牢獄に閉じ込められてから二か月が過ぎた。
それは予想外に静かで、平穏な日々だった。
貴族専用の牢獄だからか、労働を強いられることもなく、毎日決まった時間にきちんとした食事が運ばれてくる。
それを食べ終えるとやることが何もなく、ただ漠然と時間が過ぎていくだけだった。
最初に面会に訪れたのは、かつて愛したカシリア殿下だった。
鉄格子越しに私を睨みつける彼の瞳には、純粋な憎悪が宿っていた。
「お前を、殺したかった。今すぐにでも、この手で引き裂いてやりたいほどに」
「……」
「医者から聞いた。あの日、エリナが体調不良で酒を吐き出していなければ、確実に死んでいたと。」
なるほど、やっとわかったのだ。
エリナだけが先に屋敷に戻った理由、それは体調不良だった。
神が授かった好機ではなく、運命の呪いだった。
体調不良の彼女は、私の誘いに断れず、無理矢理に酒を飲んでくれた。
その結果、私の同じく、生き残った。
「……だが、一命を取り留めた代償に、エリナの体にはまだたくさんの毒が残ってる。もう二度と子供を産めない体になった」
「な…!?」
息が止まった。
子供を、産めない。
その言葉だけが、やけに鮮明に耳に残る。
王妃にとって、それが何を意味するのか
そんなこと、考えるまでもなく知っているはずだ。
王家に血を繋ぐこともできず、
政略の価値も失い、
ただ“そこにいるだけの存在”。
あの子が、玉座の隣に立つ未来も。
子を抱いて微笑む姿も。
「母」と呼ばれる日も。
――もう、来ない。
「それでも彼女は……お前を必死に庇っていたんだぞ!」
「っ……!」
エリナは、女性としての、未来の王妃としての決定的な幸福を奪われてしまった。
それなのに、私を庇った。
完敗だ。
公爵令嬢としても、
人としても、
彼女は私より遥かに優れている。
その後も、異母姉のエリナ、父上、継母らが見舞いに来た。
だが、会う覚悟などあるはずがない。
私は様々な理由をつけて面会を拒絶し、どうしても断り切れない時は、ベッドで眠ったふりをして微動だにしなかった。
本当は、彼らの足音を聞くだけで体が震え、顔を見ることもできず怯えていたのだ。
怖くて仕方がなかった。
彼らの人生を破壊しようとした私に、その善意を受け取る資格などない。
自分自身ですら、自分を許せないのだから。
では、残りの人生をどう過ごせばいいのか。
私は看守に頭を下げて頼み込み、なんとか手に入れた紙と羽根ペンで、「公爵令嬢・リリス」としての過去を書き綴ることで、懺悔しようとした。
いつから、どこで、どうして過ちを犯したのか。
走馬灯のように蘇る、幸せだった日々の記憶。
王家学院時代に恋に落ちた父上と母上の間に生まれた私は、少し太っていて友達もいない子供だったけれど、三人で温かい家庭を築いていた。
だが、私が九歳の時。
馬車の事故で祖父母が亡くなり、生き残った母上も下半身不随となった。
社交界の華と呼ばれた母の世界は、ベッドから見える庭先の景色だけになり、次第に心を閉ざしていった。
父上との会話も尽き、家の中からは笑顔が消え、無言で時を送る日々へと変わった。
枯れた花は二度と咲かない。
誰もがそう諦めていた。
そんなある日、母上が私を優しく励ましてくれた。
ささやかな一言だったが、私には何より深く響いた。
その日からだ。
私が、立派な公爵令嬢になろうと決めたのは。
必死に勉強を重ね、優秀な成績を収めると、家族が喜んでくれた。
私が完璧であれば、父上と母上はまた笑い合える。
そう信じて、無我夢中で上へと這い上がった。
だが、人は変化に飽きる生き物だ。
どれほど優れた成績も、やがて「当たり前」になり、親の興味は薄れていく。
私はもっと他の分野でも結果を出そうと焦り、さらに血を吐くような努力を重ねた。
二年前、母上が病で亡くなってからも、私は悲しみを胸に隠して完璧な笑顔を作り、ただ前へ進もうとした。
大好きな家族のために。
愛する人のために。
私は最も優秀な公爵令嬢になろうとすべてを犠牲にし、名誉も、権力も、愛情も、すべてを手に入れようとした。
それなのに、なぜ?
