「ガーナー領の夜景は、王都と比べれば、どう?」
急に逸らされた話題に、私は思考の整理が追いつかず、小さく瞬きを繰り返した。
眼下に広がる無数の灯火と、ガーナー領の暗く静かな夜を頭の中で比較する。
「……王都の半分にも、遥か届かない程度だと思います……」
カシリア殿下は静かに頷き、柔らかな声で言葉を継いだ。
「そうだな。でも、リリスが管理してくれる前は、多分十分の一にも満たないほど、寂れて惨めな領地だったはずだ」
カシリア殿下の声には、確かな賞賛の響きが含まれていた。
「すべては、オレの予想以上だ。削られた支援金という逆境の中で、自ら火災を起こして備蓄を燃やし、それを理由に経営方針を強制的に変更させ、領地を完全に掌握して生かした。これほどの成果を短期間で上げた。そんな統治者としては有能極まりないリリスが……」
殿下が一歩、私との距離を詰める。
「まさか人間関係となると、ただ逃げることだけがすごく上手な臆病者だったなんてな」
「……っ!」
喉の奥で息が詰まる。
図星を突かれた衝撃で後退りしようとしたが、殿下は素早く私の手を取った。
逃げ場を失った私の身体が、僅かに震える。
「リリス。君は今まで、何回逃げたか数えたことはあるか」
「私は……逃げ上手……?」
視線を彷徨わせる私に対し、カシリア殿下は空いたもう片方の手で私の頬を掴んだ。
決して痛くはないが、強い意志を感じる力。
私が逸らそうとする視線を、彼は物理的に、そして無理やり直視させた。
深い瞳が、私の瞳の奥の怯えをすべて見透かしている。
「オレの知っている限り、リリスはずっと逃げ続けていた」
殿下の低い声が、静寂の天覧台に響く。
「一回目。継母ミカレンの存在と本性を、リリスは既に知っていたんだろう。でもリリスは、父親のカストに自分の本当の気持ちを素直に言わずに、物分かりの良い娘を演じて逃げた」
「っ……」
「二回目。隠し子であるエリナが嫌いで憎かったはずなのに、本音を言えずに、これもまた聞き分けのいい完璧な公爵令嬢のふりをして逃げた」
その通りだ。
彼女の眩しさが憎かった。私の居場所を奪う彼女が恐ろしかった。
けれど、そんな醜い感情を露わにすれば、お父様に見捨てられる。
だから私は、笑顔という仮面を被って自らを守ったのだ。
「三回目。オレの軽率さも大きな原因だが、エリナの正体を知らずに彼女と接触したオレに対して、嫉妬や不満を何も言えずに、ただ一人で自傷するまで自分を追い詰めて逃げた」
手首の傷跡が熱を持つ錯覚に陥る。
殿下が私の痛みを正確に指摘していく。
殿下の顔がさらに近づく。
「四回目。エリナがいる学院へ行く勇気がなくなって、その現実から逃げるために、あっさりとオレと婚約する道を選んだ」
彼の熱い息遣いが、私の冷たい肌に触れる。
「五回目。オレからの手紙の内容に嘘が含まれていると気づいても、痩せ我慢をして、見て見ぬふりをして目を逸らし、真実から逃げた」
息ができない。
「そして六回目だ」
殿下の指先が、私の頬を静かに滑る。
「普通の人なら、どんな汚い手段を使ってでも確保したいと願うはずの未来の王妃の座から、君は今、自ら進んで逃げ出そうとしている」
私が妾への降格を懇願したことすら、彼にとってはただの逃避行動に過ぎなかったのだ。
傷物であること、薬に依存していること。
私の人生のすべてが、ただ臆病に逃げ回っていただけのものだったと、彼によって完全に解体され、証明されてしまった。
言い訳の言葉一つすら、喉から出てこない。
しかし、私の胸の奥に確かな熱を持って浸透し始めていた。
一回目から、六回目。
私がひた隠しにしてきた、見苦しく、情けない逃亡の歴史。それを誰が、ここまで克明に語れるというのか。
彼はずっと、私のことを見ていたのだ。
カシリア殿下は私の頬から手を離し、そのまま私の身体を強く、隙間なく抱きしめた。
彼の広い胸の中に、私の小さな身体がすっぽりと収まる。
「逃げることだけをしていても、人生はうまく変わらない」
殿下の低い声が、頭上から降り注ぐ。
私を責めているのではない。
これほどまでに私の臆病さを知り尽くしているのに、彼の腕には微塵の嫌悪も拒絶もなかった。
ただ、ひたすらに私の脆い部分を丸ごと呑み込もうとする、圧倒的な熱量。
私が必死に隠蔽してきた心の傷跡を、彼がすべて掬い上げ、その上で「君はそういう人間だ」と肯定してくれているかのようだった。
「いつまで逃げ続ければ君がオレの心をわかってくれるのか、それはわからない」
殿下の腕の力がさらに強まる。
私の背中に回されたその手は、二度と私を離さないという確固たる意思表示だった。
「だが今度は、君が何を言おうとも、オレはもう絶対に逃がさない」
その低い宣言の重みに、強張っていた私の身体からふっと力が抜けた。
私の逃亡の軌跡を誰よりも正確に覚え、それでも決して見放さず、ついに追い詰めてくれた人。
