夜風が冷たさを増す中、カシリアは腕の中にすっぽりと収まるリリスを優しく抱き直した。
疲れ果てて限界だったのか、彼女はすっかり眠りに落ち、すうすうと規則正しい寝息を立てている。
その桜色の髪がカシリアの首筋にくすぐったく触れ、彼女特有の甘い香りがふんわりと漂ってきた。
天覧台から療養室へと続く長い廊下には、近衛兵はもちろん、使用人の姿さえない。
石造りの壁に並ぶ燭台の炎が、二人の長い影を床に映し出しては揺らしている。
カシリアは足音を忍ばせ、静かな足取りで歩みを進めた。
腕の中の彼女は、公爵令嬢という立場から想像するよりも、ずっとずっと軽かった。
この細い体と華奢な肩に、どれほどの絶望と狂気を抱え込んでいたというのだろう。
彼女の温もりが、上等な絹の衣服越しにカシリアの胸へとじかに伝わってくる。
その温かさを感じるたび、カシリアは思わず奥歯を噛み締めた。
療養室の重厚な扉をそっと開け、真っ白なシーツが敷かれた寝台に彼女をゆっくりと寝かせた。
カシリアは寝台の脇に膝をつき、彼女の額にかかった髪を指先で優しく払った。
眠っている彼女の顔からは自分を責めるような陰りが消え、とても無防備で穏やかな表情をしている。
この穏やかな寝顔をずっと守り抜くことこそが、自分に課せられた絶対の使命だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
翌日の朝。
分厚いカーテンが朝日を遮る療養室の隣の部屋で、三人の男が丸テーブルを囲んでいた。
カシリアは上座に腰を下ろし、テーブルの上で両手を組んでいる。
その右側には、王家専属の老医師。
そして左側には、背筋を伸ばして静かに立つナミス・ガーナーの姿があった。
医師は一度だけ短く咳払いをし、しわの刻まれた手で羊皮紙の束、カルテを開いた。
そこには、リリスの体調や薬の記録、そして心の状態の変化が、黒いインクで淡々と書き連ねられている。
「ナミス卿からいただいた、リリス様の普段のご様子や言葉の記録をもとに、症状の経過をまとめ直しました」
医師の低い声が、重苦しい空気が漂う室内に響く。
「結論から申し上げますと、リリス様の心の病は、最近始まったものではございません」
医師のしわがれた指先が、カルテの一番上、古い日付の書かれた部分を指し示す。
それは、リリスが王家学院に入学するよりずっと前、幼い頃の記録だった。
「数年……いえ、おそらくは十年近く前から、彼女の心はゆっくりと死に向かってすり減っていたのです。専門的な言葉で言えば、非常に重い鬱病です」
カシリアは組んでいた両手をほどき、右手で眉間をぎゅっと揉みほぐした。
完璧なのだと思っていた。
誰よりも美しく、賢く、気高い存在なのだと信じていた。
しかし、その心はとうの昔にボロボロになっていて、立っていることすらやっとの状態で、必死に自分を偽って微笑んでいたという事実を突きつけられたのだ。
「なぜ、誰も気づかなかったんだ」
カシリアの声は、怒りというよりも、深い後悔に満ちて重く響いた。
「彼女が、徹底的に隠し通していたからです」
医師は表情を変えることなく、淡々と事実を語り続ける。
「リリス様の精神力は、普通ではありません。普通の人ならおかしくなってしまうか、自ら命を絶ってしまうほどの孤独と自分を責める気持ちを、彼女は『完璧な令嬢』という仮面一枚で必死に耐え抜いてきたのです」
医師はカルテから顔を上げ、カシリアの瞳をまっすぐに見つめた。
「我慢強い、という言葉では到底言い表せません。あれは、自分の魂を削りながら無理をして演じ続ける、あまりにも痛々しい自傷行為なのです」
カシリアはゆっくりと目を閉じた。
脳裏に、夜会で優雅に微笑むリリスの姿が浮かんでくる。
