白亜の馬車が、公爵家の馬車のすぐ後ろに停車し、砂埃を上げていた。
明らかに、追ってきていたのだ。
なぜ?
私の心臓が早鐘を打つ。
扉が開き、そこから現れた人物を見て、私は息を呑んだ。
カシリア殿下。
護衛も最小限に、簡素だが上質な平服を纏い、まるで獲物を追い詰めた狩人のような目で私を見ていた。
「し、失礼いたします。殿下……」
私は反射的に膝を折り、礼を取った。
視線を合わせられない。
昨夜の失態、そして私の秘密を知るかもしれないという恐怖が、私を萎縮させる。
「リリス……あの……昨日……」
殿下が私に歩み寄り、何かを言いかけて口ごもった。
その表情には、王太子としての威厳と、一人の青年としての戸惑いが同居していた。
沈黙が痛い。
私は耐えきれず、顔を上げた。
「……殿下、本日はどういったご用件でしょうか?」
「侍女から聞いたんだ。君が東屋の椅子で倒れていて、足も少し怪我をしていたと。……無事かどうか、それを確かめたくて」
殿下の視線が、私の足元へ、そして手袋をはめた左手へと動く。
足の怪我。
昨夜、私が裸足で彷徨った代償。
それを知っているということは、殿下はやはり、あの夜の私を詳細に見ていたということだ。
「昨日は、ご迷惑をおかけしました。ご心配をおかけして申し訳ありません」
私は深く頭を下げた。
顔を上げられない。
恥辱と恐怖で、頬が熱くなる。
「おかげさまで、足ももう大丈夫です」
無理やり作った微笑みは、引きつっていたかもしれない。
殿下は小さく息をつき、肩の力を抜いた。
「……それなら、よかった」
安堵の色。
……それだけのために?
王太子が、公務を放り出してまで、一介の貴族令嬢の足の怪我を確認しに来たというの?
「今日は、ファティーナの誕生日の贈り物を買いに来ました」
早くこの場を立ち去りたい一心で、私は用件を告げる。
「ひとりで出歩くのは危険だ。護衛もいないのだろう?」
「いえ、ロキナと……」
振り返った私は、言葉を失った。
ロキナも、御者も、馬車ごと数十メートル後方へ移動していた。
殿下の護衛たちが、巧みに彼らを遠ざけていたのだ。
「ちょうど俺も宝飾品を買う用事がある。一緒に行こう」
殿下は有無を言わせぬ口調で告げた。
それは提案ではなく、命令だった。
拒否権など、最初から私にはない。
カラン、と涼やかな鐘の音が鳴り、重厚な扉が開かれる。
「いらっしゃいませ……カ、カ、カシリア殿下!?」
出迎えた店主の目が飛び出しそうになる。
店内は一瞬で静まり返り、次いで蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「騒ぐな」
殿下の一言。
絶対零度の声色が、店内の空気を一瞬で凍結させた。
「リリス嬢の買い物に付き合っているだけだ。特別扱いは不要だが……邪魔はするな」
店員たちが震え上がり、蜘蛛の子を散らすように距離を取る。
私たちは、不自然なほど静まり返った店内を、並んで歩いた。
ショーケースの中では、ダイヤモンドやサファイアが冷たい光を放っている。
「これなど、どうだ」
殿下が指差したのは、深紅のルビーがあしらわれた髪飾りだった。
あの日、私が庭園に落としたものと、よく似ていた。
「……素敵ですが、私には少し派手すぎますわ」
私は視線を逸らす。
殿下の意図が読めない。
試しているの?
それとも、本当にただの気遣い?
前世の記憶にある殿下は、私にこれほど関心を持たなかった。
この「優しさ」は、私を救済するためのものなのか、それとも新たな断罪への布石なのか。
思考が空転する。
私は逃げるように、隣のショーケースへ移動した。
そこで、一つのネックレスに目が留まる。
白銀で作られた繊細な雪の結晶。
その中心に翡翠が埋め込まれ、周囲を瑪瑙が彩っている。
冷たく、美しく、そしてどこか儚い。
八十金貨。
ファティーナへの贈り物には高価すぎるが、これなら彼女の虚栄心を満たせるだろう。
少し手を加えれば……特注品にできる
そう考えて、店員を呼ぼうとした時だった。
「お金は持ってるって言ってるでしょ!?なんで入れないのよ!」
入口付近から響き渡ったその声は、静謐な店内の空気を暴力的に引き裂いた。
ガラスが共鳴するほどの甲高い響き。
品性のかけらもない、聞く者の神経を逆撫でするような音色。
私の心臓が、跳ねるのを忘れて止まった。
指先から血の気が引き、持っていた扇子が手から滑り落ちそうになる。
呼吸ができない。
肺が鉛のように重い。
この声。
この、鼓膜を直接殴りつけるような、無遠慮な声。
間違えるはずがない。
私の魂に焼き印のように刻まれた、呪いの旋律。
「お客様、ここは会員制でして……」
「だから!お父様がくれたお金があるってば!パパがここならいいものがあるって言ったんだよ!」
パパ。
その単語が、鋭利なナイフとなって私の胸を刺し貫く。
父が、彼女に教えたの?
私には、ロキナに任せきりにしていたくせに。
彼女には、自分の口で、この店のことを教えたの?
「……エリナ……」
唇が震え、音にならない名前を紡ぐ。
視界の端で、入口で暴れる少女の姿が見えた。
派手なサファイア色のドレス。
無造作に結い上げられた金髪。
そして、太陽の下で育ったような、健康的な小麦色の肌。
私から、父を奪った女。
私から、未来を奪った女。
明らかに、追ってきていたのだ。
なぜ?
