記憶の中のあなたと、記憶喪失のあなた

 上がり(かまち)に座って靴を履く。リビングからはお母さんの声がした。

「あんた、もう学校に行くの? 今日はずいぶん早いじゃない」
「保健委員の用事。10分くらい前に来てほしいんだって」

 お母さんが掛け時計を振り返る気配がした。ちょっと早く登校するにしたって、まだ全然時間がある。ゆっくりしていられるけれど、これ以上家にいたら委員会の仕事までサボりたくなっちゃう。

「たまには余裕があってもいいんじゃない?」
「……。うん」

 立候補した委員だが、別にすごくやる気があるわけじゃない。
 小学校のときから、海斗(かいと)くんといっしょに保健委員をやっていたので、その流れでつづけているだけだ。なんとなく辞める気にはなれなかった。

「行って来ます……」

 玄関の扉を開ける。立ちあがるときに、キーホルダーがバッグの金具にあたって音を鳴らした。水色のハート。みんなにからかわれたくなくて、色だけをお(そろ)いにした。海斗(かいと)くんは星形。

 未練がましいかもしれないけれど、わたしはずっとつけていた。外すきっかけがなかったし、取ってしまえば本当に会えなくなるように思えたからだ。

 アパートの階段を降りて道路に出る。
 狭いので、この辺りは一通が多い。
 スクールゾーンだ。朝は車の進入も制限される。
 もちろん、当時のわたしは知らなかったので、しばしば振り返っては車が来ていないことを確かめていた。今にして思えば、ちょっぴりマヌケだ。

 右手には寺社と墓地。
 自宅のそばにお墓があるのは、薄気味悪くてあんまり好きじゃなかった。中学に上がったころには、もう慣れていて、時々は住職さんともあいさつを交わした。

「おはよう、彩良(さら)ちゃん」
「おはようございます」

 地元でしか見ない薬局の信号を渡って、さらに先へ。
 食堂と消防団の倉庫を過ぎた辺りで、前を歩く男の子の姿が見えた。

「……だれだろう?」

 朝練にしては遅すぎる。わたしと同じで委員会の頼まれ事だろうか?
 後ろ姿に見覚えはないから、保健委員じゃない。先輩とも後輩とも違う。
 わたしは少し足を速める。
 ちょっとのつもりだったのに、向こうがきょろきょろと周りを見回しながら歩いているせいで、すぐに追いついてしまった。

(うそ)……。海斗(かいと)くん?」

 その横顔を見たときに、はっきりと気がついた。
 忘れもしない。
 さらさらで少し寝ぐせの残る髪。
 笑うときにくしゃっと縮む切れ長の目元。
 顔のサイズより、少し小さくてかわいらしいお鼻。
 どこを取っても記憶の中にいる男の子だ。小学生のとき、ずっと仲の良かった御園生(みそのう)海斗(かいと)くん。
 相手も気がついたみたいで、わたしのほうを振り返った。

「あっ……」

 海斗(かいと)くんが駆けて来る。
 久しぶりの再会だ。
 飛びつくほどの間柄じゃないが、気持ちの上では抱きしめたかった。
 言いたいことはたくさんあったのに、第一声が思い浮かばない。当たり障りのないことを話してしまう。

「お、おはよう」

 あいさつに返事はなく、代わりに海斗(かいと)くんは妙なことを口走った。

「地元の子……だよね?」

 もう! 変な冗談はよして。
 肩を小突いてやろうと思ったのに、地図を片手に立ち止まる姿を見ていたら、言葉なんて出て来なかった。

「えっと……」
「ああ、ごめん。俺、この辺りに住んでいたらしいんだけど、以前の記憶が全然なくてさ……。波止(なみどめ)中学校って、こっちのほうであっているかな?」

 僕から俺に変わった一人称。
 低くなった声と、どこか心細そうに曲がる眉。
 その言動が、どうしようもないほど現実なんだとわたしに語りかけていた。
 以前の海斗(かいと)くんはいなくなってしまったんだ。
 なんて神さまは意地悪なんだろうと、天に唾を吐いてやりたい気分だった。