「……リリスのそばにいたのが、お前でよかった」
掠れた声で紡がれた予想外の言葉に、ナミスはわずかに目を見開いた。
「……殿下?」
カシリアは自嘲するように短く息を吐き、血の滲むような思いでナミスを真っ直ぐに見つめ返した。
「もしお前が、ここで少しでも保身のための言い訳を口にしていたなら……たとえどれほど信頼していた友人であっても、決して刑罰を免れることはなかっただろう」
カシリアは重い足取りで立ち上がり、静かにナミスの前へと歩み寄った。
「だが……自らの命を懸けてでも彼女を支え抜いたと、そう言い切ってくれるお前に、今のオレが返せる言葉は何もない」
それは、王太子としての敗北宣言であり、同時に、自分が突き落とした絶望の淵でリリスを一人きりにさせなかった友への、不器用で痛切な感謝だった。
「お前が彼女の命を繋ぎ止めてくれた。……残りの全ての罰と業は、オレが背負う」
カシリアはテーブルの上のガラス瓶を自らの手で握りしめ、二度と彼女を一人にはしないと誓うように、静かに、だが力強く呟いた。
「……なぜそうなったのか、詳しく聞かせてくれ」
カシリアの声はひどく低く、掠れていた。
ナミスは姿勢を崩さず、テーブルの上に散らばるガラス瓶をちらりと見て、再び視線をカシリアへ戻した。
「順を追ってご説明いたします、殿下」
ナミスは一定の声のトーンを保ち、事実を順に語り始めた。
「すべては、殿下から送られてきたあの手紙と、ほぼ同時期に届いたエリナ・タロシアからの私信、そして王都の友人からの手紙が発端です」
カシリアの眉間に深い皺が刻まれる。
「殿下はエリナ嬢を対帝国特別戦闘指南役に任命した事実を隠し、リリス様には何事もないような嘘の報告をされました。しかし、エリナ嬢からの手紙にはそのことが克明に記されており、さらに友人からの手紙によって、エリナ嬢がタロシア公爵家の正当な血筋であり、次期公爵になるという噂が王都で広まっている事実が、リリス様の耳に入ってしまったのです」
ナミスの声が一段階下がる。
「リリス様は、ご自身が公爵家からも、そして殿下からも完全に見捨てられ、いらない存在として辺境へ追放されたのだと思い込んでしまわれました。その絶望は、彼女の心が耐えられる限界を、完全に超えてしまっていたのです」
カシリアは息を呑み、拳を固く握り締める。
「悲しみのどん底に突き落とされたリリス様は、執務室で倒れられました。それからは、爪で自分の腕を傷つけることもありました」
「倒れた……自傷……」
カシリアの唇から、かすれ声が漏れる。
「その後、リリス様の状態は急激に悪化しました。普通の生活を送ることすらできない状態に陥ってしまったのです」
ナミスは事実だけを淡々と語り続ける。
「彼女は昼夜を問わず、存在しない誰かからの罵倒に苦しむようになりました。僕にはリリス様に何が聞こえていたのかは分かりませんが、リリス様は恐怖のあまりパニックを起こすことが増え、ご自身の肌を掻きむしる日々が続きました」
その痛ましい光景が、カシリアの脳裏にありありと浮かび上がってくる。
「公爵令嬢が心を病んだという事実が外に漏れれば、彼女は確実に破滅してしまいます。そのため、僕はこっそり闇医者を探し出し、内密に診察を頼みました」
ナミスの瞳がわずかに伏せられる。
「闇医者の診断は、重度のうつ病というものでした。そして、その症状を和らげるための特効薬として処方されたのが、この『幸せの実』です」
テーブルの上に置かれた黄金色の欠片に、二人の視線が集まる。
「それがうつ病のちゃんとした薬なのか、それとも禁じられた麻薬なのか。僕には確かめる方法もありませんでしたし、そんな時間もありませんでした。リリス様の心は、完全に壊れてしまう寸前だったのですから」
ナミスの両拳が、膝の上で強く握り締められる。
「薬を飲んだ直後、リリス様は見違えるように変わりました。幻聴は止み、恐怖は消え去り、かつての完璧で気高い公爵令嬢としての振る舞いを取り戻したのです。いや、それどころか、異常なほどの魅力と活気を見せ始めました」
