努めて明るく振る舞うその声が、かえって痛々しく響く。
これ以上、踏み込ませてはいけない。
彼女の優しさに触れれば、私の仮面は脆くも崩れ去ってしまう。
「……うん。今日はファティーナの誕生日宴だから、午後の準備、お願いね」
私は彼女の気遣いに気づかぬふりをして、事務的な話題を投げかけた。
それが、互いを守るための唯一の防壁だった。
「……はい。かしこまりました」
ロキナもまた、それを察したように頷く。
「こちらは、昨日ご指示いただいた贈り物です」
差し出された箱を受け取る。
ずっしりとした重み。
特注のネックレス。
雪の結晶と翡翠。
昨日の私が、逃げる口実として注文し、彼女に取りに行かせた品。
「ありがとう」
ぼんやりと礼を言い、視線を逸らす。
「では、準備に戻ります。何かございましたら、いつでもお呼びください」
ロキナは深く一礼し、足音を忍ばせて去っていった。
遠ざかる背中を見送りながら、私は胸の奥で謝罪した。
ごめんね、ロキナ。
あなたを遠ざけるのは、あなたを愛しているからなの。
この泥沼に、あなたまで引きずり込みたくないから。
廊下を歩き、庭園へと続くテラスに出る。
秋の風に乗って、濃厚な甘い香りが鼻腔をくすぐった。
薔薇。
タロシア公爵邸の裏庭は、一面の薔薇園だ。
父が、亡き母サリスのために世界中から集めさせた、色とりどりの薔薇たち。
深紅、純白、淡いピンク、そして珍しい青紫。
母が生きていた頃、私はよく車椅子を押してここを散歩した。
母は花を愛で、私は母の笑顔を見ていた。
天気の良い日には、テーブルを出して、二人でお茶をしたこともあった。
『いい香りね、リリス』
『ええ、お母様。とても素敵』
幸福な記憶。
だが同時に、ここは呪いの場所でもある。
前世の記憶。
私が「姉」エリナを呼び出し、酒に毒を盛ったのも、確かこの東屋だった。
愛と罪が、幾重にも絡み合い、地層のように積み重なった場所。
「リリス!こっちだ」
父の声が、回想を切り裂いた。
視線を向けると、満開の薔薇に囲まれたガーデンテーブルに、父とミカレン、そしてエリナが座っていた。
「遅くなってごめんなさい、お父様」
私はドレスの裾を摘み、芝生の上を歩いていく。
花の香りが肺を満たす。
かつては母の匂いだと感じたその香りが、今は咽るような死臭のように感じられ、胸を焼いた。
「さあ、座りなさい。今日は天気がいいから、外で食べようと提案したんだ」
父は私のために椅子を引きながら、無邪気に言った。
「それに、今日は王家御用達の料理人を呼んだんだよ。エリナにも、本物の味を教えたくてね」
「うわぁ!すごーい!これ全部食べていいの!?」
エリナが目を輝かせ、並べられた豪勢な料理に歓声を上げる。
「ふふ、お行儀よくね、エリナ」
ミカレンが困ったように、けれど幸せそうに娘を嗜める。
完璧な構図だ。
太陽の下、美しい花々に囲まれた、仲睦まじい家族の昼食。
そこに、母の思い出が入り込む隙間はない。
父は、母のために作ったこの庭で、新しい家族と笑い合っている。
母の愛した薔薇の香りに包まれながら、別の女と娘に愛を囁いている。
残酷だとは思わないのだろうか。
それとも、過去も現在も全て愛しているという、博愛主義者のつもりなのだろうか。
「……はい、父様。楽しみですわ」
私は唇の端を持ち上げ、聖女のように微笑んだ。
溺れている。
光の中で、花の香りに包まれて、私は一人、冷たい水底でアップアップともがいている。
けれど、水面上の彼らには、私の痙攣が「楽しげなダンス」にしか見えていない。
いや。
そう見せているのは、私自身だ。
私が完璧に演じれば演じるほど、父は安心して、私を置き去りにしていく。
自分で自分を道化にし、自分で自分を殺している。
「リリス、顔色が少し白いようだが……やはり体調が優れないのか?」
父がふと、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
その優しさが、鋭利なナイフとなって心臓を刺す。
心配するなら、気づいて。
私がこんなにも苦しんでいることに。
この場所が、私にとってどれほどの拷問であるかに。
でも、私は首を横に振った。
「いいえ、お父様。少し寝不足なだけですわ」
「そうか……無理はいけないよ。しっかり食べて、精をつけるんだ」
父は安堵し、私の皿に肉料理を取り分けた。
どれほど大切な思い出も、色褪せる。
死者は生者に勝てない。
過去は現在に勝てない。
そして私は、この圧倒的な「幸福の暴力」に、決して勝てない。
「……ありがとうございます」
滑稽だ。
私はナイフとフォークを手に取り、砂を噛むように肉を口に運んだ。
薔薇の香りが、噎せ返るほど甘く、私の嗅覚を麻痺させていった。
