約束の日は、思ったより早くやってきた。
当日、待ち合わせの時間よりも少し早く家を出た。
特に急ぐ理由なんてないはずなのに、じっとしていると落ち着かなくて、気づけばもう靴を履いていた。
玄関のドアを閉めたあとも、一度ポケットの中のスマホを取り出して時間を確認する。
まだ早い。
それでも、そのまま歩き出した。
会場に近づくにつれて、人の数が増えていく。
浴衣姿の人たちが行き交っていて、普段の見慣れた道が、まるで別の場所みたいに見えた。
屋台から流れてくる匂いが、風に乗って混ざり合う。
焼きそばのソースの濃い香り、たこ焼きの出汁の匂い、綿あめの甘ったるい空気。
遠くで太鼓の音が響いている。
どこか浮ついた空気に包まれていて、ただ歩いているだけなのに、少しだけ気分が上がる。
早く来すぎたな。
そう思いながら、少し人の流れから外れた場所で立ち止まる。
スマホをもう一度見る。
まだ数分しか経っていない。
ため息をつくほどでもないのに、小さく息を吐いたとき──
「おまたせ」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返る。
一瞬だけ、言葉が出なかった。
そこにいたのは、いつも通りの陽菜で、
でも、やっぱりいつもとは違って見えた。
淡い色の浴衣に、小さな柄。
普段はそのままの髪も、軽くまとめられていて、うなじが少しだけ見えている。
たったそれだけの違いなのに、妙に意識してしまう。
「……遅くね?」
やっと出たのは、そんな言葉だった。
「五分くらいでしょ。悠真が早いだけ」
「早く来すぎただけだろ」
「それを早いって言うの」
そう言って、いつもと同じように笑う。
その笑顔に、少しだけ安心して、同時に少しだけ落ち着かなくなる。
人の流れに合わせて、屋台の並ぶ通りに入る。
提灯の明かりが連なって、夜道をやわらかく照らしていた。
赤やオレンジの光が揺れて、そこを歩く人たちの影も一緒に揺れる。
「人多いな」
「まあ祭りだし」
「はぐれんなよ」
「子どもじゃないんだから大丈夫」
そう言いながらも、少しだけ距離が近くなる。
肩が軽く触れて、すぐに離れる。
それだけのことなのに、妙に意識してしまう自分がいた。
最初に立ち止まったのは、焼きそばの屋台だった。
鉄板の上で麺が焼かれる音と、ソースの香りが食欲を刺激する。
「やっぱこれでしょ」
「安定だなあ」
紙皿を受け取って、少し端に寄る。
「熱っ」
「当たり前だろ」
「ちょっと待って、やばい」
ふうふうと息を吹きかけながら、慎重に口に運ぶ。
その様子がなんだかおかしくて、思わず笑いそうになる。
「なに」
「いや、リアクションでかすぎだろ」
「普通だから」
軽く睨まれて、でもすぐに笑う。
その空気が、いつもと同じで、少しだけ安心する。
そのあとも、いくつかの屋台を見て回る。
チョコバナナの前で立ち止まって、「それ映え狙い?」とか言ったり、かき氷を見て「絶対頭キーンってなるやつ」とか話したり。
結局、ラムネを買って、歩きながら飲むことにした。
ビー玉を押し込むと、ぽん、と軽い音が鳴る。
「これ久しぶりに見たかも」
「飲むのは?」
「もっと久しぶり」
一口飲んで、少しだけ顔をしかめる。
「炭酸きつ」
「弱いな」
「悠真が強すぎるだけ」
そんなやり取りをしながら、ゆっくり歩く。
途中、射的の屋台に目が留まる。
「やる?」
「やるでしょ」
軽いノリで列に並ぶ。順番は思ったよりも早く回ってくる。
お金を払いコルク銃を構え、的を狙う。
「絶対当たらないやつだろこれ」
「いけるって」
引き金を引くと、コルクは全然違う方向に飛んでいく。
「ほら」
「今のはミス」
「全部ミスじゃん」
