記憶の中のあなたと、記憶喪失のあなた

 茨城県筏航(はいぶね)市。
 わたしの住んでいる市は、国道六号(ロッコク)と上野東京線が十字に重なったところからはじまって、もう一度十字に重なるところでおわる。この楕円形(だえんけい)が、だいたい筏航(はいぶね)市のサイズだ。

 国道六号(ロッコク)の東側は海に面しているので港が多い。倉庫や工業地帯も増えて来るので、住宅地はほとんどない。反対に、上野東京線に近づけは近づくほど都市化していく。

 ちなみに、茨城はイバラキなので間違えないでほしい。栃木は茨城の隣で、海がないほう。

「早いのは転入の手続きがあるから?」

 わたしは成り行きで、学校までの案内をすることになっていた。
 歩くたびに磯の香りが少しずつ強くなるが、気になるほどじゃない。

「それは昨日やった。本当は2年の初めから合流したかったんだけど、間に合わなくて」
「そうなんだ……。あれ?」

 一度、学校に訪れているのなら、道はわかっているんじゃないかと、わたしは海斗(かいと)くんをいぶかしむ。不思議に思っていることは、向こうにも伝わったらしい。海斗(かいと)くんは慌てて、顔の前で小さく腕を振っていた。

「違うちがう、父さんの車だったから。まだ引っ越し作業がおわってなくて」
「そっか、なるほどね……」

 保育園の脇を通って、有料道路の下を抜ける。コンビニに次いで、有名なデリバリーピザ屋が見えれば、もう波止(なみどめ)中学校は目と鼻の先だ。

 二方向を水路に囲まれた、わたしたちの母校。水路は海につづいているため、教室からでも魚が見える。

 波中(なみちゅう)を前に、海斗(かいと)くんは(あき)れと感心の混じった声を出していた。

「昨日も思ったけど、すごいね……。俺って前にも見たことあるのかな?」

 6階建てなので、圧迫感が強い。
 わたしも初めて目にしたときは、圧倒された。

「……。海斗(かいと)くんって一木(いつき)小学校だったでしょ? こっちのほうには来ていないと思うよ」

 積極的にはアピールしたくなくて、断言は控える形になった。でも、逆効果だったのかもしれない。

「そうなんだ。名前を知っているってことは、やっぱり俺たちって知り合いだよね?」
「ちょっとね……。そんなでもないよ」

 (うそ)をついた。
 本当はすごく仲がよかったのに、真実を言えなかった。
 自分の口で語るのは、とてもみじめな気がしたんだ。

「そっか、ちょっとか。それならよかったよ……とても失礼じゃないかって不安だったんだ」

 ほっと胸を()でおろしている姿を見せられては、わたしも怒るに怒れない。

「そのうち思い出せるよ」
「父さんも母さんも、そのつもりで俺をこっちに連れて来たみたい。地元のほうが早く記憶が戻るんじゃないかって、期待しているんだ」

 いい機会だと、わたしは校舎に入りながら海斗(かいと)くんに尋ねる。

「ねえ、聞いてもいい? 何があったの?」

 波中(なみちゅう)の校舎は新しい。
 数年前に起こってしまった大震災。元々、地盤がもろかったんだろう。校庭は液状化し、校舎にも被害が出た。新校舎になったのは今年度からなので、間違いなく県内で一番きれいだ。

 教訓の活かされた校舎は、1階部分がピロティになっている。津波に備えて、開け放ってあるんだ。

「記憶のこと? 外傷性健忘だってさ」
「ガイショウセイケンボウ……」

 聞いたこともない言葉に、はてなマークが10個くらい頭の中に浮かんだ。

「頭を強く打ったんだよ。それで小学校のときの思い出がほとんどない。衝撃が加わったあとの記憶がなくなることもあるらしいけど、俺は打つ前の記憶が結構飛んじゃった」

「全部じゃないの?」

 少しだけ期待した。
 わたしとのエピソードも、ちょっとは残っているんじゃないかって思ったんだ。

「低学年のときのならね。おぼろげな経験を覚えているけど、そっちは量が少ないから……」
「……大変なんだね」

 ダメだ。
 わたしと海斗(かいと)くんが親しくなったのは3年生から。
 思い出があったとしても、今度はわたしのほうが記憶を掘り起こせない。
 エレベーターに乗って3階を押す。

「あれ? 2年の教室って5階じゃないの?」
「委員の仕事があるから、わたしは保健室に寄るんだ」

 わたしの言葉に、海斗(かいと)くんがきらきらと目を輝かせる。

「俺も前の学校は保健委員だった! そっか、すごい偶然だね。俺のほうは小学校の延長みたいな感じなんだけど、なんだかうれしいな!」

「うん……」

 たまたまなんかじゃないよ、それ。
 気のない返事に、海斗(かいと)くんが苦笑する。

「ごめんね、1人で盛り上がっちゃって」
「いや、全然いいよ。……記憶、早く戻るといいね」

 失ったのは海斗(かいと)くんのせいじゃない。
 忘れたくて忘れているわけじゃない。
 それはわかっているのに、気がつくとわたしの口調は責めるものになっていた。