翌日の朝。
私は執務机の前に座り、小さな硝子の瓶を凝視していた。
中には、鈍い金色を放つ錠剤が十三錠半残されている。
本来であれば、今まさに一錠を飲み下し、あの甘美な多幸感に身を委ねるべき時間だ。
しかし、私の手は瓶へ伸びる手前で硬直していた。
昨日、あの若い闇医者が告げた金貨一枚という異常な価格。
私が彼らの手の中で踊らされ、弱みを完全に握り潰されているという事実に、強い不安が募る。
薬の余韻が微かに残り、極度の恐慌状態には陥っていない。
だからこそ、私の頭脳は冷徹に状況を計算し始めていた。
このまま彼らの言い値で薬を買い続ければ、いずれ破綻の時が来る。
完全な依存状態から脱却しなければ、私は一生あの得体の知れない組織に飼われるだけの存在に成り下がる。
私は短く息を吐き、机の引き出しから小さな小刀を取り出した。
瓶から一錠を取り出し、硬い天板の上でその中央に刃を押し当てる。
微かな抵抗の後、金色の錠剤は二つに割れた。
半錠。
これが、私の理性が弾き出した妥協点であり、抵抗の証だった。
私は割れた半錠を手に取り、湧き水と共に飲み込んだ。
喉を通り抜けた半分の成分が、ゆっくりと血流に乗って溶け出していく。
しかし、数分が経過しても、あの圧倒的な極彩色の光が私の視界を塗り替えることはなかった。
石積みの壁の冷たさ、窓から差し込む灰色の光、古びた羊皮紙の匂い。
世界は、本来のくすんだ色合いと質感のまま、そこに存在し続けていた。
胃の底から這い上がってくる完全な多幸感は訪れない。
私はゆっくりと立ち上がり、姿見の前に立った。
そこに映るのは、桜色の髪を乱れ一つなく結い上げた、端正な顔立ちの令嬢。
だが、その顔に、昨日まで張り付いていた『完璧な聖女の微笑み』を作り出すことはできなかった。
口角を上げようとしても、頬の筋肉が強張って動かない。
表情が抜け落ちた、ただ冷たいだけの顔が鏡の中から私を見返している。
それでも、かつて私を狂わせた幻聴や、得体の知れない被害妄想、脳を掻き毟るようなノイズは、厚い布を被せられたようにくぐもって聞こえるだけだった。
思考を保ち、業務をこなすだけの精神状態は、辛うじて維持されている。
耐えられない苦痛ではない。
私は姿勢を正し、執務室の扉を開けた。
午前中の政務は、滞りなく進んだ。
隣領からの労働力の受け入れ書類の決裁、関所を通る物資の税率の確認。
私は椅子に深く腰掛け、次々と羊皮紙に署名を走らせていた。
斜め後ろには、親衛隊の装束を纏ったナミスが直立し、私の動きを静かに見守っている。
羽ペンをインク壺に浸した時、背後で布の擦れる微かな音がした。
「リリス様」
ナミスの声が、静寂の落ちた執務室に低く響いた。
私は羽ペンを持ったまま動きを止め、視線だけを斜め後ろに向けた。
「本日は、薬の量を減らしておられますね」
彼は推測ではなく、確定した事実として言葉を口にした。
私の指先が、僅かに止まる。
「なぜ、そう思うの」
私の声は平坦で、一切の感情の抑揚を持たなかった。
ナミスは歩み寄り、私の机の横で立ち止まった。
「昨日までのリリス様が纏っておられた、あの不自然なまでの輝きが完全に消え失せています。声の調子、羽ペンを走らせる速度、そして、何より一度も微笑まれていない。ですが、完全に錯乱状態に陥っているわけでもない。意図的に、量を調節されたとしか考えられません」
彼の栗色の瞳が、私の顔を真っ直ぐに捉えている。
私は羽ペンを机に置き、彼に向き直った。
「ええ、その通りよ。半錠にしたわ」
私は自分の両手を膝の上で固く組み合わせた。
「金貨一枚。あの男の要求は、明確な脅迫よ。私の最も脆い部分を握り、財布として扱うつもりだわ。私がこのまま薬に完全に依存しきれば、言い値を払い続けるだけの思考のない人形になる。タロシア公爵家の令嬢としての私の誇りが、それを許さないの」
私の声は低く、抑え込んだ怒りと屈辱の響きを帯びていた。
彼の視線が、リリスの固く結ばれた両手から、無表情なリリスの顔へとゆっくりと移動した。
その瞳の奥に、強い感情の揺らぎが見えた。
幻聴と恐怖に苛まれながらも、自身の魂を削り取ってでも支配者に抗おうとするリリスの姿。
彼は右手を胸に当て、深く頭を下げた。
「リリス様のその強靭なお心に、心より感服いたします」