これ以上、踏み込ませてはいけない。
彼女の優しさに触れれば、私の仮面は脆くも崩れ去ってしまう。
「……うん。今日はファティーナの誕生日宴だから、午後の準備、お願いね」
私は彼女の気遣いに気づかぬふりをして、事務的な話題を投げかけた。
それが、互いを守るための唯一の防壁だった。
「……はい。かしこまりました」
ロキナもまた、それを察したように頷く。
「こちらは、昨日ご指示いただいた贈り物です」
差し出された箱を受け取る。
ずっしりとした重み。
特注のネックレス。
雪の結晶と翡翠。
昨日の私が、逃げる口実として注文し、彼女に取りに行かせた品。
「ありがとう」
ぼんやりと礼を言い、視線を逸らす。
「では、準備に戻ります。何かございましたら、いつでもお呼びください」
ロキナは深く一礼し、足音を忍ばせて去っていった。
遠ざかる背中を見送りながら、私は胸の奥で謝罪した。
ごめんね、ロキナ。
あなたを遠ざけるのは、あなたを愛しているからなの。
この泥沼に、あなたまで引きずり込みたくないから。
廊下を歩き、庭園へと続くテラスに出る。
秋の風に乗って、濃厚な甘い香りが鼻腔をくすぐった。
薔薇。
タロシア公爵邸の裏庭は、一面の薔薇園だ。
父が、亡き母サリスのために世界中から集めさせた、色とりどりの薔薇たち。
深紅、純白、淡いピンク、そして珍しい青紫。
母が生きていた頃、私はよく車椅子を押してここを散歩した。
母は花を愛で、私は母の笑顔を見ていた。
天気の良い日には、テーブルを出して、二人でお茶をしたこともあった。
『いい香りね、リリス』
『ええ、お母様。とても素敵』
幸福な記憶。
だが同時に、ここは呪いの場所でもある。
前世の記憶。
私が「姉」エリナを呼び出し、酒に毒を盛ったのも、確かこの東屋だった。
愛と罪が、幾重にも絡み合い、地層のように積み重なった場所。
「リリス!こっちだ」
父の声が、回想を切り裂いた。
視線を向けると、満開の薔薇に囲まれたガーデンテーブルに、父とミカレン、そしてエリナが座っていた。
「遅くなってごめんなさい、お父様」
私はドレスの裾を摘み、芝生の上を歩いていく。
花の香りが肺を満たす。
かつては母の匂いだと感じたその香りが、今は咽るような死臭のように感じられ、胸を焼いた。
「さあ、座りなさい。今日は天気がいいから、外で食べようと提案したんだ」
父は私のために椅子を引きながら、無邪気に言った。
「それに、今日は王家御用達の料理人を呼んだんだよ。エリナにも、本物の味を教えたくてね」
「うわぁ!すごーい!これ全部食べていいの!?」
エリナが目を輝かせ、並べられた豪勢な料理に歓声を上げる。
「ふふ、お行儀よくね、エリナ」
ミカレンが困ったように、けれど幸せそうに娘を嗜める。
完璧な構図だ。
太陽の下、美しい花々に囲まれた、仲睦まじい家族の昼食。
そこに、母の思い出が入り込む隙間はない。
父は、母のために作ったこの庭で、新しい家族と笑い合っている。
母の愛した薔薇の香りに包まれながら、別の女と娘に愛を囁いている。
残酷だとは思わないのだろうか。
それとも、過去も現在も全て愛しているという、博愛主義者のつもりなのだろうか。
「……はい、父様。楽しみですわ」
私は唇の端を持ち上げ、聖女のように微笑んだ。
溺れている。
光の中で、花の香りに包まれて、私は一人、冷たい水底でアップアップともがいている。
けれど、水面上の彼らには、私の痙攣が「楽しげなダンス」にしか見えていない。
いや。
そう見せているのは、私自身だ。
私が完璧に演じれば演じるほど、父は安心して、私を置き去りにしていく。
自分で自分を道化にし、自分で自分を殺している。
「リリス、顔色が少し白いようだが……やはり体調が優れないのか?」
父がふと、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
その優しさが、鋭利なナイフとなって心臓を刺す。
心配するなら、気づいて。
私がこんなにも苦しんでいることに。
この場所が、私にとってどれほどの拷問であるかに。
でも、私は首を横に振った。
「いいえ、お父様。少し寝不足なだけですわ」
「そうか……無理はいけないよ。しっかり食べて、精をつけるんだ」
父は安堵し、私の皿に肉料理を取り分けた。
どれほど大切な思い出も、色褪せる。
死者は生者に勝てない。
過去は現在に勝てない。
そして私は、この圧倒的な「幸福の暴力」に、決して勝てない。
「……ありがとうございます」
滑稽だ。
私はナイフとフォークを手に取り、砂を噛むように肉を口に運んだ。
薔薇の香りが、噎せ返るほど甘く、私の嗅覚を麻痺させていった。
