翌日の朝、私は指定された時間に薬を飲み下し、カシリア殿下と共に馬車へ乗り込んだ。
金色の錠剤の成分が、私の視界を再び極彩色に染め上げていく。
車輪の軋む音も、窓から差し込む陽光も、全てが私を祝福し、肯定している。
馬車が向かう先は見覚えのある道筋だった。
緩やかな傾斜を登り切った先、白い野菊が群生する南の丘。
先日、ナミスと共に質素な白パンを齧り、永遠を願ったあの場所だ。
馬車が止まり、カシリア殿下が先に降りて私へ手を差し伸べた。
その手を取り、足元の草を踏みしめる。
「キレイだろう、リリス。知らない花がたくさん咲いている。俺は毎回ガーナー領に来たら、ここで寛ぎたいんだ」
カシリア殿下は風に揺れる花畑を見渡し、口角を上げた。
「俺とナミスの、秘密の場所というところかな。リリスはまだ、ここへ来たことはないだろう」
彼の言葉に、私は首を横に振り、完璧な微笑みを作った。
「いいえ、私は初めてですわ。とても綺麗な場所ですのね」
私の声は滑らかで、一切の淀みを持たない。
先日とは違い、今日は簡素な麻布ではなく、刺繍の施された敷物が広げられ、白木のテーブルが用意されていた。
持ち込まれた昼食は、王都の料理人が丹念に調理したであろう冷肉と果実の盛合せ、そして上質な葡萄酒。
薬の力で世界の全てが輝いて見える私にとって、この優雅な時間は当然のごとく楽しいものだった。
「殿下も、このような場所へ足を運ばれていたのですね」
私が硝子の杯を傾けながら尋ねると、彼は木製の椅子に深く腰掛け、息を吐き出した。
「ああ。ガーナー領の民は皆、素朴で飾り気がない。ここにいると、王太子という立場を忘れ、ただの男として、少し我がままな振る舞いも許される気がするのだ」
カシリア殿下の瞳に、微かな疲労の色が過る。
「王都に居れば、分刻みの予定に縛られ、腹の中を探り合う貴族たちを相手に、常に計算された笑顔を向けねばならない。あの息の詰まるような毎日から逃れられるのは、ここだけだ」
私は彼の言葉を黙って聞き、視線を伏せた。
カシリア殿下の言葉が、静かに私の耳に届いた。
視線は足元の草に向けられ、その横顔には深い疲労が刻まれている。
王太子という絶対的な権力者。
私はかつて、彼が何の縛りもない自由な存在であると認識していた。
金色の薬が、私の思考を極端に澄み渡らせ、事実を次々と組み上げていく。
彼の人生は、自由とは対極にある。
生まれてから死ぬまで、完全に定められた道を歩むだけの存在。
行動は全て制限され、些細な挙動すら未来の王に相応しいものでなければならない。
公の場で感情を漏らすことは許されず、誰かへの好意や嫌悪は、即座に貴族たちに読み取られ、政治の揺らぎへと直結する。
彼個人の趣味や娯楽が存在する余地はない。
許されるのは、統治の術としての学問と、武力と健康を誇示するための剣術のみ。
結婚すらも、愛という個人の感情が介在する余地はない。
全ては政治的打算と、王国を安定させるための力の均衡によって決定される。
権力を持つ三大公爵家の中から、最も適した駒が選ばれるだけだ。
前世で王太子妃の座に就いたエリナも、そして今、その席に座ろうとしている私も、結局はその政治的な要素の一つに過ぎない。
私の視界の中で、風に揺れる白い野菊が微かに霞む。
極彩色の世界の中で、殿下の存在だけが、重い鎖に縛られ、色褪せて見えた。
私はグラスをテーブルに置き、両手を膝の上で固く組み合わせた。
精神を病み、幻聴に怯え、夜毎に壊れていく私。
そのような傷物が、タロシア家の権力を背景に、彼に婚約を強要した。
ただでさえ息の詰まるような重圧の中で生きている彼に、私はどれほどの迷惑と辛い思いを強いてきたのだろうか。
彼が王都で私に嘘をつき、異母姉であるエリナを庇った事実。
かつての私は、それを裏切りと捉え、絶望の泥濘へと沈んでいった。
しかし今は、痛いほどに理解できる。
彼がエリナの無邪気さの中に安らぎを求めたのは、あの重圧の中で見出した、わずかな慰めだったのだ。
誰もが彼に完璧な王太子であることを求め、彼から搾取しようとする中で、エリナだけが彼をただの人間として扱った。
彼が彼女を庇うのは、当然の帰結だ。
カシリア殿下は、優しくて、不幸な人だ。
私の胸の奥に、かつての憎悪や嫉妬とは異なる、静かで冷たい哀れみが広がる。
彼もまた、私と同じように、誰かに作られた完璧な虚像を演じ続けることでしか生きられない存在。
私は膝の上で組んだ手をほどき、彼の横顔を真っ直ぐに見つめた。
風が彼の金色の髪を揺らし、その瞳の奥に潜む孤独が、今の私にははっきりと見て取れた。