結局、まともに当たることはなくて、
最後に店の人が気を使って小さな景品を渡してくれた。
「優しさ込みで成立してるなこれ」
「いいんだよ、もらえたし」
そう言って笑う陽菜の横顔を、少しだけ長く見てしまう。
提灯の光に照らされて、いつもより少しだけ柔らかく見えた。
人混みの流れに乗って歩いていく。
触れそうで、触れない距離。それが、妙に落ち着かない。
そして少し人の少ない場所に出る。
さっきまでの喧騒が、少しだけ遠くなる。
風が通って、提灯の光が揺れた。
そのタイミングで、ふと口に出す。
「……進路、もう決めた?」
何気ない調子で聞いたつもりだった。
でも、自分でも少しだけ不自然だと分かる聞き方だった。
陽菜は、少しだけ足を止めた。
完全に止まるわけじゃない。
でも、歩く速度がほんの少しだけ落ちる。
「うん」
短く答える。それから、少しだけ間を置いて、
「県外の大学、受けるつもり」
そう言った。
周りの音が、少しだけ遠くなる。
さっきまで聞こえていたはずの声や音が、急にぼやけたみたいに感じた。
「......そっか」
やっと出たのは、それだけだった。
「前にちょっと言ったじゃん」
「......ああ」
勉強してたときの会話が、頭をよぎる。
“県外かな”
あのときは、そこまで深く考えなかった言葉。
でも今は、その意味がはっきりしていた。
「なんかさ」
陽菜が、少しだけ笑う。
「実感ないんだよね」
「何が」
「もうすぐここ出るんだなーって」
軽い調子で言っているのに、その言葉は妙に重く感じた。
「……遠いな」
ぽつりと漏れる。
「まあね」
また、あっさりとした返事。
少しだけ沈黙が落ちる。
さっきまであんなに賑やかだったのに、二人の間だけ、静かになった気がした。
「でもさ」
陽菜が、前を向いたまま言う。
「今日みたいなのも、もう最後かもなーって思ったら、ちょっと寂しいかも」
その言葉に、胸の奥が少しだけざわつく。
「......そうだな」
うまく言葉が出てこない。
何か言わないといけない気がするのに、何を言えばいいのか分からなかった。
やがて、花火の時間が近づいてくる。
周りの人たちも、空がよく見える場所へと移動し始める。
俺たちも人の流れに乗って、空が見える場所へ向かう。
二人で並んで立ち、夜空を見上げる。
「そろそろだな」
「だね」
次の瞬間、大きな音とともに花火が広がった。
どん、と遅れて響く音。
赤、青、金色の光が、夜空いっぱいに咲いては消えていく。
「うわぁ……」
隣で、陽菜が小さく声を漏らす。
その横顔を、つい見てしまう。
光に照らされて、一瞬だけ明るくなって、また暗くなる。
その繰り返しの中で、
なぜか目が離せなかった。
あぁ……
そのとき、ふと思った。
こいつのこと、好きなんだ
あまりにも自然で、
あまりにも遅い気づきだった。
花火が終わると、周りが一気にざわつき始める。
現実に引き戻されるような感覚。
「帰るか」
「うん」
俺たちは並んで歩き出す。
来たときよりも少し静かな道。
さっきまでの光や音が嘘みたいに、落ち着いた夜の空気が広がっていた。
言いたいことはあるはずなのに、言葉がうまく出てこない。
「ねえ」
陽菜が、前を向いたまま言う。
「楽しかったね」
「……ああ」
短く答える。
それだけで、また沈黙が落ちる。
そして気が付けば家の前まで来ていた。
見慣れた景色のはずなのに、どこか少しだけ違って見えた。
「じゃあ──」
そう言いかけたとき。
「あ、待って」
陽菜が、少しだけ慌てたように声を出した。
「ん?」
「家にさ、花火あったんだよね。前に買ったやつ」
少しだけ視線を逸らしながら、続ける。
「良かったら、一緒にやらない?」
一瞬だけ、言葉の意味を考える。