あの完璧な笑顔の裏側で、彼女はずっと悲鳴を上げていたのだ。
しかし、誰もその声に気づいてやれなかった。
父王カナロアも、カスト公爵も、そして婚約者である自分自身でさえも。
「しかし、人の心には限界があります」
医師の声が、一段と厳しい響きを帯びた。
「長年限界まで張り詰めていた糸が、ガーナー領で一人ぼっちになったことと、殿下からの別れの言葉によって、ついにぷつりと切れてしまったのです。そして、心にぽっかりと空いた大きな穴を埋めるため、彼女は『幸せの実』という恐ろしい薬に手を出してしまった」
ナミスの息遣いが僅かに乱れ、彼がぎゅっと拳を握りしめるかすかな音が響く。
それは、決して彼女が弱かったからではない。
溺れかけた人が無我夢中で空気を求めるように、生きていくためにすがりつくしかなかったのだ。
カシリアは机の上の両手を強く握りしめた。
自分の爪が手のひらに食い込み、鈍い痛みが走る。
その痛みが、かろうじて彼を現実に繋ぎ止めていた。
彼女をそこまで追い詰め、毒に頼るしかなくしてしまったのは、他ならぬ自分自身だ。
その事実は、決して消えない傷跡となって彼の胸に深く刻み込まれていた。
「彼女の心の傷は、あまりにも深く、大きすぎます。ですが」
医師は顔を上げ、少しだけ明るい声色で言葉を継いだ。
「現在のリリス様のご様子は、驚くほど落ち着いておられます。殿下が優しく受け入れ、愛を注いでくださったことで、心の穴の一部が埋まりつつあるのだと思います」
「……埋まったか」
カシリアは確かめるように、ぽつりとつぶやいた。
「はい。愛されること、必要とされること。それが今の彼女にとって、何よりの薬となっているのです」
医師はカルテを閉じ、両手をその上にそっと置いた。
「今後の治療については、二つの道が考えられます。一つは、心を病む原因の一つとなったお父上……タロシア公爵と仲直りし、公爵からの愛情をもう一度信じてもらうこと」
カシリアの眉が険しく寄る。
その瞳に冷たい光が宿り、部屋の空気がすっと冷え込んだように感じられた。
「カストか。あの男は確かにリリスを愛しているのだろう。だが、絶望的なまでに周りが見えていない。不器用なんて言葉で済む話じゃない。人の心が全くわかっていない男なんだ」
カシリアは吐き捨てるように、強い口調で言い放った。
「今さらあいつに何を期待したところで、またリリスを傷つけるだけだ」
「もう一つの方法は」
カシリアが短く問うと、医師は深く頷いた。
「今のまま、殿下が彼女を愛し続け、心の隙間を埋め続けることです。そして、心から安心できるその場所で、少しずつ『幸せの実』の量を減らしていくのです」
医師は少し間を置き、言葉に力を込めた。
「とても長い時間がかかるでしょう。ですが、殿下がそばにいてくだされば、彼女は必ず以前よりも強い心を取り戻せるはずです」
カシリアは再び目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
彼のまぶたの裏に、今朝、自分の腕の中で温もりを感じながら、ほっとしたように眠っていたリリスの顔が浮かぶ。
あの安らかな表情を守り続けるためなら、どんなことだってする。
「わかった」
カシリアは目を開き、はっきりとした声で力強く宣言した。
「リリスは、オレが守る」
その言葉は、医師の提案への答えであると同時に、彼自身の生きる意味を懸けた誓いでもあった。
「薬なんかがなくても、オレの愛で、彼女が息をできるようにしてやる」
その誓いを聞き、じっと立っていたナミスが深く頭を下げた。
「頼みます、殿下」
ナミスの短い言葉に、カシリアは立ち上がりながらしっかりと頷いた。
「ああ。任せておけ」
