カシリアは、目の前で起きている信じがたい光景に、思わず息を呑んだ。
気配を殺し、気づかれぬよう身を固くする。
何度も目を疑った。
耳を疑った。
だが間違いない。
人知れず泣いているその女性は、紛れもなく――リリスだった。
かすかに震える肩。
何かに縋るような瞳。
痛みを堪えるように歪んだ眉。
それは、彼の知る「完璧な公爵令嬢」とは、決して重ならない姿だった。
だが同時に、ふと思う。
もしかすると――この哀れで脆い姿こそが、完璧な仮面の奥に隠され続けていた“本当のリリス”なのではないか、と。
数年間、同じ学院にいながら、二人の接点はほとんどなかった。
茶会での形式的な挨拶。
試験結果の前での社交辞令。
そのたびに彼女は、常に完璧だった。
誰に対しても隙を見せず、自然と人々に感嘆を抱かせる存在。
――完璧であることが、当たり前になっていた。
それは、カシリア自身も例外ではなかった。
だからこそ、今になって理解する。
あまりにも単純な事実に。
リリスは“芸術品”ではない。
感情を持つ、一人の人間なのだ。
傷つき、痛みを知り、怒りも、弱さも抱える存在。
それを、ただ誰にも見せなかっただけ。
彼女が、あらゆる分野で常に最良の結果を出し続けてきた裏で――
一体どれほどの努力を、どれほどの孤独を積み重ねてきたのか。
そして――
何が、この強靭な精神を持つ少女を、ここまで打ち砕いたのか。
答えは分からない。
だが、この光景だけは、深く、深く、カシリアの心に刻み込まれた。
――――――――
……どれほど時間が経ったのだろう。
私は、ようやく涙を止めることができた。
床には、はっきりと涙の跡。
ケーキは、原型を留めていない。
大事な昼食だったのに。
立ち上がり、教室へ戻ろうとした、その瞬間。
「殿下、こちらにいらっしゃいますか?」
背後から、ナミスの声が響いた。
――え?
心臓が跳ねる。
なぜ、ここに?
しかも、殿下を探している?
慌ててケーキをポケットへ押し込み、袖で涙を拭い、制服の乱れを整える。
“完璧なリリス”の仮面を、反射的に被り直した。
「ナミスさん、こんにちは」
自然な微笑み。
完璧な声音。
「え……リリス様?こんなところにいらっしゃるとは……殿下をご存知ありませんか?」
「殿下?……いいえ、見ていないわ」
嘘は最低限。
余計な言葉は足さない。
短い沈黙。
互いに、探り合っているのが分かる。
「もうすぐ午後の授業です。戻られますか?」
「ええ、私も」
逃げ道は、もうない。
並んで歩き出す。
笑顔のまま、空気だけが重い。
――視線を感じる。
観察されている。
違和感。
善意に包んだ、鋭い目。
これは、ただの世間話ではない。
……やはり。
私が立候補辞退を申し出た件で、様子を探りに来たのだ。
胸が締め付けられる。
殿下は、どう思っただろう。
公平な競争の最中、理由も告げずに逃げた女を。
失望した、と思われても仕方ないわね……
その時。
「……リリス様、左手に、何かついていますが」
――しまった。
クリーム。
血の気が引く。
慌てて隠すが、遅い。
「こ、これは……」
言葉が出ない。
完璧で積み上げてきた仮面に、初めて走る、はっきりとした亀裂。
その瞬間。
「ナミス。」
背後から、聞き慣れた低い声。
振り返ると、カシリア殿下が立っていた。
「……こんにちは、殿下」
左手を隠したまま、ぎこちなく礼をする。
「奇遇だな、リリス」
何事もなかったような口調。
「用がある。ナミス、行くぞ」
そう言い残し、二人は先へ進んだ。
……助かった。
本当に、紙一重だった。
歩き去る背中を見送りながら、私は深く息を吐いた。
どんな形であれ。
どんな評価を受けようと。
