
かなみだけでなく、湊様とも共に逝ける事に、言葉に出来ない高揚感に包まれる。
ずっと聞こえず苦しんでいた福音が、私を抱擁した気がした。
***
「海人さん、カウンセリングの通院お疲れ様です。涼太くん、今日も凄く集中して勉強頑張っていましたよ」
菜々美さんに感謝を伝え、満身創痍な身体でスーツを脱ぐ。
「本当に、いつも涼太の勉強を見てくれて助かるよ。菜々美さんが家庭教師になってから、勉強が楽しいって良く話しているんだ」
「涼太、今日も勉強頑張って偉いな」
誇らしげな涼太の頭を撫でる。
「菜々美さん、今日はもう遅いし、是非夕飯食べていって」
百合が食卓に豚の生姜焼きを配膳する。
「良いんですか?では、お言葉に甘えて」
四人で食卓を囲む、家族団らんの時が過ぎていく。
「それでね、学校で流行ってる、新しい遊びを教えて貰ったんだよ」
涼太は早く詳細を聞いてくれ、と三人の顔を交互に見回す。
「そうか。どんな遊びだったんだ?父さんの頃は…」
「じゃあ、じゃあ、パパにだけ内緒で教えてあげる!」
そう言って椅子から飛び降り、駆け寄る涼太に合わせ屈みこむ。
「えっとね、それはね」
涼太が喜びを隠しきれずに笑う。
「豚みっけ!って言うんだよ」
ガチャン!
「え、あなたちょっと大丈夫?シャツが…」
涼太が不思議そうに見上げる。
「パパぁ?」
「…ああ。何でもないんだ、すまない」
不安げな涼太を強く抱きしめる。
涼太の指先が、背中に残る過去の遺恨の跡に触れる。
どこからか、振り払ったはずの豚舎とセージの混じった異臭が漂う。
目頭が熱を持つ。
視線の先、涼太が描いた家族の絵が滲んで見えた。
***
──十五年後。
教えを聞くというのは、大多数の人間にとっては願っても叶わない事だ。
ラジオのチューニングが合わないと雑音しか聞こえない様に、波動が合う高尚な人間は限られている。
残酷な事だが、これが真理なのだ。
その状態を導き出す条件は幾つか存在する。
まずは本人の資質。
これは努力や訓練など、後天的に変える事が出来ない物だ。
そして知性。
教えを正しく聞き取り、咀嚼し、己の肉体感覚に落とし込める様になるには、ある程度の知性は必要不可欠だ。
そして環境。
本人が不自由なく一般的な生活を送れる事は前提として、先に挙げた二点を意識しつつ、常識とされる物に疑問を持てる環境である事。
これらが揃って初めて、教義に近づく権利を得られる。
私は幸運な事に、それら全てを抱え、母の産道を通った。
その点を加味すると、ある程度は幸運や運など、スピリチュアルな才能も必要だと言えるかもしれない。
ずっと、私には何かが足りていないと思っていた。
知性を持ち合わせ、環境にも運にも恵まれている。
父も母も友人もいて、何不自由なく生きてきた。
それでも、私にはやるべき使命があると確信していた。
そしてそれは、今日の決行を持ち開花する。
興奮が隠しきれない。
遂に、私は高潔で清浄な御霊になる足がかりを得るのだ。
決行前にラップトップを開き、ブックマークのリンクを開く。
とても古いリンクだが、まだ死んでいない。
何度も何度も、この素晴らしい聖典を読み込んできた。
自分は他と違うのでは、と孤独を抱えるたび、この文章に救われてきた。
今日の私が存在するのも、この飼育ブログのおかげだ。
今夜の計画は、何年もかけて精密に構想を組んできた。
動画配信アプリを開き、慣れた手つきで文字を入力していく。
「二〇二一年 煉り島市 一家刺殺事件」
見慣れた過去のニュース映像が自室に反響する。
私はこの教えを忠実に守り抜く。
これまでの人生は、この教義を全うする為だけに存在していたのだ。
私は豚になるのではない、豚を見つけ排除するのだ。
思えば、私は幼少期から、豚を見つける享楽を知っていた。
十五年前の事件を模倣するのではない、私にしか聞こえない祝福を、今ここに顕現する。
肉体が滅んでも、思想は伝播する。
高揚を堪えきれず笑いが漏れる。
聞こえる、私にも。
ずっと探し求めていた、福音が。
私たちの御言葉が分からない、澱みを受け取る縁。
私たちの幸福は、豚の犠牲で成り立っているの。
だから、私たちは手を合わせて命に感謝するのよ。
「豚になってくれて、ありがとう」
***
臨時ニュースです。
成人とみられる刺殺体が見つかった煉り島市の事件で、新たに住宅の床下から子供と見られる遺体が発見されていたことが、警察への取材で分かりました。
また遺体からは、「ふくいんがきこえた」と記された切り込みが見つかっており、警察は犯行声明の可能性もあるとみて調べています。
警察は遺体の身元確認を急ぐとともに、事件の詳しい経緯について捜査を進めています。
続報が入り次第お伝えします。
「さて、本日の星座占いです。秋山さん?」
「はい。本日の一位は、射手座のあなた!自分の目指したい方向が明確に見えてくるでしょう。ラッキーアイテムはチンアナゴ!12位は残念、蠍座のあなた」
「それでは、今日も元気にお気をつけて!」
「ラッキーアイテムがチンアナゴって、おかしくないか。なんなら、今日は水族館でも行くか?」
海人の声に洗濯物を取り込む手を止める。
「あなたお仕事でしょう?占いなんていいから、パパには湊のご飯代稼いできて貰わないとね?」
湊は絵を描くことに相当集中しているのか、返事をしない。
「湊、何描いてるの?」
膝に手を突き絵を覗き込むと、湊を中心に、私と海人が仲良く手を繋いでいた。
「あ。あなた、水素水ちゃんと吹きかけた?昨日、霧吹き忘れてそのまま出勤しちゃったじゃない」
「…はあ。またそれかよ。水素だとか何だとか、お前が馬鹿にしてる占いと何が違うんだよ」
うんざりとした夫の声に苛立ちが募る。
「占いと一緒にしないでよ。これはちゃんとした厄払いなのよ」
あ。靴、左足から履いてね、と付け加える。
「はいはい、じゃあ行くからな。鍵ちゃんと閉めろよ」
お弁当を作り湊に着替えさせると、雨音が激しくなってきた。
…あの人、折りたたみ傘置いていってる。
「仕方がないなあ、もう」
ジャケットを羽織り、傘を差して家を飛び出した。
「あんなに気が抜けていたら、事故とかに巻き込まれないかしら」
今度は水素水だけでなく、塩も取り入れてみてもいいかもと考えていると、軽が目前の水たまりを横切った。
水飛沫が跳ね、思わずぎゅっと目を瞑る。
「…最悪」
「ああ、ごめんね!」
ドライバーの男が手を合わせ軽く謝罪し、逃げるように発進した。
やはり、運が足りていない。
海人は今年、長年の厄除けが功を奏し課長に昇進した。
いつも死んだ魚の目をしているというのに、あの日はやけに機嫌良く帰宅してきたことを覚えている。
全ては私のおかげだ。
あと少し。
ビルが立ち並ぶコンクリートジャングルについ臆してしまう。
我が家の閑静な住宅街とは似ても似つかない。
「あの、高島なんですけれども。これ渡しておいていただけますか?」
「高島ですね、かしこまりました。お渡ししておきますね」
受付の女性に託し、背を向ける一瞬、人混みに旦那の後ろ姿を見たような気がして振り返る。
目をこらすが、あの中肉中背は見当たらなかった。
「…気のせいか」
そろそろ湊を学校に送り出す時間だ。
三回深呼吸をして、左足から歩き出す。
大丈夫、今日も私は徳を積んでいるのだから。
「ただいま。湊、学校行くよ」
返事はない。
嫌な予感がする。
子供が静かな時は大抵、何か後ろめたい事をしている時だ。
「湊!」
「ママ、これ何?」
リビングの戸を開け放つと、湊が何かを持ち立ち尽くしていた。
「何、これ?」
何かのペアチケットだ。
イラストを見てどこか分かった。
電車で三駅の距離にある、新装開店した水族館だ。
今日は水族館でも行くか?
今朝の海人の声が脳内で反芻する。
まさか、女と?
あの仕事第一な旦那に、そんな芸当が出来るとは到底思えない。
だが、先ほど人混みの中に旦那の後ろ姿を見た。
隣に女がいたかは定かではないが、もしそうなら。
12位は残念、蠍座のあなた。
今朝の占いがふと頭を過ぎる。
あの時、アナウンサーはなんと言ったか。
スマホを取り出し、慣れないフリック操作で検索バーに入力していく。
『おはようモーニング! 蠍座 今日の運勢』
ページをロードする時間さえもどかしい。
早く、早く否定して。
私の思い過ごしだと言って。
「ママ?遅れるよ」
湊の声は頭に入らずすり抜けていく。
待ちきれずリロードボタンを押し、公式サイトにアクセスする。
開いた。
六月十日の運勢
蠍座 十二位
残念。
今日の貴方は、知りたくない秘密を知ってしまうかも。
ラッキーアイテムはバスソルト。
知りたくない秘密。
水族館。身に覚えのないチケット。後ろ姿。
「…チンアナゴだなんて、笑えない」
チケットを握りしめる。
本当に無実なら、これを見せても動揺しないはずだ。
日付の切れた二枚のチケットを見ないふりをしながら、居間の食卓にそっと置いた。
「ただいま。飯なに…てか、電気付けろよ。何時だと思って」
「これ、なに?」
チケットを夫の目前に突きつける。
夫は突然の事態に目が白黒している。
「これ、二枚しかないよね。日付も切れてるけど、誰と行ったの?」
「あと、今日あなたの職場に行ったらあなたを見かけたんだけど、女の人と腕組んでたよね?私、見たんだよ」
「…そ、それは、向こうから頼まれて、断り切れなくて」
時が凍る。
「嘘だよ。確かに私はあなたの後ろ姿は見たけれど、女と腕組んでるところは見ていない」
ダンッ!