帰るはずだった時間が、少しだけ伸びる。
それだけのことなのに、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……いいけど」
できるだけ普通に答える。
「ちょっと取ってくる」
そう言って、陽菜はすぐに家の中へ入っていった。
一人、外に残される。
さっきまで一緒にいたはずなのに、
急に静かになった夜が、少しだけ広く感じた。
遠くで、まだ祭りの名残みたいな音が聞こえる。
ポケットに手を突っ込んで、空を見上げる。
さっき見ていた花火の残像が、まだ少しだけ残っている気がした。
「おまたせ」
戻ってきた陽菜は、小さな袋を抱えていた。
「結構あるじゃん」
「昔の残り物だけどね」
二人で家の前のアスファルトに座り込む。
しゃがんだ高さが近くて、なんとなく視線の距離も近くなる。
袋の中から取り出したのは、よくある手持ち花火だった。
「火、つけるよ」
ライターの小さな音。
次の瞬間、しゅっと火が走る。
オレンジ色の光が、一気に広がった。
「おお」
思わず声が出る。
ぱちぱちと火花が弾けて、夜の空気を照らす。
さっきの打ち上げ花火とは違う、
手の中にある小さな光。
それを見つめる横顔が、すぐ隣にある。
「きれいだね」
陽菜が、小さく言う。
「だな」
それだけの会話。
でも、その“きれい”が、何を指しているのか分からなくて、少しだけ考えてしまう。
次の花火に火を移す。
青っぽい火が、静かに揺れる。
さっきよりも落ち着いた光。
「さっきのより好きかも」
「地味じゃね?」
「こういうのもいいじゃん」
そう言って、火をじっと見つめている。
その横顔が、やけに真剣で、少しだけ目を逸らした。
勢いよく火花が散る花火に変えると、今度は思わず少し距離を取る。
「近っ、危ないって」
「そっちが近づいてきたんだろ」
「違うし」
笑いながら、少しだけ離れる。
それでも、完全には離れない距離。
火花が消えると、また少しだけ近づく。
そんなことを何度か繰り返すうちに、
袋の中身は、少しずつ確実に減っていった。
「もうこれで最後かな」
陽菜が袋の中を覗きながら言う。
そこに残っていたのは、細い線香花火だった。
「線香花火か」
「定番だね」
二人で一本ずつ取る。
さっきまでの賑やかな花火とは違って、
妙に静かな空気が流れる。
ゆっくりと花火に火をつける。
じゅ、と小さな音。
先端に小さな火が灯る。
丸くらんだ火の玉が、ゆらゆらと揺れる。
落ちそうで、まだ落ちない。
ぎりぎりの形を保っている。
どうせ、もうすぐいなくなるのに……
ふと、そんな考えがよぎる。
勉強していたときの会話。
夏祭りで聞いた言葉。
“県外の大学、受けるつもり”
この時間も、この距離も、
全部、終わる。
そう思った瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、一気に浮かび上がってくる。
それでも……
言わないままでいいのか、と思った。
「なあ、陽菜──」
名前を呼ぶ。
その先を、言おうとする。
でも……
『ぱち、』
小さな音がして、火が崩れた。
──光が落ちる
──暗くなる
そして、一瞬で何もなくなる。
言葉が、続かなかった。
俺は隣を見る。
陽菜の線香花火も、同じタイミングで消えていた。
「……終わっちゃったね」
ぽつりと、そう言う。
「……だな」
それだけしか返せない。
言えたはずの言葉は、どこにも見当たらなくなっていた。
少しだけ沈黙が続く。
風の音だけが、静かに通り過ぎる。
さっきまで確かにあった光だけが、頭の中に残っている。
消え方まで、はっきりと思い出せるくらいに。
──落ちたのは火だけじゃなかった気がした。
