修練場からタロシア公爵邸へと帰ってきたエリナは、ほんのりと汗の匂いをさせながら使用人たちへ挨拶を交わす。
彼女の足取りは軽く、酷使した筋肉の疲れよりも、充実感の方がその表情に表れていた。
「お帰りなさいませ、エリナ様」
門をくぐった彼女を出迎えたのは、公爵家に仕える騎士の一人、パロンだ。
鍛え抜かれた体といくつもの傷跡を持つ彼は、初めのうちは、新参者のエリナに対してあからさまに警戒し、拒絶する態度をとっていた。
「パロンさん。今日は先日教えてくれた技で、あの異国の王子をボコボコにしてやったぜ」
エリナは自分の両手を見つめ、土と血にまみれた特訓の成果を誇らしげに報告する。
彼女の声には、自分の生い立ちや複雑な事情に対する陰りなど微塵もなかった。
「ハハハ、手加減してくださいね。向こうは何と言っても帝国の王子ですからな」
パロンはかつての冷たい態度をすっかり忘れ、武術を志す者同士の親しみを込めて笑い声をあげた。
彼はカスト公爵とリリスにのみ剣を捧げると公言していたが、エリナの裏表のない純粋な情熱と、武術に対する尋常ではないひたむきさが、頑固な老騎士の心をあっという間にほぐしてしまったのだ。
エリナはパロンと別れ、広大な公爵邸の廊下を進む。
すれ違う使用人一人一人に目を合わせ、彼女は屈託のない明るい声で言葉を掛けていく。
最初、彼らの目には軽蔑と不信感が入り混じっていた。
しかし今では、エリナの元気な挨拶を聞くたびに彼らの表情は和らぎ、ごく自然に親しみを返すようになっている。
誠実な態度を貫くことこそが、どんなに厚い壁も打ち崩す一番の方法なのだと、彼女は無自覚のうちに証明していた。
廊下の角で、エリナは無表情で立ち尽くす一人の侍女の姿を見つけた。
「こんばんは、ロキナさん。これ、キッチンからもらったおやつです。よかったら食べませんか」
エリナは紙包みを両手で持ち、期待に満ちた黄色の瞳をロキナへ向ける。
「お気持ちは感謝いたします。ですが申し訳ありません、私はまだ仕事中ですので、邪魔です」
ロキナの口から出た言葉は、冷や水を浴びせられたように冷たく、一切の感情がこもっていなかった。
「あ、す、すみません」
エリナは紙包みを持った手を下げ、視線を足元の絨毯へ落とした。
ロキナがリリスの最も忠実な侍女だということは、彼女もよくわかっている。
どうにかして彼女とも仲良くなりたいと願うものの、そのきっぱりとした拒絶の姿勢に、付け入る隙を見つけられずにいる。
エリナは足早にその場を離れ、母ミカレンがいる部屋へと逃げ込んだ。
重厚な木の扉を閉め、彼女は椅子に深く腰を下ろしてふうっと息を吐く。
「急いではいけないよ。みんな、リリスの忠実な騎士みたいな者だから。尊敬して、ゆっくり仲良くしよう」
窓際で刺繍をしていたミカレンが、娘の沈んだ表情に気づき、優しくなだめる。
昔、貧しさや差別を経験してきた彼女の言葉には、貴族社会の複雑な人間関係を生き抜くための実践的な知恵が詰まっていた。
「はい。私も、リリスの傍にいていい女になるわ」
エリナは顔を上げ、両手で自分の頬を軽く叩いて気合を入れる。
その黄色の瞳には、再び強い光が宿っていた。
「ちょっと。それ、意味がおかしいわよ」
ミカレンのツッコミに、エリナは自分の言い間違いに気づき、照れ隠しのように頭を掻く。
二人の明るい笑い声が、タロシア公爵家の部屋に響き渡った。
同じ頃。
廊下の角に残されたロキナは、歩みを止め、エリナが消えた方向を静かに見つめていた。
彼女の手にある銀のお盆には、磨き上げられた燭台が乗っているが、今の彼女にはその作業を続ける気力はなかった。
公爵家の建物自体は何も変わっていない。
しかし、そこを流れる空気は、決定的に変わってしまった。
最初、古株の使用人や騎士たちは皆、突然現れた隠し子と素性のしれないその母親に仕えることを強く拒み、こっそりと不満を漏らしていた。
だが、一番厳しかったはずのパロンが剣の稽古に付き合い始めたことをきっかけに、固かったはずの忠誠の壁は次々と崩れていった。
エリナの放つ、計算のない無邪気な明るさと、生命力に溢れた振る舞い。
それに当てられた者たちは、自分たちが抱いていた敵意の理由を失い、抵抗することもできないまま彼女のペースに巻き込まれていく。
「……皆、笑えるようになった」
ロキナの口から、消え入りそうな、しかし深い絶望を滲ませた呟きが漏れる。
それは、静かなる侵略だった。
血を流すこともなく、暴力を使うこともなく、あの泥棒猫と田舎娘は、亡きサリス奥様とリリス様が長年かけて築き上げ、守り抜いてきた正当な居場所を、いとも簡単に奪い取ってしまった。
そして今、この屋敷には、侵略者を歓迎する笑い声が溢れている。
ロキナのまぶたの裏に、いつも完璧な微笑みを浮かべ、誰よりも公爵家のために尽くしていた主人の姿が浮かぶ。
彼女は今、遠く離れたガーナー領で、この屋敷の変わりようを知るはずもなく、過酷な政務に一人で立ち向かっているはずだ。
その孤独な戦いを想像するだけで、ロキナの胸が締め付けられるように痛む。