みるみるうちに夫の顔に血が集まり、赤く染まる。
「お前、俺を試したのか?俺を騙したんだろう!」
「騙したのはそっちでしょう。無実なら私の見間違いで終わっていたんだから」
夫は癇癪を起こし、地団駄を踏む。
「お前が厄除けだとか訳の分からない事ばかり言って、俺を巻き込むからだろ!もううんざりなんだよ!」
「お前はまともじゃないんだよ。母さんの言う通りだった。お前みたいな学もなければ器量も良くない女を貰ってやったのが間違いだった」
結婚指輪がフローリングに投げつけられ激しく音を立てた。
「ずっと大切にする。僕と結婚してくれませんか」
二人でお金を出し合って買った指輪。
小粒のダイヤが細い指によく映える、そう言ってはにかんだ。
もう、駄目か。
「ママ?」
はっとする。
自室で遊んでいたはずの湊が、居間に降りてきていた。
湊は父親を訝しげに見つめている。
「いい?湊。ママの言う事は必ず守るのよ。パパみたいになりたくないでしょ」
海人は唇を噛み締める。
「パパはね、ママと湊を裏切ったのよ。パパに謝って欲しい?」
湊は私と海人を交互に見ている。
私は海人から視線を逸らさない。
「パパ、悪いことをしたら謝るんだよ」
「…悪かった」
そう言って頭を下げる海人を見て、無意識に口角が上がった。
***
「湊、人間はね、大多数の不幸の元に幸福が成り立っているの。それがこの社会の成り立ちであり、決まりなのよ」
湊は、私の言う事が分からず沈黙している。
「家族であっても、私たちの間には順序があるの。難しいかもしれないけど、これを読んであげるね」
私は占いのセミナーで購入した子供用の絵本を取り出した。
ブタさんがいると みんながしあわせ
みんなのわるいうんきを すいとってくれるよ
ブタさんは かわいそうじゃないよ
ブタさんはわるいことをして ブタになりました
みんなでブタさんに ありがとうをいおうね
「豚さん可哀想。本当に悪いやつなの?」
湊は本当に優しい子だ。
つい微笑み、小さな頭を撫でる。
「そうよ。豚は悪い事をして皆から嫌われているの」
「パパは、豚なの?」
私は何も言わずに、微笑んだ。
***
──五年後。
「湊、今日のお祈りはもう済ませたの?」
今日の吉方角である南南西の方向に、三つ指を突き拝礼する湊を見て安堵する。
いつものように盛り塩を四隅に配置し、セージの葉に火をつけ燻らせながら部屋中を徘徊する。
魂が整い、喜んでいるのが分かる。
スマホのアラームが鳴る。
餌の時間を完全に失念していた。
生き物を飼うというのは、想像以上に手のかかるものだ。
南京錠を解錠し、空き部屋の引き戸を開く。
立ち上がる異臭に思わず鼻をつまむ。
「餌の時間よ。起きなさい」
それは無言で起き上がる。
ドッグフードを配膳すると、それは涎を垂らしていた。
本当に行儀の悪い獣だ。
「待て。お手。伏せ」
手で合図をすると、それは窮屈そうに素手で口に流し入れる。
豚は綺麗好きな動物だと思っていたが、どうやら外れの個体らしい。
「さ、湊のご飯今すぐ用意するわね。今朝は湊の好きな豚の生姜焼きにするから」
手を塩水で何度も何度も執拗に洗浄し、身を清める。
豚は床に這いつくばって必死に餌を喰らっている。
それがしゃっくりを上げながら泣いている事に気づく。
屠殺される時、豚は泣くのだろうかとふと思う。
「美味しいよ、母さん」
湊の声に抑揚はないが、嬉しそうな気持ちを感じ取り笑顔になる。
「器もお箸も、今日のラッキーカラーの黄色にしたからね」
「今日も豚がいてくれる事で、よりご飯が美味しく感じられるわね」
息子と私二人きりの、本当に穏やかな時間だ。
あの日、占いを見つけたのは私が選ばれた者だからだ。
だからこそ、どんな小さな綻びも許せない。
「湊。またお茶碗持ち上げてる。それは誤った常識だっていつも言っているでしょう」
黙々と食していた湊の手が止まる。
「湊、返事は」
湊は聞こえているはずだが、何も言わずに俯いている。
「…学校で、先生に行儀が悪いって言われた」
手が震えだす。
まだそんな低次元な波動を受け取っているなんて。
今止めないと、豚になってしまう。
深くため息をつく。
「そう。母さんが間違っているって言うのね。御言葉も聞こえない奴らの方が正しいって言うのね」
湊がゆっくりと顔を上げる。
空洞だ。
喜も悲も怒もない、空洞。
あともう少しなのに。
もう少しで、湊は”完成”するのに。
私は壁に掛けられた鞭を持ち出す。
湊が硬直するのが分かる。
「こっちに来なさい。今すぐに。母さんの言う事が聞けないの?そこにいる豚になりたくないでしょう」
湊は拳を作り、震えながら一歩一歩近づいてくる。
これでいい、私だってやりたくない。
でも、これは湊の為なのだから。
顔は避けなくてはいけない。
最もエネルギーが集まる部分なのだから。
私は湊のブレザーとシャツを脱がし、壁に手をつかせる。
湊の白い背中には、幾つものミミズ腫れが走っている。
何度も何度も、教えを叩きこんできた。
「今日は三つ目と七つ目の教えを破ったから、十回ね」
湊を高次元の存在にする為に、私も心を鬼にしなくては。
深く深呼吸をして、鞭を振りかぶる。
バチン!
湊が背中を震わせ、くぐもった悲鳴を上げる。
私は涙を堪えきれずに嗚咽する。
これは湊の成長の為だ。
きっと、湊も分かってくれる。
母さん、僕を正しく育ててくれてありがとうと感謝するだろう。
「…行ってきます」
「行ってらっしゃい。お弁当、持ち上げちゃ駄目よ」
「…はい」
儀式を終えた湊を、快く送り出す。
一瞬、我が子の揺れに動揺したが、ちゃんと私の湊に戻ってくれたので安堵する。
「あら、高島さん、湊くんも!本当に仲がいいのねえ」
隣の樫本さんがゴミ出しの途中にこちらに笑いかけていた。
「いえ、そんな。私はまだ至らぬ所ばかりで」
そう言うと、樫本さんは大げさに手を何度も振る。
「いやいや、近所でもよく噂になってるのよ。湊くんは本当に優秀で礼儀正しくて、今時良く出来た子だって」
「それもこれも、お母さまの教育がなっているからよねぇ。うちの馬鹿息子の勉強も見てもらいたいわぁ」
樫本さんの息子の雄くんは中学校受験に失敗し、地区の決められた中学校に通っている。
野球一本の毎日で、いつも遅い時間に帰宅しているのをよく見る。
私を見かけると、いつも帽子を脱いで軽く頭を下げる、そういう子。
だが、彼らに私たちの御言葉は聞こえていない。
「雄くんもいつも感じが良くて、私の方がいつも緊張してしまうんですよ。湊にも見習うようによく言っています」
「あらほんと?やだぁ、お世辞が上手いのねえ」
樫本さんが大きく笑い声を上げるのに合わせて私も笑う。
「そういえば、旦那さん最近元気ないんじゃない?」
一瞬、誰の事を言っているのか理解が追い付かなかった。
「旦那は最近ゴタゴタしていて…ご心配をおかけして申し訳ないです」
「あら、そうなの?早く元気になるといいわねえ」
伝えておきます、と言い強制的に会話を終わらせ、ドアを閉めた。
大丈夫。この家畜にはまだ役目があるのだから。
簡単に屠殺などしない。
今日は新たな開運グッズがオンラインで発売される。
いつも開始と同時に瞬きの速さで売り切れるので、事前にクレジットの情報を登録し、すぐに購入出来る状態にしておかなくてはならない。
豚にカードなどという文明の利器は必要ないので、私が全てを管理している。
今日は一体、どんな物が並ぶのだろう。
幼いころ、女児たちの間でシール交換が流行っていた。
プクプクと立体的だったり、ホロがキラキラと輝くシールは需要が高く、希少だった。
シールにもきちんとしたレートが存在し、お目当てのシールを手に入れる為には、自分のお気に入りのシールを交換する必要があった。
今、あの頃に戻ったように、心の底からワクワクしている。
それもこれも、お母さまの教育がなっているからよねぇ。
樫本さんの言葉を反芻し、つい口角が上がる。
そう、私は息子の未来の為に涙を流せる子思いの親なのだ。
雄くんには、一生かかっても到達できない高みに湊を連れていく。
そして財を築いた湊は私にこう言うのだ。
「今まで僕を愛してくれてありがとう。お礼に新居を購入したよ」
私は一戸建てで優雅に湊と余生を過ごし、そして湊に惜しまれながら高次元の存在として寿命を終える。
そこまで考えて、涙が滲む。
そしてその未来は、着々と近づいてきている。
***
豚が屠殺される時、十頭程度が屠殺の為の部屋に入れられる。
扉が閉まり、二酸化炭素が充満するが、豚はすぐには失神しない。
意識を失うまでにタイムラグが存在する。
豚たちは長い時間、藻掻き、苦しみ、息切れや窒息に苛まれる。
ガスだけでなく、電気ショックを与える方法もある。
完全に意識を失う個体もいれば、麻痺で動けなくなるだけの個体もいる。
そこで逆さづりにした豚に切り込みをいれ、失血死で屠殺するのが一般的な流れだ。
父がガスを吸い込み、生理的な涙や鼻水に塗れ、少しずつ血を流しながら死を待つ姿を想像する。
父は苦しむだろうか。
己の行動を悔やみ、懺悔し、初めて御言葉を聞くのだろうか。