〈完〉
当日、待ち合わせの時間よりも少し早く家を出た。
特に急ぐ理由なんてないはずなのに、じっとしていると落ち着かなくて、気づけばもう靴を履いていた。
玄関のドアを閉めたあとも、一度ポケットの中のスマホを取り出して時間を確認する。
まだ早い。
それでも、そのまま歩き出した。
会場に近づくにつれて、人の数が増えていく。
浴衣姿の人たちが行き交っていて、普段の見慣れた道が、まるで別の場所みたいに見えた。
屋台から流れてくる匂いが、風に乗って混ざり合う。
焼きそばのソースの濃い香り、たこ焼きの出汁の匂い、綿あめの甘ったるい空気。
遠くで太鼓の音が響いている。
どこか浮ついた空気に包まれていて、ただ歩いているだけなのに、少しだけ気分が上がる。
早く来すぎたな。
そう思いながら、少し人の流れから外れた場所で立ち止まる。
スマホをもう一度見る。
まだ数分しか経っていない。
ため息をつくほどでもないのに、小さく息を吐いたとき──
「おまたせ」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返る。
一瞬だけ、言葉が出なかった。
そこにいたのは、いつも通りの陽菜で、
でも、やっぱりいつもとは違って見えた。
淡い色の浴衣に、小さな柄。
普段はそのままの髪も、軽くまとめられていて、うなじが少しだけ見えている。
たったそれだけの違いなのに、妙に意識してしまう。
「……遅くね?」
やっと出たのは、そんな言葉だった。
「五分くらいでしょ。悠真が早いだけ」
「早く来すぎただけだろ」
「それを早いって言うの」
そう言って、いつもと同じように笑う。
その笑顔に、少しだけ安心して、同時に少しだけ落ち着かなくなる。
人の流れに合わせて、屋台の並ぶ通りに入る。
提灯の明かりが連なって、夜道をやわらかく照らしていた。
赤やオレンジの光が揺れて、そこを歩く人たちの影も一緒に揺れる。
「人多いな」
「まあ祭りだし」
「はぐれんなよ」
「子どもじゃないんだから大丈夫」
そう言いながらも、少しだけ距離が近くなる。
肩が軽く触れて、すぐに離れる。
それだけのことなのに、妙に意識してしまう自分がいた。
最初に立ち止まったのは、焼きそばの屋台だった。
鉄板の上で麺が焼かれる音と、ソースの香りが食欲を刺激する。
「やっぱこれでしょ」
「安定だなあ」
紙皿を受け取って、少し端に寄る。
「熱っ」
「当たり前だろ」
「ちょっと待って、やばい」
ふうふうと息を吹きかけながら、慎重に口に運ぶ。
その様子がなんだかおかしくて、思わず笑いそうになる。
「なに」
「いや、リアクションでかすぎだろ」
「普通だから」
軽く睨まれて、でもすぐに笑う。
その空気が、いつもと同じで、少しだけ安心する。
そのあとも、いくつかの屋台を見て回る。
チョコバナナの前で立ち止まって、「それ映え狙い?」とか言ったり、かき氷を見て「絶対頭キーンってなるやつ」とか話したり。
結局、ラムネを買って、歩きながら飲むことにした。
ビー玉を押し込むと、ぽん、と軽い音が鳴る。
「これ久しぶりに見たかも」
「飲むのは?」
「もっと久しぶり」
一口飲んで、少しだけ顔をしかめる。
「炭酸きつ」
「弱いな」
「悠真が強すぎるだけ」
そんなやり取りをしながら、ゆっくり歩く。
途中、射的の屋台に目が留まる。
「やる?」
「やるでしょ」
軽いノリで列に並ぶ。順番は思ったよりも早く回ってくる。
お金を払いコルク銃を構え、的を狙う。
「絶対当たらないやつだろこれ」
「いけるって」
引き金を引くと、コルクは全然違う方向に飛んでいく。
「ほら」
「今のはミス」
「全部ミスじゃん」
結局、まともに当たることはなくて、
