「ねえ、覚えてる?」
「ん?」
「去年の今ごろさ、あたし彼氏つくるって意気込んでたじゃん」
「あ、覚えてる! なに、しばらく会わないあいだに彼氏できた?」
「できたし、別れた」
「うそ! もしかして前に会ったときに話してた人?」

隣の席に座った女の子2人組の会話をなんとはなしに聞き流しながら、スマホの画面に目を落とした。時刻は15時47分。

外はまだ暑そうだけどそろそろ帰ろうか、と考えて目の前のグラスにささっているストローに手をかける。4分の1ほど残っていたラテを飲み干して出入り口へと向かった。

自動ドアをくぐると、途端に夏の熱い空気に包まれる。日光のまぶしさに目を細めながら雑踏の中に足を踏み入れた。

『ねえ、覚えてる?』

駅に向かって歩みを進めながらふと、店内で聞いた女の子の声が頭をよぎる。

聞き覚えがある。いつか、どこかで、わたしはその言葉を向けられたことがあるような気がした。たぶん男の声だった。

『ねえ、覚えてる?』

頭の中で言葉を繰り返してみるけれど、霧に包まれたようにぼんやりとしていて輪郭が見えてこない。なんだっけな、と思い出すことを半ばあきらめつつ足元に視線を落とした時だった。

シトラスに少し甘さを足したような香りがわずかに鼻をかすめる。その瞬間、ぼんやりと霧に包まれていた記憶が押し寄せるようによみがえった。

『ねえ、覚えてる? おまえ―――』


『おまえ、寂しいっつって泣いてたよね』
『……いつの話をしてんのよ』
『なつかしいよな』
『恥ずかしいから忘れて』
『忘れられたらね』

夕暮れの教室。ふらりと現れたあいつはわたしの前の席に陣取った。荷物を机の上に置いたあと、椅子に後ろ向きに座り、わたしを正面から見た。夕日がさしこむ教室はオレンジ色だった。あの日は外から響く音がやけに遠かった。

『寂しいときは寂しいって言えって、あのとき言ったよね、あんた』
『うん、言った。……続きは?』
『……俺がいつでも手握ってやるから、って』
『ふは、キザだな、小1の俺』
『うん』


足が止まっていた。無意識に息をつめていたことにも気がついて、現実に引き戻される。

覚えたての呼吸をするみたいにゆっくりと息を吸って、吐いた。胸の奥がぎゅっとしまる。あの香りは、あいつがつけていた香水と同じ香りだ。

もう一度ゆっくりと息を吸いこみながら、前を見た。それから振り返る。もう消えてしまった匂いをたどるように目をこらすけれど、あの男は見えない。

ちがう。あいつじゃない。だって、あいつはもう―――。

止めていた足を一歩、前に踏み出す。それと同時に、止まっていた時間が動き出したように耳に入る喧騒が大きくなった。生温い風が頬をなでる。

『ねえ、覚えてる?』

あの夕暮れのふたりきりの教室で、あいつは本当はなにを言いたかったんだろうか。わたしは本当は、なにを言いたかったんだろう。

いつもよりずっと近かったあいつの顔を、わたしを見た瞳を、いつまでも鮮明に覚えている。寂しいときにはいつでも手を握ってやると言った彼は、幼いわたしたちは、もう、この町にいない。