さよなら、バスタブの夫と子どもたち。

「ねぇねぇ。お母さん」

 わたしが朝ごはんの準備をしていると、娘がそういってキッチンへくる。
 日曜日の予定のない午前中は、どこかゆったりとしていた。
 フライパンの目玉焼きがジュウウと音を立てている。  
 娘の軽やかな足音と、テレビの声が重なる。

「ねぇ。お母さんってば!」
「なに? 大丈夫よ。あなたのは目玉焼き半熟にするから」
「そうだけど、そうじゃなくて。お母さんの初恋の話」
「え、またあの話? だからお母さんの初恋は」
「知ってる。お父さんでしょ?」
「そう。あ、塩コショウ忘れてた」

 わたしが塩とこしょうの瓶をとったとき。
 娘がにやりと笑ってこういう。

「お父さんの初恋の人ってねえ、お母さんなんだって!」
「え?」

 思わず、目玉焼きにコショウが多めにかかってしまう。
 夫のほうを見れば、家族全員分のコーヒーをいれながら、気まずそうにしていた。

「本当に?」

 わたしは娘というより夫に聞くかたちでそういった。
 夫は頬を赤くさせながらいう。

「まあ、うん、そうだよ」

 それだけいうと、うっかり手をすべらせてコーヒーを盛大にこぼした。
 いつもしっかりしている夫にしては、珍しい失敗だ。
 わたしが雑巾をもっていこうとすると、娘にいわれる。

「お母さん、焦げてる!」

 火をつけっぱなしで目を離したので、目玉焼きの白身が焦げていた。

「あーあ。もー。ふたりともしっかりしてよね」

 娘の言葉に、わたしと夫はそろっていう。

「誰のせいよ」「誰のせいだ」

 すると、騒ぎを聞きつけた息子が何事かとキッチンへ。
 それからキッチンの惨状を見て、ぽつりと一言。

「なにがあったんだよ……」

 わたしはそこで我に返った。
 はがれたタイルがカビている。
 このお風呂場は、嫌でも現実に戻されてしまう。
 わたしは妄想の最中に気づいたのだ。
 こうして、桜田くんと付き合い、プロポーズ、結婚、幸せな家庭を持つという妄想をしている。
 その一歩となる告白はした。迷惑ではないと桜田くんはいってくれた。
 でも、告白の返事は聞いていない。
 返事が聞きたい。
 そう思ったのは、桜田くんを呼び出してから一週間が経った頃だった。

 その日は家族の都合で、お風呂の時間が早かったことを感謝した。
 だって今はまだ夜の六時。
 もう学校で桜田くんをこっそり呼び出すのはリスクが高い。
 呼び出すところをクラスの誰かに見られたり、放課後の教室に誰かが入ってきたりしたら厄介だ。
 噂になったら、桜田くんに迷惑をかけてしまう。
 うまくいく恋だってダメになる。
 だから、クラスメイトに目撃されない方法。

 それは電話だ。

 緊急連絡網に、桜田くんの家の番号も載っている。
 電話してみよう。
 この時間なら、きっと桜田くんも家にいるだろう。
 
 わたしはさっそく、桜田くんの家に電話にかける。

 我が家は、母は農業、父はトラック運転手なので、両親が忙しいことが多い。
 だから電話を取るのは、もっぱらわたしの仕事だった。
 おまけに我が家のご飯は農作業を終えた夜八時。
 だから、夜六時なら桜田くんが出ると思い込んでいた。
 
 深呼吸をしてから電話をかける。
 呼び出し音の間、どんどん心拍数が上がっていく。
 電話超しに聞く桜田くんの声、どんなだろう。