カシリアは踵を返し、風のように部屋を出て行った。
馬車の車輪が石畳を削り、火花を散らすような速度で王都を駆ける。
カシリアは座席に深く沈み込み、組んだ両手に額を押し当てていた。
「……くそッ」
自分の無力さが、歯痒くてたまらない。
どうすればいい。
どうすれば、彼女を救える。
屋敷に乗り込み、父カストを一喝するか。
それとも、リリスの手を取り、強引に連れ去るか。
どんな手段を取っても、リリスの名誉を傷つけるリスクが付きまとう。
だが、このまま放置すれば、彼女の心は確実に死ぬ。
『……助けて……』
耳の奥で、リリスの掠れた声がリフレインする。
あれは幻聴ではない。
彼女の魂からの悲鳴だ。
「急げ!もっと飛ばせ!」
カシリアは御者台に向かって怒鳴った。
一秒でも早く。
彼女の心が完全に砕け散ってしまう前に。
やがて、夕闇に沈むタロシア公爵邸の威容が車窓に現れた。
巨大な門が、怪物の口のように開かれている。
馬車が完全に停止するのを待たず、カシリアは扉を蹴り開けて飛び降りた。
「リリス!!」
「殿下!?いかがなさいましたか!」
玄関ホールにいた老執事が、血相を変えて飛び込んできた王太子に仰天し、駆け寄ってくる。
「リリスはどこだ!どこにいる!」
カシリアは執事の肩を掴み、揺さぶった。
「お、お嬢様でしたら……皆様とご一緒に、後庭のテラスで夕食を……」
「後庭か!」
カシリアは執事を突き放し、廊下を疾走した。
磨き上げられた床を蹴り、角を曲がり、重厚なガラス扉を押し開ける。
夜風が頬を打ち、庭園の木々がざわめく。
その先、ランタンの温かな光に包まれた一角があった。
「リリス!俺は――!」
叫びながら踏み込んだカシリアの足が、凍りついたように止まった。
喉の奥で声が引き攣り、呼吸が停止する。
そこには、この世の地獄があった。
白亜のテーブルを囲む、四人の人影。
上座には、満足げにワイングラスを傾けるカスト公爵。
その隣には、恐縮しながらも幸せそうに微笑むミカレン。
向かい側には、慣れないドレスに身を包み、ぎこちなくナイフとフォークを動かすエリナ。
そして――。
カシリアの視線が、一点に釘付けになる。
エリナの隣、カシリアから見て正面の席に、彼女はいた。
リリス・タロシア。
真紅のルビーがあしらわれた豪奢なドレスを纏い、背筋を完璧に伸ばして座っている。
その左手には、カシリアが贈った白い手袋がはめられたままだ。
「……あ……」
カシリアの口から、絶望の吐息が漏れる。
彼女は、笑っていた。
ミカレンが何かを話し、父が頷き、エリナが照れくさそうに頭をかく。
その光景を眺めながら、リリスは慈愛に満ちた聖母のような微笑みを浮かべ、優雅に相槌を打っていた。
「ええ、そうですわね。とても素敵なお話ですわ」
鈴を転がすような、美しい声。
微塵の陰りも、嫌悪も、拒絶も見当たらない。
完璧な調和。
完璧な家族団欒。
だが、カシリアには見えてしまった。
その笑顔があまりにも精巧すぎて、まるでガラスで作られた仮面のように冷たく、その奥にある瞳が、光の一切届かない深淵のように虚ろであることを。
「……殿下?」
リリスが顔を上げ、カシリアの存在に気づいた。
その瞬間、彼女の瞳に一瞬だけ――ほんの一瞬だけ、ガラスがひび割れるような動揺が走った。
だが、次の刹那には、それは完璧な「驚きと歓迎」の表情へと塗り替えられていた。
彼女はナプキンを置き、音もなく立ち上がる。
流れるような所作でカーテシーを行い、カシリアに向かって微笑みかけた。
「まあ、カシリア殿下。このような時間に、どうなさいましたの?」
「……リリス……」
カシリアは一歩後ずさった。
怖い。
目の前の彼女が、リリスであってリリスではない、別の何かに見えて、本能的な恐怖が湧き上がる。
怒ってくれ。
泣いてくれ。
「助けて」と言ってくれ。
そうすれば、俺は全てを投げ打ってでも君を連れ出せるのに。
なぜ、笑うんだ。
なぜ、そんな風に、自分を殺してまで、この茶番劇を演じ続けるんだ。
その完成された地獄絵図を前に、カシリアは言葉を失い、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