僕はどうだろう。
逆さづりにされ、流血しながら、己の過ちを悔いるのだろうか。
母に、悔いるのだろうか。
「高島。この英文翻訳出来るよな?」
「はい」
ぼんやりとした思考を隅に追いやり、教師の望むように答える。
机の下で、両手の親指と人差し指を合わせ、結界を作る。
“私は誰の教えも受け取りません”と心の中で唱える。
母がいつもどこかで見ている気がする。
僕が教えを破らないか、常に視線を張り巡らせているという考えが頭から離れない。
母は、ここにはいないのに。
「よーし。お前ら、先生がたんまり宿題出してやるからな。ありがたく受け取れよ」
生徒の喧騒も耳には入らない。
…家、帰りたくないな。
僕のキッズスマホには位置共有アプリが入れてある。
もちろん、放課後に友達と遊ぶのも、立ち食いをしにコンビニに寄るのも許されない。
今朝の新しい背中の傷が痛む。
それもこれも、お母さまの教育がなっているからよねぇ。
外から見れば、母は教育熱心で立派な人間なのかもしれない。
雄くんとは小さい頃、よくカードゲームをして遊んでいた。
変わったのは、父が過ちを犯してからだ。
母は人が変わったように占いや教えにのめり込んだ。
もう二度と、元の家族には戻れないのだろうか。
雄くんが羨ましい。
唇をきつく噛み締め、鉄の味がする。
逆さづりにされるべきは、母なのかもしれない。
母が助けを乞う叫び声が頭から離れず、その後の授業は上の空だった。
終業のチャイムが鳴り響き、重たい身体を無理やり動かす。
「なあ湊、カラオケ行かね?今日こそは行こうぜ」
前の席の坂下くんが肩を組み懇願する。
「…うん、ごめん。今日も塾があってさ」
彼の重々しい溜息を聞くのは何度目だろう。
「いいじゃねえかたまには。先生に呼ばれたーとか、腹いてーとか、何でもあんだろ」
行きたいんだけど、その塾厳しくてさ、と濁す。
家のことを何も気にせずに、坂下くんと大声で歌えたらどんなに楽しいだろう。
僕はいつまで、心を殺し続ければ良いのだろう。
「まあ聞けよ。実は今日さ、綾乃も呼んでんだよ」
心臓がどきりと跳ねる。
日下綾乃さん。
生徒会長で、入学式の集会で隣同士だった。
「高島くん、入学生代表なんて凄いね!頭良いんだね!」
初めて女の子に話しかけられた僕は、何も言葉を返せずに言い淀んでいた。
あれからクラスは離れ、生徒会に入る事を母に禁止された僕は、自然と話す機会を失っていた。
あの日下さんと、カラオケ。
スマホの電源を切った。
このまま僕は学校に忘れるんだ。
「湊、綾乃の隣に行けよ。こんなチャンスもうないだろ?」
慌てて拒否する僕に、坂下くんがいいからと隣に座らせる。
日下さんの顔が見れない。
「高島くん、久しぶりだね。高島くんも来るって聞いて、私本当にうれしくて!」
身振り手振りを交えて嬉しそうに話す日下さんが、眩しくて目を逸らす。
僕なんかが、日下さんの隣にいていいのだろうか。
そもそも家では全く音楽が流れないので、何を歌えばいいのか皆目見当もつかない。
それでも、僕はこの夢のような時間が終わってほしくないと心から願っていた。
「高島くんって呼びづらいから、湊って呼ぶね」
アップルサイダーを吹き出しかける。
「え、いや、あの…うん。日下さんが良ければ」
彼女がふふっと笑う。
「もう、綾乃でいいよ。あ、ねえ、これ一緒に歌おうよ!」
「でも、僕この曲知らないよ」
綾乃さんは首をぶんぶんと横に振る。
「いいの!私は湊と歌いたいんだよ。再会を祝して、綾乃と湊歌いまーす!」
今だけは、母の傾倒する占いも、屠殺される豚も、何も考えなくていい。
ただの高島湊という人間として生きていいんだ。
「いやー、四時間なんてあっという間だよな」
今頃、スマホが壊れるほど通知が溜まっているだろう。
母に何と言えば良いのだろう。
「湊、楽しかったね。私、方向一緒だからそこまで帰ろう」
綾乃さんが手を繋いだ。
坂下くんがヒューヒューと盛り立てる。
「いいじゃん、いいじゃん!湊いい奴だから、今お買い時だぜ」
うるさいな、と振り払うように駆け出した。
「私ね、ずっと湊くんと話したかったの。クラス離れ離れになっちゃって、ずっと寂しくて」
綾乃さんの優しい声が耳に心地いい。
しかし、どこかで母に見られていたら、という疑念が付きまとう。
僕だけならまだ良い、綾乃さんがもしも巻き込まれたら。
もしそうなったら、僕は絶対に自分を許せない。
「私の家、こっち」
綾乃さんが繋いでいた手を離す。
離れた体温がそのまま心の距離になるのではないかと不安を抱く。
「…私、まだ帰りたくないな」
え?と言い返す前に、綾乃さんが僕の背に手を回す。
これは現実なのだろうか。
あの日から、誰にも、母にも抱きしめられてこなかった。
なのに今、あの綾乃さんが、僕を。
もう御言葉なんて聞こえなくたっていい。
くだらないルールなど、どうでもいい。
綾乃さんがいれば、僕はもう、それで。
「え?これ…」
背中に手を回していた綾乃さんが、硬直する。
はっと気づく。全身の血の気が引く。
背中の、醜い幾つものミミズ腫れ。
母が僕に刻んだ、愛情の残滓。
綾乃さんがぱっと腕を離し離れる。
彼女の顔は、見てはいけないものを見たように強張っている。
「いや、あの、えと…違うんだ、これは」
「…ごめん。私、行くね」
綾乃さんが踵を返し駆け出す。
「…ははっ」
乾いた笑いが漏れる。
足が勝手に動き出す。
家の明かりはついていない。
鍵を開け居間を覗きこむが、母の姿はない。
もしかしたら、痺れを切らして寝ているのかもしれない。
音を立てないように階段を一歩ずつ上る。
説明するのは、明日でいい。
「湊」
自室のドアノブにかけた手が止まる。
頭が真っ白になる。
後ろを、振り向けない。
「カラオケ、楽しかった?」
目を丸くする。
何故、それを。
スマホは学校に忘れていった。
位置共有アプリでは足取りは追えなかったはずだ。
「ママね、湊の事が心配で、湊のお財布に今朝GPSを入れておいたのよ。気づかなかったでしょう」
「今日の占いで、湊が悪魔に誑し込まれるって出てたから」
吐く息が冷たい。
ずっと監視されていた。
「あ、あの子は違うんだ。たまたま僕が転んで、その弾みで」
ふふっ。
母さんは笑っている。
まだ後ろを振り向けない。
「湊、覚えてる?豚は悪い事をしたから豚になったのよ」
母は微笑んでいる。
見なくても分かる。
あの日、父に首輪を着けて飼育を始めた日。
あの日も、母は微笑んでいた。
「ママが至らなくてごめんね。今朝の儀式で、湊の汚れを全部落としたつもりだったんだけど... 私も、まだまだね」
腕をがしっと掴まれる。
「湊には、もっと大きな愛が必要なんだね」
腕を引きずられる。
爪が皮膚に食い込み、痛みで顔が歪む。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「ううん、謝るのはママの方だよ。湊が寂しい事に気づけなくてごめんね」
「その子の分まで、たっぷりママが愛してあげるからね」
浴室の引き戸が勢いよく開かれる。
浴槽にはすっかり冷めきった冷水が張られている。
何度目かの謝罪を口にしかけ、母の手が荒々しく髪を掴んだ。
間髪入れずに頭を浴槽に沈められる。
息を吸う間もなかった。
鼻から水が入り、痛みに身悶える。
酸素を求め、口が勝手に開き冷水を飲み込む。
苦しい、苦しい。
息が、出来ない。
「湊、寂しい思いさせてごめんね。ママがちゃんと、愛してあげるからね」
視界が白み、意識を失いかけた瞬間、水から引き上げられる。
すぐにまた冷水に沈められる。
豚は、ガスを吸い込んでからしばらく藻掻き続けるという。
これは、僕の屠殺なんだ。
馬鹿な夢を見た、高島湊の屠殺なのだ。
「湊、ママの気持ち、分かってくれた?」
「…うん、母さん。今まで悲しませてごめん」
そう言うと、母の目が潤みだし、抱擁される。
「…良かった。やっと、ママの御言葉が聞こえたのね」
この手は、僕を絶対に離さない。
この手は、僕を絶対に裏切らない。
そうか、僕はずっと。
「ママね、今の良い子になった湊にして欲しい事があるの」
こっちにおいで、と手を引かれる。
もうあんな女の事はどうでもいい、母さんさえいれば。
どこに行くのかとぼんやりとしていたが、目の前には豚が異臭を放ちながらいびきを立てて転がっていた。
「ママね、いつもこの豚の世話をしているの。湊にも、そろそろお世話を始めて欲しいなって」
今朝の鞭が手渡される。
「この豚はね、今朝、粗相をしたの。しつけも大事なお世話だから、出来るよね、湊?」
母の笑顔は張り付いていて、面のようだった。
何も言わずに受け取る。
豚は僕には気づいていない。
鞭を振りかぶる。
無防備な背中を目掛けて、思い切り振り下ろした。
「うああっ!!」
豚が声にならない悲鳴を上げる。
間髪入れずに、今度は臀部に振り下ろす。
「いあああっ!」
豚になるくらいなら、僕は屠殺する。
喰らわれるくらいなら、跡形もなくなるまで喰らい尽くす。
僕は、豚にはならない。
ひたすら無心で鞭を振り下ろしていた。
