朝、カシリア殿下が御前会議へ向かい、重厚な扉が閉ざされた後、療養室にはしんと静まり返った空間だけが残された。
そのぽっかりと空いた時間が、私の記憶の奥底に沈めていた一つの名前を無理やり引きずり出してきた。
ナミス・ガーナー。
私は扉の外で控えている近衛騎士のザロを部屋へ呼び入れた。
「ザロ卿。ナミスは、今どこで何をしているのかしら」
私の問いかけに、ザロはぴんと背筋を伸ばしたまま、視線をわずかに下げて答えた。
「ナミス隊長は現在、殿下からの密命により、王都内で秘密の任務にあたっております」
「……秘密任務」
私の口から、乾いた声がこぼれ落ちる。
以前、カシリア殿下から告げられた言葉の欠片が頭の中で繋がっていく。
闇組織の徹底的な壊滅。
私の心を壊し、莫大なお金を奪い続けたあの冷酷な集団を消し去るため、ナミスはたった一人で剣を振るっているのだ。
ザロを下がらせた後、私は自分の胸元を両手でぎゅっと握りしめた。
ガーナー領でのひどい孤独と絶望の中、私の心がすっかり壊れてしまう直前、彼は命がけで忠誠を誓い、私を守り抜いてくれた。
その夜、暗闇の中で彼にすがりついた時、私の愛情は確かに本物だった。
もしカシリア殿下の狂気じみた深い愛情と、私のすべてを奪い尽くすような言葉を知らなければ、私はきっとナミスと共に逃げ出し、彼に寄りかかって生きていく道を選んでいたはずだ。
だけど、現実は違った。
私は彼の忠誠心を利用して、一番危険で汚れた仕事をすべて彼に押し付けてしまった。
そして最後には彼の手を離れ、圧倒的な力と熱情を持つカシリア殿下の腕の中へと逃げ込んだのだ。
裏切り。
その三文字が、ずしりとした重みを持って私の心臓を激しく締め付ける。
私は本当に、醜くて残酷な女だ。
永遠に抜けない棘となって、この痛みが私の心を刺し続ける。
彼に、報いなければ。
私はこの耐えがたい罪悪感を拭い去るため、ある決心を固めた。
再びザロを呼び出し、タロシア公爵家から持ち込んだ私の私物と、上質な羊皮紙、そして羽根ペンを用意してもらう。
インク壺にペン先を浸し、真っ白な羊皮紙に向かった。
『ナミスへ。
ナミスには、心からの謝罪を。
そして、最大限の感謝を。
私が今、こうして呼吸を続け、生存していられるのは、ナミスが私の影となり、その身を挺して支えてくれたからです』
指先がかすかに震え、インクの線が少しだけ歪む。
これは単なる手紙じゃない。
私と彼との間にあった過去の思いや繋がりを完全に終わらせる、遺書そのものだ。
私はザロに運ばせた荷物の中から、立派な装飾が施された木箱を取り出した。
留め金を外し、蓋を開ける。
箱の中では、色とりどりの宝石が王都の光を反射してまばゆい輝きを放っていた。
これらは、ロキナが善意で仕立ててくれた母サリスの形見のドレスから取り外したすべての宝石だ。
小さな宝石がいくつも並ぶ中で、ひときわ大きな宝石が静かに光を宿している。
他の宝石は、きっと彼の役に立つだろう。
どこかで換えれば、金にもなる。
けれど、
私は、その大きな宝石から目を離せなかった。
これは、ただの財産ではない。
私の記憶であり、過去であり、そして、「二番目の心」そのものだ。
私はそっとそれに触れる。
冷たいはずの石が、なぜか微かに温もりを帯びているように感じられた。
これだけは。
これだけは、彼のそばに残したい。
私の代わりに。
『この宝石のすべてを、ナミスに贈ります。
これが、私の持てる財産のすべてです。
どうかこれで、ナミス様のこれからの新しい人生の糧にしてください。
そして、私という存在に縛られることなく、ナミス自身の意志で、ナミスの人生を歩んでください』
手紙の最後に署名をして、砂を振ってインクを乾かした。
これが偽善でしかないことは分かっている。
愛の約束を破り、思いの詰まった宝石で自分の醜い罪を償おうとする、浅ましくて自分勝手な貴族の考え方にすぎない。
でも、今の私には、こうして品物を渡すことで彼との関係を終わらせる以外に方法がなかった。
私は手紙を丁寧に折りたたみ、宝石箱の中へしまった。
箱の蓋を閉じる。
カチリ、と乾いた金属音が部屋に響いた。
その音が、私とナミスとの明確な別れを決定づけた。
私は控えの間で待っていた侍女を呼び出し、重い宝石箱を彼女の手に託した。
「これを、カシリア殿下の親衛隊長、ナミス・ガーナー卿に届けてちょうだい。誰の目にも触れないよう、こっそりと、確実にね」
「かしこまりました。必ず、ご本人様の手へ直接お渡しいたします」
侍女は深く頭を下げ、箱を抱えたまま足音も立てずに部屋を出て行った。
扉が閉まり、部屋に再びしんとした静けさが戻る。
私は自分の両手を見下ろした。
母の形見を手放し、すっかり空っぽになった手のひらを、胸の前でぎゅっと握りしめる。
これでいい。
これで、ナミスは私という呪縛から解放され、彼自身の意志で新しい人生を歩んでいけるはずだ。
そう自分に言い聞かせて納得しようとしても、胸の奥に沈んだ罪悪感が消えることはなかった。