馬車の車輪が石畳を削り、火花を散らすような速度で王都を駆ける。
カシリアは座席に深く沈み込み、組んだ両手に額を押し当てていた。
「……くそッ」
自分の無力さが、歯痒くてたまらない。
どうすればいい。
どうすれば、彼女を救える。
屋敷に乗り込み、父カストを一喝するか。
それとも、リリスの手を取り、強引に連れ去るか。
どんな手段を取っても、リリスの名誉を傷つけるリスクが付きまとう。
だが、このまま放置すれば、彼女の心は確実に死ぬ。
『……助けて……』
耳の奥で、リリスの掠れた声がリフレインする。
あれは幻聴ではない。
彼女の魂からの悲鳴だ。
「急げ!もっと飛ばせ!」
カシリアは御者台に向かって怒鳴った。
一秒でも早く。
彼女の心が完全に砕け散ってしまう前に。
やがて、夕闇に沈むタロシア公爵邸の威容が車窓に現れた。
巨大な門が、怪物の口のように開かれている。
馬車が完全に停止するのを待たず、カシリアは扉を蹴り開けて飛び降りた。
「リリス!!」
「殿下!?いかがなさいましたか!」
玄関ホールにいた老執事が、血相を変えて飛び込んできた王太子に仰天し、駆け寄ってくる。
「リリスはどこだ!どこにいる!」
カシリアは執事の肩を掴み、揺さぶった。
「お、お嬢様でしたら……皆様とご一緒に、後庭のテラスで夕食を……」
「後庭か!」
カシリアは執事を突き放し、廊下を疾走した。
磨き上げられた床を蹴り、角を曲がり、重厚なガラス扉を押し開ける。
夜風が頬を打ち、庭園の木々がざわめく。
その先、ランタンの温かな光に包まれた一角があった。
「リリス!俺は――!」
叫びながら踏み込んだカシリアの足が、凍りついたように止まった。
喉の奥で声が引き攣り、呼吸が停止する。
そこには、この世の地獄があった。
白亜のテーブルを囲む、四人の人影。
上座には、満足げにワイングラスを傾けるカスト公爵。
その隣には、恐縮しながらも幸せそうに微笑むミカレン。
向かい側には、慣れないドレスに身を包み、ぎこちなくナイフとフォークを動かすエリナ。
そして――。
カシリアの視線が、一点に釘付けになる。
エリナの隣、カシリアから見て正面の席に、彼女はいた。
リリス・タロシア。
真紅のルビーがあしらわれた豪奢なドレスを纏い、背筋を完璧に伸ばして座っている。
その左手には、カシリアが贈った白い手袋がはめられたままだ。
「……あ……」
カシリアの口から、絶望の吐息が漏れる。
彼女は、笑っていた。
ミカレンが何かを話し、父が頷き、エリナが照れくさそうに頭をかく。
その光景を眺めながら、リリスは慈愛に満ちた聖母のような微笑みを浮かべ、優雅に相槌を打っていた。
「ええ、そうですわね。とても素敵なお話ですわ」
鈴を転がすような、美しい声。
微塵の陰りも、嫌悪も、拒絶も見当たらない。
完璧な調和。
完璧な家族団欒。
だが、カシリアには見えてしまった。
その笑顔があまりにも精巧すぎて、まるでガラスで作られた仮面のように冷たく、その奥にある瞳が、光の一切届かない深淵のように虚ろであることを。
「……殿下?」
リリスが顔を上げ、カシリアの存在に気づいた。
その瞬間、彼女の瞳に一瞬だけ――ほんの一瞬だけ、ガラスがひび割れるような動揺が走った。
だが、次の刹那には、それは完璧な「驚きと歓迎」の表情へと塗り替えられていた。
彼女はナプキンを置き、音もなく立ち上がる。
流れるような所作でカーテシーを行い、カシリアに向かって微笑みかけた。
「まあ、カシリア殿下。このような時間に、どうなさいましたの?」
「……リリス……」
カシリアは一歩後ずさった。
怖い。
目の前の彼女が、リリスであってリリスではない、別の何かに見えて、本能的な恐怖が湧き上がる。
怒ってくれ。
泣いてくれ。
「助けて」と言ってくれ。
そうすれば、俺は全てを投げ打ってでも君を連れ出せるのに。
なぜ、笑うんだ。
なぜ、そんな風に、自分を殺してまで、この茶番劇を演じ続けるんだ。
その完成された地獄絵図を前に、カシリアは言葉を失い、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