私は執務机の前に座り、小さな硝子の瓶を凝視していた。
中には、鈍い金色を放つ錠剤が十三錠半残されている。
本来であれば、今まさに一錠を飲み下し、あの甘美な多幸感に身を委ねるべき時間だ。
しかし、私の手は瓶へ伸びる手前で硬直していた。
昨日、あの若い闇医者が告げた金貨一枚という異常な価格。
私が彼らの手の中で踊らされ、弱みを完全に握り潰されているという事実に、強い不安が募る。
薬の余韻が微かに残り、極度の恐慌状態には陥っていない。
だからこそ、私の頭脳は冷徹に状況を計算し始めていた。
このまま彼らの言い値で薬を買い続ければ、いずれ破綻の時が来る。
完全な依存状態から脱却しなければ、私は一生あの得体の知れない組織に飼われるだけの存在に成り下がる。
私は短く息を吐き、机の引き出しから小さな小刀を取り出した。
瓶から一錠を取り出し、硬い天板の上でその中央に刃を押し当てる。
微かな抵抗の後、金色の錠剤は二つに割れた。
半錠。
これが、私の理性が弾き出した妥協点であり、抵抗の証だった。
私は割れた半錠を手に取り、湧き水と共に飲み込んだ。
喉を通り抜けた半分の成分が、ゆっくりと血流に乗って溶け出していく。
しかし、数分が経過しても、あの圧倒的な極彩色の光が私の視界を塗り替えることはなかった。
石積みの壁の冷たさ、窓から差し込む灰色の光、古びた羊皮紙の匂い。
世界は、本来のくすんだ色合いと質感のまま、そこに存在し続けていた。
胃の底から這い上がってくる完全な多幸感は訪れない。
私はゆっくりと立ち上がり、姿見の前に立った。
そこに映るのは、桜色の髪を乱れ一つなく結い上げた、端正な顔立ちの令嬢。
だが、その顔に、昨日まで張り付いていた『完璧な聖女の微笑み』を作り出すことはできなかった。
口角を上げようとしても、頬の筋肉が強張って動かない。
表情が抜け落ちた、ただ冷たいだけの顔が鏡の中から私を見返している。
それでも、かつて私を狂わせた幻聴や、得体の知れない被害妄想、脳を掻き毟るようなノイズは、厚い布を被せられたようにくぐもって聞こえるだけだった。
思考を保ち、業務をこなすだけの精神状態は、辛うじて維持されている。
耐えられない苦痛ではない。
私は姿勢を正し、執務室の扉を開けた。
午前中の政務は、滞りなく進んだ。
隣領からの労働力の受け入れ書類の決裁、関所を通る物資の税率の確認。
私は椅子に深く腰掛け、次々と羊皮紙に署名を走らせていた。
斜め後ろには、親衛隊の装束を纏ったナミスが直立し、私の動きを静かに見守っている。
羽ペンをインク壺に浸した時、背後で布の擦れる微かな音がした。
「リリス様」
ナミスの声が、静寂の落ちた執務室に低く響いた。
私は羽ペンを持ったまま動きを止め、視線だけを斜め後ろに向けた。
「本日は、薬の量を減らしておられますね」
彼は推測ではなく、確定した事実として言葉を口にした。
私の指先が、僅かに止まる。
「なぜ、そう思うの」
私の声は平坦で、一切の感情の抑揚を持たなかった。
ナミスは歩み寄り、私の机の横で立ち止まった。
「昨日までのリリス様が纏っておられた、あの不自然なまでの輝きが完全に消え失せています。声の調子、羽ペンを走らせる速度、そして、何より一度も微笑まれていない。ですが、完全に錯乱状態に陥っているわけでもない。意図的に、量を調節されたとしか考えられません」
彼の栗色の瞳が、私の顔を真っ直ぐに捉えている。
私は羽ペンを机に置き、彼に向き直った。
「ええ、その通りよ。半錠にしたわ」
私は自分の両手を膝の上で固く組み合わせた。
「金貨一枚。あの男の要求は、明確な脅迫よ。私の最も脆い部分を握り、財布として扱うつもりだわ。私がこのまま薬に完全に依存しきれば、言い値を払い続けるだけの思考のない人形になる。タロシア公爵家の令嬢としての私の誇りが、それを許さないの」
私の声は低く、抑え込んだ怒りと屈辱の響きを帯びていた。
彼の視線が、リリスの固く結ばれた両手から、無表情なリリスの顔へとゆっくりと移動した。
その瞳の奥に、強い感情の揺らぎが見えた。
幻聴と恐怖に苛まれながらも、自身の魂を削り取ってでも支配者に抗おうとするリリスの姿。
彼は右手を胸に当て、深く頭を下げた。
「リリス様のその強靭なお心に、心より感服いたします」
