南の丘から街道へと下る細い道を歩んでいたその時、空の様相が急変した。
重く垂れ込めた暗雲が月光を完全に覆い隠し、冷たい風が強く吹き抜ける。
その直後、大粒の雨が音を立てて大地を打ち据え始めた。
カシリア殿下が足を止め、視線を空から私へと移した。
「しまった、傘を持ってきていない。馬車へ急ぐぞ」
雨粒が私の桜色の髪を濡らし、薄い布地のドレスに冷たい染みを作り始めている。
私は肩をすくめ、視線を伏せた。
「申し訳ございません。私が雨の予兆を読み取れず、このような事態を招きましたわ」
「何を言っている。天候の変化はリリスと関係ない。謝る必要はない」
カシリア殿下は短い言葉を発し、歩みを早める。
私は彼の後を追おうと足を動かすが、足元を覆う長いスカートが泥を含んで重くなり、歩幅を制限する。
日常的な鍛錬を欠いた私の体は、斜面を駆け下りる動作に耐えきれず、すぐに呼吸が浅く荒くなった。
心臓が肋骨を打ち、足がもつれそうになる。
その時、前を歩いていたカシリア殿下が振り返り、自らが羽織っていた厚手のコートを素早く脱ぎ去った。
彼はそのまま私の元へ歩み寄り、濡れ始めた私の肩へその重い布地を覆い被せる。
彼の体温が残る厚い生地が、冷風を遮断した。
「殿下……。ありがとうございます」
私は目を見開き、コートの襟元を両手で握りしめた。
街道に停められた馬車の周囲では、雨に打たれながら待機する数名の近衛騎士たちの姿があった。
私たちが駆け寄ると、カシリア殿下が扉を開け、私を先に乗降口へ促す。
「タオルを持ってこい。早くしろ」
彼が鋭い声で騎士に命じるのを聞きながら、私は車内へ身を滑り込ませた。
扉が閉まると、外の激しい雨音は遠く鈍い響きへと変わる。
車内に灯された蝋燭の淡い光が、向かいの座席に腰を下ろすカシリア殿下の姿を照らしていた。
私はコートに包まれながら、自身の姿の乱れを自覚する。
雨水を含んだ髪が頬に張り付き、ドレスの裾が泥に汚れている。
これは、タロシア公爵家の令嬢として、他者の前に晒すべき姿ではない。
私が濡れた髪を整えようと指を動かした時、扉が僅かに開き、騎士が乾いた厚手の布を差し入れた。
カシリア殿下はそれを受け取り、一枚を自分の濡れた髪に押し当てた後、もう一枚を広げて私の隣へと腰を下ろした。
彼の腕が伸び、私の頭に布が乗せられる。
彼の手が布越しに私の髪を撫で、水気を吸い取り始めた。
「殿下……。それは、私自身でやりますわ」
私は身を縮め、布を持つ彼の手を止めようと指を伸ばした。
「いいから。俺が夜景を見たいと言って君を外へ連れ出し、濡らしたんだ。これくらいはさせてくれ」
彼の声は低く、平素の威厳とは異なる柔らかさを帯びていた。
「……はい。ありがとうございます」
私は抵抗を諦め、膝の上で両手を重ねて視線を落とした。
カシリア殿下の手が、私の髪から首筋へと滑り、優しく水分を拭い取っていく。
彼の指先が私の冷たい肌に触れるたび、微かな熱が伝わってくる。
彼がこれほどまでに無防備な優しさを見せる人であったとは、知らなかった。
前世の記憶を辿っても、彼からこのような扱いを受けたことは一度もない。
私を気遣い、雨から庇い、自らの手で濡れた髪を拭う。
その優しさがあるからこそ、彼は私を庇うために婚約者という立場を受け入れてくれたのだ。
エリナの存在を隠し、私に嘘の手紙を送ったのも、彼なりの不器用な優しさであったことが、今の私には理解できる。
彼が私を騙し続けるつもりであるなら、最後までその仮面を被り続けてほしい。
それは、彼が背負う重圧を思えば、あまりにも厚かましい願いである。
もしかつての私であったなら、この密室での優しさに心を乱され、彼に縋り付いていただろう。
彼の腕の中に身を委ね、その温もりに永遠を求めていたはずだ。
しかし、今の私の奥には、鈍く光る金色の錠剤が沈殿している。
私の視界は極彩色に彩られ、一切の欠落を感じていない。
カシリア殿下の手が動きを止めた。
「もう少し、拭かせてくれ」
彼の声が車内に響く。
「……はい」
私は短く返答した。
この暗い車内でも、私の視界は極彩色に彩られ、満ち足りた静寂が支配していた。
私の世界を支え、私を完全に肯定し、安らぎを与えるもの。
それは、カシリア殿下の優しさでも、王太子妃という栄誉でもない。
