卓の上に置かれた硝子瓶が、窓からの光を受けて鈍く光る。
その中にある七錠の薬。
私は、その小さな薬をじっと見つめた。
医者の言葉が耳の奥で蘇る。
副作用、依存性。
一度口にすれば、もう二度とこの薬なしでは生きられない身体になるかもしれない。
それは、自ら鎖を首に巻く行為だ。
頭の片隅で、残された理性が警告音を鳴らしている。
『やめなさい。一度飲み込めば、もう戻れない』
『完全に壊れてしまうわ』
幻聴ではない、私自身の思考の声。
だが、その声を掻き消すように、別の声が響く。
『でも、幸せになれるのよ?』
幸せ。
唇がその言葉を形作る。
どんな味がするのだろう。
砂糖菓子のような甘さか、それとも冷たい水のような清涼感か。
想像することさえできない。
その響きは、乾ききった喉に差し出された冷たい水よりも甘美だった。
父様の愛情を乞い、カシリア殿下の期待に応えるために、血を吐くような努力を重ねてきた。
それでも手に入らなかったものが、この小さな粒の中に詰まっている。
私の手は、意思とは無関係に硝子瓶へと伸びていた。
冷たい感触が指先に伝わる。
「……リリス様」
背後から、ナミスの声がした。
低く、張り詰めた声。
彼は私の決断を止めようとはしなかったが、その視線には深い憂いが宿っているのがわかった。
「ナミス」
私は振り返らずに、硝子瓶のコルク栓を抜いた。
小さな音が部屋に響く。
「私は、もう疲れたの」
誰かを演じることにも、誰かに怯えることにも。
「これで……終わるなら、それでいい」
私は硝子瓶を傾け、一錠の薬を手のひらに落とした。
鈍い金色。
何の変哲もない小さな錠剤。
私はそれを、震える指で摘み上げた。
ナミスの衣擦れの音が聞こえる。
彼が一歩、私に近づいた気配。
だが、彼は私を止めない。
彼もまた、私の苦しみを誰よりも近くで見てきたから。
私は目を閉じ、薬を口の中に放り込んだ。
微かな苦味が舌の上に広がる。
そして、冷たい水を流し込み、一気に飲み込んだ。
薬が食道を通って胃に落ちる感覚。
私は両手で机の端を掴み、その時を待った。
数秒、十数秒、数分後。
何も起こらない。
部屋は薄暗いまま。
身体の倦怠感も、頭の奥の鈍痛もそのままだ。
「……」
やはり、ただの気休めだったのだろうか。
そう思った瞬間だった。
胃の奥から、じわりと温かいものが広がり始めた。
それはゆっくりと、だが確実に、血流に乗って全身へと巡っていく。
指先から足先まで、細い管を通って熱が運ばれる感覚。
視界の隅でチカチカと点滅していた不快な光が、すうっと消えていく。
「……あ」
私の口から、間の抜けた声が漏れた。
頭を締め付けていた見えない万力。
耳元で絶え間なく響いていた、誰かの嘲笑や罵声。
常に背中に張り付いていた、底知れぬ恐怖と不安。
それらが、魔法のように消え去った。
空気が、美味しい。
呼吸をするのが、こんなにも楽だったなんて。
視線を上げる。
薄暗かったはずの部屋が、急速に明るさを取り戻していく。
照明が増えたわけではない。
私の目が、光を余さず捉え始めたのだ。
窓枠の古い木の質感、カーテンのベルベットの光沢、床の絨毯の織り目。
それら一つ一つが、鮮烈な色彩と輪郭を持って目に飛び込んでくる。
世界が、解像度を上げた。
私はゆっくりと顔を上げた。
視界が鮮明だ。
部屋の埃さえもが、光を受けて美しく舞っているように見える。
身体が軽い。
重い鉄の鎧を脱ぎ捨てたように、指先一つ動かすのにもまったく抵抗がない。
そして何より――楽しい。
理由などない。