「リリス様は今、何をなさっているでしょうか。どうかご無事で、あの方の心が少しでも休まりますように……」
彼女の足取りは軽く、酷使した筋肉の疲れよりも、充実感の方がその表情に表れていた。
「お帰りなさいませ、エリナ様」
門をくぐった彼女を出迎えたのは、公爵家に仕える騎士の一人、パロンだ。
鍛え抜かれた体といくつもの傷跡を持つ彼は、初めのうちは、新参者のエリナに対してあからさまに警戒し、拒絶する態度をとっていた。
「パロンさん。今日は先日教えてくれた技で、あの異国の王子をボコボコにしてやったぜ」
エリナは自分の両手を見つめ、土と血にまみれた特訓の成果を誇らしげに報告する。
彼女の声には、自分の生い立ちや複雑な事情に対する陰りなど微塵もなかった。
「ハハハ、手加減してくださいね。向こうは何と言っても帝国の王子ですからな」
パロンはかつての冷たい態度をすっかり忘れ、武術を志す者同士の親しみを込めて笑い声をあげた。
彼はカスト公爵とリリスにのみ剣を捧げると公言していたが、エリナの裏表のない純粋な情熱と、武術に対する尋常ではないひたむきさが、頑固な老騎士の心をあっという間にほぐしてしまったのだ。
エリナはパロンと別れ、広大な公爵邸の廊下を進む。
すれ違う使用人一人一人に目を合わせ、彼女は屈託のない明るい声で言葉を掛けていく。
最初、彼らの目には軽蔑と不信感が入り混じっていた。
しかし今では、エリナの元気な挨拶を聞くたびに彼らの表情は和らぎ、ごく自然に親しみを返すようになっている。
誠実な態度を貫くことこそが、どんなに厚い壁も打ち崩す一番の方法なのだと、彼女は無自覚のうちに証明していた。
廊下の角で、エリナは無表情で立ち尽くす一人の侍女の姿を見つけた。
「こんばんは、ロキナさん。これ、キッチンからもらったおやつです。よかったら食べませんか」
エリナは紙包みを両手で持ち、期待に満ちた黄色の瞳をロキナへ向ける。
「お気持ちは感謝いたします。ですが申し訳ありません、私はまだ仕事中ですので、邪魔です」
ロキナの口から出た言葉は、冷や水を浴びせられたように冷たく、一切の感情がこもっていなかった。
「あ、す、すみません」
エリナは紙包みを持った手を下げ、視線を足元の絨毯へ落とした。
ロキナがリリスの最も忠実な侍女だということは、彼女もよくわかっている。
どうにかして彼女とも仲良くなりたいと願うものの、そのきっぱりとした拒絶の姿勢に、付け入る隙を見つけられずにいる。
エリナは足早にその場を離れ、母ミカレンがいる部屋へと逃げ込んだ。
重厚な木の扉を閉め、彼女は椅子に深く腰を下ろしてふうっと息を吐く。
「急いではいけないよ。みんな、リリスの忠実な騎士みたいな者だから。尊敬して、ゆっくり仲良くしよう」
窓際で刺繍をしていたミカレンが、娘の沈んだ表情に気づき、優しくなだめる。
昔、貧しさや差別を経験してきた彼女の言葉には、貴族社会の複雑な人間関係を生き抜くための実践的な知恵が詰まっていた。
「はい。私も、リリスの傍にいていい女になるわ」
エリナは顔を上げ、両手で自分の頬を軽く叩いて気合を入れる。
その黄色の瞳には、再び強い光が宿っていた。
「ちょっと。それ、意味がおかしいわよ」
ミカレンのツッコミに、エリナは自分の言い間違いに気づき、照れ隠しのように頭を掻く。
二人の明るい笑い声が、タロシア公爵家の部屋に響き渡った。
同じ頃。
廊下の角に残されたロキナは、歩みを止め、エリナが消えた方向を静かに見つめていた。
彼女の手にある銀のお盆には、磨き上げられた燭台が乗っているが、今の彼女にはその作業を続ける気力はなかった。
公爵家の建物自体は何も変わっていない。
しかし、そこを流れる空気は、決定的に変わってしまった。
最初、古株の使用人や騎士たちは皆、突然現れた隠し子と素性のしれないその母親に仕えることを強く拒み、こっそりと不満を漏らしていた。
だが、一番厳しかったはずのパロンが剣の稽古に付き合い始めたことをきっかけに、固かったはずの忠誠の壁は次々と崩れていった。
エリナの放つ、計算のない無邪気な明るさと、生命力に溢れた振る舞い。
それに当てられた者たちは、自分たちが抱いていた敵意の理由を失い、抵抗することもできないまま彼女のペースに巻き込まれていく。
「……皆、笑えるようになった」
ロキナの口から、消え入りそうな、しかし深い絶望を滲ませた呟きが漏れる。
それは、静かなる侵略だった。
血を流すこともなく、暴力を使うこともなく、あの泥棒猫と田舎娘は、亡きサリス奥様とリリス様が長年かけて築き上げ、守り抜いてきた正当な居場所を、いとも簡単に奪い取ってしまった。
そして今、この屋敷には、侵略者を歓迎する笑い声が溢れている。
ロキナのまぶたの裏に、いつも完璧な微笑みを浮かべ、誰よりも公爵家のために尽くしていた主人の姿が浮かぶ。
彼女は今、遠く離れたガーナー領で、この屋敷の変わりようを知るはずもなく、過酷な政務に一人で立ち向かっているはずだ。
その孤独な戦いを想像するだけで、ロキナの胸が締め付けられるように痛む。
「リリス様は今、何をなさっているでしょうか。どうかご無事で、あの方の心が少しでも休まりますように……」
