約束の時刻が近づき、僕は廊下を歩を進めた。
執務室の木製の扉の前に立ち、拳を握る。
その時、硬い木板越しに、微かな物音が漏れ聞こえた。
掠れた、ひきつけを起こしたような短い呼気。
硬い小瓶が床を転がる乾いた音。
僕は握りかけた拳を空中で止めた。
視線が床の木目に落ちる。
足の裏から冷たい感覚が全身を駆け上がる。
彼女は、再びあの薬に手を伸ばしたのだ。
朝の静けさとあの明晰な姿は、自らの意志で病を克服しようとする彼女の誇り高い抵抗だった。
だが、その抵抗は長くは続かなかった。
彼女の魂を苛む深淵の闇は、僕の手が届かない場所で彼女を貪り喰らっている。
己の無力さが、鋭い刃となって胸の奥を抉る。
踏み込んで、その手を止めるべきか。
しかし、醜態を晒す彼女の姿を見ることは、彼女の僅かに残された自尊心を完全に打ち砕く行為だ。
僕は息を殺し、扉の前に立ち尽くした。
数分後、部屋の中の気配が変わった。
乱れていた呼吸音が、一定のリズムを取り戻していく。
衣擦れの音が響き、椅子の脚が床を擦る音がした。
僕は深く息を吸い込み、三度、扉を叩いた。
「入ってちょうだい」
澄んだ、淀みのない声が返ってくる。
僕は真鍮のドアノブを回し、部屋の中へ足を踏み入れた。
机の前に立つリリス様は、完璧な微笑みを浮かべていた。
桜色の髪は整えられ、衣服に乱れはない。
数分前に床を這い回っていた形跡など、どこにも見当たらない。
「遅れてごめんなさい、ナミス。さあ、行きましょう」
彼女の足取りは羽毛のそれに近く、軽やかで迷いがない。
その横顔を盗み見る。
瞳は異常なほどの光を宿し、口角は自然な弧を描いて上がり続けている。
薬の効力だ。
あの鈍い金色の錠剤が、彼女の脳髄を麻痺させ、偽りの多幸感で満たしている。
僕は黙って頷き、彼女の斜め後ろを歩き始めた。
領地の中心街は、改革で活気に満ちていた。
立ち並ぶ仮設の店舗から、香辛料と焼けた肉の匂いが流れてくる。
リリス様は、立ち止まり、屋台の前に並ぶ串焼きを見つめた。
「ナミス、これ、とても美味しそうね」
彼女は銅貨を取り出し、店主から串を受け取る。
一口囓り、彼女の顔に純粋な歓喜の色が広がる。
「本当に美味しいわ。街の空気も、人々の声も、全てが素晴らしい」
彼女の言葉は弾み、視線は周囲の景色を余すことなく捉えようと絶えず動いている。
僕には土埃に塗れた粗末な屋台にしか見えないものが、今の彼女には極彩色の楽園の一部として映っているのだ。
僕は彼女の数歩後ろを歩きながら、その輝く背中を見つめた。
街ゆく人々が、彼女の美しさと優雅な振る舞いに目を奪われ、道を譲る。
彼女は誰にでも分け隔てなく微笑みかけ、短い言葉を交わす。
その姿には、かつて王都で見せた、凛とした公爵令嬢とは違う、自然な温かみがあった。
これが、リリス・タロシアの本来の姿なのかもしれない。
病に冒されず、愛に飢えることもなく、ただ純粋に世界を享受できたならば。
この圧倒的な光の渦の中心で、彼女はいつまでも輝き続けていられたはずだ。
だが現実は、一錠十銀貨の薬がもたらす一時の幻影に過ぎない。
薬が切れれば、再びあの地獄の苦しみが彼女を襲う。
僕は唇を噛み締めた。
彼女が振り返り、僕を見た。
「ナミス、どうしたの? そんな難しい顔をして。今日も楽しい日よ」
僕は表情を緩め、静かに首を振る。
「いえ。リリス様が楽しんでおられる姿を見られて、僕も嬉しく思っています」