ただ、生きているという事実が、この部屋にいるという事実が、ナミスが傍にいるという事実が、たまらなく喜ばしく、幸福に感じられた。
口元が、自然と緩む。
無理に作った完璧な令嬢の微笑みではない。
内側から湧き上がる、抑えきれない悦び。
「リリス様……?」
ナミスの声が聞こえる。
その声は、耳障りなノイズではなく、天上の楽器が奏でる旋律のように響いた。
私は彼を見た。
ナミス。
私の騎士。
彼の栗色の瞳が、宝石のように深く、複雑な光を湛えているのがわかる。
心配そうに寄せられた眉の形さえ、完璧な均衡を保っているように思えた。
「ナミス……見えるわ」
私は彼を振り返った。
ナミスは目を見開き、息を呑んでいた。
私の顔が、かつてないほど無邪気で、自然な歓喜に満ちていたからだろう。
「見て、ナミス」
窓に歩み寄る。
ガラス越しに見える夜の庭。
闇に沈んでいたはずの木々が、今は濃紺と深緑のグラデーションを描き、風に揺れる葉音が、ささやき合う恋人たちの会話のように聞こえる。
「世界が……こんなに綺麗だったのね」
幻聴は消えた。
あの忌々しい罵倒も、嘲笑も、どこかへ消え去った。
代わりに聞こえるのは、夜蟲の奏でるリズムと、風の歌。
胸の奥に詰まっていた鉛のような塊が溶け、温かい黄金色の液体となって全身を満たしていく。
「……効いているのですね」
ナミスの声には、安堵と、そして底知れぬ恐怖が混じっていた。
「ええ。とても」
私は彼を見上げて、心から笑いかけた。
「先生の言った通りだわ。……これこそが、私が感じていた幸せなの」
頭の奥で、何かが甘く溶けていく感覚。
この偽りの幸福感を手放すことなど、今の私には絶対に不可能だった。
「ねえ、ナミス。……私、今、とても幸せよ」
私は目を細め、その心地よい陶酔の中に深く沈んでいった。
その中にある七錠の薬。
私は、その小さな薬をじっと見つめた。
医者の言葉が耳の奥で蘇る。
副作用、依存性。
一度口にすれば、もう二度とこの薬なしでは生きられない身体になるかもしれない。
それは、自ら鎖を首に巻く行為だ。
頭の片隅で、残された理性が警告音を鳴らしている。
『やめなさい。一度飲み込めば、もう戻れない』
『完全に壊れてしまうわ』
幻聴ではない、私自身の思考の声。
だが、その声を掻き消すように、別の声が響く。
『でも、幸せになれるのよ?』
幸せ。
唇がその言葉を形作る。
どんな味がするのだろう。
砂糖菓子のような甘さか、それとも冷たい水のような清涼感か。
想像することさえできない。
その響きは、乾ききった喉に差し出された冷たい水よりも甘美だった。
父様の愛情を乞い、カシリア殿下の期待に応えるために、血を吐くような努力を重ねてきた。
それでも手に入らなかったものが、この小さな粒の中に詰まっている。
私の手は、意思とは無関係に硝子瓶へと伸びていた。
冷たい感触が指先に伝わる。
「……リリス様」
背後から、ナミスの声がした。
低く、張り詰めた声。
彼は私の決断を止めようとはしなかったが、その視線には深い憂いが宿っているのがわかった。
「ナミス」
私は振り返らずに、硝子瓶のコルク栓を抜いた。
小さな音が部屋に響く。
「私は、もう疲れたの」
誰かを演じることにも、誰かに怯えることにも。
「これで……終わるなら、それでいい」
私は硝子瓶を傾け、一錠の薬を手のひらに落とした。
鈍い金色。
何の変哲もない小さな錠剤。
私はそれを、震える指で摘み上げた。
ナミスの衣擦れの音が聞こえる。
彼が一歩、私に近づいた気配。
だが、彼は私を止めない。