急に逸らされた話題に、私は思考の整理が追いつかず、小さく瞬きを繰り返した。
眼下に広がる無数の灯火と、ガーナー領の暗く静かな夜を頭の中で比較する。
「……王都の半分にも、遥か届かない程度だと思います……」
カシリア殿下は静かに頷き、柔らかな声で言葉を継いだ。
「そうだな。でも、リリスが管理してくれる前は、多分十分の一にも満たないほど、寂れて惨めな領地だったはずだ」
カシリア殿下の声には、確かな賞賛の響きが含まれていた。
「すべては、オレの予想以上だ。削られた支援金という逆境の中で、自ら火災を起こして備蓄を燃やし、それを理由に経営方針を強制的に変更させ、領地を完全に掌握して生かした。これほどの成果を短期間で上げた。そんな統治者としては有能極まりないリリスが……」
殿下が一歩、私との距離を詰める。
「まさか人間関係となると、ただ逃げることだけがすごく上手な臆病者だったなんてな」
「……っ!」
喉の奥で息が詰まる。
図星を突かれた衝撃で後退りしようとしたが、殿下は素早く私の手を取った。
逃げ場を失った私の身体が、僅かに震える。
「リリス。君は今まで、何回逃げたか数えたことはあるか」
「私は……逃げ上手……?」
視線を彷徨わせる私に対し、カシリア殿下は空いたもう片方の手で私の頬を掴んだ。
決して痛くはないが、強い意志を感じる力。
私が逸らそうとする視線を、彼は物理的に、そして無理やり直視させた。
深い瞳が、私の瞳の奥の怯えをすべて見透かしている。
「オレの知っている限り、リリスはずっと逃げ続けていた」
殿下の低い声が、静寂の天覧台に響く。
「一回目。継母ミカレンの存在と本性を、リリスは既に知っていたんだろう。でもリリスは、父親のカストに自分の本当の気持ちを素直に言わずに、物分かりの良い娘を演じて逃げた」
「っ……」
「二回目。隠し子であるエリナが嫌いで憎かったはずなのに、本音を言えずに、これもまた聞き分けのいい完璧な公爵令嬢のふりをして逃げた」
その通りだ。
彼女の眩しさが憎かった。私の居場所を奪う彼女が恐ろしかった。
けれど、そんな醜い感情を露わにすれば、お父様に見捨てられる。
だから私は、笑顔という仮面を被って自らを守ったのだ。
「三回目。オレの軽率さも大きな原因だが、エリナの正体を知らずに彼女と接触したオレに対して、嫉妬や不満を何も言えずに、ただ一人で自傷するまで自分を追い詰めて逃げた」
手首の傷跡が熱を持つ錯覚に陥る。
殿下が私の痛みを正確に指摘していく。
殿下の顔がさらに近づく。
「四回目。エリナがいる学院へ行く勇気がなくなって、その現実から逃げるために、あっさりとオレと婚約する道を選んだ」
彼の熱い息遣いが、私の冷たい肌に触れる。
「五回目。オレからの手紙の内容に嘘が含まれていると気づいても、痩せ我慢をして、見て見ぬふりをして目を逸らし、真実から逃げた」
息ができない。
「そして六回目だ」
殿下の指先が、私の頬を静かに滑る。
「普通の人なら、どんな汚い手段を使ってでも確保したいと願うはずの未来の王妃の座から、君は今、自ら進んで逃げ出そうとしている」
私が妾への降格を懇願したことすら、彼にとってはただの逃避行動に過ぎなかったのだ。
傷物であること、薬に依存していること。
私の人生のすべてが、ただ臆病に逃げ回っていただけのものだったと、彼によって完全に解体され、証明されてしまった。
言い訳の言葉一つすら、喉から出てこない。
しかし、私の胸の奥に確かな熱を持って浸透し始めていた。
一回目から、六回目。
私がひた隠しにしてきた、見苦しく、情けない逃亡の歴史。それを誰が、ここまで克明に語れるというのか。
彼はずっと、私のことを見ていたのだ。
カシリア殿下は私の頬から手を離し、そのまま私の身体を強く、隙間なく抱きしめた。
彼の広い胸の中に、私の小さな身体がすっぽりと収まる。
「逃げることだけをしていても、人生はうまく変わらない」
殿下の低い声が、頭上から降り注ぐ。
私を責めているのではない。
これほどまでに私の臆病さを知り尽くしているのに、彼の腕には微塵の嫌悪も拒絶もなかった。
ただ、ひたすらに私の脆い部分を丸ごと呑み込もうとする、圧倒的な熱量。
私が必死に隠蔽してきた心の傷跡を、彼がすべて掬い上げ、その上で「君はそういう人間だ」と肯定してくれているかのようだった。
「いつまで逃げ続ければ君がオレの心をわかってくれるのか、それはわからない」
殿下の腕の力がさらに強まる。
私の背中に回されたその手は、二度と私を離さないという確固たる意思表示だった。
「だが今度は、君が何を言おうとも、オレはもう絶対に逃がさない」
その低い宣言の重みに、強張っていた私の身体からふっと力が抜けた。
私の逃亡の軌跡を誰よりも正確に覚え、それでも決して見放さず、ついに追い詰めてくれた人。
