視界が暗転し、意識が泥の中へと沈んでいく。
その深淵の底で、焼き付いて離れない光景が、鮮血のような赤さを伴って脳裏に浮かび上がる。
どうしても忘却の彼方へ追いやることのできない、呪いのような記憶。
前世のあの日。
私が世界の頂点に立ち、そして地獄へと突き落とされた、始まりの日。
◇◇◇
朝霧が晴れると同時に、学院の中庭に巨大な掲示板が屹立していた。
そこに張り出された羊皮紙には、無機質な数字の羅列が刻まれている。
私はその最上段に、己の名を見つけた。
『第一位:リリス・タロシア』
息を吸い込む。
肺が熱くなり、指先が微かに震える。
予測はしていた。
確信もあった。
だが、現実として突きつけられたその事実は、私の血管に火を放つような高揚をもたらした。
周囲がざわめき、やがて爆発的な歓声へと変わる。
「おめでとうございます、リリス様!王国始まって以来の快挙です!」
「王族を抑えての首位……!まさに奇跡だ!」
「我々の誇りです!歴史が変わる瞬間を目撃した!」
教授たちが顔を紅潮させ、唾を飛ばしながら私を取り囲む。
生徒たちが畏敬の眼差しを向け、道を開ける。
心地よい。
肌にまとわりつく羨望の視線、鼓膜を震わす称賛の嵐。
私は背筋を伸ばし、完璧な礼で応える。
これこそが、私が求めていた景色。
母上の遺言を遂行し、誰よりも優れた貴族として君臨する、絶対的な証明。
ふと、視界の端に動く影を捉えた。
カシリア殿下。
この国の第一王子であり、誰もが認める天才。
彼は今、取り巻きの令嬢たちに慰めの言葉をかけられながら、彫像のように硬直していた。
その表情から、いつもの余裕と傲慢さは消え失せている。
笑顔でもなく、悲嘆でもない。
ただ、受け入れがたい現実を前に、魂が抜け落ちたような虚無の顔。
敗北者。
その三文字が、彼の額に烙印として押されているように見えた。
ああ、なんと甘美な眺めだろう。
高貴な王子が、臣下である私に膝を屈する瞬間。
生徒会長となった私の指示に、彼が従わねばならない未来。
想像するだけで、背筋がゾクリと粟立つ。
私は唇の端を吊り上げ、優雅な足取りで彼へと歩み寄った。
「殿下。これから、どうぞよろしくお願いいたします」
私の声は、鈴の音のように澄んで響く。
カシリア殿下はハッと顔を上げ、私を見た。
その瞳が一瞬揺らぎ、引きつったように口元が歪む。
「……あ、ああ。一緒に……頑張ろう」
頬の筋肉が痙攣し、無理やりに作られた笑顔が張り付く。
怒りを飲み込み、屈辱を噛み殺し、それでも王族としての体面を保とうとする滑稽な姿。
鎖に繋がれ、牙を抜かれた猛獣。
愛らしい。
心の底から、そう思った。
「これから、より素晴らしい学生会を一緒に作りましょう、殿下」
私は追い打ちをかけるように、最も慈悲深く、最も残酷な言葉を投げかける。
「……ああ……」
殿下の返事は、風に消え入りそうなほど弱い。
胸の空洞が、黒く濁った蜜で満たされていく。
他者の尊厳を踏みにじり、その上に立つ快感。
これが権力。
これが勝者の味。
今日は、私の人生で最も輝かしい日だ。
社交界は私の名で埋め尽くされ、父上は私を抱きしめて褒め称えるだろう。
『お母様、見ていらっしゃいますか』
心の中で、亡き母へと語りかける。
『私は成し遂げました。あなたの望み通り、この世で最も気高く、優秀な貴族となりました』
帰路の馬車に乗り込む足取りは、羽が生えたように軽かった。
早く父上に会いたい。
この栄光を捧げ、あの温かな手で頭を撫でてほしい。
その一心で、私は家路を急いだ。
公爵邸の門をくぐり、馬車が完全に停止するのも待たず、私は石畳へと飛び降りた。
ドレスの裾が翻る。
「ただいま戻りました!」
弾んだ声が玄関ホールに響く。
だが、返ってくるはずの声がない。
いつもなら、扉が開くと同時にロキナが駆け寄り、笑顔で出迎えてくれるはずなのに。
ホールは静まり返り、どこかよそよそしい空気が澱んでいる。
使用人たちの姿も見当たらない。
違和感が胸を掠める。
けれど、高揚した気分がそれを打ち消した。
きっと、父上がサプライズを用意して待っていてくださるのだ。
今夜は父上と二人で祝杯を挙げる約束をしている。
広間にいらっしゃるに違いない。
「父様!」
私は重厚な両開きの扉に手をかけ、勢いよく押し開けた。
光が溢れる室内。
そこには確かに、父上の姿があった。
けれど。
父上は一人ではなかった。
豪奢な長椅子の傍らに、二人の影が寄り添っている。
一人は、亡き母上と同じくらいの年頃の、艶やかな美貌を持つ貴族女性。
そしてもう一人は、私と同じ年頃に見える、華やかな少女。
「……あ……」
喉の奥で言葉が凍りつく。
思考が停止し、時間が引き伸ばされる。
誰?