金色の錠剤の成分が、私の視界を再び極彩色に染め上げていく。
車輪の軋む音も、窓から差し込む陽光も、全てが私を祝福し、肯定している。
馬車が向かう先は見覚えのある道筋だった。
緩やかな傾斜を登り切った先、白い野菊が群生する南の丘。
先日、ナミスと共に質素な白パンを齧り、永遠を願ったあの場所だ。
馬車が止まり、カシリア殿下が先に降りて私へ手を差し伸べた。
その手を取り、足元の草を踏みしめる。
「キレイだろう、リリス。知らない花がたくさん咲いている。俺は毎回ガーナー領に来たら、ここで寛ぎたいんだ」
カシリア殿下は風に揺れる花畑を見渡し、口角を上げた。
「俺とナミスの、秘密の場所というところかな。リリスはまだ、ここへ来たことはないだろう」
彼の言葉に、私は首を横に振り、完璧な微笑みを作った。
「いいえ、私は初めてですわ。とても綺麗な場所ですのね」
私の声は滑らかで、一切の淀みを持たない。
先日とは違い、今日は簡素な麻布ではなく、刺繍の施された敷物が広げられ、白木のテーブルが用意されていた。
持ち込まれた昼食は、王都の料理人が丹念に調理したであろう冷肉と果実の盛合せ、そして上質な葡萄酒。
薬の力で世界の全てが輝いて見える私にとって、この優雅な時間は当然のごとく楽しいものだった。
「殿下も、このような場所へ足を運ばれていたのですね」
私が硝子の杯を傾けながら尋ねると、彼は木製の椅子に深く腰掛け、息を吐き出した。
「ああ。ガーナー領の民は皆、素朴で飾り気がない。ここにいると、王太子という立場を忘れ、ただの男として、少し我がままな振る舞いも許される気がするのだ」
カシリア殿下の瞳に、微かな疲労の色が過る。
「王都に居れば、分刻みの予定に縛られ、腹の中を探り合う貴族たちを相手に、常に計算された笑顔を向けねばならない。あの息の詰まるような毎日から逃れられるのは、ここだけだ」
私は彼の言葉を黙って聞き、視線を伏せた。
カシリア殿下の言葉が、静かに私の耳に届いた。
視線は足元の草に向けられ、その横顔には深い疲労が刻まれている。
王太子という絶対的な権力者。
私はかつて、彼が何の縛りもない自由な存在であると認識していた。
金色の薬が、私の思考を極端に澄み渡らせ、事実を次々と組み上げていく。
彼の人生は、自由とは対極にある。
生まれてから死ぬまで、完全に定められた道を歩むだけの存在。
行動は全て制限され、些細な挙動すら未来の王に相応しいものでなければならない。
公の場で感情を漏らすことは許されず、誰かへの好意や嫌悪は、即座に貴族たちに読み取られ、政治の揺らぎへと直結する。
彼個人の趣味や娯楽が存在する余地はない。
許されるのは、統治の術としての学問と、武力と健康を誇示するための剣術のみ。
結婚すらも、愛という個人の感情が介在する余地はない。
全ては政治的打算と、王国を安定させるための力の均衡によって決定される。
権力を持つ三大公爵家の中から、最も適した駒が選ばれるだけだ。
前世で王太子妃の座に就いたエリナも、そして今、その席に座ろうとしている私も、結局はその政治的な要素の一つに過ぎない。
私の視界の中で、風に揺れる白い野菊が微かに霞む。
極彩色の世界の中で、殿下の存在だけが、重い鎖に縛られ、色褪せて見えた。
私はグラスをテーブルに置き、両手を膝の上で固く組み合わせた。
精神を病み、幻聴に怯え、夜毎に壊れていく私。
そのような傷物が、タロシア家の権力を背景に、彼に婚約を強要した。
ただでさえ息の詰まるような重圧の中で生きている彼に、私はどれほどの迷惑と辛い思いを強いてきたのだろうか。
彼が王都で私に嘘をつき、異母姉であるエリナを庇った事実。
かつての私は、それを裏切りと捉え、絶望の泥濘へと沈んでいった。
しかし今は、痛いほどに理解できる。
彼がエリナの無邪気さの中に安らぎを求めたのは、あの重圧の中で見出した、わずかな慰めだったのだ。
誰もが彼に完璧な王太子であることを求め、彼から搾取しようとする中で、エリナだけが彼をただの人間として扱った。
彼が彼女を庇うのは、当然の帰結だ。
カシリア殿下は、優しくて、不幸な人だ。
私の胸の奥に、かつての憎悪や嫉妬とは異なる、静かで冷たい哀れみが広がる。
彼もまた、私と同じように、誰かに作られた完璧な虚像を演じ続けることでしか生きられない存在。
私は膝の上で組んだ手をほどき、彼の横顔を真っ直ぐに見つめた。
風が彼の金色の髪を揺らし、その瞳の奥に潜む孤独が、今の私にははっきりと見て取れた。