悲鳴が上がらなくなり、ふと我に返ると、豚は失神していた。
所々、赤く腫れあがり、出血している。
「湊、本当にあなたは成長したわね。私の教えがついに実を結んだのね」
母が僕を再度優しく抱きしめる。
温もりが心地いい。
鞭の先端から零れ落ちる豚の血が、ぽたりと僕の足に落ちた。
汚らわしい。不浄だ。
僕は母と共に御言葉を聞き、高次元の存在になるんだ。
***
妹とは五歳差で、いつも私の後を付いてまわる臆病な子だった。
シール交換が好きで、クラスの女の子に話しかけたいが勇気を出せず、私によく泣きついていた。
ある日、妹が人気者の愛莉ちゃんに勇気を出して話しかけた事があった。
「えーと、ごめん。誰だっけ」
妹は打ちひしがれ、クラスの卒業パーティーを仮病で欠席した。
内向的で自分を蔑む癖があり、それは妹が成人になるまで続いた。
彼女が変わったのは、海人さんに出会ってからだ。
私なんて、と言う妹に、海人さんはよくこう言っていた。
「もっと自由に伸び伸びと生きていい。ありのままの君が好きなんだ」
先を越された結婚式で、妹が幸せそうに微笑む花嫁姿を見て、私は心から安堵した。
すぐに湊くんが産まれ、新居を構え、かなみは順風満帆の日々を掴み取った。
今日は、サプライズで妹に会いに行く日だ。
湊くんの好きな地元のチョコレートと、ご利益があると人気の幸運守りを買っていこう。
大荷物を抱え、額に滲む汗をハンカチで拭い、呼び鈴を押す。
「はい、高島ですが」
「かなみ、私だけど」
妹は黙っている。
私の突然の訪問がよっぽど嬉しくて声も出ないのだろう。
「ちょっと、早く入れてよ。見えるでしょ、この大荷物」
返答がないまま、玄関のドアが重々しく開かれた。
「何、いきなり。困るんだけど」
「全く、相変わらず辛気臭い顔してるわね。そんなんじゃ幸福が逃げていくわよ」
お邪魔しまーす、と足を踏み入れて、ぎょっとする。
部屋中が何だか分からない骨董品のようなガラクタで溢れかえっている。
妹は物に執着せず、いつも綺麗好きな人間だったはずだが。
「あ、お茶菓子なんかいいからね。新幹線でたらふく飲み食いしてきたから。湊くんは?」
妹は表情を変えない。
魂ここにあらずといった妹が、ガラクタの山の中で異物に見えた。
「いるけど、今勉強していて忙しいから」
「そう?でも暫くぶりなんだから、湊くんの顔見たいんだけどなあ。あ、そうだ」
あれもこれもと買い揃えたお土産の数々を食卓に並べる。
「これ、湊くんの大好きなチョコレート。それからこれが、私が手芸教室で編んだマフラー!」
「最近冷え込むでしょう、風邪も流行ってるみたいだしねえ」
ごそごそとハンドバッグを掻きまわす。
「あったあった。これね、石濃神社の幸運守り。凄い人気で手に入れるの大変だったんだから」
そう言って、自慢げにお守りを妹に見せつける。
途端、死んだ魚の目をしていた妹が表情を変えた。
バンッ!
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
お守りは私の手から強奪され、床に叩きつけられていた。
お守りが、割れている。
妹は息を上げながら、尋常ではない形相でお守りを睨みつけている。
「こんな不快な物、神聖な家の中にいれないで!」
かなみは悲しい事や腹立たしい事があっても、一度も声を荒げたり反抗しない優しい子だった。
いつも相手の良い所を見つけて、何かあれば私が悪いと内省する子だった。
そのかなみが、憤怒を抑えきれずに泣いている。
「…え、いきなりどうしたの?お守り、これ…割れちゃったじゃない」
激しい眼光が私を射抜く。
気まずい沈黙に言葉が見つからない。
それから、ずっと気になっていることがある。
この家に入ってからずっとしている異臭だ。
この匂いを知っている。
幼い頃、父に連れられ、家族で初めて動物園に遊びに行った。
初めて見る動物たちが物珍しく、私と妹は歓声を上げていた。
かなみがどうしてもライオンを見たいと駄々をこねたので、父が疲れ切って寝ていた私をおぶって猛獣ゾーンに向かった。
途中、耐えがたい異臭が鼻をつき、私は目を覚ましぐずりだした。
ライオンの匂いではない。
何事かと見回すと、それは道中にあった豚舎だった。
そうだ、これは、豚の匂いだ。
途端に怖気に似た居心地の悪さを感じる。
このガラクタの量は、趣味でハマっていますというレベルを逸脱している。
それに、違和感はもう一つある。
居間を見渡す限り、海人さんの嗜好品や私物が何も置かれていないのだ。
共に暮らし、生活を送っているとは思えない程だ。
まるで存在そのものが最初からいなかったようで、鳥肌が立つ。
妹の豹変ぶりも相まって、この家の空間そのものが呪物のように思えた。
「えっと、そうね。なんだか忙しそうだし、そろそろお暇しようかな。最後に湊くんにご挨拶だけしたいんだけど」
「叔母さん、こんばんは」
覇気のない声に、一瞬誰の声かと身構えた。
振り返ると、階段の途中で湊くんが立ち尽くしていた。
「あ、あら湊くん。元気だった?ええと…元気そうね」
言葉に詰まり、しどろもどろになる。
湊くんの服はボロボロで所々穴が開いており、髪は伸びきっていて、声を聞かなければ誰だか分らなかった。
「その、 湊くん、学校は楽しい?」
湊くんの目は虚ろだ。
「学校にはもう行っていないんだ」
「そ、そうなの...けど、元気そうで良かったわ」
再度漂う沈黙に耐えられず、必死に話題を探す。
「そうよ。湊くんの好きなチョコ買っておいたから、あとでお母さんと食べてね」
それじゃ、と言い背を向けた瞬間。
ドンっ!
戸を突き破るような物音が耳を劈いた。
何事かと振り返る。
かなみも湊くんも棒立ちしている。
二人ではない。では何が?
「気にしないで。最近、ペットを飼い始めたのよ」
かなみの声には抑揚がない。
何もない空間を力ない目で見つめている。
「ペ、ペットって、あんな大きな物音…一体、何を飼い始めたのよ?」
かなみがゆっくりこちらに視線を向ける。
「豚よ」
***
遅い。
いつも二十一時半には運動としてリードをつけ散歩をしているというのに。
まさか、逃げ出した訳じゃないだろうな。
スマホをタップし、アプリを開く。
どうやら会社にはいるらしい。
また、女と密会しているのか?
女と話すことは、例え会社の女であっても徹底的に禁じている。
だが、私の目が届かない所で何をしているか分かったものではない。
今日の散歩は取りやめだ。
また湊に躾をさせなければ。
今日はどの鞭にしようか。
前々回、一番大きな悲鳴を上げたお気に入りの鞭にしよう。
どうせなら、セミナーのDVDを流しながら鞭を振るおう。
豚が死後辿る末路について、教えてやらなくては。
いつの間にか食卓に座ったまま眠っていた。
時計は午前三時を示している。
寝息が聞こえソファを見ると、教義本を開いたまま湊が眠っていた。
部屋は真っ暗で、豚が帰宅した形跡はない。
まさか、本当に逃げたのか?
また、私を裏切ったのか?
占いを続け、徳を積み続けていれば変わってくれると信じていた。
昇進や湊の学業が右肩上がりなのも、全ては私が邪悪な波動を排除し、良い運気を取り込み続けて来たから。
だからこそ、いつか私の真意と愛情に気づき、また愛してくれるのだと信じてきた。
「もっと自由に伸び伸びと生きていい。ありのままの君が好きなんだ」
そう言ってくれたじゃない。
海人、お願いだから帰ってきて。
元の海人に戻って。
その日は眠れず、スマホにセージの煙を燻らせ、塩水で拭き取り清め続けた。
日付を超えても、三日経過しても、海人は帰ってこなかった。
「ママ、礼拝の時間だよ。盛り塩を用意しないと」
「ママ、聞いてるの?」
はっとする。
礼拝。盛り塩。
今までの日常の言葉が、どこか遠い異国の地の言葉に聞こえる。
頭が真っ白なまま塩を器に振り入れる。
「ねえ、塩が零れてる。ちゃんとお祈りしたの?」
「そう、よね。お祈りしないとね」
親指と人差し指を合わせ結界を作り、硬直する。
お祈りの言葉が、出てこない。
頭では分かっているのに、口が動かない。
「不可視の理よ、迷える我らの魂を不浄からお守りください。御言葉で我らをお救いください」
見かねた湊が御言葉を口にする。
あやふやな思考のまま、あとに続けて口にする。
「ママ、今日おかしいよ。波動が乱れてる。ご飯、僕が用意するから座っててよ」
心配した湊が私の手を引き、ソファに座らされた。
必死にセージの匂いを吸い込み、深呼吸をする。
「いただきます、命に感謝します」
せっかく湊が用意してくれたと言うのに、何も考えられない。
湯気の立つ肉と新鮮な野菜が色どりを添えている。
何か、食べなくては。
私は白米のお茶碗を持ち上げる。
昨日から何も口にしていない。
咀嚼するが、味はしない。
「…母さん」
湊の声が震えている。
視線を向けると、湊は目を見開きこちらを凝視していた。
***
南京錠を外し、首にリードを着ける。
母は俯いている。
「ほら、どうしたの?運動する時間だよ」
全く手のかかる。
溜息をつき、用具箱から清掃用のバケツを持ち出す。
バシャッ!
