記憶の中のあなたと、記憶喪失のあなた

 波中(なみちゅう)は部活に力を入れていない。
 運動会にも同じことが言えるはずだけれど、わたしたちの教室は大いに盛り上がっていた。海斗(かいと)くんが決して忘れないようなイベントにしようと、本来の趣旨とは違う方向に進んでいたんだ。

 一木(いつき)小学校じゃない生徒にとっては、あまり面白くないことだっただろう。それでも、表立っては文句も出ていない。

 クラスが一丸となって取り組むことは、なんだかんだで楽しいことなので、ある程度は満足しているんだと思った。

「ごめんね。俺のせいで、巻きこんじゃって」

 放課後。
 それぞれの種目に合わせて、わたしたちは自主練に励んでいた。
 二人三脚なので必然的にわたしは海斗(かいと)くんといっしょだ。

「平気だよ。わたしのほうこそ必死に避けようとしてごめん。感じ悪かったよね」
「実際、昔も親しくはなかったんでしょう? それはしょうがないよ」

 以前の発言が、特大のブーメランになって戻って来た。

『親しくなんかない!』

 なんであんなことを言ってしまったんだろう。穴があったら入りたい。それどころか、掘ってでも隠れたかった。あまりに居たたまれない。

 海斗(かいと)くんの目から逃げるように、わたしは足に(ひも)を結ぶ。

「接点がなかっただけで、仲が悪かったわけじゃないから」

 (うそ)(うそ)を重ねることしか、わたしにはできなかった。

「はじめよっか。最初はゆっくり行こう」

 うなずきを返し、わたしも海斗(かいと)くんの背中に手を回す。
 がっしりとした体格。
 改めて、男の子なんだと思った。小学校のころは、全然子供っぽかったのに、知らないうちにすっかりと大人びている。

「1、2、1……」

 掛け声に合わせて、足を出す。
 息はぴったりだった。
 トラックの端まで行って、わたしたちは止まる。

「……俺たち上手くない?」
海斗(かいと)くんが合わせてくれるからだよ」

 みんなはわたしたちが2人で下校していたことを知らない。
 海斗(かいと)くんの歩く速さは、今でも覚えている。背が伸びているので歩幅は変わったが、それは海斗(かいと)くん自身が調整しているようだった。

「かなり走りやすいね。江幡(えばた)さんが相手で助かったよ」
「……。えっちゃんでいいよ、こんな練習までしているのに、他人行儀じゃん」
「じゃあ、彩良(さら)さんで」

 わたしを名前で呼ぶクラスメイトはいない。むしろ新鮮で、気恥ずかしいくらいだ。
 一通りのトレーニングをしてから、わたしたちは練習をおえた。
 予鈴が鳴る。
 片づけがないので急がなくていい。

「そういえば、海斗(かいと)くんって部活に入ったの?」
「一応ね」
「へえ、どこ?」
「卓球……前のところが強豪校だったんだよ」

 今はもうなくなってしまったらしいが、当時はまだ波中(なみちゅう)にも卓球部があった。

「じゃあ、うまいんだ」
「いんや、全然。流れで入っただけだよ。そういうのって、スポーツ少年団に入っていたような連中が上がって来るから、『中学からはじめました』みたいなやつは問題外だったね。俺以外にも結構いたけど、みんな泡を食っていたよ」

 自嘲気味に笑った海斗(かいと)くんの視線が、わたしのバッグに止まった。

「な、何?」
「そのキーホルダー、きれいだね」

 じんわりと目頭が熱くなる。
 そうでしょう? 形違いのものを海斗(かいと)くんも持っているんだよ。そんな言葉が、口の先まで出かかった。

 でも、言えない。

「ありがと。……ごめんね、わたし急ぐから」
「また明日」

 手を振る海斗(かいと)くんを横目に、わたしは走っていた。
 もしもわたしの不用意な発言で、海斗(かいと)くんが記憶を取り戻したらどうなるんだろう。新しい海斗(かいと)くんはいなくなってしまうんだろうか。

 そう思うと、怖くて言えなかった。
 涙がぽろぽろと頬を伝ってこぼれていく。
 走れなくなって、わたしは住宅の塀に体を預けてうずくまった。

「わたしってホントはこんなに嫌な女だったんだ……」

 胸が苦しかった。
 ハートのキーホルダーをぎゅっと握りしめる。
 頭の中に浮かぶのは、いつだって無垢な笑顔の少年だ。

「ねえ助けてよ、海斗(かいと)くん。このままじゃわたし、あなたのこと……」

 好きだったはずなのに。
 ずっとこの人だって思っていたのに。
 今じゃ、新しい海斗(かいと)くんのことをもっと好きになってしまっている。
 忘れたいわけじゃない。
 でも、忘れたほうがつらくないなんて、そんなのは変だと思った。