カシリアは背を向け、重厚な扉を開けて療養室へと歩き出していった。
疲れ果てて限界だったのか、彼女はすっかり眠りに落ち、すうすうと規則正しい寝息を立てている。
その桜色の髪がカシリアの首筋にくすぐったく触れ、彼女特有の甘い香りがふんわりと漂ってきた。
天覧台から療養室へと続く長い廊下には、近衛兵はもちろん、使用人の姿さえない。
石造りの壁に並ぶ燭台の炎が、二人の長い影を床に映し出しては揺らしている。
カシリアは足音を忍ばせ、静かな足取りで歩みを進めた。
腕の中の彼女は、公爵令嬢という立場から想像するよりも、ずっとずっと軽かった。
この細い体と華奢な肩に、どれほどの絶望と狂気を抱え込んでいたというのだろう。
彼女の温もりが、上等な絹の衣服越しにカシリアの胸へとじかに伝わってくる。
その温かさを感じるたび、カシリアは思わず奥歯を噛み締めた。
療養室の重厚な扉をそっと開け、真っ白なシーツが敷かれた寝台に彼女をゆっくりと寝かせた。
カシリアは寝台の脇に膝をつき、彼女の額にかかった髪を指先で優しく払った。
眠っている彼女の顔からは自分を責めるような陰りが消え、とても無防備で穏やかな表情をしている。
この穏やかな寝顔をずっと守り抜くことこそが、自分に課せられた絶対の使命だった。
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翌日の朝。
分厚いカーテンが朝日を遮る療養室の隣の部屋で、三人の男が丸テーブルを囲んでいた。
カシリアは上座に腰を下ろし、テーブルの上で両手を組んでいる。
その右側には、王家専属の老医師。
そして左側には、背筋を伸ばして静かに立つナミス・ガーナーの姿があった。
医師は一度だけ短く咳払いをし、しわの刻まれた手で羊皮紙の束、カルテを開いた。
そこには、リリスの体調や薬の記録、そして心の状態の変化が、黒いインクで淡々と書き連ねられている。
「ナミス卿からいただいた、リリス様の普段のご様子や言葉の記録をもとに、症状の経過をまとめ直しました」
医師の低い声が、重苦しい空気が漂う室内に響く。
「結論から申し上げますと、リリス様の心の病は、最近始まったものではございません」
医師のしわがれた指先が、カルテの一番上、古い日付の書かれた部分を指し示す。
それは、リリスが王家学院に入学するよりずっと前、幼い頃の記録だった。
「数年……いえ、おそらくは十年近く前から、彼女の心はゆっくりと死に向かってすり減っていたのです。専門的な言葉で言えば、非常に重い鬱病です」
カシリアは組んでいた両手をほどき、右手で眉間をぎゅっと揉みほぐした。
完璧なのだと思っていた。
誰よりも美しく、賢く、気高い存在なのだと信じていた。
しかし、その心はとうの昔にボロボロになっていて、立っていることすらやっとの状態で、必死に自分を偽って微笑んでいたという事実を突きつけられたのだ。
「なぜ、誰も気づかなかったんだ」
カシリアの声は、怒りというよりも、深い後悔に満ちて重く響いた。
「彼女が、徹底的に隠し通していたからです」
医師は表情を変えることなく、淡々と事実を語り続ける。
「リリス様の精神力は、普通ではありません。普通の人ならおかしくなってしまうか、自ら命を絶ってしまうほどの孤独と自分を責める気持ちを、彼女は『完璧な令嬢』という仮面一枚で必死に耐え抜いてきたのです」
医師はカルテから顔を上げ、カシリアの瞳をまっすぐに見つめた。
「我慢強い、という言葉では到底言い表せません。あれは、自分の魂を削りながら無理をして演じ続ける、あまりにも痛々しい自傷行為なのです」
カシリアはゆっくりと目を閉じた。
脳裏に、夜会で優雅に微笑むリリスの姿が浮かんでくる。
あの完璧な笑顔の裏側で、彼女はずっと悲鳴を上げていたのだ。