十銀貨の金色の錠剤がもたらす、完璧な偽りの光だ。
重く垂れ込めた暗雲が月光を完全に覆い隠し、冷たい風が強く吹き抜ける。
その直後、大粒の雨が音を立てて大地を打ち据え始めた。
カシリア殿下が足を止め、視線を空から私へと移した。
「しまった、傘を持ってきていない。馬車へ急ぐぞ」
雨粒が私の桜色の髪を濡らし、薄い布地のドレスに冷たい染みを作り始めている。
私は肩をすくめ、視線を伏せた。
「申し訳ございません。私が雨の予兆を読み取れず、このような事態を招きましたわ」
「何を言っている。天候の変化はリリスと関係ない。謝る必要はない」
カシリア殿下は短い言葉を発し、歩みを早める。
私は彼の後を追おうと足を動かすが、足元を覆う長いスカートが泥を含んで重くなり、歩幅を制限する。
日常的な鍛錬を欠いた私の体は、斜面を駆け下りる動作に耐えきれず、すぐに呼吸が浅く荒くなった。
心臓が肋骨を打ち、足がもつれそうになる。
その時、前を歩いていたカシリア殿下が振り返り、自らが羽織っていた厚手のコートを素早く脱ぎ去った。
彼はそのまま私の元へ歩み寄り、濡れ始めた私の肩へその重い布地を覆い被せる。
彼の体温が残る厚い生地が、冷風を遮断した。
「殿下……。ありがとうございます」
私は目を見開き、コートの襟元を両手で握りしめた。
街道に停められた馬車の周囲では、雨に打たれながら待機する数名の近衛騎士たちの姿があった。
私たちが駆け寄ると、カシリア殿下が扉を開け、私を先に乗降口へ促す。
「タオルを持ってこい。早くしろ」
彼が鋭い声で騎士に命じるのを聞きながら、私は車内へ身を滑り込ませた。
扉が閉まると、外の激しい雨音は遠く鈍い響きへと変わる。
車内に灯された蝋燭の淡い光が、向かいの座席に腰を下ろすカシリア殿下の姿を照らしていた。
私はコートに包まれながら、自身の姿の乱れを自覚する。
雨水を含んだ髪が頬に張り付き、ドレスの裾が泥に汚れている。
これは、タロシア公爵家の令嬢として、他者の前に晒すべき姿ではない。
私が濡れた髪を整えようと指を動かした時、扉が僅かに開き、騎士が乾いた厚手の布を差し入れた。
カシリア殿下はそれを受け取り、一枚を自分の濡れた髪に押し当てた後、もう一枚を広げて私の隣へと腰を下ろした。
彼の腕が伸び、私の頭に布が乗せられる。
彼の手が布越しに私の髪を撫で、水気を吸い取り始めた。
「殿下……。それは、私自身でやりますわ」
私は身を縮め、布を持つ彼の手を止めようと指を伸ばした。
「いいから。俺が夜景を見たいと言って君を外へ連れ出し、濡らしたんだ。これくらいはさせてくれ」
彼の声は低く、平素の威厳とは異なる柔らかさを帯びていた。
「……はい。ありがとうございます」
私は抵抗を諦め、膝の上で両手を重ねて視線を落とした。
カシリア殿下の手が、私の髪から首筋へと滑り、優しく水分を拭い取っていく。
彼の指先が私の冷たい肌に触れるたび、微かな熱が伝わってくる。
彼がこれほどまでに無防備な優しさを見せる人であったとは、知らなかった。
前世の記憶を辿っても、彼からこのような扱いを受けたことは一度もない。
私を気遣い、雨から庇い、自らの手で濡れた髪を拭う。
その優しさがあるからこそ、彼は私を庇うために婚約者という立場を受け入れてくれたのだ。
エリナの存在を隠し、私に嘘の手紙を送ったのも、彼なりの不器用な優しさであったことが、今の私には理解できる。
彼が私を騙し続けるつもりであるなら、最後までその仮面を被り続けてほしい。
それは、彼が背負う重圧を思えば、あまりにも厚かましい願いである。
もしかつての私であったなら、この密室での優しさに心を乱され、彼に縋り付いていただろう。
彼の腕の中に身を委ね、その温もりに永遠を求めていたはずだ。
しかし、今の私の奥には、鈍く光る金色の錠剤が沈殿している。
私の視界は極彩色に彩られ、一切の欠落を感じていない。
カシリア殿下の手が動きを止めた。
「もう少し、拭かせてくれ」
彼の声が車内に響く。
「……はい」
私は短く返答した。
この暗い車内でも、私の視界は極彩色に彩られ、満ち足りた静寂が支配していた。
私の世界を支え、私を完全に肯定し、安らぎを与えるもの。
それは、カシリア殿下の優しさでも、王太子妃という栄誉でもない。
十銀貨の金色の錠剤がもたらす、完璧な偽りの光だ。