頑張れば頑張るほど、欲しいものは私から遠ざかっていった。
間違わないように必死に生きてきた私の人生は間違いだらけで、何もかもを偶然手にしたエリナが、すべてを持っていった。
羨望と嫉妬に胸を締めつけられ、苦しくて、死ぬよりつらかった。
でも、もう答えは出ている。
エリナは正しい。
それが運命という祝福。
私は間違っている。
それが宿命という呪い。
ペンを置き、私は静かに諦めた。
白く塗られた牢獄の壁に、自分の影がはっきりと映っている。
死人のように真っ白な肌、乱れた髪、濁った瞳。
永遠に汚れた囚人服を着た私。
完璧令嬢だった「リリス」はもう死んでいる。
父上と母上に愛されていた「私」も、とうの昔に死んでいる。
もう、ここまでにしよう。
疲れ果てたのだ。
何もかも終わりにしよう。
夜は深く、今日はもう看守も見回りに来ない。
私はこっそりと、隠し持っていた「とっておきの宝物」を取り出した。
何度も壁で磨き上げた、刃のように鋭い鉄片。
ベッドに横たわり、月の光を反射してきらりと光るそれを見つめる。
死ぬって、痛いのだろうか。
苦しいのだろうか。
きっと、そうかもしれない。
でも、仕方がない。
私は皆を裏切ったのだから。
もう誰も、私を必要としていないのだから。
覚悟を決め、私は鉄片を首筋に強く押し当てた。
ためらわず、一気に引く。
その瞬間、まるで優しいキスをされたかのように
ぞっとするほど熱い命のバラが、私の体から咲き乱れた。
視界が黒く滲み、ゆっくりと時の流れが溶けていく。
意識の底で、いつかの記憶が蘇った。
バラが咲き誇る庭。
柔らかな日差し。
大好きな母の膝枕。
王子とお姫様の物語を読んでくれる、銀の鈴のように澄んだ母の声を聞きながら、まどろんでいたあの暖かな時間。
このまま眠りについたら、さようなら。
溢れ出す熱い涙と血を感じながら、私は最後の別れを口にした。
「ごめんね、エリナ」
「ごめんね、パパ」
「ごめんね、ママ」
「もし私がいなければ、きっとみんなは幸せに――」
掠れた声が闇に溶けて消えゆく。
私は暖かな花畑で、愛する母の温もりに包まれながら、幸せな夢のまま永遠の眠りについた。
それは予想外に静かで、平穏な日々だった。
貴族専用の牢獄だからか、労働を強いられることもなく、毎日決まった時間にきちんとした食事が運ばれてくる。
それを食べ終えるとやることが何もなく、ただ漠然と時間が過ぎていくだけだった。
最初に面会に訪れたのは、かつて愛したカシリア殿下だった。
鉄格子越しに私を睨みつける彼の瞳には、純粋な憎悪が宿っていた。
「お前を、殺したかった。今すぐにでも、この手で引き裂いてやりたいほどに」
「……」
「医者から聞いた。あの日、エリナが体調不良で酒を吐き出していなければ、確実に死んでいたと。」
なるほど、やっとわかったのだ。
エリナだけが先に屋敷に戻った理由、それは体調不良だった。
神が授かった好機ではなく、運命の呪いだった。
体調不良の彼女は、私の誘いに断れず、無理矢理に酒を飲んでくれた。
その結果、私の同じく、生き残った。
「……だが、一命を取り留めた代償に、エリナの体にはまだたくさんの毒が残ってる。もう二度と子供を産めない体になった」
「な…!?」
息が止まった。
子供を、産めない。
その言葉だけが、やけに鮮明に耳に残る。
王妃にとって、それが何を意味するのか
そんなこと、考えるまでもなく知っているはずだ。
王家に血を繋ぐこともできず、
政略の価値も失い、
ただ“そこにいるだけの存在”。
あの子が、玉座の隣に立つ未来も。
子を抱いて微笑む姿も。
「母」と呼ばれる日も。
――もう、来ない。
「それでも彼女は……お前を必死に庇っていたんだぞ!」
「っ……!」
エリナは、女性としての、未来の王妃としての決定的な幸福を奪われてしまった。
それなのに、私を庇った。
完敗だ。
公爵令嬢としても、
人としても、
彼女は私より遥かに優れている。
その後も、異母姉のエリナ、父上、継母らが見舞いに来た。
だが、会う覚悟などあるはずがない。
私は様々な理由をつけて面会を拒絶し、どうしても断り切れない時は、ベッドで眠ったふりをして微動だにしなかった。
