私はバスケットの蓋を開け、麻布の上に白パンと肉の薄切りを並べた。
陽光が白い野菊の花弁を照らし、風が草の匂いを運んでくる。
「ナミス、ここへ座って」
私は自分のすぐ隣の空間を手で示し、彼を見上げた。
ナミスは一瞬だけ動作を止め、視線を足元の草に落とす。
「……はい、リリス様」
彼は膝を折り、私の指定した場所へ腰を下ろした。
私たちの肩が、触れ合うか触れ合わないかの距離にある。
私は果実水の入った水筒から木の杯に水を注ぎ、一つを彼に手渡した。
「一緒に食べましょう」
「ありがとうございます」
彼は両手で杯を受け取り、小さく会釈をした。
私は肉を挟んだ白パンを手に取り、口に運ぶ。
冷めた肉の脂と、麦の素朴な味が舌の上に広がる。
王宮の料理長が作る精緻な料理よりも、この質素な食事の方が、今の私には何倍も美味しく感じられた。
薬の効力が、私の味覚と視覚を極彩色に染め上げている。
風に揺れる花々も、青く澄んだ空も、全てが私を祝福し、肯定している。
「風が気持ち良いわね、ナミス」
私が声をかけると、彼は手にしたパンを見つめたまま、静かに頷いた。
ナミスは、隣で無邪気に笑うリリス様の横顔を横目で見つめた。
風が彼女の桜色の髪を揺らし、白い項を露わにする。
白パンを頬張り、果実水を飲むその仕草は、王宮で見せる洗練された公爵令嬢のそれではなく、年相応の少女の無防備な姿だった。
野菊の花を指先でそっと撫で、その美しさを無邪気に喜んでいる。
その姿は、息を呑むほどに美しかった。
彼女が放つ光に、ナミスの目は奪われ、鼓動が早まるのを感じる。
僕の主君は、本来はこれほどまでに表情豊かで、周囲のものを愛おしむ心を持っているのだ。
もし、彼女の心を蝕む深い傷がなければ、この笑顔は永遠に失われることはなかった。
だが、今の彼女を輝かせているのは、あの鈍い金色の錠剤だ。
十銀貨という安価で売買される、出所不明の薬。
その事実が、ナミスの胸の奥に鋭い棘となって突き刺さる。
彼女の美しさに惹かれるたび、それが薬による虚構であるという現実が、彼を冷酷に打ち据える。
私は果実水を飲み干し、杯を麻布の上に置いた。
満たされた感覚が、指先から足の先まで行き渡っている。
過去の恐怖も、他者からの評価への強迫観念も、今は完全に消失している。
太陽の温かい光が肌を包み、横に座るナミスの体温が微かに伝わってくる。
彼がそばにいるという事実が、私の絶対的な安全を保証していた。
この静かな丘の上で、私は誰にも脅かされることなく、ただ存在することを許されている。
一錠、十銀貨。
その対価を払うだけで、この完全な安らぎと、至上の幸福が手に入る。
世界はこんなにも美しく、私を優しく受け入れてくれる。
私は両手を膝の上に重ね、隣に座る彼の横顔を見つめた。
栗色の髪が風になびき、端正な横顔が静かに前を向いている。
彼となら、私は生きていける。
この薬と、彼さえいれば、私はどこまでも完璧な令嬢として、あるいはただの女として、満ち足りた日々を送ることができる。
「ねえ、ナミス」
私の声は、ひどく甘く、柔らかく響いた。
彼が顔を向け、栗色の瞳が私を捉える。
「私は、こうやって、ナミスと一生暮らしていけると幸せだと思うわ」
言葉は、思考を通さず、魂の底から自然にこぼれ落ちていた。
公爵令嬢としての立場も、王太子との婚約も、今の私には何の意味も持たない。
ただ、この温かな時間を、彼と共に永遠に繰り返したい。
私の言葉を聞いた瞬間、ナミスの瞳孔がわずかに拡大した。
彼の唇が微かに震え、喉仏が上下に動く。
その表情には、強烈な歓喜と、それに相反する深い苦痛が複雑に絡み合っていたことを、私は気づけなかった。
彼は口を開きかけるが、声は出ない。
視線が私の顔から離れ、足元の白い野菊へと逃げる。
彼の手の甲に青筋が浮き上がり、拳が固く握りしめられる。
「……風が、少し冷たくなってきましたね」
しばらくの沈黙の後、彼が絞り出すように発した言葉は、私の問いへの答えではなかった。
「コートをお持ちします」
彼は立ち上がり、馬車の方へと歩き出す。
