罪人令嬢は、二度目の人生でも幸せになれない~誰にも愛されていないと信じたまま、私はまた笑う~

ガーナー領の冷涼な風が吹き抜ける領主館の裏口。

重厚な木門がゆっくりと開き、一人の男が石畳の上に歩みを進めた。

その身を包むのは、王家の豪奢な装束ではなく、タロシア公爵家の私兵が身につける暗灰色の革鎧と地味な外套だ。

装飾を削ぎ落とした武骨な衣服が、彼の長身と鍛え抜かれた体躯を際立たせている。

カシリア殿下が、指定された通りに変装して姿を現した。

私は外套の裾をわずかに持ち上げ、静かに歩み寄った。

彼の数歩手前で立ち止まり、右足を引き、背筋を伸ばしたまま深く頭を下げる。

完璧な角度、乱れのない動作。

貴族令嬢としての最も美しい礼法。

「遠路はるばるのお越し、誠にありがとうございます。本来であれば領地を挙げてお迎えすべきところを、このような裏口からのお通しとなりましたこと、深くお詫び申し上げます」

私は顔を上げ、彼の瞳を真っ直ぐに見据えた。

「現在、私は王家の名義にてこのガーナー領の改革を推し進めております。殿下のご視察が大々的に知れ渡れば、改革の進捗に不都合が生じる恐れがございました。ゆえに、このようなご不便をおかけいたしました」

カシリア殿下は首を横に振り、口角を上げた。

「構わない。剣の鍛錬の際には、俺もこうした革鎧を好んで着ている。むしろ動きやすくて良い」

その言葉には、一切の不快感も苛立ちも含まれていなかった。

彼は視線を巡らせ、領主館の簡素な壁面を見つめる。

「俺が王太子であることを隠した方が、領民の真の生活を見ることができる。君の判断は正しい」

私は静かに頷き、もう一度頭を下げた。

「殿下にご理解いただけたこと、感謝いたします。よろしければ、私が殿下のご視察にお供いたしましょうか」

カシリア殿下は頷き、私へ歩み寄った。

「頼む、リリス。君がどのようにこの地を変えたのか、俺の目で確かめたい」

私たちは肩を並べ、活気を取り戻したガーナー領の街路へと出た。

私の視界は、朝に服用した薬の力によって極彩色に満ちている。

路傍の石の凹凸、すれ違う人々の粗末な衣服の繊維、空の濃い青色。

その全てが鮮明に浮かび上がり、私に圧倒的な肯定感を与え続けている。

すれ違う領民たちが足を止め、私に向かって深く頭を下げる。

「リリス様、本日は市場の通りが綺麗になりました」

「ああ、お疲れ様です。皆の働きのおかげで、流通がさらに良くなりますわ」

私は一人一人に微笑みかけ、短い言葉を返す。

薬が私の精神の淀みを完全に消し去り、誰に対しても完璧な慈愛の表情を作らせる。

市場の中心では、遠方から来た商人と地元の問屋が激しい価格交渉を行っていた。

私はその間に立ち入り、木版に書かれた数字を一瞥する。

頭の中で即座に計算が組み上がり、双方に最大の利益をもたらす折衷案を口にする。

「税の控除額を考慮すれば、この価格設定で三日以内の納品が可能になりますわ。いかがかしら」

商人は目を見開き、何度もうなずいて契約書に署名をした。

その全ての手順を、カシリア殿下は一歩下がった位置から無言で見つめていた。

昼時になり、私たちは街角にある簡素な食堂の軒先へ入った。

油の匂いと香辛料の香りが漂う中、荒削りな木の机に向かい合って座る。

運ばれてきたのは、野菜の煮込みと黒パン、それに冷たい果実水。

「王宮の食事とは比較になりませんが、これも領地の活力の味ですわ」

私は木のスプーンを手に取り、煮込みを口に運んだ。

薬の効力により、その質素な味が何倍にも増幅され、舌の上に幸福感を広げる。

カシリアが食事に手をつけず、リリスの顔をじっと見つめていた。

彼の瞳はわずかに見開かれ、呼吸の頻度が落ちている。

王都にいた頃、常に冷たい緊張感を纏い、暗い陰を落としていた婚約者。

しかし今の彼女は、太陽の光を全て吸収したかのように輝いている。

市場での明晰な頭脳、領民へ向ける無垢な微笑み、粗末な食事すら喜ぶ純粋さ。

彼には、リリスがこの辺境の地で真の『聖女』として開花したように見えているのだ。

彼の喉仏が動き、硬く握られた拳が微かに震える。

リリスが放つ薬による異常な光が、彼の心を強く、抗いがたい力で惹きつけている。

カシリア殿下の視線がリリスの顔から外れない。

リリスは首をわずかに傾げ、スプーンを皿に置いた。

「どうなさいましたか、殿下。お口に合いませんでしたか」

リリスの声は滑らかで、一切の陰りを持たない。

カシリア殿下は短く息を吸い込み、視線を机の上の水差しへと移した。

「……いや。お陰で、ずっと赤字問題に困窮していたこの領地が、こんなにも順調に生まれ変わったとは」

彼は言葉を切り、再びリリスを見た。

その目には、深い感嘆と、リリスへの執着が宿っている。

「やはり、君をここに送ったのは、正解だった」

その言葉が耳に届いた瞬間、私の脳裏に一瞬だけ事実が過った。

その称賛の言葉を聞き、私は静かに微笑んだ。

王都の喧騒から離れたからではない。

私が輝いているのは、あの暗い部屋で密かに飲み下す、十銀貨の錠剤の力だ。

そして彼は、私がここでどれほどの絶望を味わったかを知らない。

王家からの支援金が突如として削られ、私が強硬な手段に出ざるを得なかった事実。

自ら食糧庫を焼き払い、領民の憎悪の矛先を逸らして恐怖と狂信で支配を固めたこと。

彼が私をここに『送った』結果、王家が私に課したあの冷酷な仕打ち。

彼は当然、全てを知った上で、この白々しい称賛の言葉を口にしているのだろう

支援金を削り、私の婚約者でありながら、エリナと仲良くなり、私を裏切って、死地へ追いやった張本人が、今更何を言うのか。

しかし、金色の薬の効力が、私の思考から一切の怒りを削ぎ落としていた。

「もったいないお言葉ですわ、殿下。私はただ、この地と領民を愛しているだけですの」

私は完璧な笑みを浮かべ、彼の賞賛を静かに受け入れた。