執務室の木製の扉の前に立ち、拳を握る。
その時、硬い木板越しに、微かな物音が漏れ聞こえた。
掠れた、ひきつけを起こしたような短い呼気。
硬い小瓶が床を転がる乾いた音。
僕は握りかけた拳を空中で止めた。
視線が床の木目に落ちる。
足の裏から冷たい感覚が全身を駆け上がる。
彼女は、再びあの薬に手を伸ばしたのだ。
朝の静けさとあの明晰な姿は、自らの意志で病を克服しようとする彼女の誇り高い抵抗だった。
だが、その抵抗は長くは続かなかった。
彼女の魂を苛む深淵の闇は、僕の手が届かない場所で彼女を貪り喰らっている。
己の無力さが、鋭い刃となって胸の奥を抉る。
踏み込んで、その手を止めるべきか。
しかし、醜態を晒す彼女の姿を見ることは、彼女の僅かに残された自尊心を完全に打ち砕く行為だ。
僕は息を殺し、扉の前に立ち尽くした。
数分後、部屋の中の気配が変わった。
乱れていた呼吸音が、一定のリズムを取り戻していく。
衣擦れの音が響き、椅子の脚が床を擦る音がした。
僕は深く息を吸い込み、三度、扉を叩いた。
「入ってちょうだい」
澄んだ、淀みのない声が返ってくる。
僕は真鍮のドアノブを回し、部屋の中へ足を踏み入れた。
机の前に立つリリス様は、完璧な微笑みを浮かべていた。
桜色の髪は整えられ、衣服に乱れはない。
数分前に床を這い回っていた形跡など、どこにも見当たらない。
「遅れてごめんなさい、ナミス。さあ、行きましょう」
彼女の足取りは羽毛のそれに近く、軽やかで迷いがない。
その横顔を盗み見る。
瞳は異常なほどの光を宿し、口角は自然な弧を描いて上がり続けている。
薬の効力だ。
あの鈍い金色の錠剤が、彼女の脳髄を麻痺させ、偽りの多幸感で満たしている。
僕は黙って頷き、彼女の斜め後ろを歩き始めた。
領地の中心街は、改革で活気に満ちていた。
立ち並ぶ仮設の店舗から、香辛料と焼けた肉の匂いが流れてくる。
リリス様は、立ち止まり、屋台の前に並ぶ串焼きを見つめた。
「ナミス、これ、とても美味しそうね」
彼女は銅貨を取り出し、店主から串を受け取る。
一口囓り、彼女の顔に純粋な歓喜の色が広がる。
「本当に美味しいわ。街の空気も、人々の声も、全てが素晴らしい」
彼女の言葉は弾み、視線は周囲の景色を余すことなく捉えようと絶えず動いている。
僕には土埃に塗れた粗末な屋台にしか見えないものが、今の彼女には極彩色の楽園の一部として映っているのだ。
僕は彼女の数歩後ろを歩きながら、その輝く背中を見つめた。
街ゆく人々が、彼女の美しさと優雅な振る舞いに目を奪われ、道を譲る。
彼女は誰にでも分け隔てなく微笑みかけ、短い言葉を交わす。
その姿には、かつて王都で見せた、凛とした公爵令嬢とは違う、自然な温かみがあった。
これが、リリス・タロシアの本来の姿なのかもしれない。
病に冒されず、愛に飢えることもなく、ただ純粋に世界を享受できたならば。
この圧倒的な光の渦の中心で、彼女はいつまでも輝き続けていられたはずだ。
だが現実は、一錠十銀貨の薬がもたらす一時の幻影に過ぎない。
薬が切れれば、再びあの地獄の苦しみが彼女を襲う。
僕は唇を噛み締めた。
彼女が振り返り、僕を見た。
「ナミス、どうしたの? そんな難しい顔をして。今日も楽しい日よ」
僕は表情を緩め、静かに首を振る。
「いえ。リリス様が楽しんでおられる姿を見られて、僕も嬉しく思っています」