「目が覚めた?それとも、まだ豚になりたいの?」
母が震え、冷水で悴んだ手を伸ばす。
「湊…私は」
「そうか。やっぱりまだ駄目なんだね。まだ、本当の母さんには戻れないんだね」
リードを力強く引っ張り、異臭のする空き部屋から母を引きずり出す。
「湊、聞いて。私はずっと間違っていた。あなたにずっと、酷い事を」
「いいや、間違ってなんかいないよ。母さんは僕の人格も人生も否定するの?」
母の瞳が揺れている。
「豚ってさ、産まれてからすぐに断尾するんだよね。知ってた?」
「ストレスから尾を齧るのを防ぐ為にね。母さん、爪噛むのまだ止められないんだね」
母がぱっと爪を隠す。
「感染症になったら大変だし、選ばせてあげるよ」
コテの配線を繋ぎ、電源を入れる。
「これと鞭と、どっちがいいかな」
母の小さな背が父と重なった。
***
かなみは以前、うつ病になった私を懸命に見舞いに来ていた。
木幡市の十畳アパートで、毎日カーテンを閉め切っていた。
死にたいと零す私に寄り添い、ただ何も言わずに傍にいてくれた。
一度、二人で海を見に行った。
波が打ち寄せる音に耳を澄ましていると、かなみが私も死にたい時があったと音もなく頬を濡らしていた。
けれど、お姉ちゃんがいつも私の味方でいてくれたから、今生きようと思えているんだよ、と微笑んだのを覚えている。
もしも今、かなみが苦しんでいるのなら、次は私が海に連れていく番だ。
呼び鈴を鳴らすが、返答はない。
「お邪魔します…かなみ、いる?」
緊急時用に作った合鍵を使うが、誰の靴もない。
屋内は驚くほど静謐に包まれているが、異臭は更に酷くなっている。
おかしい。
以前よりも、部屋が異常なほど無機質だ。
よく見ると、廊下の奥にある用務箱の扉が開いている。
視線を奪われ、足が勝手に向かう。
中を見て、絶句する。
清掃道具ではない。
鞭や首輪が壁一面に掛けられている。
中には用途不明のコテまで置いてある。
変わったインテリアかとも思ったが、どれも使い込まれている。
ペットを飼い始めたの。
豚よ。
違う、これは家畜に使う物ではない。
ドンッドンッ。
突然の物音に心臓が大きく跳ね上がる。
「…かなみ?」
音は廊下の奥からだ。
恐る恐る歩みを進める。
空き部屋だ。
この家を建てる時、このスペースはいるのかいらないのかで珍しくかなみと揉め、大喧嘩をした。
この部屋は、いつか子供が産まれたら三人で一緒に遊ぶ共同スペースにするのだ、とかなみは一歩も引かなかった。
だから、この先を覗く事を恐れる必要はない。
南京錠が掛かっているが、用具箱で見つけた鍵が、合ってしまった。
意を決して、扉を開ける。
最初は何が転がっているのか分からなかった。
「…かなみ?」
それがもぞっと身体を動かす。
「湊?私…ごめんなさい、ごめんなさい」
虚ろな目はどこも見ていない。
キャミソールと短パンから伸びる肢体は、所々血が滲み固まっていた。
「かなみ、私だよ。しっかりしてよ!なんで、どうしてこんな」
「ママが間違っていました、本当に申し訳ありませんでした」
「湊様、本当に申し訳ありませんでした」
私の声が全く届いていない。
身体はここにあるのに、かなみがいない。
「湊様って、何なの?湊くんがこうしたの?」
かなみは脱力したまま何も答えない。
鼻をつく酸味のある異臭も気にせずに抱きしめる。
強く強く、かなみがこれ以上傷つかなくて良いように。
「今まで気づけなくてごめんね。私が今すぐ助けるから」
まずは通報を、とスマホを取り出す。
お願い、早く繋がって。
「はい110番警察です。事件ですか?事故ですか?」
「あの、妹が、家でその、監禁されていて。ええ、事件です」
電話越しの妙に冷静な態度がもどかしい。
「と、ともかく早く来てください。一刻を争うんです!」
「場所は」
言いかけ口を塞がれる。
「申し訳ありません。喧嘩が行き過ぎてしまって…。はい、ええ。伝えておきます」
「久しぶりだね裕子さん。こうやって呼ぶ事ももうないだろうけど」
「もう警察は居場所が分かってるわ。すぐにここに来る」
湊くんは柔和な笑みを崩さない。
「どうだろうね。こういう悪戯な通報はよくあるから」
「母さん、いい子にしてた?なんて、今日はお友達がいるみたいだけど」
かなみを見ると、這いつくばり湊くんに頭を垂れている。
「申し訳ありませんでした。私はこの方を存じておりません」
抑揚のない声にかなみの意志はない。
まるで糸で動かされる操り人形だ。
「母さんは今、魂を清めているんだ。裕子さんが思っている様な事態じゃないよ。だから心配しないで欲しい」
そう言いながら湊くんがかなみの頭を撫でる。
愛おしそうに。
言葉が出ない。
スマホは湊くんの手中にある。
私だけで逃げる事は出来ても、かなみを連れ出す事は難しいだろう。
湊くんがふっと笑う。
「ずっと出口を見てるけど、もう今夜の献立は考えなくていいよ。裕子さんは今、母さんと旅行に行っているからね」
「…何を言っているのか分からないわ」
こういうことだよ。
そう言って湊くんが近づいてくる。
目が、逸らせない。
少しずつ後退するが、背中が壁にぶつかった。
逃げるなら、今しかない。
かなみを助ける為には、まず私が生き延びなくては。
背を向け手を突き、勢いよく扉を開く。
ガンッ!ガンッ!
「ああああっ!」
扉を何度も閉められ、戸当りを支えていた指に耐えがたい痛みが走る。
「もう祐子さんはどこにも行けないよ」
ガチャン。
「裕子さんは魂が汚れているんだ。御言葉が聞こえていない。けど安心してよ、人は変われるんだ」
今夜の献立はドッグフードにしようか、と頬を撫でた。
***
今日は、湊様が伸びきった髪を全て剃り落として下さった。
それだけではない。
水浴びと、鼻輪を施していただいた。
鼻輪には番号が振られたタグがついており、私は02番、かなみが01番。
養豚でごく一般的に用いられる個体の識別方法だ。
姉妹だからよく似ている、と労って下さった。
「今日から番号で呼ぶ。これが解脱の第一歩だからね」
湊様はいつもお優しい。
私たちが何か粗相をすれば、湊様自ら手をお汚しになって折檻し、身を清めて下さる。
毎日愛されて、私は本当に幸せ者です。
礼拝中に目がくらみ、頽れる。
三日間の絶食で、私の身体が細胞ごと変わろうとしている。
体調を崩すのは、それだけ澱みが溜まっている証拠なのだという。
強烈な吐き気に襲われるが、出てくるのは胃液だけだ。
「良い兆候だね。身体が生まれ変わろうとしているんだ」
湊様が優しく背中を撫でて下さる。
私は湊様に選ばれて嬉しいです。
排泄の時間だ。
湊様が直々に用意して下さったバケツに跨がり、ホースで身体を清めていただく。
水圧を強めることで、身体の汚れを落とし清浄で潔白な精神を育むのだ。
この儀式は一日に三度行われ、湊様が全ての時間割りを定めている。
心から慈しんでいただき、私は幸福です。
いや、本当は違う。
精神と身体が引き裂かれる痛みが慢性化している。
どれだけの時が過ぎたのか分からない。
家族はどうしているだろう。
私の行方不明届けが出されていないだろうか。
私を探していないのだろうか。
段々、畏怖や心痛が鈍化して、この生活に適応してきているのが分かる。
私が私でなくなる気がして、恐ろしい。
かなみはずっとこんな生活を続けていたのだ。
一体、いつまで。
一体いつまで耐えれば良いのですか。
神様がいるのなら、私とかなみを悪魔からお救いください。
***
湊くんと知り合ったのは、入学式で隣の席になったことがきっかけだった。
浮き足立つ他の子たちとは違って、どこか達観したような落ち着きに惹きつけられた。
入学生代表として堂々と立ち振る舞う湊くんの目が、どこか空洞の様で深く印象に残ったのを覚えている。
湊くんをもっと知りたい。
少しでも近づきたい。
そんな思いが高じて、生徒会長になった。
湊くんも生徒会に入るとばかり思っていたが、部活にも入らず、毎日まっすぐ下校していた。
クラスは離れてしまったが、友人に会うという体で何度も湊くんのクラスを訪れ、遠目で眺めていた。
湊くんの読んでいる本を借りたくて、図書館に通い詰めた。
ドストエフスキーの罪と罰や、カフカの変身など、どれも難しい内容ばかりだった。
そんな中で、一冊だけ全く趣向の違う本があった。
「ぶたのいっしょう」という絵本だ。
子供用の童話で、村の家畜を逃がすという罪を犯した男が豚にされしっぽを切られるという話。
悪いことをしたら、それ相応の報いがありますよという教えだ。
明らかに湊くんが読むような代物ではない。
湊くんの事を知れば知る程、彼が遠のいていく。
ある時、「生き物を大切にしよう月間」という取り組みで、生物係がクラスを跨いで合同で兎のお世話をする取り組みが始まった。
そこで初めて、湊くんが生物係だと知り、私は慌てて申し込んだ。
十頭の兎を中庭のケージに放し、係が交代で餌をあげ、清掃する。
個体を識別する為、片耳に色別のシュシュを着けていた。
私がお世話を担当していたのは、ピンクのシュシュを着けた茶の体毛のショコラちゃんだった。
湊くんは青のシュシュを着けた白いミルクちゃんで、とても湊くんに懐いていた。
湊くんと話す絶好のタイミングだったが、いざ目の前にすると緊張して何も話しかけられなかった。
この取り組みは一ヶ月間続き、私はモヤモヤしたまま歳月だけが過ぎていった。
そんな中、ある決定的な事件が起きた。
当初十頭いた兎が、登校すると二匹に減っていたのだ。
残りの八頭の兎は、背中部分が激しく切り込まれ、死んでいた。
怯える生き残りは、青とピンクのシュシュ。
ショコラとミルクだけだった。
当然、私と湊くんが疑われ、白羽の矢が立った。
だが私にも湊くんにも、そんな事をする動機がない。
最初に異変に気づいたのは、三組の細川さんだった。
いつも通り餌をあげようとして、ケージから漂う鉄の匂いに気づき、駆け寄って死体を見つけたのだ。
警備の男性が、昨日の深夜の時点では兎は十頭いたと証言している。
私はその日珍しく遅刻をし、始業のチャイムギリギリに校舎へ駆け込んだ。
それはバレー部の顧問の佐々木先生も目撃している。
私のアリバイは証明されていたが、湊くんにはなかった。
皆が湊くんに後ろ指を指し、悪口を言っていた。
「猟奇殺人者」、「サイコパス」、「犯罪者」。
湊くんは全く意に介せず、いつも通り淡々と過ごしていた。
私は知っている。
湊くんはそんな事をする様な人ではない。
ミルクをあんなに優しい顔で撫でていた湊くんに、そんな事が出来るはずがないのだ。
小学校で一緒だった坂下くんに頼み込み、カラオケの場を用意して貰った。
態度には出さないが、きっとしんどい思いをしているだろうと手を打ったのだ。
いきなり誘って迷惑ではなかったか、不快ではないかと様子を伺っていたが、湊くんは楽しんでいる様でほっとした。
やっぱり、湊くんは兎を殺して楽しむ様な人ではない。
もっと仲良くなりたくて、方向が一緒だと嘘をついた。
「…私、まだ帰りたくないな」
湊くんの背中に手を回す。
彼の鼓動が早まっていくのが制服越しに伝わってくる。
私の緊張も、伝わっているのかな。
このまま、離れたくない。
ふと、指先が何かに触れる。
これは、傷?
