「私を……ほっといて……っ!」
叫び声は喉を引き裂く。
視界が明滅する。
カシリア殿下の顔が、歪んで、遠のいて、また目前に迫る。
彼は動かない。
その瞳に見開かれた恐怖は、私の醜悪な魂を映す鏡だ。
ああ、やはり貴方は優しすぎる。
汚れた私を断罪する慈悲さえ、与えてはくれないのですね。
指先が痙攣し、シーツを鷲掴みにしたまま硬直する。
胃の腑が裏返るような不快感が喉元までせり上がり、私は激しく咳き込んだ。
「リリス! しっかりしろ! 誰か、医者を! 早く来い!」
殿下の怒号が、遠い水底から響く雷鳴のように聞こえた。
扉が荒々しく開かれる音。
複数の足音が、石床を叩く硬質なリズムとなって押し寄せる。
「殿下、離れてください! 発作です!」
「押さえろ! 舌を噛むぞ!」
白衣の男たちが私を取り囲む。
無骨な手が、私の細い腕を、暴れる足を、万力のように押さえつける。
嫌。
触らないで。
私は汚い。
私は罪人だ。
「やめ……て……」
愛しい騎士の名を呼ぼうとしたが、それは泡となって消えた。
腕に鋭い痛みが走る。
銀色の針が、容赦なく肉を貫き、冷たい液体を血管へと流し込んだ。
それは、ガーナー領で味わったあの甘美な黄金の果実とは違う、重く、昏く、強制的な鉛の静寂だった。
血管を冷気が駆け巡り、暴れ狂っていた心臓を氷漬けにしていく。
思考が、泥の中に沈むように鈍くなる。
指先の震えが止まり、呼吸が強制的に整えられていく。
世界が、白く、平坦になっていく。
まぶたが重い。
けれど、意識の核だけが、冷めた灰の中で燻っている。
私はゆっくりと目を開けた。
乱れた呼吸は嘘のように静まり、先ほどまでの激情は、潮が引くように消え失せていた。
ただ、胸の奥に空いた巨大な空洞だけが、寒風を吹き込ませている。
寝台の脇には、カシリア殿下が立ち尽くしていた。
髪は乱れ、衣服は乱れ、その表情には深い疲労と困惑が張り付いている。
ああ、私はまた、彼を困らせてしまった。
完璧な婚約者であるべきだったのに。
賢く、慎ましく、美しいリリス・タロシアであるべきだったのに。
今の私は、ただの制御不能な欠陥品だ。
「……リリス?」
殿下が、恐る恐る私を呼ぶ。
まるで、触れれば砕ける硝子細工に話しかけるように。
私は、乾いた唇を無理やり引き上げ、力のない笑みを浮かべた。
「……ご、ごめんなさい……殿下」
声は掠れ、自分のものとは思えないほど空虚だ。
「取り乱して……申し訳、ありません……」
「謝るな。君は何も悪くない」
「いいえ……悪いの、です」
私は首を横に振る。
涙はもう流れない。
薬が、涙さえも枯れさせたのだろうか。
「私は……もう、壊れてしまっていますから……」
正常な判断も、感情の制御もできない。
愛を乞いながら拒絶し、生を望みながら死を願う。
部品の欠けた時計のように、狂った時を刻むことしかできない。
「修理不能な……ガラクタなのです……」
殿下が何かを言おうとして、口を噤む。
その痛ましげな瞳に映る自分が、あまりに惨めで、私はゆっくりとまぶたを閉じた。
深い闇が、私を底なしの眠りへと引きずり込んでいく。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
どうか、私を捨ててください。
リリスの呼吸が、規則的な寝息へと変わるのを見届け、カシリアはひとつ大きな息を吐き出した。
全身の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのを、気力だけで耐える。
彼女の手は、まだ冷たい。
だが、先ほどの嵐のような錯乱は収まり、今は死人のように静かだ。
「……殿下」
低い声に呼ばれ、カシリアは振り返った。
王家専属の老医師が、沈痛な面持ちで立っている。
彼は長年、王族の健康管理を担ってきた信頼の置ける男だ。
その彼が、かつてないほど険しい顔をしている。
カシリアはリリスの枕元から離れ、部屋の隅、窓際の書き物机のそばへと移動した。
「……説明しろ。彼女に何が起きている」
カシリアの声は、抑えようとしても震えた。
ただの過労ではない。
あんな風に、自らを「悪」と断じ、断罪を懇願するなど、正気沙汰ではない。