最後に店の人が気を使って小さな景品を渡してくれた。
「優しさ込みで成立してるなこれ」
「いいんだよ、もらえたし」
そう言って笑う陽菜の横顔を、少しだけ長く見てしまう。
提灯の光に照らされて、いつもより少しだけ柔らかく見えた。
人混みの流れに乗って歩いていく。
触れそうで、触れない距離。それが、妙に落ち着かない。
そして少し人の少ない場所に出る。
さっきまでの喧騒が、少しだけ遠くなる。
風が通って、提灯の光が揺れた。
そのタイミングで、ふと口に出す。
「……進路、もう決めた?」
何気ない調子で聞いたつもりだった。
でも、自分でも少しだけ不自然だと分かる聞き方だった。
陽菜は、少しだけ足を止めた。
完全に止まるわけじゃない。
でも、歩く速度がほんの少しだけ落ちる。
「うん」
短く答える。それから、少しだけ間を置いて、
「県外の大学、受けるつもり」
そう言った。
周りの音が、少しだけ遠くなる。
さっきまで聞こえていたはずの声や音が、急にぼやけたみたいに感じた。
「......そっか」
やっと出たのは、それだけだった。
「前にちょっと言ったじゃん」
「......ああ」
勉強してたときの会話が、頭をよぎる。
“県外かな”
あのときは、そこまで深く考えなかった言葉。
でも今は、その意味がはっきりしていた。
「なんかさ」
陽菜が、少しだけ笑う。
「実感ないんだよね」
「何が」
「もうすぐここ出るんだなーって」
軽い調子で言っているのに、その言葉は妙に重く感じた。
「……遠いな」
ぽつりと漏れる。
「まあね」
また、あっさりとした返事。
少しだけ沈黙が落ちる。
さっきまであんなに賑やかだったのに、二人の間だけ、静かになった気がした。
「でもさ」
陽菜が、前を向いたまま言う。
「今日みたいなのも、もう最後かもなーって思ったら、ちょっと寂しいかも」
その言葉に、胸の奥が少しだけざわつく。
「......そうだな」
うまく言葉が出てこない。
何か言わないといけない気がするのに、何を言えばいいのか分からなかった。
やがて、花火の時間が近づいてくる。
周りの人たちも、空がよく見える場所へと移動し始める。
俺たちも人の流れに乗って、空が見える場所へ向かう。
二人で並んで立ち、夜空を見上げる。
「そろそろだな」
「だね」
次の瞬間、大きな音とともに花火が広がった。
どん、と遅れて響く音。
赤、青、金色の光が、夜空いっぱいに咲いては消えていく。
「うわぁ……」
隣で、陽菜が小さく声を漏らす。
その横顔を、つい見てしまう。
光に照らされて、一瞬だけ明るくなって、また暗くなる。
その繰り返しの中で、
なぜか目が離せなかった。
あぁ……
そのとき、ふと思った。
こいつのこと、好きなんだ
あまりにも自然で、
あまりにも遅い気づきだった。
花火が終わると、周りが一気にざわつき始める。
現実に引き戻されるような感覚。
「帰るか」
「うん」
俺たちは並んで歩き出す。
来たときよりも少し静かな道。
さっきまでの光や音が嘘みたいに、落ち着いた夜の空気が広がっていた。
言いたいことはあるはずなのに、言葉がうまく出てこない。
「ねえ」
陽菜が、前を向いたまま言う。
「楽しかったね」
「……ああ」
短く答える。
それだけで、また沈黙が落ちる。
そして気が付けば家の前まで来ていた。
見慣れた景色のはずなのに、どこか少しだけ違って見えた。
「じゃあ──」
そう言いかけたとき。
「あ、待って」
陽菜が、少しだけ慌てたように声を出した。
「ん?」
「家にさ、花火あったんだよね。前に買ったやつ」
少しだけ視線を逸らしながら、続ける。
「良かったら、一緒にやらない?」
一瞬だけ、言葉の意味を考える。
帰るはずだった時間が、少しだけ伸びる。
