記憶の中のあなたと、記憶喪失のあなた

 昇降口があるのも2階だ。
 ロッカーに手をつきながら、運動靴を慎重に脱がせてもらう。上履きに変えるのは片足だけだ。ちょっと靴下が子供っぽくて恥ずかしい。

 海斗(かいと)くんに連れられて、わたしは部屋の前まで来ていた。

「先生」

 声をかけながら海斗(かいと)くんが扉を開けてくれたが、中に養護教諭の姿はない。

「職員室かな? 待っているよ」

 スツールを見つけたので、わたしは海斗(かいと)くんを誘導する。だけれど、海斗(かいと)くんはわたしをベッドのほうに連れていった。

「いなかったときに困るから、先に応急処置だけしちゃうよ。あとから先生に正しいのをしてもらおう」

 わたしをベッドに座らせて、海斗(かいと)くんが冷蔵庫のほうへと向かう。

「氷と……それから、包帯」

 ビニールに水と氷を入れて、即席の氷嚢を作る。
 てきぱきとした動きだ。
 わたしが海斗(かいと)くんを見つめていれば、視線に気がついたらしい。海斗(かいと)くんは困ったように笑っていた。

「靴下を脱げそうなら、外してくれる?」

 促されて、わたしは足に触れる。
 痛みのほうは我慢すればどうにかなりそうだったが、さすがに素足を見せる勇気はない。

「……無理かも」
「そっか。横になっていて。あっ、枕は使わないで」
「わかった」

 必要な道具を(そろ)えたようで、わたしが(あお)向けになるころには、もうそばに海斗(かいと)くんがいた。

「ごめんね、足首を固定するよ。ちょっと痛いかも」

 靴下の上から、海斗(かいと)くんが触れたのがわかった。
 わたしの足が少し持ちあがる。
 スカートじゃないから絶対に見えるはずないのに、それでもわたしは意識が下着に向いてしまう。気を紛らわせたくて、わたしは余計なことを聞いていた。

「手当の方法なんてよく知っているね」
「一応は係だったから」

 わたしは何年も保健委員をやっているけれど、応急処置の方法なんて知らない。いつも養護の先生にバトンタッチしておわっていた。

 足に包帯が巻かれていく。

「冷たいから、びっくりしないでね」

 布の上からなので、冷感はあまり覚えない。気の抜けた音が聞こえるのは、たぶんガーゼとかを止めるテープで、位置が変わらないようにしているからだろう。実際、すぐにわたしの足にも接着した感触があった。

 下から海斗(かいと)くんの顔が(のぞ)く。
 そのままわたしの上を通りすぎるように腕が伸ばされた。

「ちょっとごめんよ」

 顔が近い。
 海斗(かいと)くんの首元からフローラルな匂いが漂って来た。洗剤かシャンプーの香りだと思うけれど、今まで思ってもいなかった意識の仕方に、頭の一部が沸騰しそうだった。

「取れた」

 手が引っこんでいく。
 枕だ。

「あっ、ごめん。奥にやっちゃったから……」

 焦ってわたしもよくわからないことを話してしまう。

「足、持ちあげるね。捻挫のときは、心臓より上の位置にしたほうがいいんだ」

 かかとの下に枕が差しこまれる。

「そうなんだ。詳しすぎない?」

 何気ない一言のつもりだったが、海斗(かいと)くんは窓の外に視線を向けた。
 当たり前だ。
 だって、昔の海斗(かいと)くんはわたしと同じで、何も知らないはずなんだから。
 引っ越し先でのことが原因なのは間違いなかった。

「人間関係の築き方がわからなかったから……かな。地元じゃないから知り合いはいなくて当然なんだけど、記憶もなかったから友達っていうのがピンと来なくて。任された仕事だけはやろうと、必死だった。それだけだよ、別にすごくもなんともない」

「……」

「そういう意味じゃ、ここは当たり前のように俺を受け入れてくれるから、びっくりするね。ありがたいことなんだけど……」

 重たい話をしたかったわけじゃない。
 なんて返事をすればいいのか、わたしには見当もつかなかった。
 遠い目をしたまま、海斗(かいと)くんがわたしのほうに顔だけ向ける。

「俺からも聞いていい? 江幡(えばた)さんは、どうして『うっちゃん』なの。彩良(さら)さんなのに」
「……彩良(さら)だからだよ」
「えっ?」
彩良(さら)がお皿になって、器だからうっちゃん」

 一休さんのとんちみたいな答えに、海斗(かいと)くんは目を点にさせていた。
 あんまり気にしていなかったけれど、お皿から連想して「うっちゃん」なんてあだ名をつけるのは、本当は女の子に対して失礼だと思う。

「……。仲がいいんだね」

 わたしは答えられなかった。
 だって、海斗(かいと)くんが言葉を選んだのは、あだ名の由来に配慮してくれたからだ。でも、うっちゃんって最初に呼んだのは、ほかでもない海斗(かいと)くんなんだよ。

 知れば知るほどに、海斗(かいと)くんが別人になったという事実がわたしの胸を引き裂いた。同時に、男女の垣根を超えた友情から、1人の女の子として扱われるようになった現実に、わたしは言い表しがたい複雑な感情も覚えたんだ。