本当は、彼らの足音を聞くだけで体が震え、顔を見ることもできず怯えていたのだ。
怖くて仕方がなかった。
彼らの人生を破壊しようとした私に、その善意を受け取る資格などない。
自分自身ですら、自分を許せないのだから。
では、残りの人生をどう過ごせばいいのか。
私は看守に頭を下げて頼み込み、なんとか手に入れた紙と羽根ペンで、「公爵令嬢・リリス」としての過去を書き綴ることで、懺悔しようとした。
いつから、どこで、どうして過ちを犯したのか。
走馬灯のように蘇る、幸せだった日々の記憶。
王家学院時代に恋に落ちた父上と母上の間に生まれた私は、少し太っていて友達もいない子供だったけれど、三人で温かい家庭を築いていた。
だが、私が九歳の時。
馬車の事故で祖父母が亡くなり、生き残った母上も下半身不随となった。
社交界の華と呼ばれた母の世界は、ベッドから見える庭先の景色だけになり、次第に心を閉ざしていった。
父上との会話も尽き、家の中からは笑顔が消え、無言で時を送る日々へと変わった。
枯れた花は二度と咲かない。
誰もがそう諦めていた。
そんなある日、母上が私を優しく励ましてくれた。
ささやかな一言だったが、私には何より深く響いた。
その日からだ。
私が、立派な公爵令嬢になろうと決めたのは。
必死に勉強を重ね、優秀な成績を収めると、家族が喜んでくれた。
私が完璧であれば、父上と母上はまた笑い合える。
そう信じて、無我夢中で上へと這い上がった。
だが、人は変化に飽きる生き物だ。
どれほど優れた成績も、やがて「当たり前」になり、親の興味は薄れていく。
私はもっと他の分野でも結果を出そうと焦り、さらに血を吐くような努力を重ねた。
二年前、母上が病で亡くなってからも、私は悲しみを胸に隠して完璧な笑顔を作り、ただ前へ進もうとした。
大好きな家族のために。
愛する人のために。
私は最も優秀な公爵令嬢になろうとすべてを犠牲にし、名誉も、権力も、愛情も、すべてを手に入れようとした。
それなのに、なぜ?
頑張れば頑張るほど、欲しいものは私から遠ざかっていった。
間違わないように必死に生きてきた私の人生は間違いだらけで、何もかもを偶然手にしたエリナが、すべてを持っていった。
羨望と嫉妬に胸を締めつけられ、苦しくて、死ぬよりつらかった。
でも、もう答えは出ている。
エリナは正しい。
それが運命という祝福。
私は間違っている。
それが宿命という呪い。
ペンを置き、私は静かに諦めた。
白く塗られた牢獄の壁に、自分の影がはっきりと映っている。
死人のように真っ白な肌、乱れた髪、濁った瞳。
永遠に汚れた囚人服を着た私。
完璧令嬢だった「リリス」はもう死んでいる。
父上と母上に愛されていた「私」も、とうの昔に死んでいる。
もう、ここまでにしよう。
疲れ果てたのだ。
何もかも終わりにしよう。
夜は深く、今日はもう看守も見回りに来ない。
私はこっそりと、隠し持っていた「とっておきの宝物」を取り出した。
何度も壁で磨き上げた、刃のように鋭い鉄片。
ベッドに横たわり、月の光を反射してきらりと光るそれを見つめる。
死ぬって、痛いのだろうか。
苦しいのだろうか。
きっと、そうかもしれない。
でも、仕方がない。
私は皆を裏切ったのだから。
もう誰も、私を必要としていないのだから。
覚悟を決め、私は鉄片を首筋に強く押し当てた。
ためらわず、一気に引く。
その瞬間、まるで優しいキスをされたかのように
ぞっとするほど熱い命のバラが、私の体から咲き乱れた。
視界が黒く滲み、ゆっくりと時の流れが溶けていく。
意識の底で、いつかの記憶が蘇った。
バラが咲き誇る庭。
柔らかな日差し。
大好きな母の膝枕。
王子とお姫様の物語を読んでくれる、銀の鈴のように澄んだ母の声を聞きながら、まどろんでいたあの暖かな時間。
このまま眠りについたら、さようなら。
溢れ出す熱い涙と血を感じながら、私は最後の別れを口にした。
「ごめんね、エリナ」
「ごめんね、パパ」
「ごめんね、ママ」
「もし私がいなければ、きっとみんなは幸せに――」
掠れた声が闇に溶けて消えゆく。
私は暖かな花畑で、愛する母の温もりに包まれながら、幸せな夢のまま永遠の眠りについた。
