執務室の木製の扉が重い音を立てて開いた。
ガロス子爵が、深く刻まれた皺に憂いを湛えた顔で室内へ足を踏み入れた。
その日焼けした皮膚と白髪交じりの短髪は、辺境の厳しい風土を物語っている。
私は羽根ペンをインク壺に戻し、顔を上げた。
「ガロス子爵、いかがなさいましたか」
私の声は、淀みなく澄み渡り、室内の冷たい空気を柔らかく震わせた。
ガロスは私の机の前まで進み、深く頭を下げる。
「リリス様。領地の復興は驚異的な速度で進んでおります。しかし、新たな問題が持ち上がっております」
彼は顔を上げ、太い指を組み合わせた。
「関税の撤廃と労働市場の自由化により、隣領からの労働者が多数流入しております。彼らは安価な賃金で働き、結果として地元の領民、特に年老いた者や傷痍軍人たちが仕事を奪われ、明日のパンにも困る事態となっております」
ガロスの声には、かつて彼が守ろうとした者たちへの痛切な悲哀が滲んでいた。
「私は、王家へ再び書簡を送り、彼らの待遇を改善するための追加の支援金を請うべきだと考えます。リリス様の口添えがあれば、カナロア陛下も……」
彼の提案は、私が徹底的に破壊した過剰な福祉事業の復活を意味している。
私は机の上で両手を組み、静かに口角を上げた。
薬がもたらす極彩色の視界の中で、ガロスの哀訴は取るに足らない小さな波紋に過ぎない。
私の思考は明晰であり、彼を説き伏せる言葉はすでに完全に構築されていた。
「ガロス子爵、そのお心遣いは立派ですわ。ですが、王家への依存は、領民の真の自立を阻害いたします」
私は立ち上がり、窓際へと歩を進めた。
窓の外には、活気に満ちた市場の喧騒が広がっている。
「外部からの労働力は、この領地に新たな血を注ぎ込み、商業を爆発的に繁栄させております。経済の規模が拡大すれば、いずれ清掃や物流、軽作業など、地元の者たちにも新たな仕事が必ず生まれますわ」
私は振り返り、ガロスの目を真っ直ぐに見据えた。
「それまでの間、弱者を支えるのは王家の金ではなく、領民同士の絆です。ガーナー領は一つの大家族。強き者が働き、弱き者を家族愛で支え合う。それこそが、誇り高きガーナーの民の美しい姿ではありませんか」
私の言葉は、一切の淀みを持たず、完璧な慈愛の響きを伴って室内を満たした。
ガロスの瞳が微かに揺れる。
家族愛という美辞麗句。
己の領民を信じるという甘美な響き。
善良な彼にとって、その言葉は最強の呪縛となる。
「……家族愛。リリス様のおっしゃる通りです。私は目先の哀れみに囚われ、民の誇りを見失うところでした」
ガロスは深く一礼し、納得した様子で執務室を後にした。
重い扉が閉まり、室内に再び静寂が戻った。
私が再び机に向かおうとした時、部屋の隅の影からザロが音もなく進み出た。
彼の顔には、平素の実直さとは異なる、切迫した緊張が張り付いている。
「リリス様、ご報告がございます」
ザロは声を潜め、私の数歩手前で片膝を突いた。
「先程、王都より早馬が到着いたしました。カシリア殿下が、視察の名目でこのガーナー領へ向かっておられます。まもなく到着される見込みです」
その言葉が耳に届いた瞬間、私の視界の色彩が一瞬だけ明滅した。
カシリア殿下が、来る。
私は椅子に腰を下ろし、指先で机の木目をなぞった。
殿下が公にこの領地を訪れれば、当然ながらガロス子爵をはじめとする領民たちが彼を取り囲む。
ガロスは間違いなく、先程の支援金の件を直訴するだろう。
殿下は、同情から支援の約束をしてしまう可能性が高い。
そうなれば、私が構築した競争社会の基盤は崩れ去り、領地は再び停滞の泥沼へと沈んでいく。
それは避けなければならない。
「ザロ、よく知らせてくれましたわ」
私は彼を見下ろし、冷徹な計算に基づいた指示を口にした。
「殿下が王太子として華々しく到着されれば、領内は無用の混乱を招きます。急ぎ迎えの使者を出し、殿下にこうお伝えなさい」
私は言葉を切り、ザロの目を見据える。
「タロシア家の私兵騎士の衣服を用意し、それに着替えていただくようにと。ガロス子爵や領民には決して身分を明かさず、私の執務室へ極秘裏にお通しなさい。これは、領地の改革を完遂するための、私からのお願いですわ」
ザロは一瞬目を見開いたが、すぐに深く頭を下げた。
「畏まりました。必ずや、殿下を誰の目にも触れさせず、ここへお連れいたします」
彼は素早く立ち上がり、音もなく部屋を退出していった。
再び一人になった執務室で、私は窓の外の青空を見上げた。
本来であれば、私をこの辺境へ追いやった事実上の放置と、支援金を削減した王家の冷酷な仕打ちに対し、怒りや不信を抱くべき場面だ。
カシリア殿下からの、エリナを庇うためのあの欺瞞に満ちた手紙。
私を絶望の淵へと突き落とした原因。
しかし、私の胸の奥に憎悪や悲哀は一切存在しなかった。
胃の底から全身へ行き渡る、薬がもたらす温かい波。
その絶対的な多幸感が、全ての負の感情を溶かし去っている。
私は引き出しを開け、硝子瓶の中で鈍く光る金色の錠剤を見つめた。
この世界は、なんて美しく、愉快なのだろうか。