老医師は、周囲に人がいないことを確認してから、声を潜めて告げた。
「殿下。……リリス様の症状は、単なる精神的疲労や、一過性の錯乱の域を超えております」
「……どういうことだ」
老医師は、躊躇うように視線を落とし、意を決したようにカシリアを見据えた。
「先ほどの発作……極度の興奮、幻覚に近い妄想、激しい情動の起伏、そして手の震えと発汗。……これらは、ある特定の状態に酷似しております」
「特定の状態?」
「……なにか依存性の強い薬物の、離脱症状です」
カシリアの思考が停止した。
薬物。
離脱症状。
それは、麻薬や禁制の薬品を常用していた者が、その供給を断たれた際に起こす、地獄の苦しみ。
「な……何を言っている?」
カシリアは乾いた笑い声を漏らしそうになった。
「リリスが? 公爵令嬢である彼女が、薬物に手を出していたと言うのか? 馬鹿な。あり得ない」
「私も、信じたくはありません。しかし、身体所見はそれを強く示唆しております」
医師は淡々と、しかし残酷な事実を並べ立てた。
「瞳孔の異常な収縮。精神的な依存形成が見受けられます。……彼女は何かに強く依存し、それが絶たれたことで、精神の崩壊を加速させているのです」
カシリアは壁に手をついた。
足元の床が崩れ落ちていくような錯覚に襲われる。
リリス。
オレの美しいリリス。
君は、ガーナー領で一体何をしていたのだ。
誰が、君にそんなものを与えた。
誰が、君をそこまで堕とした。
脳裏に、彼女の告白が蘇る。
『私はどうしようもない、悪い女なのです』
あれは、比喩ではなかったのか。
彼女は本当に、オレの知らない闇の中を歩いていたというのか。
「……治療法は」
カシリアは絞り出すように尋ねた。
「今のところは、鎮静剤で症状を抑え、安静を保つほかありません。……ですが、まずは原因物質の特定と、彼女が抱える精神的な闇の根源を取り除かねば、根本的な解決には至らないでしょう」
老医師が一礼し、静かに離れていく。
カシリアは一人、窓の外の闇を見つめた。
夜空には月もなく、星さえも見えない。
ただ、リリスという深淵な謎だけが、そこに横たわっていた。
「壊れている、か……」
叫び声は喉を引き裂く。
視界が明滅する。
カシリア殿下の顔が、歪んで、遠のいて、また目前に迫る。
彼は動かない。
その瞳に見開かれた恐怖は、私の醜悪な魂を映す鏡だ。
ああ、やはり貴方は優しすぎる。
汚れた私を断罪する慈悲さえ、与えてはくれないのですね。
指先が痙攣し、シーツを鷲掴みにしたまま硬直する。
胃の腑が裏返るような不快感が喉元までせり上がり、私は激しく咳き込んだ。
「リリス! しっかりしろ! 誰か、医者を! 早く来い!」
殿下の怒号が、遠い水底から響く雷鳴のように聞こえた。
扉が荒々しく開かれる音。
複数の足音が、石床を叩く硬質なリズムとなって押し寄せる。
「殿下、離れてください! 発作です!」
「押さえろ! 舌を噛むぞ!」
白衣の男たちが私を取り囲む。
無骨な手が、私の細い腕を、暴れる足を、万力のように押さえつける。
嫌。
触らないで。
私は汚い。
私は罪人だ。
「やめ……て……」
愛しい騎士の名を呼ぼうとしたが、それは泡となって消えた。
腕に鋭い痛みが走る。
銀色の針が、容赦なく肉を貫き、冷たい液体を血管へと流し込んだ。
それは、ガーナー領で味わったあの甘美な黄金の果実とは違う、重く、昏く、強制的な鉛の静寂だった。
血管を冷気が駆け巡り、暴れ狂っていた心臓を氷漬けにしていく。
思考が、泥の中に沈むように鈍くなる。
指先の震えが止まり、呼吸が強制的に整えられていく。
世界が、白く、平坦になっていく。
まぶたが重い。
けれど、意識の核だけが、冷めた灰の中で燻っている。
私はゆっくりと目を開けた。
乱れた呼吸は嘘のように静まり、先ほどまでの激情は、潮が引くように消え失せていた。
ただ、胸の奥に空いた巨大な空洞だけが、寒風を吹き込ませている。
寝台の脇には、カシリア殿下が立ち尽くしていた。
髪は乱れ、衣服は乱れ、その表情には深い疲労と困惑が張り付いている。
ああ、私はまた、彼を困らせてしまった。
完璧な婚約者であるべきだったのに。
賢く、慎ましく、美しいリリス・タロシアであるべきだったのに。
今の私は、ただの制御不能な欠陥品だ。