私はその背中を見送りながら、静かに目を伏せた。
陽光が白い野菊の花弁を照らし、風が草の匂いを運んでくる。
「ナミス、ここへ座って」
私は自分のすぐ隣の空間を手で示し、彼を見上げた。
ナミスは一瞬だけ動作を止め、視線を足元の草に落とす。
「……はい、リリス様」
彼は膝を折り、私の指定した場所へ腰を下ろした。
私たちの肩が、触れ合うか触れ合わないかの距離にある。
私は果実水の入った水筒から木の杯に水を注ぎ、一つを彼に手渡した。
「一緒に食べましょう」
「ありがとうございます」
彼は両手で杯を受け取り、小さく会釈をした。
私は肉を挟んだ白パンを手に取り、口に運ぶ。
冷めた肉の脂と、麦の素朴な味が舌の上に広がる。
王宮の料理長が作る精緻な料理よりも、この質素な食事の方が、今の私には何倍も美味しく感じられた。
薬の効力が、私の味覚と視覚を極彩色に染め上げている。
風に揺れる花々も、青く澄んだ空も、全てが私を祝福し、肯定している。
「風が気持ち良いわね、ナミス」
私が声をかけると、彼は手にしたパンを見つめたまま、静かに頷いた。
ナミスは、隣で無邪気に笑うリリス様の横顔を横目で見つめた。
風が彼女の桜色の髪を揺らし、白い項を露わにする。
白パンを頬張り、果実水を飲むその仕草は、王宮で見せる洗練された公爵令嬢のそれではなく、年相応の少女の無防備な姿だった。
野菊の花を指先でそっと撫で、その美しさを無邪気に喜んでいる。
その姿は、息を呑むほどに美しかった。
彼女が放つ光に、ナミスの目は奪われ、鼓動が早まるのを感じる。
僕の主君は、本来はこれほどまでに表情豊かで、周囲のものを愛おしむ心を持っているのだ。
もし、彼女の心を蝕む深い傷がなければ、この笑顔は永遠に失われることはなかった。
だが、今の彼女を輝かせているのは、あの鈍い金色の錠剤だ。
十銀貨という安価で売買される、出所不明の薬。
その事実が、ナミスの胸の奥に鋭い棘となって突き刺さる。
彼女の美しさに惹かれるたび、それが薬による虚構であるという現実が、彼を冷酷に打ち据える。
私は果実水を飲み干し、杯を麻布の上に置いた。
満たされた感覚が、指先から足の先まで行き渡っている。
過去の恐怖も、他者からの評価への強迫観念も、今は完全に消失している。
太陽の温かい光が肌を包み、横に座るナミスの体温が微かに伝わってくる。
彼がそばにいるという事実が、私の絶対的な安全を保証していた。
この静かな丘の上で、私は誰にも脅かされることなく、ただ存在することを許されている。
一錠、十銀貨。
その対価を払うだけで、この完全な安らぎと、至上の幸福が手に入る。
世界はこんなにも美しく、私を優しく受け入れてくれる。
私は両手を膝の上に重ね、隣に座る彼の横顔を見つめた。
栗色の髪が風になびき、端正な横顔が静かに前を向いている。
彼となら、私は生きていける。
この薬と、彼さえいれば、私はどこまでも完璧な令嬢として、あるいはただの女として、満ち足りた日々を送ることができる。
「ねえ、ナミス」
私の声は、ひどく甘く、柔らかく響いた。
彼が顔を向け、栗色の瞳が私を捉える。
「私は、こうやって、ナミスと一生暮らしていけると幸せだと思うわ」
言葉は、思考を通さず、魂の底から自然にこぼれ落ちていた。
公爵令嬢としての立場も、王太子との婚約も、今の私には何の意味も持たない。
ただ、この温かな時間を、彼と共に永遠に繰り返したい。
私の言葉を聞いた瞬間、ナミスの瞳孔がわずかに拡大した。
彼の唇が微かに震え、喉仏が上下に動く。
その表情には、強烈な歓喜と、それに相反する深い苦痛が複雑に絡み合っていたことを、私は気づけなかった。
彼は口を開きかけるが、声は出ない。
視線が私の顔から離れ、足元の白い野菊へと逃げる。
彼の手の甲に青筋が浮き上がり、拳が固く握りしめられる。
「……風が、少し冷たくなってきましたね」
しばらくの沈黙の後、彼が絞り出すように発した言葉は、私の問いへの答えではなかった。
「コートをお持ちします」
彼は立ち上がり、馬車の方へと歩き出す。
私はその背中を見送りながら、静かに目を伏せた。