なぜ、家族団欒の場に、見知らぬ他人がいるの?
父上の表情が強張る。
まるで、見てはいけないものを見られた子供のような、気まずさと動揺。
私は咄嗟に呼吸を整え、染み付いた礼儀作法で仮面を被り直した。
「失礼いたしました。改めまして、リリス・タロシアと申します。カスト・タロシア公爵の娘です」
完璧なカーテシー。
だが、目の前の二人は目を伏せ、居心地悪そうに身を縮めるだけだ。
返事がない。
沈黙が、部屋の空気を鉛のように重くする。
父上も、顔色が蒼白だ。
何かがおかしい。
決定的に、何かが狂っている。
私の視線が、少女の顔に吸い寄せられる。
彼女がおずおずと顔を上げ、私を見た。
その瞳。
溶かした黄金を流し込んだような、鮮烈な金色。
心臓が跳ね上がる。
ありえない。
この瞳の色は、タロシア公爵家に代々伝わる、高貴な血統の証。
貴族の中でも稀有な、父上と同じ色。
なぜ、この少女がそれを持っている?
背筋を冷たい汗が伝い落ちる。
まさか。
いや、そんなはずはない。
父上は母上を愛していた。
私を愛している。
「……リリス。座りなさい」
父上の声は、地の底から響くように重く、しわがれていた。
私は操り人形のようにぎこちなく歩を進め、指定された椅子に腰を下ろす。
先ほどまでの幸福な余韻は、跡形もなく消え失せていた。
胃の腑が冷たく縮み上がる。
聞きたくない。
その口から紡がれる言葉を、聞きたくない。
「……リリス。これから話すことを、落ち着いて聞いてほしい」
「……はい、父様」
心臓が、早鐘を打つ。
嫌な予感が、黒い霧となって視界を覆う。
父上が意を決したように息を吸い、二人を手で示した。
「紹介しよう。この方が――君の新しい母となる、ミカレンだ。そして――」
言葉が途切れる。
父上の視線が彷徨う。
そして、私の世界を粉砕する一言が投下された。
「……この子は、エリナ。君の――姉だ」
その深淵の底で、焼き付いて離れない光景が、鮮血のような赤さを伴って脳裏に浮かび上がる。
どうしても忘却の彼方へ追いやることのできない、呪いのような記憶。
前世のあの日。
私が世界の頂点に立ち、そして地獄へと突き落とされた、始まりの日。
◇◇◇
朝霧が晴れると同時に、学院の中庭に巨大な掲示板が屹立していた。
そこに張り出された羊皮紙には、無機質な数字の羅列が刻まれている。
私はその最上段に、己の名を見つけた。
『第一位:リリス・タロシア』
息を吸い込む。
肺が熱くなり、指先が微かに震える。
予測はしていた。
確信もあった。
だが、現実として突きつけられたその事実は、私の血管に火を放つような高揚をもたらした。
周囲がざわめき、やがて爆発的な歓声へと変わる。
「おめでとうございます、リリス様!王国始まって以来の快挙です!」
「王族を抑えての首位……!まさに奇跡だ!」
「我々の誇りです!歴史が変わる瞬間を目撃した!」
教授たちが顔を紅潮させ、唾を飛ばしながら私を取り囲む。
生徒たちが畏敬の眼差しを向け、道を開ける。
心地よい。
肌にまとわりつく羨望の視線、鼓膜を震わす称賛の嵐。
私は背筋を伸ばし、完璧な礼で応える。
これこそが、私が求めていた景色。
母上の遺言を遂行し、誰よりも優れた貴族として君臨する、絶対的な証明。
ふと、視界の端に動く影を捉えた。
カシリア殿下。
この国の第一王子であり、誰もが認める天才。
彼は今、取り巻きの令嬢たちに慰めの言葉をかけられながら、彫像のように硬直していた。
その表情から、いつもの余裕と傲慢さは消え失せている。
笑顔でもなく、悲嘆でもない。
ただ、受け入れがたい現実を前に、魂が抜け落ちたような虚無の顔。
敗北者。
その三文字が、彼の額に烙印として押されているように見えた。
ああ、なんと甘美な眺めだろう。
高貴な王子が、臣下である私に膝を屈する瞬間。
生徒会長となった私の指示に、彼が従わねばならない未来。
想像するだけで、背筋がゾクリと粟立つ。
私は唇の端を吊り上げ、優雅な足取りで彼へと歩み寄った。
「殿下。これから、どうぞよろしくお願いいたします」
私の声は、鈴の音のように澄んで響く。
カシリア殿下はハッと顔を上げ、私を見た。
その瞳が一瞬揺らぎ、引きつったように口元が歪む。