しかし、誰もその声に気づいてやれなかった。
父王カナロアも、カスト公爵も、そして婚約者である自分自身でさえも。
「しかし、人の心には限界があります」
医師の声が、一段と厳しい響きを帯びた。
「長年限界まで張り詰めていた糸が、ガーナー領で一人ぼっちになったことと、殿下からの別れの言葉によって、ついにぷつりと切れてしまったのです。そして、心にぽっかりと空いた大きな穴を埋めるため、彼女は『幸せの実』という恐ろしい薬に手を出してしまった」
ナミスの息遣いが僅かに乱れ、彼がぎゅっと拳を握りしめるかすかな音が響く。
それは、決して彼女が弱かったからではない。
溺れかけた人が無我夢中で空気を求めるように、生きていくためにすがりつくしかなかったのだ。
カシリアは机の上の両手を強く握りしめた。
自分の爪が手のひらに食い込み、鈍い痛みが走る。
その痛みが、かろうじて彼を現実に繋ぎ止めていた。
彼女をそこまで追い詰め、毒に頼るしかなくしてしまったのは、他ならぬ自分自身だ。
その事実は、決して消えない傷跡となって彼の胸に深く刻み込まれていた。
「彼女の心の傷は、あまりにも深く、大きすぎます。ですが」
医師は顔を上げ、少しだけ明るい声色で言葉を継いだ。
「現在のリリス様のご様子は、驚くほど落ち着いておられます。殿下が優しく受け入れ、愛を注いでくださったことで、心の穴の一部が埋まりつつあるのだと思います」
「……埋まったか」
カシリアは確かめるように、ぽつりとつぶやいた。
「はい。愛されること、必要とされること。それが今の彼女にとって、何よりの薬となっているのです」
医師はカルテを閉じ、両手をその上にそっと置いた。
「今後の治療については、二つの道が考えられます。一つは、心を病む原因の一つとなったお父上……タロシア公爵と仲直りし、公爵からの愛情をもう一度信じてもらうこと」
カシリアの眉が険しく寄る。
その瞳に冷たい光が宿り、部屋の空気がすっと冷え込んだように感じられた。
「カストか。あの男は確かにリリスを愛しているのだろう。だが、絶望的なまでに周りが見えていない。不器用なんて言葉で済む話じゃない。人の心が全くわかっていない男なんだ」
カシリアは吐き捨てるように、強い口調で言い放った。
「今さらあいつに何を期待したところで、またリリスを傷つけるだけだ」
「もう一つの方法は」
カシリアが短く問うと、医師は深く頷いた。
「今のまま、殿下が彼女を愛し続け、心の隙間を埋め続けることです。そして、心から安心できるその場所で、少しずつ『幸せの実』の量を減らしていくのです」
医師は少し間を置き、言葉に力を込めた。
「とても長い時間がかかるでしょう。ですが、殿下がそばにいてくだされば、彼女は必ず以前よりも強い心を取り戻せるはずです」
カシリアは再び目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
彼のまぶたの裏に、今朝、自分の腕の中で温もりを感じながら、ほっとしたように眠っていたリリスの顔が浮かぶ。
あの安らかな表情を守り続けるためなら、どんなことだってする。
「わかった」
カシリアは目を開き、はっきりとした声で力強く宣言した。
「リリスは、オレが守る」
その言葉は、医師の提案への答えであると同時に、彼自身の生きる意味を懸けた誓いでもあった。
「薬なんかがなくても、オレの愛で、彼女が息をできるようにしてやる」
その誓いを聞き、じっと立っていたナミスが深く頭を下げた。
「頼みます、殿下」
ナミスの短い言葉に、カシリアは立ち上がりながらしっかりと頷いた。
「ああ。任せておけ」
カシリアは背を向け、重厚な扉を開けて療養室へと歩き出していった。