……愛していたよ。ナミス。
そのぽっかりと空いた時間が、私の記憶の奥底に沈めていた一つの名前を無理やり引きずり出してきた。
ナミス・ガーナー。
私は扉の外で控えている近衛騎士のザロを部屋へ呼び入れた。
「ザロ卿。ナミスは、今どこで何をしているのかしら」
私の問いかけに、ザロはぴんと背筋を伸ばしたまま、視線をわずかに下げて答えた。
「ナミス隊長は現在、殿下からの密命により、王都内で秘密の任務にあたっております」
「……秘密任務」
私の口から、乾いた声がこぼれ落ちる。
以前、カシリア殿下から告げられた言葉の欠片が頭の中で繋がっていく。
闇組織の徹底的な壊滅。
私の心を壊し、莫大なお金を奪い続けたあの冷酷な集団を消し去るため、ナミスはたった一人で剣を振るっているのだ。
ザロを下がらせた後、私は自分の胸元を両手でぎゅっと握りしめた。
ガーナー領でのひどい孤独と絶望の中、私の心がすっかり壊れてしまう直前、彼は命がけで忠誠を誓い、私を守り抜いてくれた。
その夜、暗闇の中で彼にすがりついた時、私の愛情は確かに本物だった。
もしカシリア殿下の狂気じみた深い愛情と、私のすべてを奪い尽くすような言葉を知らなければ、私はきっとナミスと共に逃げ出し、彼に寄りかかって生きていく道を選んでいたはずだ。
だけど、現実は違った。
私は彼の忠誠心を利用して、一番危険で汚れた仕事をすべて彼に押し付けてしまった。
そして最後には彼の手を離れ、圧倒的な力と熱情を持つカシリア殿下の腕の中へと逃げ込んだのだ。
裏切り。
その三文字が、ずしりとした重みを持って私の心臓を激しく締め付ける。
私は本当に、醜くて残酷な女だ。
永遠に抜けない棘となって、この痛みが私の心を刺し続ける。
彼に、報いなければ。
私はこの耐えがたい罪悪感を拭い去るため、ある決心を固めた。
再びザロを呼び出し、タロシア公爵家から持ち込んだ私の私物と、上質な羊皮紙、そして羽根ペンを用意してもらう。
インク壺にペン先を浸し、真っ白な羊皮紙に向かった。
『ナミスへ。
ナミスには、心からの謝罪を。
そして、最大限の感謝を。
私が今、こうして呼吸を続け、生存していられるのは、ナミスが私の影となり、その身を挺して支えてくれたからです』
指先がかすかに震え、インクの線が少しだけ歪む。
これは単なる手紙じゃない。
私と彼との間にあった過去の思いや繋がりを完全に終わらせる、遺書そのものだ。
私はザロに運ばせた荷物の中から、立派な装飾が施された木箱を取り出した。
留め金を外し、蓋を開ける。
箱の中では、色とりどりの宝石が王都の光を反射してまばゆい輝きを放っていた。
これらは、ロキナが善意で仕立ててくれた母サリスの形見のドレスから取り外したすべての宝石だ。
小さな宝石がいくつも並ぶ中で、ひときわ大きな宝石が静かに光を宿している。
他の宝石は、きっと彼の役に立つだろう。
どこかで換えれば、金にもなる。
けれど、
私は、その大きな宝石から目を離せなかった。
これは、ただの財産ではない。
私の記憶であり、過去であり、そして、「二番目の心」そのものだ。
私はそっとそれに触れる。
冷たいはずの石が、なぜか微かに温もりを帯びているように感じられた。
これだけは。
これだけは、彼のそばに残したい。
私の代わりに。
『この宝石のすべてを、ナミスに贈ります。
これが、私の持てる財産のすべてです。
どうかこれで、ナミス様のこれからの新しい人生の糧にしてください。
そして、私という存在に縛られることなく、ナミス自身の意志で、ナミスの人生を歩んでください』
手紙の最後に署名をして、砂を振ってインクを乾かした。
これが偽善でしかないことは分かっている。
愛の約束を破り、思いの詰まった宝石で自分の醜い罪を償おうとする、浅ましくて自分勝手な貴族の考え方にすぎない。
でも、今の私には、こうして品物を渡すことで彼との関係を終わらせる以外に方法がなかった。
私は手紙を丁寧に折りたたみ、宝石箱の中へしまった。
箱の蓋を閉じる。
カチリ、と乾いた金属音が部屋に響いた。
その音が、私とナミスとの明確な別れを決定づけた。
私は控えの間で待っていた侍女を呼び出し、重い宝石箱を彼女の手に託した。
「これを、カシリア殿下の親衛隊長、ナミス・ガーナー卿に届けてちょうだい。誰の目にも触れないよう、こっそりと、確実にね」
「かしこまりました。必ず、ご本人様の手へ直接お渡しいたします」
侍女は深く頭を下げ、箱を抱えたまま足音も立てずに部屋を出て行った。
扉が閉まり、部屋に再びしんとした静けさが戻る。
私は自分の両手を見下ろした。
母の形見を手放し、すっかり空っぽになった手のひらを、胸の前でぎゅっと握りしめる。
これでいい。
これで、ナミスは私という呪縛から解放され、彼自身の意志で新しい人生を歩んでいけるはずだ。
そう自分に言い聞かせて納得しようとしても、胸の奥に沈んだ罪悪感が消えることはなかった。
……愛していたよ。ナミス。