「……あ、ああ。一緒に……頑張ろう」
頬の筋肉が痙攣し、無理やりに作られた笑顔が張り付く。
怒りを飲み込み、屈辱を噛み殺し、それでも王族としての体面を保とうとする滑稽な姿。
鎖に繋がれ、牙を抜かれた猛獣。
愛らしい。
心の底から、そう思った。
「これから、より素晴らしい学生会を一緒に作りましょう、殿下」
私は追い打ちをかけるように、最も慈悲深く、最も残酷な言葉を投げかける。
「……ああ……」
殿下の返事は、風に消え入りそうなほど弱い。
胸の空洞が、黒く濁った蜜で満たされていく。
他者の尊厳を踏みにじり、その上に立つ快感。
これが権力。
これが勝者の味。
今日は、私の人生で最も輝かしい日だ。
社交界は私の名で埋め尽くされ、父上は私を抱きしめて褒め称えるだろう。
『お母様、見ていらっしゃいますか』
心の中で、亡き母へと語りかける。
『私は成し遂げました。あなたの望み通り、この世で最も気高く、優秀な貴族となりました』
帰路の馬車に乗り込む足取りは、羽が生えたように軽かった。
早く父上に会いたい。
この栄光を捧げ、あの温かな手で頭を撫でてほしい。
その一心で、私は家路を急いだ。
公爵邸の門をくぐり、馬車が完全に停止するのも待たず、私は石畳へと飛び降りた。
ドレスの裾が翻る。
「ただいま戻りました!」
弾んだ声が玄関ホールに響く。
だが、返ってくるはずの声がない。
いつもなら、扉が開くと同時にロキナが駆け寄り、笑顔で出迎えてくれるはずなのに。
ホールは静まり返り、どこかよそよそしい空気が澱んでいる。
使用人たちの姿も見当たらない。
違和感が胸を掠める。
けれど、高揚した気分がそれを打ち消した。
きっと、父上がサプライズを用意して待っていてくださるのだ。
今夜は父上と二人で祝杯を挙げる約束をしている。
広間にいらっしゃるに違いない。
「父様!」
私は重厚な両開きの扉に手をかけ、勢いよく押し開けた。
光が溢れる室内。
そこには確かに、父上の姿があった。
けれど。
父上は一人ではなかった。
豪奢な長椅子の傍らに、二人の影が寄り添っている。
一人は、亡き母上と同じくらいの年頃の、艶やかな美貌を持つ貴族女性。
そしてもう一人は、私と同じ年頃に見える、華やかな少女。
「……あ……」
喉の奥で言葉が凍りつく。
思考が停止し、時間が引き伸ばされる。
誰?
なぜ、家族団欒の場に、見知らぬ他人がいるの?
父上の表情が強張る。
まるで、見てはいけないものを見られた子供のような、気まずさと動揺。
私は咄嗟に呼吸を整え、染み付いた礼儀作法で仮面を被り直した。
「失礼いたしました。改めまして、リリス・タロシアと申します。カスト・タロシア公爵の娘です」
完璧なカーテシー。
だが、目の前の二人は目を伏せ、居心地悪そうに身を縮めるだけだ。
返事がない。
沈黙が、部屋の空気を鉛のように重くする。
父上も、顔色が蒼白だ。
何かがおかしい。
決定的に、何かが狂っている。
私の視線が、少女の顔に吸い寄せられる。
彼女がおずおずと顔を上げ、私を見た。
その瞳。
溶かした黄金を流し込んだような、鮮烈な金色。
心臓が跳ね上がる。
ありえない。
この瞳の色は、タロシア公爵家に代々伝わる、高貴な血統の証。
貴族の中でも稀有な、父上と同じ色。
なぜ、この少女がそれを持っている?
背筋を冷たい汗が伝い落ちる。
まさか。
いや、そんなはずはない。
父上は母上を愛していた。
私を愛している。
「……リリス。座りなさい」
父上の声は、地の底から響くように重く、しわがれていた。
私は操り人形のようにぎこちなく歩を進め、指定された椅子に腰を下ろす。
先ほどまでの幸福な余韻は、跡形もなく消え失せていた。
胃の腑が冷たく縮み上がる。
聞きたくない。
その口から紡がれる言葉を、聞きたくない。
「……リリス。これから話すことを、落ち着いて聞いてほしい」
「……はい、父様」
心臓が、早鐘を打つ。
嫌な予感が、黒い霧となって視界を覆う。
父上が意を決したように息を吸い、二人を手で示した。
「紹介しよう。この方が――君の新しい母となる、ミカレンだ。そして――」
言葉が途切れる。
父上の視線が彷徨う。
そして、私の世界を粉砕する一言が投下された。
「……この子は、エリナ。君の――姉だ」
