「殿下!!」
ロキナの悲鳴のような声を背に、カシリアは再び走り出した。
ロキナもまた、主人の異変を察知し、震える手で御者に公爵への伝令を命じた。
事態は、もはや子供たちの手には負えない領域へと踏み込んでいた。
学院の庭園は、死に絶えたように静まり返っていた。
宴の喧騒は遠く、ただ虫の音と、己の足音だけが鼓膜を叩く。
「リリス!どこだ、リリス!!」
叫んでも、返ってくるのは虚しい反響音だけ。
広大な闇が、カシリアの焦燥を飲み込んでいく。
彼女はどこへ消えた?
誘拐か?いや、王家主催の厳戒態勢下でそれは考えにくい。
ならば、倒れているのか?それとも――。
不吉な想像を振り払うように頭を振った時、月光を反射して煌めくものが視界の端を掠めた。
カシリアは足を止め、芝生の上に落ちているそれを拾い上げた。
「これは……」
深紅のルビーが埋め込まれた、繊細な銀細工の髪飾り。
間違いない。
リリスのものだ。
彼女は、自らの装飾品をぞんざいに扱うような女性ではない。
それがこんな場所に落ちているなど、異常事態以外の何物でもない。
数日前、路地裏で血に塗れていた彼女の姿が脳裏にフラッシュバックする。
あの時のような絶望が、再び彼女を襲っているというのか。
カシリアの視線が、地面を這うように動く。
そこには、点々と続く黒い染みがあった。
血か?
カシリアは膝をつき、指先でその染みを拭って鼻を近づけた。
鉄錆の臭いはない。
豊潤な葡萄の香り――ワインだ。
「ワイン……?」
リリスは酒を嗜まないはずだ。
だが、そのワインの痕跡は、まるで傷ついた獣が這いずった跡のように、庭園の奥深くへと続いていた。
そして、その先には脱ぎ捨てられた片方の靴。
まるで、何かから逃げるように。
あるいは、何かを捨てるように。
痕跡が指し示す方角。
カシリアはハッと顔を上げた。
この先にあるのは――バラ園。
かつて彼女が、誰にも見せない涙を流していた場所。
そして、彼女が最も心を許していた母との思い出の場所。
「まさか……」
背筋を悪寒が駆け抜けた。
嫌な予感が確信へと変わる。
カシリアは地面を蹴った。
先ほどまでの疲労など消し飛んでいた。
心臓が破裂しそうなほどの拍動が、彼を突き動かす。
間に合ってくれ。
頼むから、間に合ってくれ。
祈りは叫びとなり、夜気を切り裂く。
「リリスーーッ!!」
バラ園は、冷ややかな月の光に満たされていた。
咲き乱れる白薔薇と赤薔薇が、静寂の中で妖しく揺れている。
人の気配はない。
ただ、甘く重たい花の香りだけが漂っている。
「リリス!いるんだろう!?返事をしてくれ!」
カシリアは肩で息をしながら、迷路のように入り組んだ生垣の間を彷徨った。
「頼む……お願いだ……!」
王族としての矜持も、体面も、すべてかなぐり捨てて、彼はただ一人の少女の名を呼び続けた。
そして。
生垣を抜けた最奥、古びた東屋の影で、彼は息を呑んだ。
時が、凍りついた。
「……リ、リ……ス……?」
そこには、この世のものとは思えないほど美しく、そして残酷な光景があった。
月光のスポットライトを浴びて、リリスが石畳の上に横たわっていた。
深紅のドレスは花弁のように広がり、その上には散乱したワインの赤と、手首から流れた本物の鮮血が混じり合い、おぞましくも幻想的な模様を描いている。
乱れた髪は夜露に濡れ、蒼白な頬には、乾いた涙の痕がクリスタルのように光っていた。
閉ざされた瞳。
微動だにしない胸。
その姿は、毒林檎を口にして永遠の眠りについた童話の姫君のように、静謐で、完成されていた。
周囲には砕けたグラスの破片と、血塗られた硝子の切っ先が転がっている。
「あ……ああ……」
カシリアの喉から、言葉にならない嗚咽が漏れた。
足が震え、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪え、彼は震える足取りで彼女のもとへ歩み寄った。
世界が音を失い、ただ目の前の「悲劇」だけが、圧倒的な質量を持ってカシリアにのしかかっていた。
ロキナの悲鳴のような声を背に、カシリアは再び走り出した。
ロキナもまた、主人の異変を察知し、震える手で御者に公爵への伝令を命じた。
事態は、もはや子供たちの手には負えない領域へと踏み込んでいた。
学院の庭園は、死に絶えたように静まり返っていた。
宴の喧騒は遠く、ただ虫の音と、己の足音だけが鼓膜を叩く。
「リリス!どこだ、リリス!!」
叫んでも、返ってくるのは虚しい反響音だけ。
広大な闇が、カシリアの焦燥を飲み込んでいく。
彼女はどこへ消えた?