ガロス子爵が、深く刻まれた皺に憂いを湛えた顔で室内へ足を踏み入れた。
その日焼けした皮膚と白髪交じりの短髪は、辺境の厳しい風土を物語っている。
私は羽根ペンをインク壺に戻し、顔を上げた。
「ガロス子爵、いかがなさいましたか」
私の声は、淀みなく澄み渡り、室内の冷たい空気を柔らかく震わせた。
ガロスは私の机の前まで進み、深く頭を下げる。
「リリス様。領地の復興は驚異的な速度で進んでおります。しかし、新たな問題が持ち上がっております」
彼は顔を上げ、太い指を組み合わせた。
「関税の撤廃と労働市場の自由化により、隣領からの労働者が多数流入しております。彼らは安価な賃金で働き、結果として地元の領民、特に年老いた者や傷痍軍人たちが仕事を奪われ、明日のパンにも困る事態となっております」
ガロスの声には、かつて彼が守ろうとした者たちへの痛切な悲哀が滲んでいた。
「私は、王家へ再び書簡を送り、彼らの待遇を改善するための追加の支援金を請うべきだと考えます。リリス様の口添えがあれば、カナロア陛下も……」
彼の提案は、私が徹底的に破壊した過剰な福祉事業の復活を意味している。
私は机の上で両手を組み、静かに口角を上げた。
薬がもたらす極彩色の視界の中で、ガロスの哀訴は取るに足らない小さな波紋に過ぎない。
私の思考は明晰であり、彼を説き伏せる言葉はすでに完全に構築されていた。
「ガロス子爵、そのお心遣いは立派ですわ。ですが、王家への依存は、領民の真の自立を阻害いたします」
私は立ち上がり、窓際へと歩を進めた。
窓の外には、活気に満ちた市場の喧騒が広がっている。
「外部からの労働力は、この領地に新たな血を注ぎ込み、商業を爆発的に繁栄させております。経済の規模が拡大すれば、いずれ清掃や物流、軽作業など、地元の者たちにも新たな仕事が必ず生まれますわ」
私は振り返り、ガロスの目を真っ直ぐに見据えた。
「それまでの間、弱者を支えるのは王家の金ではなく、領民同士の絆です。ガーナー領は一つの大家族。強き者が働き、弱き者を家族愛で支え合う。それこそが、誇り高きガーナーの民の美しい姿ではありませんか」
私の言葉は、一切の淀みを持たず、完璧な慈愛の響きを伴って室内を満たした。
ガロスの瞳が微かに揺れる。
家族愛という美辞麗句。
己の領民を信じるという甘美な響き。
善良な彼にとって、その言葉は最強の呪縛となる。
「……家族愛。リリス様のおっしゃる通りです。私は目先の哀れみに囚われ、民の誇りを見失うところでした」
ガロスは深く一礼し、納得した様子で執務室を後にした。
重い扉が閉まり、室内に再び静寂が戻った。
私が再び机に向かおうとした時、部屋の隅の影からザロが音もなく進み出た。
彼の顔には、平素の実直さとは異なる、切迫した緊張が張り付いている。
「リリス様、ご報告がございます」
ザロは声を潜め、私の数歩手前で片膝を突いた。
「先程、王都より早馬が到着いたしました。カシリア殿下が、視察の名目でこのガーナー領へ向かっておられます。まもなく到着される見込みです」
その言葉が耳に届いた瞬間、私の視界の色彩が一瞬だけ明滅した。
カシリア殿下が、来る。
私は椅子に腰を下ろし、指先で机の木目をなぞった。
殿下が公にこの領地を訪れれば、当然ながらガロス子爵をはじめとする領民たちが彼を取り囲む。
ガロスは間違いなく、先程の支援金の件を直訴するだろう。
殿下は、同情から支援の約束をしてしまう可能性が高い。
そうなれば、私が構築した競争社会の基盤は崩れ去り、領地は再び停滞の泥沼へと沈んでいく。
それは避けなければならない。
「ザロ、よく知らせてくれましたわ」
私は彼を見下ろし、冷徹な計算に基づいた指示を口にした。
「殿下が王太子として華々しく到着されれば、領内は無用の混乱を招きます。急ぎ迎えの使者を出し、殿下にこうお伝えなさい」
私は言葉を切り、ザロの目を見据える。
「タロシア家の私兵騎士の衣服を用意し、それに着替えていただくようにと。ガロス子爵や領民には決して身分を明かさず、私の執務室へ極秘裏にお通しなさい。これは、領地の改革を完遂するための、私からのお願いですわ」
ザロは一瞬目を見開いたが、すぐに深く頭を下げた。
「畏まりました。必ずや、殿下を誰の目にも触れさせず、ここへお連れいたします」
彼は素早く立ち上がり、音もなく部屋を退出していった。
再び一人になった執務室で、私は窓の外の青空を見上げた。
本来であれば、私をこの辺境へ追いやった事実上の放置と、支援金を削減した王家の冷酷な仕打ちに対し、怒りや不信を抱くべき場面だ。
カシリア殿下からの、エリナを庇うためのあの欺瞞に満ちた手紙。
私を絶望の淵へと突き落とした原因。
しかし、私の胸の奥に憎悪や悲哀は一切存在しなかった。
胃の底から全身へ行き渡る、薬がもたらす温かい波。
その絶対的な多幸感が、全ての負の感情を溶かし去っている。
私は引き出しを開け、硝子瓶の中で鈍く光る金色の錠剤を見つめた。
この世界は、なんて美しく、愉快なのだろうか。