――もう、平穏に生きたいだけなのに。
気配を殺し、気づかれぬよう身を固くする。
何度も目を疑った。
耳を疑った。
だが間違いない。
人知れず泣いているその女性は、紛れもなく――リリスだった。
かすかに震える肩。
何かに縋るような瞳。
痛みを堪えるように歪んだ眉。
それは、彼の知る「完璧な公爵令嬢」とは、決して重ならない姿だった。
だが同時に、ふと思う。
もしかすると――この哀れで脆い姿こそが、完璧な仮面の奥に隠され続けていた“本当のリリス”なのではないか、と。
数年間、同じ学院にいながら、二人の接点はほとんどなかった。
茶会での形式的な挨拶。
試験結果の前での社交辞令。
そのたびに彼女は、常に完璧だった。
誰に対しても隙を見せず、自然と人々に感嘆を抱かせる存在。
――完璧であることが、当たり前になっていた。
それは、カシリア自身も例外ではなかった。
だからこそ、今になって理解する。
あまりにも単純な事実に。
リリスは“芸術品”ではない。
感情を持つ、一人の人間なのだ。
傷つき、痛みを知り、怒りも、弱さも抱える存在。
それを、ただ誰にも見せなかっただけ。
彼女が、あらゆる分野で常に最良の結果を出し続けてきた裏で――
一体どれほどの努力を、どれほどの孤独を積み重ねてきたのか。
そして――
何が、この強靭な精神を持つ少女を、ここまで打ち砕いたのか。
答えは分からない。
だが、この光景だけは、深く、深く、カシリアの心に刻み込まれた。
――――――――
……どれほど時間が経ったのだろう。
私は、ようやく涙を止めることができた。
床には、はっきりと涙の跡。
ケーキは、原型を留めていない。
大事な昼食だったのに。
立ち上がり、教室へ戻ろうとした、その瞬間。
「殿下、こちらにいらっしゃいますか?」
背後から、ナミスの声が響いた。
――え?
心臓が跳ねる。
なぜ、ここに?
しかも、殿下を探している?
慌ててケーキをポケットへ押し込み、袖で涙を拭い、制服の乱れを整える。
“完璧なリリス”の仮面を、反射的に被り直した。
「ナミスさん、こんにちは」
自然な微笑み。
完璧な声音。
「え……リリス様?こんなところにいらっしゃるとは……殿下をご存知ありませんか?」
「殿下?……いいえ、見ていないわ」
嘘は最低限。
余計な言葉は足さない。
短い沈黙。
互いに、探り合っているのが分かる。
「もうすぐ午後の授業です。戻られますか?」
「ええ、私も」
逃げ道は、もうない。
並んで歩き出す。
笑顔のまま、空気だけが重い。
――視線を感じる。
観察されている。
違和感。
善意に包んだ、鋭い目。
これは、ただの世間話ではない。
……やはり。
私が立候補辞退を申し出た件で、様子を探りに来たのだ。
胸が締め付けられる。
殿下は、どう思っただろう。
公平な競争の最中、理由も告げずに逃げた女を。
失望した、と思われても仕方ないわね……
その時。
「……リリス様、左手に、何かついていますが」
――しまった。
クリーム。
血の気が引く。
慌てて隠すが、遅い。
「こ、これは……」
言葉が出ない。
完璧で積み上げてきた仮面に、初めて走る、はっきりとした亀裂。
その瞬間。
「ナミス。」
背後から、聞き慣れた低い声。
振り返ると、カシリア殿下が立っていた。
「……こんにちは、殿下」
左手を隠したまま、ぎこちなく礼をする。
「奇遇だな、リリス」
何事もなかったような口調。
「用がある。ナミス、行くぞ」
そう言い残し、二人は先へ進んだ。
……助かった。
本当に、紙一重だった。
歩き去る背中を見送りながら、私は深く息を吐いた。
どんな形であれ。
どんな評価を受けようと。
――もう、平穏に生きたいだけなのに。