彼もまた、私の苦しみを誰よりも近くで見てきたから。
私は目を閉じ、薬を口の中に放り込んだ。
微かな苦味が舌の上に広がる。
そして、冷たい水を流し込み、一気に飲み込んだ。
薬が食道を通って胃に落ちる感覚。
私は両手で机の端を掴み、その時を待った。
数秒、十数秒、数分後。
何も起こらない。
部屋は薄暗いまま。
身体の倦怠感も、頭の奥の鈍痛もそのままだ。
「……」
やはり、ただの気休めだったのだろうか。
そう思った瞬間だった。
胃の奥から、じわりと温かいものが広がり始めた。
それはゆっくりと、だが確実に、血流に乗って全身へと巡っていく。
指先から足先まで、細い管を通って熱が運ばれる感覚。
視界の隅でチカチカと点滅していた不快な光が、すうっと消えていく。
「……あ」
私の口から、間の抜けた声が漏れた。
頭を締め付けていた見えない万力。
耳元で絶え間なく響いていた、誰かの嘲笑や罵声。
常に背中に張り付いていた、底知れぬ恐怖と不安。
それらが、魔法のように消え去った。
空気が、美味しい。
呼吸をするのが、こんなにも楽だったなんて。
視線を上げる。
薄暗かったはずの部屋が、急速に明るさを取り戻していく。
照明が増えたわけではない。
私の目が、光を余さず捉え始めたのだ。
窓枠の古い木の質感、カーテンのベルベットの光沢、床の絨毯の織り目。
それら一つ一つが、鮮烈な色彩と輪郭を持って目に飛び込んでくる。
世界が、解像度を上げた。
私はゆっくりと顔を上げた。
視界が鮮明だ。
部屋の埃さえもが、光を受けて美しく舞っているように見える。
身体が軽い。
重い鉄の鎧を脱ぎ捨てたように、指先一つ動かすのにもまったく抵抗がない。
そして何より――楽しい。
理由などない。
ただ、生きているという事実が、この部屋にいるという事実が、ナミスが傍にいるという事実が、たまらなく喜ばしく、幸福に感じられた。
口元が、自然と緩む。
無理に作った完璧な令嬢の微笑みではない。
内側から湧き上がる、抑えきれない悦び。
「リリス様……?」
ナミスの声が聞こえる。
その声は、耳障りなノイズではなく、天上の楽器が奏でる旋律のように響いた。
私は彼を見た。
ナミス。
私の騎士。
彼の栗色の瞳が、宝石のように深く、複雑な光を湛えているのがわかる。
心配そうに寄せられた眉の形さえ、完璧な均衡を保っているように思えた。
「ナミス……見えるわ」
私は彼を振り返った。
ナミスは目を見開き、息を呑んでいた。
私の顔が、かつてないほど無邪気で、自然な歓喜に満ちていたからだろう。
「見て、ナミス」
窓に歩み寄る。
ガラス越しに見える夜の庭。
闇に沈んでいたはずの木々が、今は濃紺と深緑のグラデーションを描き、風に揺れる葉音が、ささやき合う恋人たちの会話のように聞こえる。
「世界が……こんなに綺麗だったのね」
幻聴は消えた。
あの忌々しい罵倒も、嘲笑も、どこかへ消え去った。
代わりに聞こえるのは、夜蟲の奏でるリズムと、風の歌。
胸の奥に詰まっていた鉛のような塊が溶け、温かい黄金色の液体となって全身を満たしていく。
「……効いているのですね」
ナミスの声には、安堵と、そして底知れぬ恐怖が混じっていた。
「ええ。とても」
私は彼を見上げて、心から笑いかけた。
「先生の言った通りだわ。……これこそが、私が感じていた幸せなの」
頭の奥で、何かが甘く溶けていく感覚。
この偽りの幸福感を手放すことなど、今の私には絶対に不可能だった。
「ねえ、ナミス。……私、今、とても幸せよ」
私は目を細め、その心地よい陶酔の中に深く沈んでいった。