ケロイドのような幾つものミミズ腫れがあった。
背中の執拗な傷。
はっとする。
兎の、死体。
ずっと湊くんの空洞を解き明かしたかった。
今、見つめ返しても彼の瞳に私は映っていない。
私は最初から、湊くんにとって誰でもなかったのだ。
***
教団のセミナーは毎月一度、ブルームーンの例外を除いて満月の日に行われる。
一度、湊に学校を欠席させ参加させた事があった。
先生の高潔な叱咤激励を聞き、信仰を正しく学ぶ集会だ。
産道と子宮を持つ女性は、広義の意味で上位の存在として扱われる。
子を成し教義を教え、広める役割を背負う。
産道を持たない男性は、御言葉を聞き浄化する事で穢れを落とす。
子を成す痛みを伴わず産まれて来た罪を、痛みを通して本質的な愛を学ぶ事を通して、浄化していく試練を背負う。
教えに耳を傾ける湊があまりにも静かなので、視線を向けて驚いた。
湊は、泣いていた。
私には何故泣いているのか分からなかった。
帰り道手を絡ませると、湊は何も言わずに振り払った。
何故、今更こんな事を思い出すのか。
あの時の私は、初めて湊と高次元に繋がれたのだと確信していた。
今思えば、あの時に湊は御言葉が聞こえたのかもしれない。
私がどれほど藻掻いても得られなかった抱擁を受け取ったのだろう。
今の湊には何が聞こえているのだろうか。
あの時泣いていた理由を問い正していれば。
いや、全ては机上の空論だ。
今や私は、名もなくした管理されるべき畜生なのだから。
思考を放棄する事は気持ちの良い事だ。
何も考えず、何も悩まず、ただ絶対的な指針に従ってさえいれば良い。
02番が毎日、壁に頭を打ち付けながら泣いているのが煩わしい。
こんな場所は早く出たいと、毎晩赤子の様に夜泣きをしているのだ。
湊様へ言伝し、すぐに02番が逆さに吊られ鞭打ちの折檻を受けた。
悲鳴を上げるたびに回数が増やされ、暫くは退屈しなかった。
その日の夜は、02番が来てから初めて深い眠りに就けた。
それもこれも、湊様の寛大なお心遣いのおかげだ。
数日後、湊様から恐れ多いお話をいただいた。
02番を豚として献上すれば、私にお許しを授けると仰ってくださったのだ。
それこそが、今までの不信心な言動を浄化する唯一の道であると。
こんな僥倖は、恐らくもう二度と訪れないだろう。
もしかしたら、湊が目を覚ましてくれるのかもしれない。
私が今まで湊に犯してきた過ちが、ついに許しを得るのかもしれない。
喜びに打ち震える。
「…え、な、なにして」
02番の声も耳に入らない。
気づけば、私は失禁していた。
***
しっぽをきられたブタさんは またわるいことをしました
ライオンさんのごはんを すべてたべてしまいました
こまったブタさんは おともだちのヤギさんをわるものにしました
ゆうきのあるヤギさんが ブタさんをうそつきだといいました
おこったライオンさんは わるいブタさんをたべてしまいました
湊様は今日、いつになく機嫌が良い。
鼻歌を口ずさみながら、私たちの餌を用意して下さっている。
飢えで手が震える。
水以外を口にするのはいつぶりだろう。
「ほら、餌の時間だよ。ちゃんと分量を考えて食べるんだ」
私は急いでお座りの姿勢をとる。
早く、早く。
餌皿を見て、硬直する。
01番と比べ、明らかに量が少ない。
何故、どうして。
私は何も粗相をしていないはずなのに。
「み、湊様、私は何か教えを破ってしまったのでしょうか?」
湊様は慈愛の笑みを浮かべている。
「いいや?ただ、01番が直々に交渉してきたんだ。02番が豚として生きるのに相応しいってね」
かなみが、何て?
視線を向けると、かなみはとても誇らしげな表情を浮かべている。
「湊様、慈悲深い御言葉をありがとうございます。私は今日から、教えていただいた教義を胸に人間として」
「誰がそんな事を言った?」
湊様が表情の色をなくす。
「誰が人間として扱うと言った?教えを本当に聞いていたのか?」
「…え、ですが、湊様が直々に」
そこでかなみの言葉は途切れた。
湊様がかなみの頭を撫でる。
「残念だよ。自分だけが救われようだなんて、教えの真逆を行く思想だ」
「昔、僕に読み聞かせてくれたよね。ブタは虚偽の申告という罪を犯したんだ」
湊様がかなみの鼻を押し上げる。
豚鼻のかなみが泣いている。
「本当に、母さんは豚になってしまったんだね。悲しいよ、やっと元の母さんに戻ったと思ったのに」
「これは連帯責任だ。お互いを思い合う大事な教義を学べるように、これは没収する」
そう言って私たちの手つかずの餌皿が回収される。
「待って下さい!私は何もしていません!豚は01番です!」
湊様の深い溜息が場を凍らせた。
「今日の散歩は取りやめにして、お互いの絆を確認しようか」
その日は一日中、お互いの身体に鞭を打ち続けた。
意識が朦朧とする。
痛みと空腹で頭が割れそうだ。
かなみが、いや、01番がしでかしさえしなければ。
あの日、海に沈めておくべきだったのだ。
こんな役立たず、湊様の寵愛を受けるに値しない。
私こそが、湊様の教えを受け取るに相応しい存在であると証明し続けなくては。
***
「福音──豚の飼育日記」
二〇二一年 三月七日(日) 22時05分48秒
生物を飼うという事は、愛情や慈しみだけでは成立し得ない。
時には、粗相をする我が子に愛のある躾を行わなくてはならない。
それが飼い主の務めであり、責任なのだと理解していただけると思う。
先日、02番の豚が01番の餌が余分に多いと癇癪を起こした。
当然、躾を施したが、それからというもの01番を目の敵にしていた。
絆を育んで欲しいという一心で、暗所で三日間過ごさせ、孤独と仲間の大切さを学ばせてみた。
個としての自立を目指すのではなく、群れとしてより繋がりを意識出来る様に一歩前進出来たと思う。
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二〇二一年 三月十四日(水) 21時34分58秒
今日は01番の豚が自ら暗所に入り、02番の粗相を申告した。
過ちを見ていながら止められなかった己の責任であると。
これは大きな進化だ。
最近取り入れた、睡眠の制限という躾が功を奏した様だ。
そこで趣向を凝らし、02番にも01番の粗相で餌を没収するという体で、互いを互いが縛り付けるという状況を作り出した。
一方が他方に許しを与えれば、他方は救われるという条件を与えた。
01番がすぐに02番を許したのに対し、02番は己の末路に怯え、なかなか決断を下さなかった。
前回の記事での失態も含め、02番には寛大な折檻が必要だ。
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コメント一覧(3)
@ピロンちゃん
初めまして、私も、豚を、飼っています。
トイレを覚えなくて、大変ですが、可愛いです。
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@山本肇~世界一周ブログ~
なんかこれ、大丈夫なの?
虐待なんじゃない?
一応、通報しておきます。
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@ビッキーご主人様募集中
いいなあ。
私も飼われたい。
ご主人様募集中です!
