殿下はエリナを愛してなんかいなかった。私のことを邪魔者だとも思っていなかった。
カシリア殿下の声が耳に届いた瞬間、私の息はぴたりと止まった。
指先からさーっと血の気が引き、目の前が真っ白になる。
あんなに鮮やかだった薔薇の赤色も、今はただの絵の具のシミのようにしか見えない。
胃の奥で溶けた金色の錠剤がくれる無理矢理な幸福感でさえ、この重すぎる現実の前では何の役にも立たなかった。
私は、今のカシリア殿下のことを、一度でも、ちゃんと見てなんていなかったんだ。
私の中のカシリア殿下は、前世で私を拒絶し、エリナを選んで私に死刑を言い渡した、あの恐ろしい記憶のまま止まっていた。
目の前の彼が何を言って、何をしてくれても、全部その歪んだ思い込みに当てはめて、「どうせまた同じ結末になるんだ」って決めつけていた。
今のカシリア殿下は、あの時の彼とは全然違う。
そのことに、私は今やっと気がついた。
最初からだった。
出会った時から今までずっと、カシリア殿下は不器用なほどに、私の心が安らかでいられるようにって、それだけを考えて動いてくれていた。
ガーナー領への支援金がぐんと減らされてしまったこと。
あれは彼が私を見捨てたわけじゃなくて、国王陛下がわざと情報を操って、お金を止めていただけだった。
殿下ご自身は、私に十分なお金を送っていると信じ切っていたんだ。
エリナを剣術指南役に選んだことを隠していたこと。
あれも私への嫌がらせでも、エリナを特別扱いしているからでもなかった。
公爵家の名誉と私の気持ちを一番に考えて、私を不安にさせるものを遠ざけようとしてくれた、彼なりの優しさだった。
私は、誰にも追いつめられてなんかいなかった。
私が勝手に疑って、勝手に絶望して、勝手に復讐を企てて、自分から泥沼に沈んでいっただけ。
「っ……」
喉の奥が詰まって、かすれた息が漏れる。
愛を裏切ったのは、カシリア殿下じゃなかった。
彼の真っ直ぐで純粋な思いを、汚い疑いと過去の記憶で真っ黒に塗りつぶして、最後はお金に換えて売り払おうとした私の方だ。
ナミスを暗い道へ引きずり込んで、領民を嘘で騙し、得体の知れない危ない薬にどっぷり浸かって、あんなに必死に守ってきた婚約すら、お金にするための道具にしようとしていた。
「リリス? どうした、手が冷たいぞ」
カシリア殿下が眉を寄せて、私の右手を両手でそっと包み込む。
温かな熱が、氷のように冷え切った私の指先へとじんわり伝わってくる。
彼の指の腹が、優しく私の肌を撫でる。
その大きすぎる優しさと温もりが、今の私にはどんな暴力よりも鋭い刃物のように思えて、心をズタズタに切り裂いていく。
涙で視界が歪んで、グラスに注がれた赤いワインがゆらゆらと揺れる。
私はもう、完全に壊れてしまっている。
絶対に取り返しのつかない間違いを、何度も何度も重ねてきてしまった。
「カシリア殿下に冷遇された」なんて嘘の被害者面をして王宮に戻り、彼の罪悪感につけ込んで大金を巻き上げようとしていた私。
でも、本当は全然逆だったんだ。
私は被害者なんかじゃない。
彼の純粋な気持ちを踏みにじって、自分が生き残ることと薬を飲むことだけのために、周りのすべてを食いつぶそうとした、誰よりも醜い加害者だ。
口の中がカラカラに乾ききって、舌がこわばる。
「……殿下、私は……」
カシリア殿下の声が耳に届いた瞬間、私の息はぴたりと止まった。
指先からさーっと血の気が引き、目の前が真っ白になる。
あんなに鮮やかだった薔薇の赤色も、今はただの絵の具のシミのようにしか見えない。
胃の奥で溶けた金色の錠剤がくれる無理矢理な幸福感でさえ、この重すぎる現実の前では何の役にも立たなかった。
私は、今のカシリア殿下のことを、一度でも、ちゃんと見てなんていなかったんだ。
私の中のカシリア殿下は、前世で私を拒絶し、エリナを選んで私に死刑を言い渡した、あの恐ろしい記憶のまま止まっていた。
目の前の彼が何を言って、何をしてくれても、全部その歪んだ思い込みに当てはめて、「どうせまた同じ結末になるんだ」って決めつけていた。
今のカシリア殿下は、あの時の彼とは全然違う。
そのことに、私は今やっと気がついた。
最初からだった。
出会った時から今までずっと、カシリア殿下は不器用なほどに、私の心が安らかでいられるようにって、それだけを考えて動いてくれていた。
ガーナー領への支援金がぐんと減らされてしまったこと。
あれは彼が私を見捨てたわけじゃなくて、国王陛下がわざと情報を操って、お金を止めていただけだった。
殿下ご自身は、私に十分なお金を送っていると信じ切っていたんだ。
エリナを剣術指南役に選んだことを隠していたこと。
あれも私への嫌がらせでも、エリナを特別扱いしているからでもなかった。
公爵家の名誉と私の気持ちを一番に考えて、私を不安にさせるものを遠ざけようとしてくれた、彼なりの優しさだった。
私は、誰にも追いつめられてなんかいなかった。
私が勝手に疑って、勝手に絶望して、勝手に復讐を企てて、自分から泥沼に沈んでいっただけ。
「っ……」
喉の奥が詰まって、かすれた息が漏れる。
愛を裏切ったのは、カシリア殿下じゃなかった。
彼の真っ直ぐで純粋な思いを、汚い疑いと過去の記憶で真っ黒に塗りつぶして、最後はお金に換えて売り払おうとした私の方だ。
ナミスを暗い道へ引きずり込んで、領民を嘘で騙し、得体の知れない危ない薬にどっぷり浸かって、あんなに必死に守ってきた婚約すら、お金にするための道具にしようとしていた。
「リリス? どうした、手が冷たいぞ」
カシリア殿下が眉を寄せて、私の右手を両手でそっと包み込む。
温かな熱が、氷のように冷え切った私の指先へとじんわり伝わってくる。
彼の指の腹が、優しく私の肌を撫でる。
その大きすぎる優しさと温もりが、今の私にはどんな暴力よりも鋭い刃物のように思えて、心をズタズタに切り裂いていく。
涙で視界が歪んで、グラスに注がれた赤いワインがゆらゆらと揺れる。
私はもう、完全に壊れてしまっている。
絶対に取り返しのつかない間違いを、何度も何度も重ねてきてしまった。
「カシリア殿下に冷遇された」なんて嘘の被害者面をして王宮に戻り、彼の罪悪感につけ込んで大金を巻き上げようとしていた私。
でも、本当は全然逆だったんだ。
私は被害者なんかじゃない。
彼の純粋な気持ちを踏みにじって、自分が生き残ることと薬を飲むことだけのために、周りのすべてを食いつぶそうとした、誰よりも醜い加害者だ。
口の中がカラカラに乾ききって、舌がこわばる。
「……殿下、私は……」