私の心臓が早鐘を打つ。
扉が開き、そこから現れた人物を見て、私は息を呑んだ。
カシリア殿下。
護衛も最小限に、簡素だが上質な平服を纏い、まるで獲物を追い詰めた狩人のような目で私を見ていた。
「し、失礼いたします。殿下……」
私は反射的に膝を折り、礼を取った。
視線を合わせられない。
昨夜の失態、そして私の秘密を知るかもしれないという恐怖が、私を萎縮させる。
「リリス……あの……昨日……」
殿下が私に歩み寄り、何かを言いかけて口ごもった。
その表情には、王太子としての威厳と、一人の青年としての戸惑いが同居していた。
沈黙が痛い。
私は耐えきれず、顔を上げた。
「……殿下、本日はどういったご用件でしょうか?」
「侍女から聞いたんだ。君が東屋の椅子で倒れていて、足も少し怪我をしていたと。……無事かどうか、それを確かめたくて」
殿下の視線が、私の足元へ、そして手袋をはめた左手へと動く。
足の怪我。
昨夜、私が裸足で彷徨った代償。
それを知っているということは、殿下はやはり、あの夜の私を詳細に見ていたということだ。
「昨日は、ご迷惑をおかけしました。ご心配をおかけして申し訳ありません」
私は深く頭を下げた。
顔を上げられない。
恥辱と恐怖で、頬が熱くなる。
「おかげさまで、足ももう大丈夫です」
無理やり作った微笑みは、引きつっていたかもしれない。
殿下は小さく息をつき、肩の力を抜いた。
「……それなら、よかった」
安堵の色。
……それだけのために?
王太子が、公務を放り出してまで、一介の貴族令嬢の足の怪我を確認しに来たというの?
「今日は、ファティーナの誕生日の贈り物を買いに来ました」
早くこの場を立ち去りたい一心で、私は用件を告げる。
「ひとりで出歩くのは危険だ。護衛もいないのだろう?」
「いえ、ロキナと……」
振り返った私は、言葉を失った。
ロキナも、御者も、馬車ごと数十メートル後方へ移動していた。
殿下の護衛たちが、巧みに彼らを遠ざけていたのだ。
「ちょうど俺も宝飾品を買う用事がある。一緒に行こう」
殿下は有無を言わせぬ口調で告げた。
それは提案ではなく、命令だった。
拒否権など、最初から私にはない。
カラン、と涼やかな鐘の音が鳴り、重厚な扉が開かれる。
「いらっしゃいませ……カ、カ、カシリア殿下!?」
出迎えた店主の目が飛び出しそうになる。
店内は一瞬で静まり返り、次いで蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「騒ぐな」
殿下の一言。
絶対零度の声色が、店内の空気を一瞬で凍結させた。
「リリス嬢の買い物に付き合っているだけだ。特別扱いは不要だが……邪魔はするな」
店員たちが震え上がり、蜘蛛の子を散らすように距離を取る。
私たちは、不自然なほど静まり返った店内を、並んで歩いた。
ショーケースの中では、ダイヤモンドやサファイアが冷たい光を放っている。
「これなど、どうだ」
殿下が指差したのは、深紅のルビーがあしらわれた髪飾りだった。
あの日、私が庭園に落としたものと、よく似ていた。
「……素敵ですが、私には少し派手すぎますわ」
私は視線を逸らす。
殿下の意図が読めない。
試しているの?
それとも、本当にただの気遣い?
前世の記憶にある殿下は、私にこれほど関心を持たなかった。
この「優しさ」は、私を救済するためのものなのか、それとも新たな断罪への布石なのか。
思考が空転する。
私は逃げるように、隣のショーケースへ移動した。
そこで、一つのネックレスに目が留まる。
白銀で作られた繊細な雪の結晶。
その中心に翡翠が埋め込まれ、周囲を瑪瑙が彩っている。
冷たく、美しく、そしてどこか儚い。
八十金貨。
ファティーナへの贈り物には高価すぎるが、これなら彼女の虚栄心を満たせるだろう。
少し手を加えれば……特注品にできる
そう考えて、店員を呼ぼうとした時だった。
「お金は持ってるって言ってるでしょ!?なんで入れないのよ!」
入口付近から響き渡ったその声は、静謐な店内の空気を暴力的に引き裂いた。
ガラスが共鳴するほどの甲高い響き。
品性のかけらもない、聞く者の神経を逆撫でするような音色。
私の心臓が、跳ねるのを忘れて止まった。
指先から血の気が引き、持っていた扇子が手から滑り落ちそうになる。
呼吸ができない。
肺が鉛のように重い。
この声。
この、鼓膜を直接殴りつけるような、無遠慮な声。
間違えるはずがない。
私の魂に焼き印のように刻まれた、呪いの旋律。
「お客様、ここは会員制でして……」
「だから!お父様がくれたお金があるってば!パパがここならいいものがあるって言ったんだよ!」
パパ。
その単語が、鋭利なナイフとなって私の胸を刺し貫く。
父が、彼女に教えたの?
私には、ロキナに任せきりにしていたくせに。
彼女には、自分の口で、この店のことを教えたの?
「……エリナ……」
唇が震え、音にならない名前を紡ぐ。
視界の端で、入口で暴れる少女の姿が見えた。
派手なサファイア色のドレス。
無造作に結い上げられた金髪。
そして、太陽の下で育ったような、健康的な小麦色の肌。
私から、父を奪った女。
私から、未来を奪った女。