ここにURL貼っておきますね!
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***
飼育日記みたいなの見つけたんだが
1名無しの怪談さん2021/04/02(日) 00:36:55 ID:Kf8aQ2xW0
これは明らかに飼育の域を超えてる
2名無しの怪談さん2021/04/02(日) 00:53:15 ID:9LmRz7DpS
どうせSMかなんかだろ解散
3名無しの怪談さん2021/04/02(日) 01:23:04 ID:V3tYcN6bH
豚じゃないだろこれ
人間飼ってるよ
4名無しの怪談さん2021/04/03(月) 10:39:28 ID:qX4Jw8MeZ
これ俺の近所かもしれん
一戸建てのタウンハウスっぽいわ
行かねえけど
5名無しの怪談さん2021/04/03(月) 10:50:33 ID:2AhsP9kUd
>>4
お前も早く飼われてこい。
体張ってネタ持ってこいよ。
6名無しの怪談さん2021/04/03(月) 10:50:34 ID:W7nE5rBxC
普通におもろいな
目覚めたわ
更新待つ
***
ブログを書いていて、気づいた事がある。
人間は己のテリトリーを侵されなければ、どんなに残虐な内容であってもエンターテイメントとして消費出来るという点だ。
そして、見てはいけない物を見ている自分という状況に喜びを感じる。
これは教義を広め、倫理観を書き換えていく足掛けになるかもしれない。
興味を持って貰う為の一歩は何であっても良い。
教義や教えという言葉を使わずに、潜在意識に刷り込んでいく事で思想を染めていく。
僕は正しいことをしている。
これで、この世界がより良くなっていく。
01番と02番は、食と睡眠を徹底的に制限し、相互の監視体制を取り入れた事で、御言葉に沿った言動を取り始めている。
懸念していた精神の虚脱も、不定期に休息の日程を差し込み制御して来た。
しかし、あと一つ、何かが欠けている。
盲目で従順である事は、必ずしも教義への正当な信心ではない。
あと何か一つ。
たった一つ。
そろそろ、潮時かもしれない。
***
この空き部屋には窓がない。
朝なのか夜なのか、時間間隔が失われている。
空気は澱み、停滞している。
しかし、初期には耐えがたかった異臭は何も感じられない。
今となっては、私自身が汚物そのものなのだろう。
02番として生きるうち、それまでの自分が何を信じ、何を指針としていたのか不鮮明になっている。
私はずっと、浮遊霊の様に生きているか死んでいるかも分からないほどに空虚だった。
今、この環境下で初めて、受動的に存在意義を与えられたのだ。
それが、たまらなく嬉しい。
01番には、今や憎む気持ちはない。
むしろ感謝さえしている。
形を持たなかった私が、輪郭を得るきっかけを齎してくれた存在なのだから。
湊様が今日お話しされた事は、落雷の様に私の身体を直撃した。
「これから話す事は、解放や解脱ではない。むしろ、概念としては仏教の昇華に近い」
「次の高次元な段階に進む為に、今から言う事を忠実に守る事を第一優先事項にして欲しい」
今までにないほど、湊様の目は煌々と野心に燃えているように見え、姿勢を正す。
「死と生は常に隣り合わせだ。光があれば影がある様に、清浄な御霊と不浄な御霊も例外じゃない」
「ほんの小さな掛け違いで、人間の精神は汚濁に塗れてしまう。ようやく清浄に近づいた今、そのリスクは何としても避けたい」
そこで、御霊を自由にする必要がある。
「あ、あの、湊様。私が無知で、仰っている意味が」
「わ、私も。高潔な思考に追い付けない未熟な自分が恥ずかしいです」
正直に申告するその姿に、魂が打ち震える。
「無知である事を恥じる事はない。許されないのは、むしろ教えを誤読し己の歪んだ知識を誇る事だ」
「僕が言っているのは、今この機会を逃してはならないという事だ。養豚でも、機が熟せば豚たちは出荷されていく。それは彼らにとって本望であり、本来の使命を果たすという最大の幸福なんだ」
湊様の提案は、私の稚拙な思考では決して思いつきもしないほど、高次元のエネルギーに満ちていた。
私たちは初めて、この聖域を出るのだ。
***
「雄、ご飯食べたら食器をシンクに置いて水に浸しておいてって言ってるでしょ。もう何回も言わせないで」
はいはい、と気の抜けた返事が返ってくる。
「こんな事、誰も教えてくれないのよ?親だから言ってるのに」
ぶつくさと小言を言うが、雄はテレビゲームに夢中で何も言わない。
ピンポーン。
「はい?どなた?」
こんな非常識な時間に訪問して来るのは一体誰かと、インターホンの画面に目をこらす。
「こんばんは、隣の高島です。夜分遅くにすみません。実はご相談したい事があって」
「実は、ご近所さんの間でうちに対するおかしな噂が広まっているみたいで…樫本さんしか頼れないんです」
そう言って高島さんが画面越しに頭を下げる。
画面には高島さんしか映っていない。
だが一瞬、後方で何か影が揺れたのが見えた様な気がした。
誰か他にいるのかとも思ったが、変な噂という言葉が気になった。
「ああ、高島さんね。なんだ、誰かと思っちゃった。今、開けるわね」
扉を開けると、マスク姿の高島さんが申し訳なさそうに顔を出した。
「急に押しかけて本当にすみません。これ、つまらない物ですけど」
高島さんが差し出したのは、老舗和菓子屋の寿やの紙袋だった。
「あら!私も雄もここの和菓子好きなのよぉ。さ、早く入って。身体が冷えちゃうし」
高島さんがふふっと笑う。
「喜んでいただけて嬉しいです。やはり、湊様の審美眼は冴え渡っていらっしゃいますね」
聞き間違いかと聞き返そうとして、口を塞がれる。
寿やの手土産がフローリングに音を立てて落ちた。
微笑みを浮かべる高島さんの後ろから、マスク姿の湊くんと見知らぬ女性が家に土足で上がり込んだ。
何が起きているのか分からない。
雄に助けを求めたいが、高島さんに口を塞がれていて声を発する事が出来ない。
見知らぬ女性が紙袋から縄を取り出し、後ろ手で拘束される。
抜け出せない様、親指も縛り上げられ固定された。
物音に気づいた雄が振り返り、目を丸くする。
「雄くん、久しぶり。昔、よく遊んでたよね。今日は、雄くんのお母さんも一緒に皆で遊ぼうと思って」
雄は拘束された私の姿を見て、慌ててキッチンの包丁ホルダーから一丁引き抜いた。
湊くんは表情を変えず、私の首を締め上げる。
「ううっ…」
「雄くんだって久しぶりの再会が嬉しいだろう。君のお母さんも、一緒に遊びたいと言っているんだ」
私は大丈夫、と伝えたいが、ひゅーっという細い息しか出ない。
雄は震える手で包丁を向けていたが、ゆっくりと切っ先を下げた。
「02番は何を突っ立っているの?雄くんが困っているよ」
湊くんは落ち着き払っている。
「湊様、申し訳ありません」
02番と呼ばれた女性が包丁を奪い、鋭い眼光を向ける雄にも臆せず縄を巻き付けていく。
居間のフローリングの上に、雄と後ろ手を縛られたまま膝をついて並ばされる。
湊くんが膝に手をつき見下ろす。
「うん、いいね。いい目だ。自分の信じる物がちゃんとある人間の目だ」
やっぱり、僕の判断は間違っていない、と微笑む。
拘束から抜けだそうと藻掻くが、親指まできっちり縛られていて、全くびくともしない。
「こんな事をして、何をしているか分かっているの?!すぐに警察を呼ぶわ!」
高島さんをきっと睨むが、こちらを見ておらず、湊くんに羨望の眼差しを向けている。
親が子に向ける熱量ではなく、鳥肌が立つ。
「さて、何故今僕たちがここにいるのかについて、気になっているよね」
「実は、ご近所で我が家に対する変な噂が広まっているのは本当なんだ」
穏やかな口ぶりとは対照的に、湊くんの目は空っぽだ。
「何者かが、我が家の動向を伺っているんだ。飢えたハイエナの様に、高島家という一種のコンテンツを消費しているんだ」
誰だろうなあ、困るなあ、と目が合う。
「…何が言いたいの?私は噂も何も全く知らないわ!」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。けれど、真実という物は必ず明るみに出る物だから、安心して欲しい」
湊くんが言い終えると、02番がぬっと後ろから包丁を持ち這い出て来た。
「うああああっ!ああーっ!」
雄の絶叫が響き渡る。
口角から斜めに切りつけられた右頬から血が溢れ出ている。
私も悲鳴を上げる。
「な、何してるのよ!やめなさい!雄が、私たちが何をしたって言うの!」
湊くんの乾いた笑いが漏れる。
「それは、自分が一番良く知っていると思うけど。もしも思い出せないのなら、僕たちは協力してあげられる」
雄が痛みと恐怖から嗚咽しながら泣いている。
「母さん、早くこの人たちに謝ってよ!何したんだよ!」
必死に首を振り否定する。
「違うわ雄、私たちは何もしていない、無実なのよ!こいつらが頭のおかしい野蛮人なの!」
02番がまた振り上げる。
庇いたいが拘束されていて動けない、切っ先は雄を狙っている。
「やめて!お願い、やるなら私にして!」
グチャッ。
「うああ、ああ」
雄の力ない声が漏れた。
足下が急に生温い液体に濡れる。
視線を向けると、雄が失禁していた。