カシリアは視察に訪れた際の、不自然なまでに輝いていたリリスの姿を思い出す。
あれは、この薬によって無理やり引き起こされた興奮状態だったのだ。
「僕には、彼女からその薬を奪い取る勇気などありませんでした。薬を取り上げれば、彼女は再びあの痛ましい地獄へ引き戻されてしまう。輝いている彼女を守るためには、この薬に頼るしかなかったのです」
「だが、その代償はあまりにも大きかった」
カシリアの声が震える。
「はい。薬の仕入れ元である闇組織は、計算高く、冷酷でした」
ナミスの声に、わずかに疲れの色が混じる。
「彼らはリリス様が薬から抜け出せなくなったのを確認すると、法外な値段を要求し始めました。さらに、彼女がタロシア公爵家の令嬢であり、王太子の婚約者だという正体まで突き止め、それを盾に脅してきたのです。要求した額を支払えなければ、すべてを王家と公爵家にバラすと」
カシリアの心臓が嫌な音を立てる。
「リリス様に逃げ場はありませんでした。ガーナー領の資金に手を付けるのにも限界があり、最終的にリリス様は、お母様の形見であるドレスをほどき、薬代のために売り払うという決断をされたのです。正体がバレる恐怖と、どうしても薬が欲しいという欲求が、彼女をそうさせたのです」
執務室の空気が重く沈み込む。
カシリアは椅子に深くもたれかかり、天井を仰いだ。
自分の浅はかな思いやり。
手紙に綴った嘘の言葉。
それらが連鎖して、もっとも愛する女性を極限の孤独へと追い詰めてしまった。
彼女は幻聴に苦しみ、自分を傷つけ、得体の知れない薬にすがりつき、最後には闇組織に脅されながら、母親の形見まで売り払うまでに落ちぶれてしまったのだ。
「なんてことだ……」
カシリアの喉から、苦しげな声が絞り出される。
自身は安全な王宮で、彼女の完璧な報告書を読んで安堵していた。
その裏で、彼女がどれほどの地獄を這いずり回り、どれほどの泥水をすすっていたのか。
すべての原因は、ほかならぬ自分自身にあるという明らかな事実が、カシリアの心を息が詰まるほどの重圧となって押し潰そうとしていた。
掠れた声で紡がれた予想外の言葉に、ナミスはわずかに目を見開いた。
「……殿下?」
カシリアは自嘲するように短く息を吐き、血の滲むような思いでナミスを真っ直ぐに見つめ返した。
「もしお前が、ここで少しでも保身のための言い訳を口にしていたなら……たとえどれほど信頼していた友人であっても、決して刑罰を免れることはなかっただろう」
カシリアは重い足取りで立ち上がり、静かにナミスの前へと歩み寄った。
「だが……自らの命を懸けてでも彼女を支え抜いたと、そう言い切ってくれるお前に、今のオレが返せる言葉は何もない」
それは、王太子としての敗北宣言であり、同時に、自分が突き落とした絶望の淵でリリスを一人きりにさせなかった友への、不器用で痛切な感謝だった。
「お前が彼女の命を繋ぎ止めてくれた。……残りの全ての罰と業は、オレが背負う」
カシリアはテーブルの上のガラス瓶を自らの手で握りしめ、二度と彼女を一人にはしないと誓うように、静かに、だが力強く呟いた。
「……なぜそうなったのか、詳しく聞かせてくれ」
カシリアの声はひどく低く、掠れていた。
ナミスは姿勢を崩さず、テーブルの上に散らばるガラス瓶をちらりと見て、再び視線をカシリアへ戻した。
「順を追ってご説明いたします、殿下」
ナミスは一定の声のトーンを保ち、事実を順に語り始めた。
「すべては、殿下から送られてきたあの手紙と、ほぼ同時期に届いたエリナ・タロシアからの私信、そして王都の友人からの手紙が発端です」
カシリアの眉間に深い皺が刻まれる。
「殿下はエリナ嬢を対帝国特別戦闘指南役に任命した事実を隠し、リリス様には何事もないような嘘の報告をされました。しかし、エリナ嬢からの手紙にはそのことが克明に記されており、さらに友人からの手紙によって、エリナ嬢がタロシア公爵家の正当な血筋であり、次期公爵になるという噂が王都で広まっている事実が、リリス様の耳に入ってしまったのです」
ナミスの声が一段階下がる。