「……リリス?」
殿下が、恐る恐る私を呼ぶ。
まるで、触れれば砕ける硝子細工に話しかけるように。
私は、乾いた唇を無理やり引き上げ、力のない笑みを浮かべた。
「……ご、ごめんなさい……殿下」
声は掠れ、自分のものとは思えないほど空虚だ。
「取り乱して……申し訳、ありません……」
「謝るな。君は何も悪くない」
「いいえ……悪いの、です」
私は首を横に振る。
涙はもう流れない。
薬が、涙さえも枯れさせたのだろうか。
「私は……もう、壊れてしまっていますから……」
正常な判断も、感情の制御もできない。
愛を乞いながら拒絶し、生を望みながら死を願う。
部品の欠けた時計のように、狂った時を刻むことしかできない。
「修理不能な……ガラクタなのです……」
殿下が何かを言おうとして、口を噤む。
その痛ましげな瞳に映る自分が、あまりに惨めで、私はゆっくりとまぶたを閉じた。
深い闇が、私を底なしの眠りへと引きずり込んでいく。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
どうか、私を捨ててください。
リリスの呼吸が、規則的な寝息へと変わるのを見届け、カシリアはひとつ大きな息を吐き出した。
全身の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのを、気力だけで耐える。
彼女の手は、まだ冷たい。
だが、先ほどの嵐のような錯乱は収まり、今は死人のように静かだ。
「……殿下」
低い声に呼ばれ、カシリアは振り返った。
王家専属の老医師が、沈痛な面持ちで立っている。
彼は長年、王族の健康管理を担ってきた信頼の置ける男だ。
その彼が、かつてないほど険しい顔をしている。
カシリアはリリスの枕元から離れ、部屋の隅、窓際の書き物机のそばへと移動した。
「……説明しろ。彼女に何が起きている」
カシリアの声は、抑えようとしても震えた。
ただの過労ではない。
あんな風に、自らを「悪」と断じ、断罪を懇願するなど、正気沙汰ではない。
老医師は、周囲に人がいないことを確認してから、声を潜めて告げた。
「殿下。……リリス様の症状は、単なる精神的疲労や、一過性の錯乱の域を超えております」
「……どういうことだ」
老医師は、躊躇うように視線を落とし、意を決したようにカシリアを見据えた。
「先ほどの発作……極度の興奮、幻覚に近い妄想、激しい情動の起伏、そして手の震えと発汗。……これらは、ある特定の状態に酷似しております」
「特定の状態?」
「……なにか依存性の強い薬物の、離脱症状です」
カシリアの思考が停止した。
薬物。
離脱症状。
それは、麻薬や禁制の薬品を常用していた者が、その供給を断たれた際に起こす、地獄の苦しみ。
「な……何を言っている?」
カシリアは乾いた笑い声を漏らしそうになった。
「リリスが? 公爵令嬢である彼女が、薬物に手を出していたと言うのか? 馬鹿な。あり得ない」
「私も、信じたくはありません。しかし、身体所見はそれを強く示唆しております」
医師は淡々と、しかし残酷な事実を並べ立てた。
「瞳孔の異常な収縮。精神的な依存形成が見受けられます。……彼女は何かに強く依存し、それが絶たれたことで、精神の崩壊を加速させているのです」
カシリアは壁に手をついた。
足元の床が崩れ落ちていくような錯覚に襲われる。
リリス。
オレの美しいリリス。
君は、ガーナー領で一体何をしていたのだ。
誰が、君にそんなものを与えた。
誰が、君をそこまで堕とした。
脳裏に、彼女の告白が蘇る。
『私はどうしようもない、悪い女なのです』
あれは、比喩ではなかったのか。
彼女は本当に、オレの知らない闇の中を歩いていたというのか。
「……治療法は」
カシリアは絞り出すように尋ねた。
「今のところは、鎮静剤で症状を抑え、安静を保つほかありません。……ですが、まずは原因物質の特定と、彼女が抱える精神的な闇の根源を取り除かねば、根本的な解決には至らないでしょう」
老医師が一礼し、静かに離れていく。
カシリアは一人、窓の外の闇を見つめた。
夜空には月もなく、星さえも見えない。
ただ、リリスという深淵な謎だけが、そこに横たわっていた。
「壊れている、か……」