それだけのことなのに、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……いいけど」
できるだけ普通に答える。
「ちょっと取ってくる」
そう言って、陽菜はすぐに家の中へ入っていった。
一人、外に残される。
さっきまで一緒にいたはずなのに、
急に静かになった夜が、少しだけ広く感じた。
遠くで、まだ祭りの名残みたいな音が聞こえる。
ポケットに手を突っ込んで、空を見上げる。
さっき見ていた花火の残像が、まだ少しだけ残っている気がした。
「おまたせ」
戻ってきた陽菜は、小さな袋を抱えていた。
「結構あるじゃん」
「昔の残り物だけどね」
二人で家の前のアスファルトに座り込む。
しゃがんだ高さが近くて、なんとなく視線の距離も近くなる。
袋の中から取り出したのは、よくある手持ち花火だった。
「火、つけるよ」
ライターの小さな音。
次の瞬間、しゅっと火が走る。
オレンジ色の光が、一気に広がった。
「おお」
思わず声が出る。
ぱちぱちと火花が弾けて、夜の空気を照らす。
さっきの打ち上げ花火とは違う、
手の中にある小さな光。
それを見つめる横顔が、すぐ隣にある。
「きれいだね」
陽菜が、小さく言う。
「だな」
それだけの会話。
でも、その“きれい”が、何を指しているのか分からなくて、少しだけ考えてしまう。
次の花火に火を移す。
青っぽい火が、静かに揺れる。
さっきよりも落ち着いた光。
「さっきのより好きかも」
「地味じゃね?」
「こういうのもいいじゃん」
そう言って、火をじっと見つめている。
その横顔が、やけに真剣で、少しだけ目を逸らした。
勢いよく火花が散る花火に変えると、今度は思わず少し距離を取る。
「近っ、危ないって」
「そっちが近づいてきたんだろ」
「違うし」
笑いながら、少しだけ離れる。
それでも、完全には離れない距離。
火花が消えると、また少しだけ近づく。
そんなことを何度か繰り返すうちに、
袋の中身は、少しずつ確実に減っていった。
「もうこれで最後かな」
陽菜が袋の中を覗きながら言う。
そこに残っていたのは、細い線香花火だった。
「線香花火か」
「定番だね」
二人で一本ずつ取る。
さっきまでの賑やかな花火とは違って、
妙に静かな空気が流れる。
ゆっくりと花火に火をつける。
じゅ、と小さな音。
先端に小さな火が灯る。
丸くらんだ火の玉が、ゆらゆらと揺れる。
落ちそうで、まだ落ちない。
ぎりぎりの形を保っている。
どうせ、もうすぐいなくなるのに……
ふと、そんな考えがよぎる。
勉強していたときの会話。
夏祭りで聞いた言葉。
“県外の大学、受けるつもり”
この時間も、この距離も、
全部、終わる。
そう思った瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、一気に浮かび上がってくる。
それでも……
言わないままでいいのか、と思った。
「なあ、陽菜──」
名前を呼ぶ。
その先を、言おうとする。
でも……
『ぱち、』
小さな音がして、火が崩れた。
──光が落ちる
──暗くなる
そして、一瞬で何もなくなる。
言葉が、続かなかった。
俺は隣を見る。
陽菜の線香花火も、同じタイミングで消えていた。
「……終わっちゃったね」
ぽつりと、そう言う。
「……だな」
それだけしか返せない。
言えたはずの言葉は、どこにも見当たらなくなっていた。
少しだけ沈黙が続く。
風の音だけが、静かに通り過ぎる。
さっきまで確かにあった光だけが、頭の中に残っている。
消え方まで、はっきりと思い出せるくらいに。
──落ちたのは火だけじゃなかった気がした。
〈完〉



