罪人令嬢は、二度目の人生でも幸せになれない~誰にも愛されていないと信じたまま、私はまた笑う~

王宮のざわめきは、分厚い扉の向こう側へと遠ざかっていた。

医療室の空気はどこか重く、薬草と消毒液の冷たい匂いで満たされている。

カシリアは立派な上着をぽんと椅子に放り出し、真っ白なシーツに沈み込む婚約者の顔を、ただひたすらに見つめ続けていた。

執務室には、確認待ちの書類が山のように積まれているはずだ。

父王とぶつかったことで起きた政治的な騒ぎも、すぐに対応しなければならない。

だけど、今の彼にはそんなこと、どうでもよかった。

今の彼にとっての世界は、この狭くて静かな部屋の中にしかなかった。

「……殿下」

王家専属の年老いた医師が、おずおずと声をかけてきた。

カシリアはリリスから目を離さないまま、短く答えた。

「どうだった?」

「はい……。リリス様のお加減ですが、ひどい栄養失調と、長い間ずっと気を張っていたことによる衰弱が見られます。……それから」

医師は言葉を濁して、そわそわと視線をさまよわせた。

彼は見てしまったのだ。

診察のために服を緩めたとき、その真っ白で綺麗な肌に、数え切れないほどの古い傷跡が残っていたのを。

それは事故や怪我ではなく、明らかに自分の爪や刃物でつけた、悲鳴のような痛々しい跡だった。

だけど、それを王太子に伝えることは、公爵家の名誉に関わる大変なスキャンダルになりかねない。

医師は長年の経験から、だまっておくことを選んだ。

「……過労がたたっているようです。今はとにかく、安静にしてゆっくり眠らせてあげるのが一番のお薬かと」

「そうか。……下がっていいよ」

「はい」

医師が逃げるように部屋を出て行くと、そこにはまた、服が擦れる音すら立てるのをためらってしまうほどの静けさが戻ってきた。

カシリアは椅子を引き寄せ、リリスの枕元に腰を下ろした。

震える手で、彼女の手をそっと包み込む。

「……っ」

彼は息を呑んだ。

細い。

あまりにも細くて、そして軽い。

昔はふっくらとしていた指先はすっかり骨張っていて、透き通るような肌の下には青白い血管が浮き上がっている。

これが、あのガーナー領でのつらい日々を生き抜いてきた手なんだろうか。

オレが「試練」なんて呼んで、安全な王宮からただ眺めていた地獄を、彼女はこの細い腕一本で耐え抜いていたっていうのか。

「リリス……」

カシリアの指が、彼女の手首をそっとなでる。

ふと、レースの袖口がめくれて、隠れていた素肌が見えた。

カシリアの動きがぴたりと止まる。

そこには、赤く腫れた線や、かさぶたになりかけた傷が、何本も走っていた。

まだ新しいものもあれば、白く跡になった古いものもある。

それは、彼女が「完璧な聖女」という仮面の下で、どれほどつらい思いを体に刻みつけ、我慢してきたかを物語っていた。

「……あぁ、ああ……」

カシリアの喉から、泣き声が漏れた。

視界がにじみ、涙が彼女の手の甲へとこぼれ落ちていく。

気づかなかった。

何も、知らなかった。

彼女が笑っているとき、心の中では血の涙を流していたなんて。

彼女が「幸せです」と手紙に書いていたとき、その手首には新しい傷を刻んでいたかもしれないなんて。

オレは、彼女を守ると誓った騎士じゃなかったのか。

それなのに、守るべきお姫様を自分の手でトゲだらけの檻に閉じ込めて、そのトゲで傷つく姿を「成長した」なんて喜んでいたんだ。

父上と同じだ。

オレもまた、彼女を追い詰める加害者だったんだ。

カシリアは、リリスの手を両手で包み込むと、自分の額にぎゅっと押し当てた。

冷たい。

その冷たさが、彼の罪を責めたてる氷の刃みたいに感じられる。

だけど、もう迷わない。

もし世界が彼女に試練を与えるっていうなら、オレがそのすべてを切り裂く剣になろう。

「すまない……リリス、本当にすまない……」

謝罪の言葉は、眠っている彼女には届かない。

それでも、カシリアは祈るようにつぶやき続けた。

彼女の手首にある痛々しい傷跡に、震える唇をそっと寄せる。

それは、恋人へのキスというより、神様への誓いにも似た、魂の契約のようだった。

「二度と、君を一人にはしない。……君がどれほど傷ついていても、どんな姿になっていても、オレが全部受け止めるから」

少年のような、ただの無邪気な恋心じゃない。

すべてを捧げる覚悟を決めた、男の強い想いだった。

「愛しているよ、リリス。……今度こそ絶対に、君を幸せにしてみせるから」