「リリス様は、ご自身が公爵家からも、そして殿下からも完全に見捨てられ、いらない存在として辺境へ追放されたのだと思い込んでしまわれました。その絶望は、彼女の心が耐えられる限界を、完全に超えてしまっていたのです」
カシリアは息を呑み、拳を固く握り締める。
「悲しみのどん底に突き落とされたリリス様は、執務室で倒れられました。それからは、爪で自分の腕を傷つけることもありました」
「倒れた……自傷……」
カシリアの唇から、かすれ声が漏れる。
「その後、リリス様の状態は急激に悪化しました。普通の生活を送ることすらできない状態に陥ってしまったのです」
ナミスは事実だけを淡々と語り続ける。
「彼女は昼夜を問わず、存在しない誰かからの罵倒に苦しむようになりました。僕にはリリス様に何が聞こえていたのかは分かりませんが、リリス様は恐怖のあまりパニックを起こすことが増え、ご自身の肌を掻きむしる日々が続きました」
その痛ましい光景が、カシリアの脳裏にありありと浮かび上がってくる。
「公爵令嬢が心を病んだという事実が外に漏れれば、彼女は確実に破滅してしまいます。そのため、僕はこっそり闇医者を探し出し、内密に診察を頼みました」
ナミスの瞳がわずかに伏せられる。
「闇医者の診断は、重度のうつ病というものでした。そして、その症状を和らげるための特効薬として処方されたのが、この『幸せの実』です」
テーブルの上に置かれた黄金色の欠片に、二人の視線が集まる。
「それがうつ病のちゃんとした薬なのか、それとも禁じられた麻薬なのか。僕には確かめる方法もありませんでしたし、そんな時間もありませんでした。リリス様の心は、完全に壊れてしまう寸前だったのですから」
ナミスの両拳が、膝の上で強く握り締められる。
「薬を飲んだ直後、リリス様は見違えるように変わりました。幻聴は止み、恐怖は消え去り、かつての完璧で気高い公爵令嬢としての振る舞いを取り戻したのです。いや、それどころか、異常なほどの魅力と活気を見せ始めました」
カシリアは視察に訪れた際の、不自然なまでに輝いていたリリスの姿を思い出す。
あれは、この薬によって無理やり引き起こされた興奮状態だったのだ。
「僕には、彼女からその薬を奪い取る勇気などありませんでした。薬を取り上げれば、彼女は再びあの痛ましい地獄へ引き戻されてしまう。輝いている彼女を守るためには、この薬に頼るしかなかったのです」
「だが、その代償はあまりにも大きかった」
カシリアの声が震える。
「はい。薬の仕入れ元である闇組織は、計算高く、冷酷でした」
ナミスの声に、わずかに疲れの色が混じる。
「彼らはリリス様が薬から抜け出せなくなったのを確認すると、法外な値段を要求し始めました。さらに、彼女がタロシア公爵家の令嬢であり、王太子の婚約者だという正体まで突き止め、それを盾に脅してきたのです。要求した額を支払えなければ、すべてを王家と公爵家にバラすと」
カシリアの心臓が嫌な音を立てる。
「リリス様に逃げ場はありませんでした。ガーナー領の資金に手を付けるのにも限界があり、最終的にリリス様は、お母様の形見であるドレスをほどき、薬代のために売り払うという決断をされたのです。正体がバレる恐怖と、どうしても薬が欲しいという欲求が、彼女をそうさせたのです」
執務室の空気が重く沈み込む。
カシリアは椅子に深くもたれかかり、天井を仰いだ。
自分の浅はかな思いやり。
手紙に綴った嘘の言葉。
それらが連鎖して、もっとも愛する女性を極限の孤独へと追い詰めてしまった。
彼女は幻聴に苦しみ、自分を傷つけ、得体の知れない薬にすがりつき、最後には闇組織に脅されながら、母親の形見まで売り払うまでに落ちぶれてしまったのだ。
「なんてことだ……」
カシリアの喉から、苦しげな声が絞り出される。
自身は安全な王宮で、彼女の完璧な報告書を読んで安堵していた。
その裏で、彼女がどれほどの地獄を這いずり回り、どれほどの泥水をすすっていたのか。
すべての原因は、ほかならぬ自分自身にあるという明らかな事実が、カシリアの心を息が詰まるほどの重圧となって押し潰そうとしていた。