「分かったわ!言うから、言うからもうやめて!」
「最初は心配していたの、本当よ。何かを打ち付ける音と悲鳴が聞こえてきて、それから鼻をつく異臭が漂ってきて」
湊くんは何も言わない。
「それから、それから私は…いつしか耳を澄ませるのが楽しみになったの」
「ご近所に触れ回って、そうしているうちに、私が皆の中心になっていった。皆が私を必要としてくれた。だから…ごめんなさい、雄だけは見逃してください」
必死に頭を垂れ、床に這いつくばる。
足音が近づいてきて、ふわっと頭に手が触れる。
温かい。
しかしどこか機械的な動きに顔を上げる。
湊くんが泣きながら私の頭を撫でている。
「偉いね。ちゃんと己の罪を直視して過ちを認めている。それこそが浄化の第一歩なんだ」
「やはり、気づきは痛みを通してしか与えられない。女性が命を産み出す時、痛みを伴うのはそれが真理だからだ」
だからこそ、今日が再誕の日に相応しい。
02番が高島さんに包丁を渡し、切っ先が私に向けられる。
これは悪い夢だ、現実ではない。
「聞こえるだろう?僕らへの福音が」
湊くんの言葉を聞いた高島さんが包丁を振りかぶった。
雄の横たわる手を必死に手探りで探し、頬を添える。
冷たくなった体温が心地良い。
もう視界が揺らいでいる。
左側は暗闇に包まれ、何も見えない。
雄が産まれて来てくれた日を思い出す。
長時間の陣痛に耐え、ついに貴方が産道を通って産まれて来た。
あの時、私の命が絶えるまで貴方を共にいると、小さな小指と約束した。
顔を上げ、小指を力なく絡める。
もう、小さな鼓動は聞こえない。
雄、一緒に高尚な存在に、生まれ変わろう。
***
「01番は床下の準備を。02番は血痕を拭き取って、綺麗にね」
「雄くんの死体を床下に入れる。不信心な魂は死後、離ればなれになるべきだ」
必死に床板を外し、床下の空間を確認する。
何も入っていない。
子供の死体なら余裕を持って入りそうだ。
顔の傷を押さえ出血を防ぎながら、上半身だけを起こした雄くんの身体を引き摺る。
死体という物は、想像以上に重い。
額に滲む脂汗が右目に流れ込み、痛みが走る。
湊様は、この儀式を通して、私たちに何をお与えになるおつもりなのだろう。
どれほど素敵な教えを授けてくださるのだろう。
もしかすると、私たちは豚に身を落とすことなく、遂に人間として認められるのかもしれない。
双眼が潤み、熱を持つ。
今までの厳しい躾や折檻にも、意味があったのだ。
雄くんの死体を床下に押し込み、樫本さんのシャツを脱がし、露わになった腹部に慣れない手つきで包丁を使い文字を刻む。
私たちをここまで導いた祝福が存在した証を。
三人で樫本さん宅を一度に出ると目立つので、湊様が先行し、時間をずらして聖域に戻った。
計画は周到に達成された。
私も02番も、粗相をしていない。
湊様が、忠実なる僕に褒美を与えて下さるだろう。
「01番も02番もお疲れ様。今回の働きぶりには目を見張る物があった。教えがきちんと身に染みている証拠だ」
湊様がここまでお褒めの言葉を口にするのは、本当に珍しい事だ。
「そこで、その清らかな御霊に敬意を表して褒美を授けたい。教義を真に受け止めたのなら、この上ない喜びになるはずだ」
期待と興奮で、無意識に破顔する。
02番も同じく、喜びに打ち震えている。
「以前、不浄と清浄は隣り合わせに存在していて、教えを受けた御霊を自由にする必要があると説明した」
「そこで、僕は迷える御霊がその幸福を受け取るに値するか、不信心者への襲撃で躊躇せずに命令を遂行出来るかテストをした」
湊様の御言葉を、一言一句聞き逃さぬ様に注力する。
「結果は知っての通りだ。僕の期待以上の働きだった。僕はもう、今こそが最終段階である昇華を始めるべき絶好の機会だと判断した」
「魂の昇華とは、いずれ老いる肉体という方舟を捨て、より高潔かつ高尚な御霊への進化という事だ」
「この世で受け取れる波動にもエネルギーにも限界がある。死とは、恐怖の対象ではない。現世での学びや修練を終えたということだ」
***
湊様の御言葉が信じられない。
遂に、私たちは清浄な御霊であると認められ、より高次元な教えに近づく資格を得たのだ。
死を迎える恐怖は微塵もない。
むしろ、このまま教義を学び終えられず、不浄な存在として何も為し得ず生を終える事の方が耐えられない。
かなみが手を絡めた。
顔を見ると、未だかつて見たことがない程に、恍惚な表情を浮かべていた。
私は一人で死ぬのではない。
同じ信仰を抱え、苦楽を共にした同胞と生を終えられるのだ。
本当に、こんなに幸せな事はない。
湊様が食卓の椅子を三脚並べ、リュックサックから縄を取り出した。
先程、樫本さんを縛り上げた縄よりもずっと太く頑丈な物だ。
居間の天井には太い木製の梁があり、そこに湊様の指示で縄を結び合わせる。
「死にゆく事に痛みは避けられない。これを乗り越える事が、今世での最終試練になる」
「僕らが行き着く先は、世間一般の天国や地獄ではない。それは生者には不可視ではあるが、僕らがずっと追い求めて来た崇拝すべき物だ」
椅子に上り、縄に首を通す。
「本当に、良くここまで到達した。僕らはこれから共に不完全な肉体を捨て、不信心な有象無象が一生かけても到達し得ない高みへ行くんだ」
かなみだけでなく、湊様とも共に逝ける事に、言葉に出来ない高揚感に包まれる。
ずっと聞こえず苦しんでいた福音が、私を抱擁した気がした。
***
「海人さん、カウンセリングの通院お疲れ様です。涼太くん、今日も凄く集中して勉強頑張っていましたよ」
菜々美さんに感謝を伝え、満身創痍な身体でスーツを脱ぐ。
「本当に、いつも涼太の勉強を見てくれて助かるよ。菜々美さんが家庭教師になってから、勉強が楽しいって良く話しているんだ」
「涼太、今日も勉強頑張って偉いな」
誇らしげな涼太の頭を撫でる。
「菜々美さん、今日はもう遅いし、是非夕飯食べていって」
百合が食卓に豚の生姜焼きを配膳する。
「良いんですか?では、お言葉に甘えて」
四人で食卓を囲む、家族団らんの時が過ぎていく。
「それでね、学校で流行ってる、新しい遊びを教えて貰ったんだよ」
涼太は早く詳細を聞いてくれ、と三人の顔を交互に見回す。
「そうか。どんな遊びだったんだ?父さんの頃は…」
「じゃあ、じゃあ、パパにだけ内緒で教えてあげる!」
そう言って椅子から飛び降り、駆け寄る涼太に合わせ屈みこむ。
「えっとね、それはね」
涼太が喜びを隠しきれずに笑う。
「豚みっけ!って言うんだよ」
ガチャン!
「え、あなたちょっと大丈夫?シャツが…」
涼太が不思議そうに見上げる。
「パパぁ?」
「…ああ。何でもないんだ、すまない」
不安げな涼太を強く抱きしめる。
涼太の指先が、背中に残る過去の遺恨の跡に触れる。
どこからか、振り払ったはずの豚舎とセージの混じった異臭が漂う。
目頭が熱を持つ。
視線の先、涼太が描いた家族の絵が滲んで見えた。
***
──十五年後。
教えを聞くというのは、大多数の人間にとっては願っても叶わない事だ。
ラジオのチューニングが合わないと雑音しか聞こえない様に、波動が合う高尚な人間は限られている。
残酷な事だが、これが真理なのだ。
その状態を導き出す条件は幾つか存在する。
まずは本人の資質。
これは努力や訓練など、後天的に変える事が出来ない物だ。
そして知性。
教えを正しく聞き取り、咀嚼し、己の肉体感覚に落とし込める様になるには、ある程度の知性は必要不可欠だ。
そして環境。
本人が不自由なく一般的な生活を送れる事は前提として、先に挙げた二点を意識しつつ、常識とされる物に疑問を持てる環境である事。
これらが揃って初めて、教義に近づく権利を得られる。
私は幸運な事に、それら全てを抱え、母の産道を通った。
その点を加味すると、ある程度は幸運や運など、スピリチュアルな才能も必要だと言えるかもしれない。
ずっと、私には何かが足りていないと思っていた。
知性を持ち合わせ、環境にも運にも恵まれている。
父も母も友人もいて、何不自由なく生きてきた。
それでも、私にはやるべき使命があると確信していた。
そしてそれは、今日の決行を持ち開花する。
興奮が隠しきれない。
遂に、私は高潔で清浄な御霊になる足がかりを得るのだ。
決行前にラップトップを開き、ブックマークのリンクを開く。
とても古いリンクだが、まだ死んでいない。
何度も何度も、この素晴らしい聖典を読み込んできた。
自分は他と違うのでは、と孤独を抱えるたび、この文章に救われてきた。
今日の私が存在するのも、この飼育ブログのおかげだ。
今夜の計画は、何年もかけて精密に構想を組んできた。
動画配信アプリを開き、慣れた手つきで文字を入力していく。
「二〇二一年 煉り島市 一家刺殺事件」
見慣れた過去のニュース映像が自室に反響する。
私はこの教えを忠実に守り抜く。
これまでの人生は、この教義を全うする為だけに存在していたのだ。
私は豚になるのではない、豚を見つけ排除するのだ。
思えば、私は幼少期から、豚を見つける享楽を知っていた。
十五年前の事件を模倣するのではない、私にしか聞こえない祝福を、今ここに顕現する。
肉体が滅んでも、思想は伝播する。
高揚を堪えきれず笑いが漏れる。
聞こえる、私にも。
ずっと探し求めていた、福音が。
