さよなら、バスタブの夫と子どもたち。

 教室にわたしと桜田くんの二人きりになった。
 吹奏楽部の演奏とグラウンドの運動部の声が重なる。
 カキーンという野球部の練習の音が、やけにハッキリと耳に届く。
 なにか、いわなきゃ。
 わたしが呼びしたんだもん。
 桜田くんは窓の外を眺めている。
 何もいわないのは、迷惑だよね。
 わたしはすうっと息を吸って、それからいう。

「あの、手紙、読んだ?」

 桜田くんは、うなずく。

「はい。読みました」

 そうだよね! 読んだよね!
 だからこうして教室に残ってくれたんだよね!
 桜田くんはうつむいてしまい、表情がわからない。
 やっぱ迷惑だったのかな……。

「ごめんね、急に!」

 わたしはそういってから、なにが「急に」なんだろうと思い直してこういい直す。

「えっと、あの、急にっていうか、突然あんな手紙、迷惑だよね?」

 勢いで聞きたいことがするっと口に出た。
 桜田くんはわたしのほうを見ると、彼は一瞬だけわたしを見た。
 それから、足元に視線を落として続ける。

「いいえ、そんな迷惑とか、ぜんぜん、そんなことないです」
  
 桜田くんはゆっくりと、いつも以上に丁寧にそういった。
 わたしは心からホッとする。
 よかった、迷惑じゃないみたいだ。
 わたしは安心してこういう。

「そっか! それならよかった!」

 そういってにっこり笑った。
 そしてこう続ける。

「それが聞きたかったんだ。ありがとう」
 
 わたしの言葉に桜田くんは顔を上げ、それから肩にカバンをかけ直す。

「あの、ぼく部活がありますので……」
「あ、そうだよね。ごめんね。時間つかわせちゃって」
「いいえ、大丈夫です」

 桜田くんはそういうと、わたしを見てこういった。

「じゃあね。また明日」

 言い終えるが早いか、教室を出て行った。
 教室にひとり残されるわたし。
 今の、桜田くんの声だった。
 敬語、なかった。
 だからなんだか、違和感すらあった。
 だけど桜田くんの声だった。

「じゃあね。また明日」

 桜田くんは確かにそういった。
 いつも敬語の桜田くんが……。
 え? 聞き間違い?
 ううん、でも確かにそういった。

 わたしはふらふらと帰り支度をする。
 ようやく周囲の音が耳に流れ込んでくる。
 グラウンドの怒鳴り声。
 吹奏楽部のパートごとの練習。
 だけど、息を大きく吸えば、それらの音は、また消えてしまう。
 そしてわたしと桜田くんは、手をつないで役所に行き、結婚届を――。
 ダメダメ、ここで妄想してたら帰れない。
 わたしはカバンのチャックを勢いをよく閉めた。

 でも、校舎を歩きながらさきほどのやりとりをついつい考える。
 だって、桜田くんのため口、クラスでは聞いたことがない。
 桜田くんと仲の良さそうな男子たちにですから、彼は敬語だ。
 じゃあ、わたしは友だちよりも特別ってこと?
 いやいや、きっと桜田くんは気をつかってくれたんだよね。
 でも、告白は迷惑じゃなかったみたいだし。
 もしかして……。
 桜田くん、わたしの告白すごく喜んでくれてるとか?

 わたしはあれこれと考えてどんどん浮かれていく。
 そして、耳に残るのは桜田くんの声。

「じゃあね。また明日」

 明日も話しかけてくれないかなあ。
 ううん、学校で話しかけてくれなくても。
 わたしと桜田くんの心はつながっているんだ。
 自分の左手の小指に、赤い糸が見えた気がした。
 この先はきっと、桜田くんの小指へとつながっているはず!

 その日の帰りに見た下校の景色はいつもとちがっていた。
 古い家ばかりが立ち並ぶ住宅街も、畑ばかりの景色も、なにもかもが輝いて見えた。
 すでに辺りは薄暗くなっていたけど、輝く景色がワクワクする。
 子供の頃に見た夜の遊園地の景色みたいだ。
 ああ、なんだか結婚式の曲まで聞こえてくる。
 タタターンってやつ。ドラマとかでよく聞くあれ。

 結婚は飛躍し過ぎかな。お風呂でさんざん妄想しておいてなんだけど。
 だけどきっと、わたしのこれからの中学生活の未来は明るい。
 この輝く田んぼのように。
 これから何か楽しいことが起こるんだ。
 だって桜田くんと会話しちゃったんだよ!
 敬語もなかったんだよ!
 わたしはふわふわ浮いた気分のままで帰宅した。