誘拐か?いや、王家主催の厳戒態勢下でそれは考えにくい。
ならば、倒れているのか?それとも――。
不吉な想像を振り払うように頭を振った時、月光を反射して煌めくものが視界の端を掠めた。
カシリアは足を止め、芝生の上に落ちているそれを拾い上げた。
「これは……」
深紅のルビーが埋め込まれた、繊細な銀細工の髪飾り。
間違いない。
リリスのものだ。
彼女は、自らの装飾品をぞんざいに扱うような女性ではない。
それがこんな場所に落ちているなど、異常事態以外の何物でもない。
数日前、路地裏で血に塗れていた彼女の姿が脳裏にフラッシュバックする。
あの時のような絶望が、再び彼女を襲っているというのか。
カシリアの視線が、地面を這うように動く。
そこには、点々と続く黒い染みがあった。
血か?
カシリアは膝をつき、指先でその染みを拭って鼻を近づけた。
鉄錆の臭いはない。
豊潤な葡萄の香り――ワインだ。
「ワイン……?」
リリスは酒を嗜まないはずだ。
だが、そのワインの痕跡は、まるで傷ついた獣が這いずった跡のように、庭園の奥深くへと続いていた。
そして、その先には脱ぎ捨てられた片方の靴。
まるで、何かから逃げるように。
あるいは、何かを捨てるように。
痕跡が指し示す方角。
カシリアはハッと顔を上げた。
この先にあるのは――バラ園。
かつて彼女が、誰にも見せない涙を流していた場所。
そして、彼女が最も心を許していた母との思い出の場所。
「まさか……」
背筋を悪寒が駆け抜けた。
嫌な予感が確信へと変わる。
カシリアは地面を蹴った。
先ほどまでの疲労など消し飛んでいた。
心臓が破裂しそうなほどの拍動が、彼を突き動かす。
間に合ってくれ。
頼むから、間に合ってくれ。
祈りは叫びとなり、夜気を切り裂く。
「リリスーーッ!!」
バラ園は、冷ややかな月の光に満たされていた。
咲き乱れる白薔薇と赤薔薇が、静寂の中で妖しく揺れている。
人の気配はない。
ただ、甘く重たい花の香りだけが漂っている。
「リリス!いるんだろう!?返事をしてくれ!」
カシリアは肩で息をしながら、迷路のように入り組んだ生垣の間を彷徨った。
「頼む……お願いだ……!」
王族としての矜持も、体面も、すべてかなぐり捨てて、彼はただ一人の少女の名を呼び続けた。
そして。
生垣を抜けた最奥、古びた東屋の影で、彼は息を呑んだ。
時が、凍りついた。
「……リ、リ……ス……?」
そこには、この世のものとは思えないほど美しく、そして残酷な光景があった。
月光のスポットライトを浴びて、リリスが石畳の上に横たわっていた。
深紅のドレスは花弁のように広がり、その上には散乱したワインの赤と、手首から流れた本物の鮮血が混じり合い、おぞましくも幻想的な模様を描いている。
乱れた髪は夜露に濡れ、蒼白な頬には、乾いた涙の痕がクリスタルのように光っていた。
閉ざされた瞳。
微動だにしない胸。
その姿は、毒林檎を口にして永遠の眠りについた童話の姫君のように、静謐で、完成されていた。
周囲には砕けたグラスの破片と、血塗られた硝子の切っ先が転がっている。
「あ……ああ……」
カシリアの喉から、言葉にならない嗚咽が漏れた。
足が震え、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪え、彼は震える足取りで彼女のもとへ歩み寄った。
世界が音を失い、ただ目の前の「悲劇」だけが、圧倒的な質量を持ってカシリアにのしかかっていた。
